先週書いた記事で、暖房の温水放熱管からの水漏れがあったお話をしました。列車や線区について何も書きませんでしたが、それは名古屋から武豊線に直通する列車でのことでした。その武豊線は先日、JR東海から平成27年3月1日に電化開業するとの発表がありました。武豊線での長かった気動車時代に幕が下りようとしています。その水漏れがあったのは、朝の一番列車920Dで、武豊で折り返し925Dとなって名古屋まで戻るキハ58・28を主体とした8両編成(1980年~1982年5月当時)の列車でした。車掌はこの1往復に乗務すると、前日から続く乗務行路が終わりでしたが、車両のほうはそれからが本番で、この後は関西本線の急行「かすが」奈良行と急行「平安」京都行の併結列車になりました。今回の記事では、その名古屋~武豊の920D~925Dの一往復を例に、暖房調節のしかたを思い出しながら書いてみます。
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冬場の920Dは、まだ明けやらぬ名古屋駅から武豊線に直通する一番列車でしたが、乗客は非常に少なく、いつでも乗客は数人だけの状態でした。けれども武豊に着いてから折り返す925D名古屋行は、通勤時間帯の7時台に名古屋駅に到着する列車だったので、そうとう混雑しました。要するに、この一往復は、急行運用前の間合い運用で、925Dでの通勤輸送を目的とされた列車でしたから、往路の武豊行920Dは車両を送りこむためだけの回送的な列車でした。そのため通勤輸送需要の少ない休日は不要な列車というわけで、この1往復は休日運休となっていました。この列車の車掌は2人乗務となっていて、うち1人は荷扱担当という名目でしたが扱う荷物はごくわずかでした。仕事が土曜日乗り出しになれば翌朝のこの1往復が日曜日のため運休なのですから乗務する必要がなくなりました。その場合は前夜名古屋で泊まる必要はなく、夜遅くはなるものの日勤となり、その日のうちに家に帰ることができました。確率は7回に1回ということになり、特に祝日の前日の乗り出しにあたると、それはクジに当たったように気持がいいものでした。
さて、920Dでは名古屋駅を発車した後は、ドア扱いと放送は荷扱担当の車掌にお願いして運転兼掌客扱の車掌が車内巡回と同時に点検をしました。武豊を1往復した後は急行になる車両でもありますから、各車の便洗面所の出水状態ほかも点検確認し、冬場は各車の客室中ほどの座席下にある温水放熱管のバルブを全開にしておきます。自動車の場合でもエンジン始動直後やアイドリング時にはエンジンの冷却水温が低くて、暖房を入れても車内温度がなかなか上がらないのと同じで、出庫直後は車内はまだ適温にはなっていないことがよくありました。武豊までに車内巡回と無人駅での集札をするため車内に入るたびに、温水管のバルブ調節をしながら、回送に近い状態の武豊までに車内温度をおおむね20℃程度に上がるようにして調整しておくことになります。先週の本文で書いたように、キハ58とキハ28、キハ65では、それぞれに暖房能力に大きな差がありましたから、各車の温度の上がり方には差ができました。折り返しの925Dの混雑に備えて、武豊駅に着いてから、20℃を超えてしまったような暖房の効きがよい車両では、その場でバルブを全閉にします。反対に温度の上がり方がよくない車両でも、バルブを半開状態にしたり、やや絞る調整をします。キハ65などは全開のままにすることが多かったように思います。いずれも全くの経験と勘によるものでした。画像は、リニア鉄道館に保存されているキハ181のものですが、こんな温度では寒すぎます。そもそも車内の温度計を確認して判断するだけではダメで、その後混雑してきたときに適温を保ったまま終点の名古屋駅に着けるのか、天気予報をするように各車ごとの形式と往路での温度の上がり方、その日の外気温度や天候を総合的に判断して調整する必要がありました。子供のおでこに手を当てて熱を測る要領で、各車両窓際足元にある温水放熱管のカバーに手を当ててみて、その温度を確認して、バルブの開き具合を調整しました。キハ58の場合は左右それぞれの温水放熱管を確認することになります。8両もの長い列車を1両ごとに温度管理ができたのは2人乗務だったからで、1人ではとてもできることではありませんでした。武豊から折り返す925Dでは、途中から通路にも立ち客が並ぶ状況になりましたから、天井のベンチレータが閉じていれば、混雑した車内では温度が下がることはほとんどありませんでした。キハ58でバルブ全開のままにしようものなら、最混雑区間である名古屋到着時に暑すぎて冷房さえ必要に状態になる車両が出てきます。どんなに暑くなっても通路にぎっしり乗客が立ってしまう状態では、客室中央部座席下にある温水放熱管バルブの位置まで立ち入ることができませんから、温度調節は2人乗務であっても不可能で、温度調節は往路920Dの乗務中が勝負で、折り返し925Dの前半で微調整するといったスタイルが私流でした。混雑して車内に入れなくなってからは、途中駅で停車中に窓ガラスの曇りぐあいを気にしながら乗務しました。
満員の乗客を終点名古屋で降ろした列車は、清掃員が簡単な掃除をしたあとに急行になるわけですから、新たに急行券を手にした乗客が乗り込んできます。暖房の調節に失敗すると、そのお客さんたちは真冬に窓を全開にしていました。暑い車内に苦情の一つも言いたくもなるもので、そのはけ口は乗り継いだ急行の他局所属の車掌長や専務車掌に行くことになりました。「国鉄はサービスが悪い」「これだから国鉄は赤字なんだ」というお小言を頂戴する羽目になって、その車掌区からは(場合によっては局を通じて)私どもが所属する車掌区へ苦情の連絡が入ったものと思われます。
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このように温水式暖房のキハ58系では、急激な混雑に対応するために事前に暖房調節をしていたのですが、
高山本線を走っていたキハ58系急行「のりくら」に乗務するときの注意事項として、先輩から教えられた話があります。
名古屋から高山を経て富山まで全線を通して運転されたキハ58系急行の場合、富山方面へ向かう列車では、下呂あたりから先では、少々車内が暑くても温水放熱管のバルブを閉めてはいけないというのです。この理由は次のとおりです。
高山本線では、その先の久々野~飛騨一ノ宮間にある太平洋側と日本海側を扼す分水嶺「宮峠」を貫く宮トンネルまで上り勾配が連続するので力行運転が連続します。そのあと宮トンネルから先は富山平野へ出るまで基本的に下り勾配が連続します。上り勾配でエンジンが力行しているあいだはエンジンの水温は上昇しているので車内は暖まりますが、宮峠を過ぎてアイドリング状態が続くと、水温が下がってしまうのです。おまけに高山ではかなりの乗客が下車して、車内が閑散となると車内温度が下がります。そして岐阜・富山県境の豪雪地帯へ列車が分け入るころには車内がとても冷え込んでしまうのですが、そのころ寒いなと思ってバルブを開けても、もう車内温度を上げることが難しいから、上り勾配区間で十分に車内温度を上げておく必要があったということです。この話は、なるほどと思ったものです。
下は飛騨一ノ宮を発車して、その宮トンネルに向けて登り始めた上り普通列車です。せっかく得た知識でしたが、私は急行「のりくら」には見習乗務をしただけで終わってしまいました。これは温水式暖房を採用した気動車ならではの注意点であって、特急ひだに使用されたキハ80系は、キハ82に搭載した発電機による電気を用いた電気暖房が採用されていたため、そういう苦労はありませんでした。
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この記事へのコメント
NAO
蒸機も車両それぞれにクセがありましたから、運転には勘と経験によるところが多かったと思いますが、DC、ECの冷暖房に関しては接客においてまた違った苦労があったのですね。
蒸機の暖房を旧型客車にしっかり送ってもらうため、団体の添乗員さんが菓子折りを持って機関士に挨拶に行ったというのを、何かの本で読んだことがあります。
急行 陸中
今でこそオートエアコンあたりまえの時代
ご苦労様でした。
時刻表を見て何か違和感が、
金山がない
そういえば金山が、東海道本線に駅ができたのは、
ついつい最近だったんだ。
鉄子おばさん
C58364
富山行き「のりくら」にはそんなご苦労があったのですね。確かに分水嶺の宮峠を越えれば、あとは日本海まで下るだけですので、惰行運転が多いでしょうから水温も下がるでしょうね。そこまでは考えもおよばず、暑い暑いと不平ばかり言ってました。
しなの7号
国鉄時代にはアナログ的な場面が多く、マニュアル化しにくいことばかりだったなあと思います。本文に「私流」と書きましたが、必然的に各自の判断で動かざるをえなかったですね。裏を返すと冷暖房には無頓着な車掌もありました。
お座敷列車などの団体専用列車では、添乗員がいるので車掌が客扱をすることはありませんでしたが、冷暖房は車掌が扱いましたから添乗員氏が乗務員室に訪ねてきて、暑いので暖房を止めてほしいとか言われることもありました。このように添乗員氏との連携もあるので、始発地では添乗員氏が「お願いします~」と乗務員室に挨拶にいらして、団体さんに配る袋詰め菓子をくださることもありました。
しなの7号
暑くなりすぎるのを、暖房性能が良いととらえるか、調節が必要で面倒ととらえるか。ちなみにわが家の自動車はオートエアコンではありません。
東海道本線と名鉄を加えた金山総合駅構想は国鉄時代からありましたが、実現したのは分割民営化後でした。さらにその後、東海道本線には尾頭橋駅も新設されました。
しなの7号
昔の車両は、その運転・保守管理などあらゆる面で人が関わる部分が多かったですね。今はどうなのでしょう。少なくともJRに今残っている気動車はキハ40系以降で温風式自動温度制御ですから手はかからないですが、便利になれば別のお悩みが出てきているんだろうなとも思います。
しなの7号
しょせんは排熱利用である温水式暖房の弱点ですね。山岳線区ならではの悩みですが、急行赤倉号のDC時代も似たようなことはあったものと推定します。
ヒデヨシ
のりくらになる列車はともかく、この始発列車は知りませんでした。
「かすが・平安」は何度も乗ったのにです。
いつも快適に乗車していましたが
そんなご苦労があったとは
一度だけ山陰本線でサウナ風呂のような客車に遭遇したことがあります。
お話しの気動車ではないのにどうしたんでしょうか?
基本長大編成の当時の山陰本線列車
即、他車両へ避難しました。
しなの7号
保温性がよいデッキ付車両だと、通勤時など混雑時には急激な温度上昇がみられるわけですが、一括制御できないのが温水暖房の泣き所というわけです。客車の蒸気暖房でも同じです。編成が長いと車内巡回の機会は限られ、そんなサウナ車両ができてしまうことは十分想像されます。
来週は旧形客車の暖房編をアップする予定です。
やくも3号
武豊線の話題の時はいつもこれを思い出しますが、同じ編成でしょうかね?
https://www.youtube.com/watch?v=jJNF5f-94Bo
あるいは
https://www.youtube.com/watch?v=KKYgL_wEzLw
URLですみません。
中央西線
のようにEF60には暖房用設備がなかったので暖房車が使用されていたんですね。中津川機関区にはD51に混じって暖房車が見られました。
しなの7号
模型と録音が、みごとにシンクロしてますね。
私が武豊線に乗務していたころには、朝2往復と夕方1往復に急行編成が入っていました。(朝の1往復920D~925Dだけ休日運休)
ご紹介いただいた模型動画1本め948Dは夕方の1往復で、これは以前に拙ブログでも紹介ました。
【328】 思い出の乗務列車11:武豊線948Dのキニ28
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201211article_3.html
【330】 思い出の乗務列車12:武豊線948D編成の移り変わり
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201211article_5.html
模型動画2本目ラストの927Dは朝の列車ですが、名古屋発の2番列車の折り返しで、仕事内容の詳細については拙ブログでは未紹介です。ただしテレビ出演したときはこの927Dでした。
【94】武豊駅からズームイン!!
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201011article_4.html
しなの7号
貴重な画像のご紹介ありがとうございました。
中央西線のEF60、4次形の画像は初めて拝見しました。来週の客車暖房編では、暖房車の画像もあいにくありませんので、苦しまぎれですが模型で暖房車画像も登場させましょうか…
ぱす
ヒデヨシ
高山本線の列車で一度通り抜けたことがありました。
しなの7号
自分のキハ90系乗車体験は中央西線でしたが、冷房車の存在は知らない時期でした。その後高山本線に転用されましたが、自分が国鉄に入った年に運用離脱したので乗務する機会はなく、名古屋工場の一隅で留置されているのを荷物車の車内から眺めるばかりでした。
ところで、エンジンがなく温水暖房が不可能なキサロ90は雑誌からの知識によれば電気暖房でした。(キハのほうは温水暖房)
一方で、JR西日本にあった和田岬線のキクハ35は、改造前の温水暖房をそのまま用いて、その温水の熱源は補助発電機を電源とする機関予熱器を残置して暖房していたとされています。
しなの7号
付属編成の2両が付く列車がこういうサンドイッチ編成になりましたが、夜行のりくら編成にもキユニが付いていましたね。
中央西線
http://b1hanabusa.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-9b84.html他にトップナンバー(EG付)牽引の客レも見つけましたがこれにも暖房車が付いていました。当時、客レには
EGありなしが共通だったのかな?
客車暖房編楽しみです。
しなの7号
中津川電化時に稲二区に配置されたEF64に限っては、30号機を含めて全車が電気暖房用EGを装備していました。しかしながら電気暖房は当初使用されず、中津川区のマヌ34によって蒸気暖房が継続されていました。理由は客車側の電気暖房改造が完備されていなかったからだということを耳にしたことがあります。
かめ
国鉄時代に、山陰本線や関西本線などでキハ28・58・65等に屡々乗りましたが、車両による暖房温度差は余り記憶に無かったです。
今冷静に考えれば、熱源が1つ・2つ・高効率(廃熱少)の違いがあるので、差が付いて当然、だったのですね。
今更ながらに、当時の乗員・職員の皆さんの、細かな配慮があったことに敬意を表します。
あの窓側の、暖かい「足置き」が懐かしいです。
しなの7号
急行形車両の車内を巡回していると、各車両の暖房能力の差は感じました。通勤形のように寒すぎるケースは出庫時以外にはほとんどないのはありがたかったです。急行形の場合、一定の温度に上がりさえすれば、隙間風も少ないので急激な温度変化がないので、何とかなりました。この列車のように、出庫から朝の混雑した通勤列車までの温度管理が最も難しかったですね。空いてさえいれば、暑すぎたら窓が開きましたから、ちょっと開けて誤魔化せました。