先週、先々週の続きになります。
品川乗務員宿泊所で休養した前夜の荷42列車で着いた3人と、未明の荷40列車で着いた3人は、朝8~9時ころにはばらばら起きだして、誘い合うということもなく自然に喫茶店へ揃って出かけモーニングサービスで朝食という行動パターンが一般的でした。3人ずつ別の列車で品川まで来た2組6人は、全員その日の午後、品川駅から荷35列車に乗務して名古屋まで乗務することになっていました。乗務前に乗務員宿泊所がある総合ビル内にある品川車掌区へ出勤することになっていましたが、ぞろぞろ車掌区に行くのではなく、出勤印を専務車掌(荷扱)(通称ニレチといった。)に預けると、ニレチが代表で出勤印を押してくれましたので、私自身が品川車掌区内には入ったことはありませんでした。その出勤時刻が14時39分。喫茶店に行った後は14時ごろまでは自由行動でした。14時からは全員で部屋の掃除をしてから、定められた14時39分より早めに品川車掌区へ「出勤」して、その足でホームへ出場しました。定められた出勤時刻より早く出勤する理由は後述します。
14時までの過ごし方は人それぞれで、乗泊のベッドで寝そべっている人や読書する人、畳敷きの娯楽室でテレビを見る人、囲碁や将棋をする人など。しかし首都圏で日中に自由時間があるこの行路は貴重で、当時は撮り鉄もしていた私は、山手線を使って新宿西口のヨドバシカメラまで行って、フィルムや写真用品の買い物をしたり、秋葉原へ出て電気製品を見たり買ったりもしました。下のラジカセは秋葉原で当時買ったもの(その取扱説明書の写真)です。下は、そのとき入手したカメラ関係のパンフレットです。当時はネット通販はもちろんありませんでしたし、地方にはディスカウント店すらありませんでしたから、地元では絶対手に入らない値段で買い物ができましたし、地元では在庫がない商品も揃っていました。
最初から余談ばかりになりましたが、本題である荷35列車についてお話ししましょう。
荷35列車は、この当時(1976~1978年)は撮り鉄にはたいへん有名な列車でありました。それもそのはずで、汐留~名古屋間で、人気機関車EF58が重連で牽引する非常に珍しい列車なのでした。画像は蒲田駅付近を走る荷35列車です。EF5876(宮)とEF5860(浜)のコンビによる重連です。
荷35列車の所定編成は以下のとおりです。
1975年(昭和50年)3月改正
東海道本線 急荷35列車
運転区間 汐留~熊本
<<編成は品川発時点のもの>>
乗務区間:品川15:24~名古屋21:26
機関車 EF58(宮)+EF58(浜)
マニ 名荷6 (青森~品川~名古屋)
マニ 名荷5 (青森~品川~名古屋)
マニ 名荷4 (青森~品川~名古屋)
マニ 天荷3 (青森~品川~名古屋~百済)
マニ 盛荷4 (盛岡~品川~京都~姫路)
マニ 盛荷5 (盛岡~品川~京都~糸崎)
マニ 北東荷36(隅田川~品川~京都~宮崎)
マニ 北東荷37(隅田川~品川~京都~鹿児島)
オユ 門郵3 (汐 留~東小倉)
スユ南東郵303(汐 留~東小倉)
オユ 門郵5 (汐 留~東小倉)
マニ 南東荷6 (汐留~東小倉~博多)
マニ 熊荷1 (汐 留~熊 本)
ワキ 熊荷204(汐 留~熊 本)
スニ 熊荷203(汐 留~熊 本)
15両に及ぶ長編成です。しかも軽量客車はオユくらいのもので、荷物車マニ主体の重量級客車を連ねた急行荷物列車なのです。画像は昭和53年4月号時刻表(日本交通公社版)から転載加工したものです。
始発駅は汐留ですが、汐留発車時には編成表後寄り7両だけの短編成です。品川で前寄に8両を連結することがお分かりいただけるかと思います。その増結編成は、東北本線の荷物列車から継承された車両を主体とした隅田川始発の荷2935列車で、EF15に牽かれ品川までやってきます。荷42列車で来た3人は先頭の「名荷6」に、荷40列車で来た3人は2両目の「名荷5」に乗務することになっていましたので、いずれも品川で荷2935列車から継承する車両への乗務でした。汐留発の荷35列車本体が品川に到着する15:00より前の14:43品川へ到着するこの荷2935列車の到着時刻に間に合うようにホームに出場して乗車してしまい、品川での連結作業前に作業を開始したいのです。品川車掌区に出勤するのを早めた理由はそこにあったというわけです。
先々週から続けてご覧いただいた方にはお分かりかと思いますが、隅田川~品川間の荷2935列車は、荷40列車~荷2641列車と対になる列車と言えます。画像は新橋~浜松町間にある汐留の荷物ホーム屋根を背景に走行する荷2935列車です。
品川駅では汐留から7両を牽引してきたEF58重連の荷35列車から機関車2両がいったん切り離されて、そこにEF15が牽引してきた荷2935列車の編成をそのまま増結する作業が行われ、その間、私たちは車内で荷物と格闘していたのでした。
積載方はそれぞれ、以下のとおり。
<名荷6マニ>(隅田川まで荷44 品川まで荷2935)
1 藤沢~名古屋間着中継荷物(藤沢~国府津間着中継は小田原中継)
2 横浜着中継荷物(車掌室寄区分積載)
<名荷5マニ>(隅田川まで荷46 品川まで荷2935)
1 藤沢~熱田間着中継荷物(藤沢~国府津間着中継は小田原中継)
(熱田~名古屋間回送扱)
この2両は、いずれも東北本線沿線から集荷した荷物のうち、主に首都圏の先、中京圏までの東海道本線筋着中継の荷物を輸送するという使命があったわけです。以前に東日本の駅名と荷物中継範囲を覚えるのが大変だったことを何回か書いた私ですが、東北地方の乗務員が、横浜中継とか熱田だ名古屋だと言われても、われわれ同様によくわからなかったはずです。その証拠に、なんでこんな荷物が紛れているのだ!ということは、毎回乗務するたびにありました。そういう荷物は誤積荷物として別途指定駅で卸す対応をしました。
荷40列車の記事で書いたことですが、名荷5も名荷6も名古屋客貨車区の運用で青森まで電気暖房区間に運用される2000番台マニ車の限定運用でした。この運用にはよく揺れるマニ60の比率が高く、乗り心地は最悪でした。自動連結器は遊間と呼ばれる連結器どうしの隙間があり、これが前後の衝動の原因となりますが、この荷35列車は、それ以外に上下振動が特別激しいと感じました。これは高速で走る長編成列車だったからだと私は思っています。この列車では、高速になるほど台車の性能に歴然とした差が出ることを実感しました。
先週、往路の荷42列車で、10分停車の藤枝駅で車内の夕食時に使うお湯をもらいに走る仕事があった話をしましたが、この荷35列車は急行でしたから、各駅とも停車時間は短めで、駅にお湯をもらいに走る時間がありませんでした。この列車の場合の給湯は、小田原駅ホームにある駅弁業者さん「東華軒」の売店で、到着前にお湯を満タンにした魔法瓶を用意してもらうことになっていました。名荷5と名荷6、各1本ずつ持っている魔法瓶を小田原駅に着く手前で、片方の魔法瓶の残り湯をもう一つに補充しておき、小田原に着くと荷物の積卸は先輩に任せて、空になった1本の魔法瓶を持って売店まで走り、満タンの魔法瓶と交換してもらうのでした。この魔法瓶は前日の乗務員が置いていったもので、自分が持って行った魔法瓶は翌日の乗務員の手に渡ることになっていました。ここでは、夕食用の駅弁も合わせて買うこともよくあり、こゆるぎ茶めし、小鯵の押し寿司はよく買いました。ここはレチ弁としての契約はなかったので定価でしたが、乗務員には好評な駅弁でした。
2両の荷物車とも、中京圏までの荷物に限定されていましたから、新たに積み込まれる荷物は比較的少なく、卸していく荷物の方が多かったので、品川で早く出場してきちんと着中継駅ごとに荷物を仕分けしてしまうと、走行中の作業は比較的少なく、どちらかといえば仕事の上では楽な列車でした。2両の連続した荷物車に同じ車掌区の3人ずつ6人で受け持つ環境でしたからフレキシブルな仕事ができました。貫通路の幌を勝手につないで両車両間を往来できるようにしておき、そのことによって片方の車両に荷物がたくさん積みこまれたりれば、応援に駆け付ける体制が可能なのでした。名古屋で乗務が終了しましたが、6人中、専務車掌(荷扱)のうちの1人と乗務掛のうち新人の行路の1人だけは翌朝亀山までの乗務がセットになっていたので、車掌区の休養室(…とは名ばかりの大広間)が2泊目の宿になりました。翌日は便乗で亀山まで行って、亀山からは紀伊半島を一周してきた924列車に増結されるマニに乗務するという行路でした。その行路については
【378】思い出の乗務列車23:紀勢本線924列車(後篇)で、すでに紹介いたしましたので、よろしければご覧ください。
<2015年1月19日21:00本文一部修正>









この記事へのコメント
板ばねバス
ややこしそうな仕分け作業、やはりミスも出てくるのですね。私の母が若かかりし頃、田舎から荷物が送られてきたのですが、何やら輸送の手違いがあったようで到着がだいぶ遅れ中身のちまきは腐っていた事があったそうです。半世紀以上前の出来事ですが、今でも時折その話をする事があります。食べ物の恨みは恐ろしいです (笑)
急行 陸中
迫力があった記憶があります。
私の記憶のなかでは、臨時急行ちくま51号が、
ごはち重連だったような、
尾張一宮で後続列車に道を譲るため長時間停車を
見ていたような。
しなの7号
「荷物事故」に規定される事故種別のうち「変質」(腐敗、変質、品傷、臭気感染、蒸損、湿損、かび損、溶解、凍結等のため品質の変化又は低下したもの)に該当すると思われます。私にもこういう失敗例は身に覚えがありますが、そのときの中身はちまきではありませんでしたので、犯人は私ではないはずですよ(^_^;)???
ところで、荷物が届かないということもあったようですし、逆に荷物切符や荷札が外れて迷子になる荷物も多数あったようです。鉄道公報には、迷子の荷物の荷姿や特徴がずらりと掲載されていました。官報で公告される「行旅死亡人」(行き倒れなどで身元不明人)の荷物版ですね。
しなの7号
ちくま51号もEF58重連の時期がありましたか。EF58重連ですと2両で20軸になりますので、通過音はにぎやかでしょうね。乗っているとそこまではわかりませんが。
車長が長い機関車ですし、ゴハチは重連になると他機より存在感がありますね。
ホームライナー多治見
ホームライナー多治見と申します。
いつも楽しくブログ拝見しています。
一つ疑問に思ったのですが名荷5 6の説明はありますが、名荷4の説明も良かったらお願いします。
名荷4 5 6と同じ青森から名古屋まで、一緒にくっついていたので疑問に思いまして・・・
北恵那デ2
しなの7号
ご覧いただきありがとうございます。
最初に訂正をひとつ。
本文内で東北本線内を名荷5,6の両方が一緒に走ってきたような表現をしましたが、これは誤りで荷46と荷44に分かれて隅田川まで来ています。これは本文を訂正しておきます。
私自身、この列車のすべての積載方と車両運用を知っておきたい一人であるわけですが、残念ながら乗務掛は1両単位の仕事だったので、運用や他車の積載方については仕事に必要がなかったので資料を持ち合わせていません。名荷4についてお応えができませんことをお詫びします。
東海道区間では名荷4は無人の締切扱いであったように記憶していますが資料がありません。別の車掌区が乗務していた可能性もあります。積載方も不明です。積載方や荷物車の運用がわかる資料(「旅客荷物輸送取扱方」という局単位の部内向け冊子)があるとありがたいのですが…
しなの7号
換算を計算すると、64.0になると思います。
このころは車掌ではなく乗務掛でしたから、換算両数を把握する必要がありませんでした。そのためこの列車における速度種別や定数は不明です。しかし同時期の東海道本線下りの他の荷物列車でEF58の速度種別が通客C2で定数が55となっている資料があります。そうするとかなり定数オーバーします。普通貨物列車並(75㎞/h)でしたら牽けそうですが、客車急行並(95㎞/h)で飛ばすには無理か?
全部「オ」級の客車なら3.5X現車15=換算52.5になるので計算上単機でOKですね。
熱海で17時過ぎですから、写真撮影は西の方では難しい列車でした。
NAO
EF58重連が定期運用だったのですか。車輪の数が20も有るって、まだ見たことはありませんが特大貨物みたいですね。このEL、重連総括制御は出来たのでしょうか。
家電量販店は私の住む街では近年になって出来たのですが、それまではCMもありませんでしたから、首都圏に出張に行ってカメラの付く屋号を見たとき、「何屋さん?」というような感じでした。
小田原の小鯵の押し寿司は父親が買ってきて食べたことがあります。家で食べても確かに美味しかったですねえ。掛け紙を見ると300円ですか。当時の金額でも廉価な方だったのではないでしょうか。
亀山の弁当箱回送といい、小田原のポット交換といい、乗務員皆さんの分の「炊事」も大変ですね。
しなの7号
EF58重連の定期運用というのは、あまり聞かない例ですね。この機関車は重連総括制御などできません。2両の機関車から、発車時や力行運転をやめる時には汽笛合図で連携をとって運転していました。
小鯵の押し寿司は、たしかに安い駅弁でした。古い時刻表を見ると、
1974年3月号では250円
アップした掛け紙は1976年で300円
1978年4月号では400円
着実に値上げされていた時代でした。
炊事そのものはいちばん不得意分野なので、雑用のほうがいいです(^◇^)
なはっ子
c-view
しなの7号
そのミカン箱、骨董品ですね。あのころに比べると近年のミカン箱はずいぶん小さくなりました。車内で箱が潰れて破れ、ミカンがコロンコロンと出てしまったこともありました。大きさが同じだと、車内の積み付けの際、振動で崩れにくかったです。
しなの7号
新人は仕事もまともにできないですし、せめて役に立てるのはお湯汲みくらいですね。東海道本線では停車駅が限られ、停車時間も限られますから必死!
長距離列車ですから、万一の抑止時にも備える必要もあります。
門ハイ
荷35レ、駆け出し鉄の頃に、鉄道雑誌が競って取り上げた思い出深い列車です。1度だけ、品川で貴記事にあるような作業を見る&撮る を行いました。荷35レの現場の記事を味わわせていただきました。
しなの7号
荷35を撮影できたのは、本文掲載の1枚だけでした。入れ違いのように汐留に着く荷36で乗務が終わってから、大急ぎで京浜東北線の電車で追いかけ、品川停車中に追い越して蒲田で撮りました。乗務中は品川停車中がいちばん忙しいときなので余裕がありませんでした。走行中一服して車窓を眺めたとき、撮影者の方を見かけることがありました。
ヒデヨシ
荷物列車について質問なのですが
東海道本線上りの荷38列車だと思うのですが
最後尾にワサフ8000が連結されていて、よく勤務していたホーム運転事務室前にその車輛が停車し興味を持っていました。
籍は貨車なので扱い品目も違うだろうと思いますが乗務などされたことがありますか?
それともニレチさんとは関係がない?
乗務員がいたような記憶はありませんが気になりましたので。
しなの7号
ワサフ8000とワキ8000は荷貨共用を目的とした車両でしたが、実態は荷物車として使用されていました。パレットごと荷物を輸送していましたので、決められた大駅で駅員が開封・封印を繰り返しながらの無人輸送でした。基本的に急送品は積載しませんでした。荷物車としての運用では軽量換算を適用して、車票サシには大きく「荷」の1文字だけの車票が挿されている車両もありました。全部締切の列車ですと、ワサフには運転車掌が乗務するケースはあったかもしれません。もともと、特殊な荷物以外は荷物輸送の無人化をはかるつもりがあって製造されたのではないでしょうか。
Carlos
亡き父が南鉄局汐留車掌支区別の乗務員でした。当時、小学生だった私は父が乗務する荷35レをよく見に出掛けておりました。
茅ヶ崎に住んでおりましたので、荷35レが東洋陶器(現TOTO)近くの踏切を通過するのは16:18頃でした。踏切警報器が鳴り、松林のブラインドの左カーブ手前で鳴らされるEF58のホイッスルに痺れたのが懐かしいです。
夏場はランニングシャツ姿で乗務する父が私に手を振ってくれました。
ある日、手を振る小学生の私に、マニに乗務していた父が何かを投げました。列車通過後探しに行くと新聞紙の塊。開けて中を見ると明治のミルクチョコレートでした。
そんな小学生も父が亡くなった年齢と同じ55歳になりました。
夢はHOで荷35レを揃えることです。
しなの7号
心温まるコメント投稿ありがとうございました。
私はCarlos様のお父様と同じ荷35列車で、同時に前後に乗務していたこともあったのかもしれませんね。私も父が国鉄の乗務員、そして自分も乗務員。拝読して、新聞紙の塊を投げる御父上とCarlos様の様子が映像のように脳裏をよぎるのはもちろんのこと、御父上が出勤する列車から新橋駅で下車し、その日の夜にマニの車内で食べる食糧調達のために高架下の京急ストアに立寄って、明治のミルクチョコレートも一緒に買って…というストーリーまで想像できてしまいました。
茅ヶ崎あたりでは、横浜から積まれた荷物も片付いて、ちょうど一息といったころだったのではないかと思います。
荷35編成の模型での再現ができましたら、ランニングシャツ姿で大扉の落とし窓を全開にして新聞紙の塊を手にした乗務員人形、よろしければ機関車直後の車両にも20歳前の若かった昭和の鉄道員人形も乗せてください(^^)/
P.S.
汚い話で恐縮ですが、私が父から教わった新聞紙の塊の中身は、クサイチョコレート!でした(‘ω’)
【273】緩急車とトイレ(前篇)
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201205article_2.html
鉄道郵便車保存会 会長
こんどはこちらで書かせていただきます。
EF58重連であるのを鉄道雑誌で知り、夕方にはまだ早い大森付近で撮ったことがあります。大阪以西の郵便車乗務で見ることがない重連に大変感動したものです。その後も、東京発ブルトレが続々と西下していく各列車を撮りながら、至福の時間を過ごしたものです。この頃は、荷物列車もブルトレも未来永劫有り続けるものと思っていました。
しなの7号
このページにある荷35列車の画像は、荷36列車の乗務で汐留へ行ったときに撮影したものです。
荷36列車の汐留着時刻は14時43分で、これは汐留の荷物ホームに着く時刻ではなく浜松町駅に近い汐留駅の到着線に着く時刻でした。ここでEF58が切り離され、反対側(神戸方)にDD13が連結されました。このあとDD13に押されて編成は荷物ホームまで押し込まれていきました。その間に、汐留の荷物ホームから重連の荷35列車がすぐ隣の線路を通過していってしまいました。荷36列車が荷物ホームに到着して汐留車掌支区に着くのが15時頃でしたから、大急ぎで新橋駅まで行って京浜東北線南行列車に乗ると、品川駅で併結作業中の荷35列車(品川発15時24分)を追い越して、その先の駅のホームからであれば、かろうじて荷35列車の撮影が可能でした。
ネガを見ると、このあと汐留に戻り車掌支区があるビルの屋上から九州ブルトレを撮影しています。ちょうどEF65P形がPF形に置き換えられつつある時期で、この日は富士だけがP形でした。
鉄道郵便車保存会 会長
なるほど、汐留、品川構内の荷35列車と荷36列車の慌ただしい動きがうかがえます。
ブルトレ撮影が車掌区ビル屋上からというのもいい眺めではなかったでしょうか。
私が荷35列車と撮ったブルトレはP形の時代で、関西九州間はEF58かPF形の牽引でしたから、P形はむしろ新鮮に感じました。東京発もいつかPF形になるのかな?いっそEF66が牽いてくれないかな…などと思っていると、本当にそうなりました。
しなの7号
汐留駅の作業ダイヤに合わせた荷物列車の実態が垣間見えます。
上の荷2935列車の画像は、車掌支区が入ったビルの屋上から撮影したものです。今気が付きましたが、その画像の左端に写りこんでいる緑色の物体は、荷物輸送用のトラック荷台後部です。
ブルトレとは田舎の子にとっては現実に見ることはない絵本の中の列車でした。そのころはEF58特急色。初めて見たのはEF65P形。客車が20系だった期間までが個人的に特別の思いがあります。それでもEF66がブルトレを牽いてくれないかなとは思ったのもまた事実で、このころにはそれが現実になるとは思っていませんでしたね。
鉄道郵便車保存会 会長
幌付き緑色荷物トラックの後ろがチラッと見えます。関西では茶色車体しか見たことがなかったです。
さて、荷35列車の編成を拝見しますと、53・10までは郵便車が扱い車・護送車・パレット車の3両になっていますが、53・10以降は扱い車の連結をやめて護送車(東門下三護送)とパレット車(東門下一パレット締切)の2両となりました。それまで深夜大阪始発だった荷2031列車(扱い便「阪門下り」)が廃止されたため、扱い車の運用を変更したためと思われます。
しなの7号
幌付き緑色荷物トラックは、トミーテックのトラックコレクションで「日野旧型レンジャー 国鉄貨物自動車」として一昔前に製品化されていますね。自分が乗務していたころにはいすゞの古いボンネットタイプもこの場所に停めてありましたが、そういうものは撮影していません。
53.10より前から郵便車が2両だけだったら、EF58重連の必要性はあったのか?。
この記事のコメント欄(北恵那デ2様への返信)で書いていますが、EF58の速度種別が通客C2で定数55(手持ちの資料による荷36列車と荷41列車の汐留~大阪間の数値)であったとするならば、減算すべきオユ1両の換算3.5を差し引いても換算60超えとなり、EF58の単機けん引とするにはもう2車程度減車しなければ不可能と思われます。
鉄道郵便車保存会 会長
編成の重さと重連の必要性は興味深く読んでおります。2列車ぶんを併結したような荷35列車ですからオユ扱い車が1両減ったところで、重連に変わりなしといったところですね。
53・10以後になりますが、この列車の護送郵便車結束表(大阪糸崎間)をホームページで公開しています。
東門下三護送
http://oyu10.web.fc2.com/kessoku-toumoshita3gosou.jpg
時刻表でも大阪岡山間は見事にノンストップで、神戸、姫路着荷物は積載を抑制したか、あるいは大阪中継(後続列車積み替え)となっていたかもしれません。郵便は浜松大阪間の結束がわからないのですが、おそらく神戸相生間は大阪鉄郵へ引渡し、後続の荷37列車(東門下三+下四護送)に積み替えたと思われます。岡山が早朝なので、鳥岡上一(津山線)、岡米下一(伯備線)に結束していますが、四国方面は高松発各線の一号便に間に合わないので、岡山引渡しとしています。
しなの7号
53・10以後の時刻表上の停車駅と東門下三護送結束表とを突合すると、倉敷と糸崎は郵便停車のようですね。
53・10以後の荷35列車は大阪~岡山間ノンストップですが、それ以前の時刻表を見ると姫路には停車したものの、通過区間着発荷物中継駅になっていた神戸・明石を通過していたようです。接続便も荷主への引渡もない深夜に停車したところで人件費だけがかかりますので、後続列車で荷扱をしたものと想像しますが、汐留~東海道区間発の該当区間着中継荷物は予め後続の列車に積載することとして、荷35列車の各荷物車の積載方から通過区間にかかる着中継荷物は除いてあったのではないでしょうか。では後続列車がない隅田川始発の8両のうち名古屋落としを除いた4両(盛荷4~北東荷37)に積まれた該当区間着中継荷物はどうするのかということですが、実は4両とも京都で切り離されて後続列車に継承されています。(京都以西の継承列車は不明です。)本文に記した50.3時点での編成各車の発着駅の間に、「京都」と書いてあるのはそのためです。東海道山陽区間の荷物列車では必ず非有効時間帯にかかる区間が出ますので、うまく複数の列車間で調整していたとも言えるのではないでしょうか。
鉄道郵便車保存会 会長
東門下三護送ですが、岡山以西はすべての受渡駅に停まり、53・10では笠岡の受渡廃止で倉敷中継に、糸崎広島便(呉線電車)廃止で福山又は糸崎中継になったことが反映されています。倉敷、糸崎が郵便停車とのことですが、倉敷局は郵便輸送では岡山県西半分の拠点であること、糸崎は乗務員交替と糸崎分局中継があることで重要でしたから郵便停車だったのに驚くところです。53・10まで呉線にクモユニを連結していたので、小荷物は糸崎で駅扱いと呉線中継をしていたのかもしれませんね。
沿線駅は荷35列車に兵庫県宛小荷物を積まないで後続の荷37列車などに積載するという積載方があったと想像でき、盛荷4など隅田川始発車両には必然的に兵庫県着荷物もありますが、京都で後続列車に連結替えなど、両数が多い荷物車ならではで、郵便車では考えられない運用です。
郵便車でも、沿線局に荷35列車(東門下三護送)は兵庫県宛郵袋を除くという積載指示は出せますが、局の執務時間帯により、深夜の受渡が不可能又は不経済という理由で荷37列車に積めない局は荷35列車に兵庫県宛も積み込み、大阪で荷37列車に積み替えという措置は回避できないところでした。
東海道山陽本線では等間隔とは言えないまでも、荷物列車が続行していると、列車ごとにどこかで深夜区間があるので、小荷物、郵便物共に扱ってもメリットがない駅は通過又は受渡なしとしながら、前後の列車と中継、積み替えをして効率的な輸送がされていたものと思われ、停車駅にも反映されているようです。
しなの7号
糸崎に関してですが、昭和54年1月現在のマニュアル本によれば、通過区間着発荷物中継駅から除外されていますので、53.10で糸崎駅は中間駅に格下げとなったと考えられます。50.3時点では呉線への中継駅は三原でなく糸崎が指定され、すべての荷物列車は糸崎停車として市販の時刻表に掲載されています。昭和54年1月現在のマニュアル本からは糸崎駅の通過区間着発荷物中継及び呉線中継駅としての機能は広島に統合されたように読み取れますので、呉線あての荷物は広島から代行便で輸送される方式に変更されたものと思われます。
ところで本文に掲載した50.3当時の編成のうち、盛荷5マニが京都で後続列車に継承されたうえで糸崎まで運用されていたことになっています。この運用は53.10で荷35列車の京都以東区間が事実上2列車に分離された片割れの荷2033列車で盛荷1と運用番が変更されながらも存続しており、京都から荷39列車に継承されて糸崎まで運用されていたことは乗務したときの資料で明らかになっています。その荷39列車は市販の時刻表上では糸崎が通過とされていますが、尾道(15:19発)・三原(15:45着)間、距離にして10㎞強の運転時間がかなり長いことから、途中の糸崎で郵便停車のほかにも、荷39列車ではおそらく回送状態だったであろう車両の解放作業もしていた可能性が浮かんできます。また50.3時点の荷35列車のうち隅田川始発の車両についても、京都からの継承列車は荷39列車であった可能性が高いように考えますが、手持ちの資料では特定ができかねます。
鉄道郵便車保存会 会長
53・10で糸崎駅が荷物中継駅でなくなったのは、呉線列車のクモユニ廃止も一因と考えています。53・10以前の鉄道郵便線路図を参照していただけると呉線の受渡局が明記されており、小荷物もほぼ同じ駅で積み降ろしがあったのではないでしょうか。
鉄道郵便線路図(広島管内)
http://oyu10.web.fc2.com/rosenzu-hiroshima.jpg
三原駅は旅客駅で、小荷物を中継できる設備やスペースがあったとは考えにくく、やはり糸崎駅の方が規模が大きく、荷物列車の発着、積み降ろしには適していたと思われます。郵便線路図で分岐するところに「糸崎分局・三原」と書かれているのは三原駅ではなく糸崎駅で、三原局は糸崎駅で糸崎分局と共に受渡に参加していたという意味で、三原駅は53・10以降も一部荷物列車は停車していますが、郵便受渡はだいぶ昔にやめて糸崎駅に変更したようです。
呉線各駅着発荷物が広島駅中継となったのは理解できます。郵便物は郵便番号上2桁の区域分けで中継局が別れ、53・10の糸広便廃止後は、幸崎~川尻間は糸崎分局又は福山局、呉局は広島中央局経由となったはずです。
荷35列車編成中の京都解放車両が気になっていましたが、姫路や糸崎解放というのには、そこで折り返すだけの需要があったはずで、「盛荷5」では呉線中継荷物の輸送という使命があったと思われます。
しなの7号
昨日のコメントで「53.10で糸崎駅は中間駅に格下げとなったと考えられます。」と推測で書きましたが、新たに53.10ダイヤ改正の制度改正資料に、「糸崎中継廃止」の文言が確認できましたので、間違いではなかったことが確認できました。
53.10で呉線のクモユニ運用が廃止されたとすれば、まさに全国的に開始されたロット輸送に移行した結果です。また糸崎駅の歴史から言って、それまでも三原でなく糸崎が拠点駅として郵便・荷物の中継作業を行っていたことにも不自然さは感じません。53.10あたりは山陽新幹線博多開業後で、一気に糸崎駅が凋落していく時期となったのでしょう。
昭和52年10月現在及び昭和54年11月現在の荷物事務用鉄道線路図を比較対照しましたところ、53.10前後で呉線内の荷物取扱駅に変化はなく、須波・大乗・風早・安登・川原石・天応・小屋浦を除く各駅で荷物取扱をしていたことになっています。53.10の輸送方法の変更に伴って手小荷物の取扱いを便乗的に廃止したりはしていないようですし、意外に多くの駅で荷物を扱っていた印象を持ちます。
50.3当時の盛荷5の積載方はわかりませんが、市販の時刻表によれば、荷39列車は呉線経由で、三原、竹原、安芸津、呉に停車しています。
53.10改正後の荷39列車は、市販の時刻表によれば呉線内では安芸津が通過に変わっています。改正後の盛荷1は、資料をたどっていくと車両そのものは従前の盛荷5同様に糸崎まで運用されていたのに、「糸崎中継廃止」によって、車内扱は岡山までで、岡山~福山間締切、福山~糸崎間回送となっていたことが読み取れました。
鉄道郵便車保存会 会長
ご説明で呉線荷物扱いの推移がわかります。
郵政側として「糸崎駅凋落」を感じたのはずっと後で、59・2で扱い便廃止となったとき、糸崎分局受渡も廃止され、郵袋の中継、速達小包の分配という機能は福山局に移管されましたが、乗務員交替は61・10の廃止まで糸崎駅であったため、郵便車連結の荷物列車はすべて糸崎駅に停めてもらっており、郵便停車どころか鉄郵乗務員交替停車だったわけですね。
今回も大いに勉強しました。次回は【596】でコメントさせていただきます。
しなの7号
糸崎駅は現業機関の拠点でありましたので、国鉄側も乗務員交代など営業面以外の面で機能していたと言えましょうか。荷39列車の解放作業が53.10以降まで継続していたのも、駅の留置設備や構内要員があったからだったのでしょう。自分は53.10改正後半年で荷扱業務から離れたので、その後の流れはわかりませんが、横浜羽沢開業54.10時点でも盛岡局車両による糸崎運用(積載は福山まで)は継続されていたようです。しかしJtrain掲載の60.3の荷物車編成表を見ますと糸崎折返し運用は1本もなく、東北本線からの直通運用は岐阜までに短縮されていました。