先週は荷40列車についてお話ししましたが、駅名と線路図の知識がかなり必要な荷40列車に比べて、名古屋から汐留まで乗務する荷42列車(乗務車両は「名荷3」)は、仕事上でも比較的簡単であるばかりか、午後の出勤で汐留着が21時過ぎという肉体的にも負担が少ない時間帯の列車ででした。画像は昭和53年4月号時刻表(日本交通公社版)から転載加工したものです。
この列車には1976~1978年の間には、月に1度くらい乗務の機会がありました。
1975年(昭和50年)3月改正
東海道本線 荷42列車
運転区間 鹿児島~汐留
<<編成は名古屋発時点のもの>>
乗務区間:名古屋14:17~汐留21:11
機関車 EF58(浜)
マニ 名荷3 (名古屋~汐 留)
ワキ 金荷203(富山~米原~汐留)
マニ 名荷2 (米 原~汐 留)
マニ 鹿荷2 (鹿児島~汐 留)
スニ 鹿荷203(鹿児島~汐 留)
スニ 鹿荷202(鹿児島~汐 留)
スニ 鹿荷201(鹿児島~汐 留)
オユ 南東郵1 (鹿児島~汐 留)
オユ 熊郵2 (熊 本~汐 留)
マニ 南東荷4 (熊本~東小倉~汐留)
マニ 南東荷7 (宮崎~東小倉~汐留)
マニ 静荷1 (宮崎~東小倉~沼津)
編成も12両と長く、当時の東海道本線の一般的な編成です。このうち南東荷4(マニ)は熊本から東小倉までは別列車に連結されてきているようです。過去記事【431】思い出の乗務列車33:東海道本線 荷31(名古屋~大阪) の記事中に示した荷31列車の編成表をご覧いただくと、この荷42列車は、汐留で翌日折り返し荷31列車になっていることがお分かりいただけると思います。
私どもが乗務した名荷3(マニ)は名古屋で増結される車両でした。上の画像は私が国鉄就職前の1973年8月、名古屋駅で撮影した荷42列車です。EF5860が牽いています。これが冬場ですと、連結作業に備えて、SGの暖房用蒸気を客車へ送気するのを一時的にやめますので、EF58の屋根上からは、すさまじい勢いで蒸気を噴き上げながらホームへ入ってきます。名古屋駅では、米原から連結されてきたマニ(名荷5:名古屋発時点で記したこの編成表にはない。)を切り離し、代わりに 我々が乗務する名荷3(マニ)を連結するのです。どちらも名古屋客貨車区の所属車でしたが、切り離す名荷5は電気暖房を採用している区間へも入る運用でしたから、電気暖房併設車(2000番台)の限定運用だったのに対し、乗務する名荷3のほうは蒸気暖房区間のみの運用でしたので2000番台である必要がありませんでした。名古屋客貨車区配置のマニでは、中央西線・北陸線・東北本線へ入る運用には機関車の暖房対応方式がEGによる電気暖房であったため2000番台車両が使用されました。先週ご紹介した荷40で使用された青森行き名荷4は、常に2000番台のマニが充当されたわけです。そのため同区のマニに関しては、電気暖房設備がある車両とない車両が併存していました。当時名古屋客貨車区に配置されていたマニの2000番台車は、よく揺れるマニ60が、マニ36より圧倒的に多く、逆に荷42列車(名荷3)で使用されるマニは乗り心地がよいマニ36の確率が高く、楽しみでもありました。以前【203】乗務した車両:マニ35、マニ36で書いたことの繰り返しになりますが、当時の名古屋客貨車区には、マニ36のなかでは珍しいタイプであるスハニ35からの改造車が電気暖房非対応で少数配置されていました。特急用2人掛座席車スハ44系の面影を残す間隔が狭い正方形の中央部の窓、台車はTR47で乗り心地も良く、完全切妻スタイルで、他のマニ36とは一線を画したくなる車両でしたが、電気暖房の装備がなかったので中央西線、北陸本線や東北方面への運用には入れず、汐留折り返しの東海道筋の荷物列車に多く使用されており、この荷42列車(名荷3)でよく出会いました。
ところで上の画像は、私が国鉄就職前に撮影した古いもので、当時すでに電気暖房区間になっていた中央西線中津川で、転線入換中の様子を撮影したものです。電気暖房はないものの、撮影時期は全線電化直前の夏季でしたから、暖房方式は問題にならなかったのでしょう。
名荷3(マニ)積載方は以下のとおりでした。
1 豊橋~汐留間着中継荷物。ただし横浜着中継を除く。
2 名局・静局発隅田川以遠着荷物(車掌室寄区分積載)
この名荷3(マニ)の積載方はそれほど難しくありませんでした。「隅田川着中継荷物」といわれると難しいのですが、「隅田川以遠着荷物」となっていることによって、東北本線蓮田以遠、常磐線藤代以遠、高崎線宮原以遠荷物をひとまとめにできるからなのです。「2」は汐留から隅田川までは、おそらくトラック便で輸送され、隅田川駅で方向別に仕分け作業をするので、細かい仕分けは不要ということなのです。比較的容易な積載範囲であったこの行路が最下位組の新米行路には適当と判断されていたのでしょう。
この列車も荷40列車同様に急行扱いではありませんでしたので、停車駅は他の急行荷物列車よりやや多かったですが、長時間停車はなく、比較的長い10分停車の藤枝駅で、駅の事務室へ魔法瓶を持って、お湯をもらいに行くのが新人の役目でした。ここまでに3人の乗務員がお茶を飲んでいるので、夕食のときに飲むお茶やインスタント味噌汁に使うお湯を補給する必要があるのです。荷扱作業は先輩に任せて、停車する前にホームに飛び降りて、駅の事務室まで走ります。「お湯お願いしま~す」と言って、事務室の湯沸かし器の場所まで行き、湯沸かし器の蛇口から魔法瓶へ湯を入れます。10分も停車時間があればあわてる必要もないように思われましょうが、瞬間湯沸かし器ではなかったので、貯蔵されている湯の温度が低いことがあり、そんなときは湯沸かし器の温度計の針が上がるのを待って給湯しました。湯がぬるいと、食事の時に文句を言う人もいました。まさに新人は「お茶汲み」でしたが、駅員として就職した者は便所掃除から、食事の支度や後片付け、食材の買い出しまでやらされたことを思えば、乗務員は恵まれていました。
荷物列車に乗務する場合は、乗務中にお茶を飲む習慣は普通にありました。荷扱乗務員は労務職ですから水分補給は不可欠です。また、労基法上、乗務員には食事休憩時間を付与しなくてもよいことになっていますから、長距離乗務では勤務時間中に食事をすることになるのです。
この列車に指導熱心な先輩と乗り合わせたとき、汐留に着くまでに常磐線の駅名を全部言えるようにしろと言われて、荷物事務用の鉄道路線図を見ながら乗務中に暗記したことがありました。作業量が少ない時で、時間はたっぷりあったので、横浜を過ぎたころ、「覚えれたか?」と言われ、ニレチの見ている前で「水戸・勝田・佐和・東海・大甕・・・」(なぜかこの辺だけ今でも駅順を覚えていたりします。)しかし、途中に何度も詰まってたどたどしくなりますので、「乗泊に着いてからも勉強して明日中ににスラスラ言えるようにしろ。そうすりゃ、しなの7号君も、もうどんな列車でも乗れるようになるわ」というようなことを言われました。それは先週書いた荷40列車に乗務すれば、仕分けなければならない「隅田川着中継荷物」の範囲の中で特に難しいとされる、茨城・福島・宮城県にまたがる常磐線の駅名を全部覚えることによって、東海道本線の荷40列車の名荷4や関西本線の荷44~224列車の天荷3に乗務したときに役に立つからというのが、その理由であったことは明らかでした。常磐線には仕事では乗ることがないのはもちろん、プライベートでも当時は一度も乗車経験がなく、景色すら想像できませんでしたので全くの棒暗記でした。おそらく乗務したとき、私の仕事ぶりを見た先輩は、「こいつは乗務範囲の駅名や中継方はなんとかマスターしたな。」と思ってくれたのだと思います。「次のステップは常磐線!」ということだったのでしょう。そのとき覚えた駅順はすっかり忘れてしまいましたが、駅名そのものは記憶しており、それから35年も経ってから東日本大震災関連で、このとき暗記した常磐線の駅名に由来する地名をメディアを通じてたびたび聞くことになり、複雑な心境になるとともに、この列車でのことを思い出したのでした。
荷42列車は汐留行ではありましたが、休養場所は汐留ではなく荷40列車と同じ品川乗務員宿泊所でした。理由は翌日品川から乗務する下り列車の便宜を考慮してのことと思われました。(その列車については次週アップします。)
汐留駅の南端にある到着線に着くと乗務は終了で、その場所は新橋駅よりも手前の浜松町駅を少し過ぎたあたりでした。たぶんこのあたり。今から7年くらい前の画像ですが、到着線部分が長々と空き地になっていて、一部は高架の「ゆりかもめ」の敷地になっているようです。EF58はここで解放され、荷物車はそこから入換用のDD13に後押しされる形で行き止まり式の汐留駅荷物ホームへ押し込まれましたが、私どもは品川泊まりとなるこの行路に限ってそのまま荷物ホームまで行かず、ホームもない到着線で線路上に降りました。そして職員通路から公道へ出て浜松町の駅まで歩いて、品川まで国電に便乗して乗務員宿泊所へ向かいました。この方が荷物ホームから新橋駅に出るより時間的に早かったからでした。
品川乗務員宿泊所は8人部屋の6人使用で、荷42列車の乗務員3人が寝ている部屋には、朝4時前になると、先週ご紹介した荷40列車の乗務員が3人、ごそごそと入ってくるので目が覚めるのでした。





この記事へのコメント
なはっ子
しなの7号
東海・山陽本線の荷物列車は、EF58やEF61の牽引だったことで、機関車好きな方には人気があったのでしょうが、後に続く汚い荷物車には編成美もなく、鉄道趣味の世界ではあまり話題に上りませんでした。ブルトレなどはまたか!と思うほど趣味誌で特集が組まれましたが、荷物列車特集が組まれることは各誌とも少なかったですね。
私の場合、東海道本線の駅名は就職前に録音してあった大垣夜行(上り)の車内放送録音テープを繰り返し再生して覚えました。
昔鉄道ファン
荷42レは、地元岐阜駅通過時間が昼過ぎだったので、よく見かけた列車です。
浜松のゴハチ牽引でしたね。荷31レ同様、名古屋または米原の客車回送によく使われたスジでもございます。
1976.10/23 岐阜発車時
EF5867(浜)+マニ362044(名ナコ、名荷5)+マニ602453(名ナコ、名荷22)+ワキ8520(金トヤ、金荷203)+マニ602020(名マイ、名荷2)+マニ352053(大ミハ、臨大荷1)+マニ60626(鹿カコ、鹿荷2)+スニ4015(鹿カコ、鹿荷203)+スニ4023(鹿カコ、鹿荷202)+スニ402(鹿カコ、鹿荷201)+オユ11102(南トメ、南東郵1)+オユ1223(熊クマ、熊郵2)、マニ36107(南トメ、南東荷4)+マニ362156(南トメ、南東荷7)+マニ3685(静ヌマ、静荷1)
EF5867は、52号と共に浜松所属の寒冷地仕様車でした(ツララ切り、縦形フィルター装備)
そういえば小生、あれだけ東海道線の列車を見に行ったにも関わらず、ついにEF5860の動いている姿をキャッチ出来ませんでした(T_T)他の浜松所属車は全て見られたのですが…
しなの7号
こんにちは。荷物列車時代の編成記録はしていませんのでフォローありがとうございます。
このころは車掌ではなかったので、乗務車両が指定されていました。持ち場放棄して編成の車両番号を書き写すことは困難でした。
記録していただいたのが岐阜ですから、私はそのあと名古屋からの乗務でした。そのため名荷3の代わりに名古屋解放車が連結されていますね。大ミハの臨大荷1は明らかに増結なのでしょうが、2両目の名荷22は何でしょう? 名古屋の20番台運用は、中央西線運用だったと記憶しますが、東海道直通の延長変運用だったのかなと想像します。
北恵那デ2
NAO
お書きになった編成表ではピンときませんが、EF5860が牽く写真ではかなり長い編成に見えますね。
私も就職したとき、休憩室のお湯の準備は新入社員の役目でした。ただ私は元々厨房でのアルバイト勤務が永く、湯の常備は常識のような考え方をしていたので何の抵抗もなかったのですが、他の同期社員は本業以外の作業に慣れるのに苦労しているようでした。湯沸かしポット2本に水を補充するだけの話しですが、空っぽになってからだと沸騰するまで時間がかかり、そのときに湯を使う先輩が居ると迷惑をかけるので、私の場合、そばを通るたびに少しずつ水を足していました。
また拙ブログでいつかアップしようかと思いますが、外勤のときは慣れた地元の路線では身体が勝手に乗り降りするので駅の順序はなかなか覚えられませんでしたが、
慣れない出張先では路線図を睨みながら乗降していたので、約200㎞の区間でいつしか駅の順序を覚えたところがありました。
しなの7号
スハニ35など、私どもに全く縁がない存在でしたから、マニへの改造を意図して購入されたと考えるのが妥当なところですね。前にも書いたことがありますが、スハニ35から全室荷物車への改造に当たっては、マニ35とマニ36との2種類がありますね。改造するならマニ35のほうが改造箇所が少なくて楽チンだと思います。
ほんとに今覚えようとしても、忘れることのほうが多くて…そういえば、北恵那デ2様といえば、昔「じゅげむ」がすらすら言えてましたね~。そういうものはきっと今でも言えるんですよね。
ブログで、「年賀状を出しません」と宣言しておいたのですが、せっかく年賀状をいただいたのに知らんぷりはいけませんでしょうから、年賀状をいただいた方には、今後も出しませんというPRのため、「昭和っぽい寒中見舞状」をお出ししました。申し訳ありませんでした。
しなの7号
おっしゃるように、けっこう長い編成でした。乗務車両は最前部。藤枝駅の給湯では飛び降りとダッシュでした。
これも前に書いたことですが、国鉄を退職して再就職したころはまだ昭和時代で、オバチャン(もとい女性の大先輩)が、ひねた新入社員にお茶を入れてくれるという習慣はカルチャーショックでした。
最近、東海道本線の駅名でも新駅ができるので詰まります。えっ、約200kmの区間? 凡人にはまねができない記憶力ですなあ。
鉄子おばさん
しなの7号
荷物車の乗務員室でも、新人は引戸のそばの一番寒い席と決まっていましたし、荷物室内の仕訳作業も、新人は乗務員室の反対側(乗務員室から遠い方)を分担することになっていました。
お茶のほか、電話の応対は新人の仕事と思っていたのですが、仕事でときどき通っていた役所に赴任されたある所長さん、外部からの電話はすべて対応し、他の職員の方々はみんな黙々と仕事をしていたのは、ちょっとビックリでした。
ヒデヨシ
じつは私、国鉄在籍時客車の形式ましてや種車などまったく知識が乏しく過去の自分に詰め込み教育してやりたいくらいです。
丸屋根がマニ36、青色切妻がマニ37と覚えていたくらい。
駅名は当然名局は略電も全部知っていました。
あと、東海道本線は神戸から東京まで全駅
覚えていました。
関係ないですが入換の関係で全国の一般駅・貨物駅が刈谷駅から上下どちらの列車に連結されるかが悩ましかったです。
もちろん列車指定の無い解結貨物でして、末期のように一旦稲沢に全行先の貨車を集配貨物列車で持っていくような簡単さはなかったです。
刈谷からですと特に北陸関連が悩みました。
しなの7号
荷物車の形式と形態分類はたいへん難しい分野みたいですから、私も同形式内の車両ごとに特徴を書き留めておけばよかったのですが、当時そんなことはまったく考えもしませんでした。
駅の電略については、乗務掛時代にはたとえ名鉄局管内と言えども、支線系は???でした。列車掛になったとき、車掌区で一覧表をもらったような記憶ですが、すべて覚えたわけではありませんでした。仕事で常用する駅名は決まってましたから、列車掛では特定の駅名だけ知っていれば用が足りました(^_^;)
作業場所が刻々と移る荷扱乗務員にとっては、2以上の経路がある場合で、その時点での最短経路や指定される中継範囲がずれていくことが悩ましかったです。
例えば中央西線の下り塩尻方面の列車に、恵那あたりから首都圏着の荷物を積み込まれると、一瞬迷いました。
風旅記
記事を大変興味深く拝読しました。
私にとっては荷物列車は直接触れたことのない存在ですが、雰囲気を感じ取ることができました。
多くの人が注目する存在ではなかったのかもしれませんが、長距離を走る列車の一つとして、旅客列車や貨物列車と並んで活躍していたのですね。
今の鉄道の姿とは随分違うものだと実感しました。
乗客の少ない列車では幹線であってもワンマン列車が当たり前になっていますし、逆の都市部の新しい路線では高度な設備によるワンマンも増えてきています。
記事の時代には、おそらく国鉄の合理化は始まりつつも、まだそこまでの極端な施策はなく、人的な労働集約型の業界だったのだろうと感じました。
他の記事も楽しませて頂ければと思います。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc
しなの7号
お越しいただきましてありがとうございます。
荷物列車は、現在の宅配便業務を鉄道が行っていたころの輸送手段でしたが裏方的な分野でしたから、国鉄部内でも地味で、一般にはもちろん知られることが少ない分野でした。このような業務は今はありませんから、その実態を語り継がれることは少なかろうと思い書いていますが、興味を持ってご覧いただけてたいへんうれしく思います。ありがとうございました。
貴ブログも、後日訪問させていただこうと思います。
鉄道郵便車保存会 会長
荷42列車は53・10改正で列車番号が荷2032に変わっていますが時刻はほぼ同じです。郵便車乗りにとっては、列車番号の変化は意識になく、改正前後とも郵便車の便名が「東門上五」+「東門上五護送」のまま変わらないので、改正は「あってないようなもの」となります。改正時の指示でやかましく言われるのは、大阪、糸崎など乗務開始駅の時刻が変わると「乗り遅れをしないように!」ということですが、この列車の糸崎発は改正前後とも4:50でした。糸崎大阪間の乗務は、事務室の起床が深夜3時半過ぎで、準備をして早めの出駅をしましたから寝不足ぎみでした。夜明けを迎え、車外が明るくなる場所の変わりようで季節を感じる行路で、姫路の受渡が通勤通学ラッシュ時間、大阪到着後10時半ころ退庁、帰宅して昼寝をし、しなの7号さんが午後に名古屋から乗務するころは爆睡中でした。
しなの7号
同じ列車であっても、乗務する区間が違うと印象がまったく逆転してしまうのは、長距離列車ならではですね。荷物車乗務時代は、深夜に起こされる行路はなくて、ほぼすべてが日付を跨いで車内で夜明けを迎えることになりました。たいてい次の同じ列車の乗務まで3~4週間ほど間隔が空きますので、夜が明ける区間は毎回違って季節が移り変わっていきました。
53.10では、荷物関係は1年後に開業する横浜羽沢駅開業を前提にして荷物中継方や担当列車が大きく変更されましたので、荷42列車改め荷2032列車に乗務することはなくなりました。
鉄道郵便車保存会 会長
大阪鉄郵の大阪駅乗務開始では前夜宿泊後早朝発の列車があった各線1行路ずつあった以外は通勤手段がある時間帯ばかりでしたが、行き先地から戻る便が夜行スジであれば、ほぼ深夜早朝起きとなりました。乗務区間と担当鉄郵が決められているからですが、荷物車はそれを回避するために受持車掌区や乗務区間を調整できたと思われます。
荷42列車の編成では、オユ11(上五)は鹿児島から、オユ12(上五護送)は熊本からの直通で、門司を19時前に出る荷38列車(上四)の4時間ほど後を追う、九州からの最終便であったため、特に九州北半分で夕方に集めた郵便物が車中に入り込みました。郵便車は郵便局が店じまいする夕方から夜間にかけて積み込みが増え、夜行スジの列車にさらに集まりますが、小荷物が駅に持ち込まれるのも夕方に多くなる傾向はあったのでしょうか。
しなの7号
荷物車から転じて乗務した貨物列車では、本線直行系の列車が列車掛のリレー方式で乗務して運転されておりましたので、深夜の乗務員交代が日常的になり、生活は荷物車乗務時代より不規則になりました。これは首都圏と近畿圏に挟まれた中京地区の宿命でした。集荷された貨物が夕方から夜間に輸送されるためですが、それは小荷物の場合でも同じ傾向があると思われ、荷物列車の汐留駅始発列車が19時台から2時間程度の間隔で23時台まで3本運転続けてされていた事実が、そのことを無言で語っているのではないでしょうか。
鉄道郵便車保存会 会長
やはり、小荷物も夜間、深夜に多く出されるわけですね。企業発送の小荷物が終業時間と共に出回ることも一因かと思われます。家庭から駅に持ち込まれることは朝昼でもよく見かけましたから。
汐留発時刻を見ますと、郵便車に乗務する上でも好都合となっていましたが、名古屋、大阪など中間地点は深夜の交替が当たり前で、貨物列車も同様であったことはよくわかります。夜行列車も運転士は比較的短距離で交替したようで、みなさん体調管理は大変だったとお察しします。夜行旅客列車だけでなく、荷物列車、貨物列車が夜の主役で数多く運転された時代と比べると今はコンテナ貨物だけが目立ちます。
参考まで、53・10以降の荷2032列車ですが、糸崎大阪間の郵便車結束表をお示しします。
東門上五
http://oyu10.web.fc2.com/kessoku-toumonue5.jpg
東門上五護送
http://oyu10.web.fc2.com/kessoku-toumonue5gosou.jpg
しなの7号
深夜の直行貨物列車は足が速く勤務時間が少ないことに加えて、深夜に乗務開始または終了となることが多くなりましたので、その前後に最小限の休養時間を挟んで短距離の貨物列車行路をセットにするなどして、勤務時間調整と出退勤時刻に対しての工夫がされていました。それでも出退勤時刻は荷物列車よりも不規則で深夜勤務の割合も多かったので、荷物列車乗務から貨物列車乗務に変わったのを機会に、独身寮に籍を置くこととなりました。
それぞれの結束表を拝見すると、扱い便と護送便とは車両の設備自体が違いますから、仕事上で混同することはないのかもしれませんが、荷物車でしたら同じ列車で同じマニ。ただ積載方が違うだけですから、自分がその日担当する車両の積載方を混同して仕事を間違えてしまいそうです。
ご自愛ください
最近では、休憩時間も食事時間もなし、らしいです。
しなの7号
昔も今も、乗務員は好きでないと務まらない業種のようです。
※ツイッターへのリンクは勝手ながら削除させていただきました。
鉄道郵便車保存会 会長
かつて生活圏の多くの駅で車扱貨物を扱っており、解結貨物列車の入れ換えやヨから車掌さんが出入りするのを見ていました。深夜の交替は当たり前であったでしょうし、しなの7号さんが独身寮まで利用されたとは、ご苦労をお察しします。
荷物車は確かに車内構造は大差なく、積載方が車両ごとに違うのですから、乗務ごとの確認をされていたことと思われます。
郵便車は扱い車と護送車で作業が大きく違いますが、荷2032列車のように同じ荷物列車で連結される2両は、締切郵袋の取扱いに関しては、前回の両便結束表を比較すると、ほぼ同じでした。
ただ、荷物車が列車、車両ごとに積載方が違うように、郵便車も同じ区間、方向を比べても列車により停車駅や積み替える結束便が違うので、列車ごとの結束方を覚えておかなければならず、乗務前には覚えたはずの結束方を再確認していました。
しなの7号
荷42列車の折り返し乗務となる荷35列車では、往路を荷40列車で来た組とともに各1両ずつを受け持ちましたが、荷40列車に乗務する行路は上位班に割り振られていたので、それぞれに違う積載方でも両方に乗務する機会はあまりなくて混乱することはありませんでした。しかし53.10で、荷物列車は一列車一車掌区での乗務が基本となり、往復とも同じ乗務列車で、出退勤時刻や勤務時間は同じながらも乗務車両違いの行路3つに、週1回程度ずつの割で順繰りに乗務することとなりました。
鉄道郵便車保存会 会長
荷物車と郵便車で服務の構成が違いますのでうまく当てはまりませんが、53・10よりも前の乗務行路表を示します。
第一乗務課(大阪~糸崎)
http://oyu10.web.fc2.com/kouro-1.jpg
帰路の便名「東門上五」「東門上五ゴ(護送)」が荷42列車ですが、両便の乗務員それぞれが行き帰りとも同一行路で、55行路「東門下五~上五」の4名、1415行路「東門下四ゴ~上五ゴ」の3名が同じです。ただ、連結されていた両便なのに行きの乗務列車と事務室の滞在時間が違うことがわかります。また、東門下五では、2表57行路が岡山で下車し、入れ替わりに3表751行路が乗ってきますが、751だけ帰り便が違っていて、岡山止めの東岡護送、京岡便があるため、東門便と複雑に組み合わせていました。やはり、53・10以降の荷物車のように、みんなで往復とも同一列車のほうがわかりやすかったですね。
しなの7号
郵便車でも乗務列車が分散されていますね。労働条件を均等にするにはそれがいちばんよいので、荷物車に限らず国鉄の乗務員でも同じ傾向がありました。
荷物車では53.10より前にも複数の扱車があった荷36列車(復路)を例に採れば、往路の列車違い(荷41列車か荷31列車)、乗務する行先の違い(京都か大阪)というように、各行路上に一瞬で区別がつく変化があり、行路表を見ただけで作業内容も自然と頭に入っていたものです。これが53.10で、行路表の見かけは同一でも乗務車両だけが違う行路に順繰りに乗務することとなると、今日はどの車両に乗ればよかったのか?どういう積載方だったか?と迷う結果となりましたので、往復とも同一列車の行路は、自分がその日に担当する車両の積載方を混同して仕事を間違えてしまいそうだと思った次第です。自分はその53.10改正後わずか半年で荷物列車の乗務から離れられたわけですが、荷物専用列車の一列車一車掌区の原則は、荷物車乗務員の合理化の始まりであって、その後はパレット化・締切化によって最終的に一列車一扱車となっていきました。
鉄道郵便車保存会 会長
荷物列車は同一編成に複数する荷物車で積載方と仕分け要領が異なりますから、自分が乗務する車両に間違いなく乗るため、連結位置と運用サボで判別されたかと思われます。
仮に郵便車を何両も連結する列車に同じ形式の郵便車が複数あると、乗務員が乗り込む駅でホームを右往左往しそうです。ましてや、行き先が同じなのに車両(輸送便)が異なるごとに結束方が違うとなれば誤送、誤区分も起こりそうです。その点で、荷42列車(荷2032列車)の東門上五と上五護送は車両の外観が全く違うので、乗り間違いはありませんし、締切郵袋の仕分けと取り降ろし方はほぼ同じでしたから、どちらに乗ってもする事は同じでした。
ここで特記したいのは、同じ列車の隣の郵便車への「最先引渡」が上五護送の結束表に明記されていることです。上五護送の車中で相生宛の郵袋があれば岡山駅で隣の扱い便、上五号に引渡しました。これは、早朝で受渡郵袋が少ない相生駅の受渡員が台車1台に2名だけのため郵便車1両しか対応できないからで、あらかじめ岡山駅駐在員を介して隣の上五号に運んで受け取ってもらい、上五号に相生で降ろしてもらいました。最先引渡は分岐駅で連絡時間が短い他線の郵便車に急いで搬送する場合や、同一編成の郵便車を切り離す駅での引渡が大半ですが、同一列車内、同一方向でもこういうことをしました。同様に、加古川、明石宛を姫路で、草津宛(通常のみ)を大阪で上五号に引渡しとなっています。ただ、毎日これらの郵袋が積まれるかと言うと、ほとんどなく、理由はこれら各局宛の大型、小包郵便物は、あらかじめ地域区分局である姫路局や大津局宛郵袋に納入されるので、これらの局宛郵袋が「たまたま」車中に出た場合に限り、ということなので、この手続きがそれほど多くはなかったと記憶します。
荷物車では、個々の車両ごとに異なる積載方により、駅から積み込まれるので、編成内の他車両に途中駅で引き渡すことは行われなかったのではないでしょうか。
しなの7号
同一列車の車両間で行われていた最先引渡の例はこれまでのコメントで、荷36列車を例示していただきましたが、荷42列車では要員配置の都合だったのですね。郵便のように、扱車で車内の仕分け中に該当するブツが出てくるようなことは、荷物輸送では積載方に違反しない限りあり得ませんし、もし駅の小荷物要員が足りず、すべての車両からの取卸作業が不可能な駅があったとしたら、当該駅着中継荷物を荷物積載方で荷扱車両を限っておけば用が足りると思われます。そういう事例に該当するかわかりませんが、本文にある荷42列車の名荷3の積載方と【435】の記事本文中の荷36列車の南東荷1の積載方をご覧いただくと、いずれも「ただし横浜着中継荷物を除く。」とされています。何らかの理由で横浜では他の車両からの取卸をするように指定されていたわけです。なぜなのか乗務員サイドではわかりませんが、横浜駅の小荷物要員数が理由という考え方もできます。もう一つ考えられる理由が停車位置の問題で、両列車の横浜着中継荷物を除く車両はいずれも先頭車両となります。たとえばホーム上にある階段や建築物の脇を台車が通過できない位置に停車してしまうとか、エレベータから遠いところまで、乗客が多いホーム上をターレットで移送するのが危険であるなど、地上設備上の理由であった可能性も考えられます。もっともそういうことは、53.10で横浜がいわゆる「郵便停車」となった時点で解消されました。
鉄道郵便車保存会 会長
名荷3の積載方で「横浜着を除く」と示されているのには正直違和感がありました。何より、汐留の手前では扱いが多い着駅ですから。ただ、荷物車ごとに違った役割があることを知った上では、他の車両に横浜着荷物が載せられていることが想像できます。その理由に、連結位置とホーム設備の関係までは考えが及ばず、またひとつ勉強できました。
しなの7号
朝の4時台に横浜駅を通る荷30列車に至っては、列車自体が横浜を通過しており、荷物積載方には「横浜着中継荷物は汐留中継」とされていました。時間帯から想像すると駅小荷物係の休養時刻にあたっていたのではないでしょうか。横浜駅の中継範囲は案外狭く、「東神奈川~鶴見間及び根岸線各駅・横浜線各駅・相模鉄道・京浜急行各駅」となっていました。
ホーム上の荷扱についてですが、パレットの荷扱ではさらに制約があったようで、上屋の支柱の位置さえも考慮されたようです。Jtrainの2020年春号43ページに触れられています。
鉄道郵便車保存会 会長
荷30列車が横浜早朝通過で汐留から中継とか、ずいぶんと横浜駅の地位が低いと思うのは考え過ぎでしょうか。
郵便に置き換えると横浜中央郵便局は関東でもなかなか格上なのですが…。鉄郵当時も各地から羽田空港経由の航空郵便物は横浜中央局と川崎局宛が区別して差し立てられ、空港から直接運ばれました。
確かに53・10以前の荷30列車は横浜通過となっていますが、羽沢駅経由となってからの郵便時刻表では、荷30列車は停車しており「東門上一護送」「東門上一パレット」とも着扱い(降ろすだけ)となっています。(荷2032列車など、全便とも羽沢から積み込みは禁止でした)
しなの7号
幹線には「通過区間着発荷物中継駅」が指定されており、荷物専用列車が通過する駅(次の通過区間着発荷物中継駅までの範囲)との荷物中継作業を行っていました。簡単に言うと、荷物専用列車対各駅停車の荷電又は代行便との中継作業をしていた拠点駅ということです。横浜駅は通過区間着発荷物中継駅でもなく、自駅と自駅に指定された中継範囲の荷物だけを取り扱いましたから、拠点駅とは言えない存在でした。
そういう規定ですと、横浜を通過した荷30列車では、その手前直近の通過区間着発荷物中継駅であった小田原で横浜着中継荷物を卸さなければ持ち越しとなってしまうわけですが、荷物積載方にわざわざ「横浜着中継荷物は汐留中継」と指定したということは、汐留~横浜間には代行便が充実していたことが想像できます。実際に荷30列車以外の荷物専用列車では、上りでの横浜積込や下りでの取卸でドタバタすることはなく、上りでは取卸、下りでは積込の作業が中心だった記憶です。
横浜羽沢開業後は乗務していないのですが、横浜羽沢は横浜の機能が単に移転しただけではなく、東海道対東北上信越の中継基地という使命がメインになっていたようで、汐留と隅田川の機能の一部が移転されていますね。Jtrainの2020年春号を読むとそういうことがよく伝わってきます。
鉄道郵便車保存会 会長
荷物輸送に関する横浜駅の位置づけは、横浜及び周辺市町の拠点局だった横浜中央郵便局とは異なっていたようです。
それと、コメントに「作業場所が刻々と移る荷扱乗務員にとっては、2以上の経路がある場合で、その時点での最短経路や指定される中継範囲がずれていく」とありますが、郵便車でも同様で、例えば荷42列車に積まれる鳥取県宛郵便物は、福山までの受入れは岡山経由、相生からは姫路和田山経由、神戸からは大阪又は京都経由という原則があり、それに列車ごとに異なる結束方で例外的な結束便引渡をしますので、乗務ごとに確認しておく必要がありました。
しなの7号
仕事をする場所が「点」である駅員と「線」である乗務員との違いについては、移動空間上にある者どうし、感覚的にご理解いただけるものと思います。机上で規定を習得していても、常に移動している自分の位置を確認できていなければ、どの規定を適用すべきか判断できないので、何も意味をなさなくなりますね。
それに加えて、荷物の場合は取扱駅が集約され自動車代行の範囲が増えるたびに最短経路により輸送するという原則から外れた例外規定が続々と増え、マニュアル本の訂正や切り貼りが多くなっていきました。
鉄道郵便車保存会 会長
鉄道郵便も末期になると最短経路から外れた例外がいくつかあり、例えば、東門便京都以東と京下(けいしも=山陰線)便和田山以西相互間郵袋の積み替えは、姫路、和田山経由となりました。(それまで京都積み替えでした) この改訂よりも前に、姫路和田山便(播但線列車)も姫路分局も廃止されており、姫路局発播但連絡道自動車便を介して行われるようになり、山陰線鈍行に比べると京都和田山間は時間短縮され、まるで「クルマの方が速いんですよ」と誇示されているように思えました。
郵便車乗務員が携行したマニュアルはひも綴じ式で、改正ページの差し替えが配布されると乗務の合間に自分で加除整理したもので、配置替えの際には返還して後任者に渡される仕組みのため、末尾に実施日付と加除者押印欄があり、加除を怠ったり間違えると業務ミスにつながったものです。
しなの7号
国鉄の荷物輸送に例外が増えていったのも、拠点間輸送へシフトしていった時期だったからだと思います。就職時に貸与された携帯用マニュアル本は、自分で訂正。わずか3年ほどの荷扱在籍中にマニュアル本はその後2回改訂があり、その2回目の改訂版は「昭和54年1月現在」のもので、53.10で大きく変わった内容を網羅した内容で出されました。その冊子を見ると、直後の昭和54年3月には熱田基地の全面開業が控えており、熱田関連の事項は「当分の間○○とする」の注釈入りで、そのあとの54.10に開業が予定されていた横浜羽沢関連のページは空欄とされ、開業後にはその空白ページと自分たちに必要がなくなる隅田川のページの上に切貼する前提の仕様となっていて、まさに荷物輸送における規定が朝令暮改の様相を呈していた時期にあったことを伝えています。
転職後の会社では加除式のマニュアル本が貸与され常用していましたが、改正事項が印刷されたページが用意されるまでのタイムラグが長くて意味をなさないことがたびたびあり、それまでの間は、自分で訂正や書き込みをしていました。国鉄の業務の中でも、こういうマニュアル本に頼るのはダイヤ改正直後が多いものですから、面倒くさくても訂正や切貼をすることで、即時性とともに、どこがどのように改正されたかが一目でわかるのがメリットと言えなくもありませんでした。
鉄道郵便車保存会 会長
荷物車乗務員マニュアルがそれほど変化していたとは、荷物列車の外観だけ見ていた者には想像できませんでした。
訂正と差し替えを自分ですることで理解を深めたのは郵便車マニュアルも同じで、外すべき旧ページをまとめて末尾に綴じる人もいて、拝見すると、新旧ページを対比することで改訂の内容が見てとれました。それが一貫して作業の簡略化の繰り返しになっていることに危機感さえ感じたものでした。
それと、扱い便が大阪取り降ろしで行う航空結束は、最短2ヶ月ごとの航空ダイヤ改正の影響で変化したので、誤りのない差し立て(郵袋納入)が求められました。
しなの7号
昭和50年代の国鉄で、荷物~貨物~旅客の乗務をした者にとっては、すべての職場で、仕事面での変化が著しい時期だったという印象です。一般の乗客でも毎年のように運賃改訂が行われたことで、それを感じたことと思います。その都度、関係する冊子類は改訂され、それに似たことが荷物や貨物でもあったということです。すべての面で縮小や廃止を伴っており、それまでの常識を変えていかねばならないことばかりでしたから、国鉄の行く末に対して危機感を強く持つようになりました。
鉄道郵便車保存会 会長
マニュアルの変化に縮小、合理化が見え隠れしたのは、小荷物も郵便も同じだったようです。
あとひとつ、荷42(2032)列車の郵便物扱いで特徴的なのは、奈良県全域は原則は大阪の局渡しで、亀阪便(百済発)に結束する便に限り通常郵便物を引渡すところ、当列車では京都で京王下二号(643D)に結束するため、宇治、木津、奈良~桜井線~高田、香芝(下田駅)はすべて大阪で車中引継した上で京都降ろしとなり、王寺、大和郡山及び加茂以東は亀阪上二号に結束するので大阪降ろしとなるので、奈良県と京都府の一部は誤りのないよう注意が必要でした。なお、上五号で宇治香芝間の車中扱い郵便物はあらかじめ京王便宛郵袋で締め切り、大阪で交替する浜阪乗務員が京都で郵袋を降ろすだけで済むよう措置していました。このため、奈良、木津では亀阪上二号よりも3時間早く到着しました。
神戸以西から奈良県あて小荷物に関しては、大阪から百済にトラック搬送して関西線経由だったと想像します。
しなの7号
自分の乗務範囲が大阪以東だったので、山陽方面から近畿南部への荷物中継方では苦戦したことはありません。
就職時のマニュアル本を見ると、「大阪以西」対「奈良線~木津~奈良~桜井線」が京都中継で、近畿南部のそのほか(奈良と木津を除く関西本線新堂までと紀勢本線新宮までの範囲)が大阪~百済を経由していたように読めます。しかし、その後の昭和54年1月現在のマニュアル本では「大阪以西」から京都中継になる範囲が「奈良線内」だけとなり、「桜井線と関西本線亀山まで(奈良・木津を含みます)」が大阪~百済経由というように変わっていました。
ということで、その昭和54年1月現在のマニュアル本で、ひとつ発見がありました。それは山陽方面から来る上り荷物列車に対する大阪中継範囲に北陸方面が追加されていたということです。以前に荷36列車の大阪連結の新荷11への荷物中継駅の件で「接続駅で中継が行われることが原則」と書きましたが、53.10?から、こういった例外規定が作られ、変更されたようです。大阪以西に乗務することがなく、まったく仕事上関係がなかったのでそういうことには気が付いていませんでした。
(該当記事のコメント欄にも訂正補足のコメントを入れておきます。)
鉄道郵便車保存会 会長
大阪以西から奈良方面への小荷物中継の変化は興味深いです。郵便車で、宇治香芝間を京都経由としたのは荷42(2032)列車だけで、荷36列車は大阪・百済で荷44(4044)列車「亀阪上一号」に結束しましたが、京都では京王下一号にタッチの差で逃げられ結束しないため、桜井線各局も亀阪上一号に引き渡していました。54・1のマニュアルはおそらく53・10改正と思われますが、それ以前、奈良線~桜井線を京都中継としたのは、おそらく奈良線連結のキユニ車が奈良で列車番号を変えても桜井線経由で王寺まで直通するため、積み替えをなるべく少なくするためではないでしょうか。
郵便車の場合、東門上り便から京王便への結束が荷42(2032)列車しかないのは、京王便(1日2便)に京都中央局及び大津以東、北陸、山陰から奈良県方面の郵便物が積まれるため、半室車では積載容量がいっぱいになるのと、大阪中央局・小包局から奈良県各地には亀阪便のほか自動車便が多数設定されていたためと考えられます。
【439】補足コメントの件は了解しました。
しなの7号
少なくとも53.10以前には大阪~百済間の自動車中継が不要な奈良線と桜井線には郵便荷物気動車による直通運用があったことが想像できますね。