【547】 思い出の乗務列車45:東海道本線 荷40列車

今回から3週にわたってご紹介する思い出の列車は、私が車掌になる前「乗務掛」としてマニに乗務していた東海道本線の荷物専用列車です。過去にも、いくつか荷物列車の乗務についての記事を書いてきていますので、荷物列車の実態についての一般的なことは繰り返し書きませんので、不明な点はブログ右側カラムにある「ブログテーマ」欄より「荷物列車」のテーマを選択して、過去記事をご覧ください。また、サイト内検索もご利用ください。

直前の荷物列車関連記事は「【480】思い出の乗務列車40:関西本線 荷44~224列車(後篇)」になりますが、その中では、関西本線224列車に連結されていたマニで、百済~青森間の長距離運用「天荷3」の積載方が難しかったことを書きました。今回紹介する東海道本線の荷40列車は、名古屋からその天荷3が継送される列車でもありました。
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荷物列車のシリーズでは編成の記号番号を記録しておりませんので、編成表は運用番と運用上の発着駅にとどめますのでご了承ください。

1975年(昭和50年)3月改正
東海道本線 荷40列車
運転区間 東小倉~品川(隅田川)
<<編成は品川到着時点のもの>>
乗務区間:名古屋18:56~品川 3:38

機関車 EF58(浜)
マニ 天荷3  (百 済~名古屋~青 森)
マニ 名荷4  (名古屋~青 森)
マニ 名荷5  (岐 阜~青 森)
マニ 名荷6  (岐 阜~青 森)
マニ 盛荷4  (姫 路~盛 岡)
マニ 盛荷5  (糸 崎~盛 岡)
マニ 北東荷36 (宮 崎~東小倉~隅田川)
マニ 北東荷37 (鹿児島~東小倉~隅田川)

8両編成と身軽ですが、郵便車がなく、パレット式荷役をするためのスニやワキも入らないマニばかりの編成は、この時期の東海道筋では特異でした。荷40列車は東小倉~品川間の運転でしたが、組成された車両の最遠始発駅は鹿児島(北東荷37)、最遠終着駅は青森と広範囲に及びました。

旅客列車の場合、首都圏では東京・上野・新宿など、方向別にターミナル駅が分かれていますが、荷物列車も東海道本線は汐留、東北常磐線は隅田川というようにターミナルが分けられていました。
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そんななかで荷40列車は、東海道本線から汐留を経由せず、品川から荷2641列車と列車番号を変えて隅田川へ直接入り、首都圏を越えて直通する荷物車ばかりで組成された唯一の上り荷物列車なのでした。
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画像は昭和53年4月号時刻表。

他の東海道本線の荷物列車が首都圏着荷物の積載比率が大きかったのに対し、この列車の各荷物車に積載される荷物の行先は、都内着荷物は隅田川駅着荷物だけ(それ以外は汐留中継になるため積載できない)で、あとは東北本線蓮田以遠、常磐線藤代以遠、高崎線宮原以遠着の荷物ばかりでした。さらに各荷物車1車ごとにその積載方が細かく指定されていました。要するに、自分の乗務する区間(名古屋~品川)よりさらに遠方へ行く荷物ばかりを扱う列車ということから、東日本地域の線路図と駅名の知識が必要な列車だったというわけです。私どもが乗務したのは、「名荷4」でした。関西本線内の224列車内で仕分け済みで無人(締切車)となっている「天荷3」の次位に連結されています。この「名荷4」も関西本線224列車「天荷3」同様、駆け出しの乗務掛では務まらない列車でしたので、通常は上位組が乗務していました。私が後に上位組になった時には、ダイヤ改正によって乗務行路がなくなったので、この列車に乗務した経験は予備勤務の時の1回だけではなかったかと思います。
その「名荷4」の積載方は以下のとおりでした。

1 蓮田~盛岡間着中継荷物
2 八戸及び青森着中継荷物
3 隅田川着中継荷物(車掌室寄区分積載)<乗務員>
4 厨川以遠着急送品(A)(隅田川中継)(車掌室寄区分積載)<乗務員>
5 豊橋~沼津間発 北海道着急送品30個以内(青森中継)
6 名古屋発に限り、厨川~野内間着中継荷物(盛岡中継)

「3」「4」を車掌室寄に区分積載する荷物を見分けることが、この仕事のポイントと言えましょう。
「3」の隅田川着中継荷物とは下の図に実線で示された範囲(そこから分岐している社線も含む)で、大雑把にいえば高崎線方面と常磐線方面への荷物です。
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「名荷4」自体は東北本線に入り青森まで行くのですから、隅田川駅では東北本線関連の「1」「2」「5」「6」以外は卸してしまう必要がある関係上、私ども東海道本線区間の乗務員が乗務中に区分積載しておくのです。
「3」の隅田川着中継荷物のうち、高崎線方面は、荷物切符に記載されている駅名がわからなくても、荷物と荷札に記された受取人住所の県名が埼玉・群馬県なのでだいたい見当がつきます。問題は茨城・福島・宮城にまたがる常磐線でした。当時乗ったこともなくまったく縁もない常磐線の駅名を覚えることが、荷40列車「名荷4」での仕事をする上での第一歩なのでした。

荷40列車は、私どもが乗務開始する名古屋を18:56に出て、品川着が未明の3:38。
他の東海道本線の荷物列車の多くが「急行」だったのですが、荷40列車は普通扱いでした。通過駅のほうが圧倒的に多かったのですが、極めつけの長時間停車が新鶴見(鹿島田)であって、1時間16分も停車しました。
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新鶴見は貨物駅であって手小荷物は扱いませんので、荷物車内の仕事は小田原までで終わっています。専務車掌(荷扱)氏は運転兼掌で、品川までの列車運転業務の責任がありますが、私のような乗務掛は、この時点では特別な仕事がなく、たいへん眠い時間帯でもあり、居眠りタイムでした。品川に到着すると荷40列車としては終点で、ここで乗務終了となり品川乗務員宿泊所へ行って休養をとることになっていました。列車のほうは約30分停車したのち、この間にEF58は切り離されて貨物用のEF15に牽引機が変わって荷2641列車となって引き続き隅田川まで運転され、荷扱作業の後、東北本線に継承されました。

以下のような話を又聞きの又聞きのような状況で聞いたことがあります。話半分程度としてお聞きいただきたいのですが、
「新鶴見を出てから乗務していた3人ともが眠ってしまって、一人が目を覚まして夜明け前の車窓からは知らない風景が… どうやら品川を行き過ぎたなとわかったものの、乗務範囲以外なのでどこをどう走っていて、次はどこで止まるかもわからない。停車したところで降りたら、そこが隅田川だったので三河島から一番電車に乗って品川まで戻った……」 
真偽のほどは保障できませんが、やがて半世紀も経とうという昭和40年代あたりだったらありそうな話ではあります。
品川からの継承列車荷2641列車には、別の車掌が乗り込みますが、その乗務位置は最後尾ですし、この列車の場合は特に引き継ぎをする規定もありませんでしたから、中間に連結された私どもの乗務車両である名荷4(マニ)で3人の乗務員が寝ているのに気付かなくても不思議ではありません。

これも余談ですが、この荷2641列車に車掌(列車掛)として乗務したことがあるという方から、拙ブログの古い記事に以前コメントをいただいたことがありました。
「品川でEF58は切り離されて貨物用のEF15が牽引するため隅田川まで暖房がなく、東海道区間の余熱のみ。積荷の犬の鳴き声が耳に残っている」
とのことでした。EF15には蒸気発生装置がありません。短距離でしたから冬場は寒かったことでしょう。私が乗務していた名古屋~熱田間だけに運転されていた荷物列車もDD13が牽引しており同様に暖房なしでした。

この記事へのコメント

  • 突放職人

    本年も楽しく拝見させて頂きます。ニモレの記事は非常に興味深く楽しく読ませて頂いています。今回は時刻表に前袋、御幸という記載が時代を感じさせてくれました。また品川までの乗務で寝過ごして隅田川まで行ったなど本当にありそうな話。続編期待しています
    2015年01月05日 09:55
  • しなの7号

    突放職人様 こんにちは。
    アップした市販時刻表の川崎駅の「=」表示でもわかりますが、荷物列車にも品鶴線経由と東海道旅客線経由の列車とがありました。このころは横須賀線電車が東海道本線から分離される前で、品鶴線はまだ貨物線でした。
    2015年01月05日 10:26
  • 急行 陸中

    本年も、本職でないとわからない
    逸話ありがとうございます、
    楽しみにしてます。
    2015年01月05日 16:23
  • 北恵那デ2

    こんばんは。普通、荷物列車は「荷41」などのような列車番号でしたが、「荷40」を承継した列車が「荷2641」ですか。首都圏に近づいていたのが離れることになるので、奇数番号になったのは分かりますが、東北本線のような幹線を北上するのですから、せめて「荷2041」にして欲しかったような気がしますが。そして、夜中に眠れずに仕事ですか。大変ですね。私にはできません(笑)。さらにEF15牽引だのDD13牽引だの、拷問列車ですね。その区間だけ暖房車付けていただけませんか(笑)。暖まり始める前に着いてしまいますか。下の方の2冊の本は、もちろん購入しましたが、「電子書籍」と書いてありますねえ。私が買ったのは紙の本です。電子書籍もあるのですね。じじいは、世の中付いていけませんわ(笑)。
    2015年01月05日 18:44
  • しなの7号

    急行 陸中様
    こんばんは。逸話とともに、今はない職種での従事内容をお伝えできればと思っています。
    よろしくお願いします。
    2015年01月05日 19:33
  • しなの7号

    北恵那デ2様
    隅田川から先もそのまま荷2641列車であるようにに思われましたら申し訳ありませんが、荷2641列車は品川~隅田川間の列車でした。
    私どもが乗務した「名荷4」は隅田川からは東北本線の荷41という列車に継承されています。そのことだけは資料から判明しています。隅田川止まりの北東荷36~37を除くその他の車両に関しても、たぶん荷41にそのまま継承されているものと思いますが、手持ち資料がございませんので確証がなく、本文のような表現になりましたことをお断りしておきます。そして隅田川から先は、私が乗務していたころはEF56が引退していたはずなので、宇都宮区の電気暖房装備EF58あたりが牽いたものと思われます。
    旧客時代の急行きたぐにが、米原~田村間のデッドセクション区間で暖房がなかったと聞いていますが、それと同じように品川~隅田川の短区間だから寒いのくらい我慢しろということですね。
    2015年01月05日 19:37
  • TOKYO WEST

    あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申しあげます。昔の急行きたぐにの暖房に関しては12系+10系時代の苦労話を、元大阪車掌区の坂本衛氏の著書でも紹介されていますが、大阪・米原間蒸気暖房、米原・坂田間暖房なし、坂田・新潟間電気暖房と方式がまちまちなうえに、電気暖房の区間ではB寝台の下段が暑すぎ、米原・坂田間は暖房がないため寒く、上りの米原・大阪間は運次第で、蒸気の管が凍っていれば冷凍庫のようだったと述べています。
    2015年01月05日 23:05
  • NAO

    こんばんは。
    夕刻に乗り込み、深夜というか未明の乗務終了なのですね。こんな時間帯だったらレチ弁の世話にならず、乗務前に夕食を済まされておくのでしょうか。
    あと、深夜でもお茶菓子タイムがあったのでしょうか。適当な荷物で卓袱台を作って。
    しかし、「きたぐに」もそうですが、暖房が入らない区間で運悪く運転抑止にぶつかったら、もうこれは乗務員は逃げ出したくなるでしょうね。
    2015年01月06日 00:09
  • しなの7号

    TOKYO WEST様
    明けましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いします。
    坂本衛氏の著書は私も拝読しています。というより、拝読して米原~田村間の暖房はどうなっていたのだろうかという疑問が、それによって氷解したのでした。
    電気暖房のヒーターは座席下や寝台下にあるのが一般的ですから、電源が入ったままだと寝台の下段だけは暑かったものと想像します。深夜、電気暖房の客車でも各車ごとにスイッチを切ったり入れたり、長距離列車では大変だったのでしょう。交直切換区間で電車の車内灯が一瞬消えるのはよく知られていましたが、交直切換区間での暖房に関しては、あまり知られていませんね。
    2015年01月06日 15:30
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    この列車には常時乗っていたわけではないので、お茶菓子タイムについては不明ですが、このような時間帯だと、荷物で夜食タイム用に卓袱台を作ったとしても、それがその後、ベッド?の一部に変わっていた可能性はありますね。この列車にはレチ弁の設定はありませんでしたので、夜食の弁当をあらかじめ買って乗務するパターンですね。
    荷物列車では、抑止~取り込みで「一日落とし」(←【423】思い出の乗務列車31:東海道本線 荷41列車(3):積載方と急送品 https://shinano7gou.seesaa.net/article/201310article_7.htmlの末尾部分でご説明しています。)になると、急送品の取り卸しでドタバタします。犬猫、ヒヨコほか動物もいますし、輸血用血液とか鮮魚、貴重品。積載している荷物によっては、暖房がなくてもひと汗かくこともあるかもです。
    2015年01月06日 15:33
  • ヒデヨシ

    荷物列車の事はまったく判らない世界です。
    なんせ荷物列車との関連は運輸掛(駅務)の時、荷物列車の荷扱い補助をしたのみ。
    格別忙しい訳でなく、駅務自体が新入りの為に色んな事をやらせる職務ですから
    58オンリーの中61が牽く列車が好き
    年末には寄せ集めの程度の悪そうな客車で臨時列車が走っていましたがどの車輛も荷物満載でした。
    定期列車より編成がこじんまりしていたですね。

    話は逸れますが新幹線若返り工事の時「こまどり」のスジで走る東海51号またはこまどり自体は担当されたことがありますか?
    2015年01月08日 20:50
  • しなの7号

    ヒデヨシ様
    EF61が牽くのは荷38と荷31だったと思います。臨時は寄せ集め編成でしたが、臨時荷物列車に乗務することはありませんでした。臨時の増結車には乗務したことはありますが、変わった車両に当たることがあって、それが楽しみでした。
    私どもの車掌区では臨時列車用の要員を専務車掌班で持ち、普通車掌班では定期列車の要員しかありませんでした。新幹線若返り工事は私が専務車掌になる前の普通車掌時代までに終了しましたので、乗務の機会はありませんでした。159系も専務車掌になった時には廃車された後でした。
    2015年01月08日 22:04
  • 風旅記

    こんにちは。
    私が鉄道で旅するようになった頃には既になくなってしまっていた荷物列車、運行に関わっていらっしゃった方のお話は大変興味深く思います。
    着発地も様々な車両が組み合わされて一つの列車に仕立てられ、その中に積まれている荷物の管理も細かく駅ごとに見なければならなかったと思いますので、経験値がないとこなせないお仕事だったのではないかと思います。
    品川に到着後、隅田川までは、今でいう「上野東京ライン」、東北本線の列車線を通っていたのだろうと思います。東北新幹線の東京延伸前の姿を想像しながら拝読致しました。暖房なしの機関車とのこと、真冬の未明は寒かったでしょうね。
    汐留はとうになくなり、隅田川もコンテナの効率的な輸送に特化するように改良された今、なかなか往時の姿は想像がつかないのが残念です。
    風旅記: https://kazetabiki.blog.fc2.com
    2020年05月19日 17:18
  • しなの7号

    風旅記様 こんばんは。
    荷物列車とその乗務員の実態はあまり知られていないようですが、それを想像できる遺跡や遺物も、荷物輸送が廃止されたことによって、ことごとく他の用途に転用され、又は跡地そのものが売却されてしまって、あまり残されていませんね。

    荷物列車の乗務では、駅の所在と順番が頭に入っていないと仕事になりませんでしたが、それをマスターさえすれば、作業自体は単純な肉体労働であって、列車の運転に直接責任を負うこともありませんでしたから、車両の責任者である専務車掌以外の、乗務掛と車掌補は乗務員では最下位の職種でした。

    この記事に書いた時代の後にあったダイヤ改正では、東北本線から隅田川に寄らないで、今の湘南新宿ラインのルートを通って東海道本線に直通して名古屋まで運転される列車も現れ、手小荷物の合理的な輸送を目指して体質改善を図っていることが現場にも伝わってきましたが、宅配業者の事業拡大と国鉄自体の地盤沈下もあって廃止に至りました。

    暖房の件ですが、旧形客車ベースの荷物車の隙間風はひどいもので、深夜に長野へ向かう荷物車では、暖房があっても寒く、灯油ストーブまで積み込んで乗務していました。
    2020年05月19日 20:15
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    荷40列車の編成に郵便車が含まれなかった件です。連結されていれば、乗務先の糸崎から大阪へ戻るのにはいい時刻で、朝の起床は世間のみなさん並み、朝食を済ませて糸崎を午前9時前に出発して昼過ぎに大阪から帰宅できたのですが…そうはうまくいきません。この前を走る荷42列車は郵便車の便名が「東門上五号便」で、糸崎の起床は未明3時半で、次の乗務便である荷30列車「東門上一護送便」は、糸崎が12時、帰りは夕方ラッシュのさなか、という大きな空白がありました。
    郵便車は乗務員交代駅が糸崎、大阪、浜松で、各鉄道郵便局とも、深夜、未明の出退勤、乗務交代があったので、前夜から局に泊まったり、始発電車を待ったり、拘束時間が長かったのが思い出されます。その点では荷物車乗務員も同じご苦労があったことと拝察します。
    2020年10月25日 18:51
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    荷40列車の名古屋以西の編成は存じていませんが、名古屋以東で郵便車もパレット車もなかったのは、汐留に入らない特別な列車だったためでしょう。

    郵便車のように乗務員交代駅が決まっていなかった荷物車の乗務員は、完璧ではないにしても効率や出退勤時刻を考慮したうえで、担当車掌区や乗継駅を選定して乗務行路を設定していたのではないでしょうか。
    夜遅く乗務終了になる行路には、早朝出勤の日勤行路をセットにして事実上の3日乗務にするということも行われていました。
    2020年10月25日 20:14
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    荷40列車に郵便車がなかった最大の理由は汐留に入らず隅田川に直通したからでしょう。
    あとひとつ、東小倉、門司の発時刻にあります。九州で夜までに集まる郵便物は荷42列車「東門上五」+「東門上五護送」までにほとんど積まれてしまい、荷40列車のダイヤは午前の山口、広島県内でさえ、まだ郵便局の収集と発送が完了しないので連結しても効率が良くありません。荷30列車に護送便の連結があったのは、前夜に積み残した小包類があれば救済する意味合いもあり、扱い便は荷32列車「東門上一」からで、こちらは広島あたりから午前中に収集、差し立てをした各局が積み込みます。
    小荷物も時間帯により多い少ないはあるでしょうが、郵便車への積み込みは局の業務時間帯とポスト収集の関係でどうしても夜に集中しがちなので、上り荷物列車への連結にも反映されたと思われます。ただ、全便どこかでピーク時間帯があるので汐留到着時には各便とも多くの郵袋が積まれていました。
    2020年10月27日 12:32
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    荷40列車は郵便車向けのダイヤではなかったとのことですが、そもそも東海道・山陽本線の荷物列車は首都圏発着が有効時間帯になるダイヤ設定になっていました。汐留駅での荷役作業がない深夜帯を避けて早朝に着くのが荷30列車で、同様に早朝に隅田川に着くのが荷40列車、という荷物の行先による棲み分けだったと考えられ、東小倉を荷40列車より後発にして足の速い急行である荷30列車に対して、1日1便の直通車両で組成された荷40列車のダイヤは、郵便輸送を考慮することなく、その使命は急行である荷30列車に任せていたと考えてよいのではないでしょうか。
    2020年10月27日 21:30
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    またひとつ、気づきをいただきました。汐留駅発着が上下とも有効時間帯になっていたのですね。大阪で見れば24時間行き来しているので乗務も駐在も終日ガサガサしていたのですが、郵便受渡を汐留分局(=東京中央局など)で真夜中に行ったとしても、他の方面に発着する郵便車がすべて早朝~夜間であるため、他の駅分局(上野、隅田川、両国、新宿)への連絡トラックで急ぎ搬送しても意味がありませんでした。
    そのため、汐留分局の宿直は、荷41列車(23:41発)を見送ったあと、荷30列車(4:56着)まで受渡員は4時間ほど仮眠したのではないかと想像します。
    東京の鉄道郵便網は、東京中央局と小包、大型集中局を軸に、6つの駅分局(東京駅は53・10廃止)をトラックで連絡する複雑なもので、深夜までに各方面からの郵便車で到着した郵便物は、深夜に東京中央局などで処理して各方面の郵便車に差し立てて朝までに各線の駅分局に搬送という図式があったと思われます。
    2020年10月27日 23:25
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    さまざまな場面で日本が東京中心で動いていることを感じるものです。歯車は東京から地方末端まで順に連動してゆき、その反対(上り)はその巻き戻しということですから、自ずと首都圏の荷役がストップする深夜帯に、東海道本線上での物流が活発になる所以です。
    首都圏の有効時間帯にしても、汐留駅の小荷物ホームが1面2線で出発と到着で各1線ずつしかなかったので、積卸に時間がかかり1本の列車が長時間荷物ホームを占有してしまう荷物輸送の性格上、東海道本線の荷物列車のダイヤ設定は汐留駅の作業ダイヤに大きく左右されていたものと考えられます。
    2020年10月28日 20:40
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    汐留駅全荷物列車の着発時刻(53・10以前)を調べると1日に上下6本ずつありながら、発車前積み込みと到着後取り降ろしが同時に行われる時間帯が全くなく、絶妙にどちらかに専念できるように組まれており、これなら1面2線のホームで捌くことができたわけで、ダイヤがうまく作られていたことに感服します。
    ただ、荷40列車と反対に隅田川から直通で九州に向かう下り列車が時刻表になく、上り7本、下り6本となっているのが気がかりです。これだと、荷物車が隅田川方面にどんどん偏っていくので、まとめて東小倉へ回送する下り列車があったのでしょうか。
    2020年10月29日 21:39
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    列車ダイヤとは、内に秘めたさまざまな事情を汲んだ結果であることを思わずにはいられませんね。
    このころ、荷40列車の対になる下り荷物列車がなく、おっしゃるように首都圏と九州を直通する荷物列車は上り7本、下り6本となっていました。
    本文後段で触れていますが、荷40列車は品川から荷2641列車に継承され隅田川に向かいました。ただし時刻表からは、品川から列車番号が変わることまで読み取ることはできません。その荷2641列車の対になる隅田川→品川間の荷物列車は荷2935列車でしたが、これは列車自体が時刻表に掲載されていません。その列車は、品川到着後、直ちに汐留発の荷35列車に併結されて1つの列車にまとめられていました。そのために荷35列車は15両もの長大編成になったことによって、有名なEF58重連運用が汐留~名古屋間で組まれたということになります。それは、この先の「【551】思い出の乗務列車47:東海道本線 荷35列車」の記事内で触れています。
    2020年10月30日 20:15
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    上下本数違いの謎について、隅田川⇒品川の荷2935列車の存在で理解できました。
    仮に荷40列車に東小倉~青森直通郵便車を連結して、乗務員を品川か隅田川で交代することはできたとしても、小荷物のように首都圏をスルーして直通する郵袋の比率が相対的に少なく、輸送上の効果はなかったでしょう。車内で大きな容積を占める大型、小包類の郵袋で、各地から東京に向けて積まれる大半が都内の集中局宛てで、そこで開けられて郵便物を再区分する仕組みのため、直通郵便車に積む意味がなく、国鉄小荷物よりも送達が長くかかるケースが多かったと思われます。
    2020年10月30日 21:08
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    首都圏をスルーする荷物も、郵便同様に首都圏発着荷物に対してかなり少なかったと思っていますが、荷物は図体が大きく1日1列車分の量になってしまうとなれば、自動車輸送による中継は効率が悪く避けたかったと思います。そういう意味では、この1往復は汐留・隅田川間を人手をかけずに直通するために大きな貢献をしていたものと考えます。例のJトレインVol.77に掲載された荷物車運用によれば、60.3時点でも首都圏スルー運用は、横浜羽沢駅を介する輸送ルートに変更しながらも継続されていたことが読み取れます。
    また、定期荷物列車の設定がなかった上越~東海道間には、同じ目的で年末繁忙期に直通荷電が72系電車を挟んだ編成で臨時運転されていたことも趣味誌に幾度か掲載されていたのをご記憶なのではないでしょうか。
    2020年10月31日 21:11
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    年末繁忙期の臨時荷電は雑誌で見た覚えがあり、モハ72などをはさんだ編成に郵便車はなかったと記憶します。
    54・10で横浜羽沢駅が東海道貨物線に開業したときから荷物列車はここを経由して神奈川県下の荷物を扱ったと思われますが、このとき東京鉄郵羽沢分局が開設され、横浜駅の横浜中央局受渡を移管しました。
    57・11からは隅田川~羽沢間に「東京羽沢締切便」が1往復設定され、53・10で東海道線郵便輸送の仕事がなくなったクモユ141、クモユニ74が使用されたと思われます。この便は、59・2の羽沢分局廃止を経て、61・3で廃止されるまで隅田川以北と羽沢以西を直通する郵袋を積載したと考えていますが、その後も同区間の荷物電車は続けられたはずで、飯田線、身延線の郵便輸送がなくなったあとのクモユニ143、クモユニ147も連結していたようです。
    2020年11月02日 10:06
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    年末の臨時荷電は、その年によって編成は異なっていたようですが、雑誌記事によると、寄せ集めた72系に耐雪処理をするなど苦労があったとのことで、クモニ83のほかクモユニ74も動員されたようです。
    横浜羽沢開業時には、もう荷扱業務から離れていたので、そのころ直接知り得た荷扱関係の話はございません。
    飯田線の郵便荷物輸送から撤退したクモユニ147は、そのままの塗装で全車が大垣に転属して、クモニ83の後釜として中京地区の東海道本線で運用されていました。乗務する機会もありましたが、その後61.11あたり?で静岡に転じてクモハ123に改造されています。
    2020年11月02日 20:12

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