「オタケ」と言われても大半の方は何のことかお分かりにならないと思います。
「オタケ」とは国鉄内部で、「武豊線」を指す俗称です。「武豊駅」を指す場合もあります。最初は車掌区内の俗語かと思っていましたが、運転士や駅の職員でも通じる共通俗語なのでした。「タ」にアクセントがあります。
「車掌さん、オタケが5分遅れとるで接続取るでね」
「昨日オタケの一番(列車)乗ったら冷房故障で、往生したわ」
「この前オタケの乗泊で、○○さんといっしょになってイビキで寝れなんだわ」
こんな感じで日常的に使いました。いつごろからこういう呼び名が生まれたのかは知りませんが、かなり昔から伝わっているようでした。
その昔、キネマ旬報社から出版されていた「蒸気機関車」という雑誌に連載されていた短編「動輪の響き」(もと機関士で中部鉄道学園講師の長谷川宗雄氏の著作)にも、「オタケ」は出てきます。私は、その連載をまとめて出版された本を持っていますが、これは絶版になって久しく、なんとか再版をお願いしたい一冊です。
そのなかの「早出とM君」という章の中に「オタケ」が出てきますので、その部分を引用させていただきます。
「うん、今朝はなァ、オタケだ(武豊線のことで、SLはC11)。大府の駅のホームに好きな娘がいてな、手を上げるとニコッと笑うんだ」
と、あります。
読んでいくと、このM君と著者との会話の内容から、2人が稲沢機関区の機関助士時代のできごとであることがわかり、巻末の著者略歴から判断すると、それが昭和15~18年であろうことが推定できます。このように、戦前の蒸機時代には、すでに「オタケ」という言葉が国鉄のなかで普通に使用されていたようです。そしてそれは現在でも使用されていると聞きます。
このオタケ、実は歴史ある鉄道なのです。愛知の鉄道は、東京 ・大阪間の鉄道を中山道経由で建設するための資材を、武豊港から陸揚げし運搬する目的で敷設されたので、この武豊から名古屋を経て木曽川までの区間が最も早く開通しました。ウィキペディアより引用しますと、この区間の開通時期はおもしろく、1886年(明治19年)3月1日に武豊~熱田間が開業したのを皮切りに、1か月ごとに清洲、一ノ宮(現尾張一宮)、木曽川までが順次開業しています。開業後に東京 ・大阪間の主要幹線鉄道ルートが、中山道経由から現在の東海道経由に変更されたことで、大府~木曽川間がのちの東海道本線に編入され、建設時の起点であった武豊と、東海道本線の東京方面とつながった大府との間が支線になったという経歴を持ちます。
この名残で武豊線の末端駅である武豊発の列車は、東海道本線接続駅である大府に向かう列車に付される列車番号に今でも「奇数番号」が用いられています。(交通新聞社刊の中部編時刻表の平成26年3月15日改正版武豊線ページを引用)
このような長い歴史を持ちながら、オタケは愛知県内のJR東海直営旅客路線で唯一非電化路線となって取り残されていました。国鉄時代から電化の構想はあったものの、来る3月1日にやっと電化開業の運びとなったのでした。
JR東海管内での電化開業は、1982年の関西本線亀山電化以来とのことです。
春の全国ダイヤ改正は3月14日で、このところテレビでも北陸新幹線開業関連についてはよく報道されているのですが、オタケの電化開業はその約2週間前の3月1日。これは1886年3月1日の武豊~熱田間開業日に合わせることに加え、ここで不要になる武豊線の気動車を配転先で使用するために必要となる仕様変更等を全国ダイヤ改正の3月14日までの期間に行う必要性から決まったことらしいです。
その中京地区での鉄道発祥の地に歴史に残る日が来ようとしています。連日電車の試運転も行われていることでしょう。
そういえば、武豊線では国鉄末期に「愛知の鉄道100年」を記念して、梅小路機関区に保存されていたC56形蒸気機関車を借り入れて記念列車が運転されたことがありました。これは以前に【354】 C56 160「1世紀号」 ~27年前に名古屋で走ったSL~で紹介したことがあります。それからでも29年が経とうとしています。
私が知らない蒸気機関車時代の武豊線は、前述の「動輪の響き」のほかに、元機関士の川端新二氏による2冊の著作でも語られています。こちらは、現段階で入手可能なようですので、下にご紹介させていただきます。(武豊線についての内容は、川端氏による両著書では被ります。)
来週以降も毎月曜日には、武豊線関連のことを何回かにわたって書いていきたいと思います。





この記事へのコメント
NAO
大府の「オ」と、武豊の「タケ」の組合せでもないのでしょうか?そういえばJR東海のエリアで行き止まり枝線はここと名松線、「美濃赤坂線」ぐらいですね。
子供のとき、早く寝ろと叱られながら視た、金曜10時!うわさのチャンネル!!のコーナーにあった、三日月刑事正義の雄叫びというコーナーを思い出しました。
来月のダイヤ改正は久々の全国規模ですね。時刻表の新幹線部分は見どころ満載かもしれませんが、在来線を見て寂しい気持ちにならないか一寸心配です。
しなの7号
オタケの語源は知らないのですが、おっしゃるようなことかもしれません。ローカル区間になってしまった「大府~武豊」を「オ=タケ」として区別する必要から広まったとかいう理由で…?
分割民営化前後に枝線で「国鉄~JR」から切り離された線区は多いですね。行き止まりの終着駅というのは、乗り鉄時にはすぐ折り返してしまいがちですが、街歩きをするよう心がけています。酒屋とか街並とか、見どころは多いです。
北陸新幹線に乗車する予定は今のところ具体化していませんが、さみしい内容になることはわかっていても並行在来線のほうが気になるので、時刻表は買うつもりです。わくわくしてダイヤ改正号の時刻表のページをめくれる内容だったは昭和40年代のことであって、それは私が国鉄に入る前まででした。
テレビっ子ではなかった(今もそう)ので、雄叫びのコーナーは知らずに来てしまいました(~_~;)
なはっ子
蒸機の機関士と助手のやりとりを映画化したものに、「喜劇各駅停車」というのがあり、大好きな作品なのですが、最近テレビで放映されず寂しい思いをしております。
しなの7号
ザワ線ですか。フルーツライン左沢線とかいう愛称が付けられていたと思いますが、観光目的で作られた愛称より自然発生的で言い回しが楽なザワ線の方が親しみやすい感じがしますね。
「喜劇各駅停車」は見たことがありません。テレビっ子でないので、番組情報チェックをしていませんが、鉄分含有番組はテレビっ子の家内がチェックの上で録画してくれることにはなっているのですが(^○^)
北恵那デ2
しなの7号
ご承知かと思いますが、私はメカニック関連の書物はあまり読んでいないです。理系ではないので…
ウチの義父は旅行好きで、よく鉄道がらみの旅行談義もしたものですが、認知症の末に3年前に亡くなっていますから、身内で旅行や鉄道談義ができなくなって久しいです。「イッセキ」というのは聞いたことがありません。うちの父親なら知っているかもしれませんが、こちらも故人なので聞くこともできません。
部内の用語と、鉄道ファンの用語に違いがある例は、私も身に覚えがあります。
「青大将」と言えば…鉄道ファンなら薄グリーン色の「つばめ」「はと」を思い浮かべると思いますが、名古屋鉄道管理局管内の東海道沿線では、新幹線時代になった昭和50年代には「九州ブルトレ」を指していました。
東海道上り列車乗務中に、駅から運転通告券を交付され、
「車掌さん、岡崎1番に変更な。青大将遅れとるで」
と言われれば、
「車掌さん、岡崎の着発線は上り1番線に変更になったよ。ブルトレが遅れているから(待避だよ)」
ということになります。
鉄子おばさん
しなの7号
武豊線電化の話は、名古屋近郊ですと高山線~太多線ルート(岐阜~美濃太田~多治見)とともに国鉄時代からありました。実現までずいぶん長い年月がかかっていますね。
上り下りの区別は私にも正直なところよくわかりませんが、列車番号が逆の例ですと、大阪発の「ひだ25号」「しなの9号」は東海道本線上り方面(岐阜・名古屋方面)へ運転される列車なのに東海道本線内の列車番号はどちらも奇数(2025D・2009M)ですね。これに対して岡山発の「スーパーいなば」では岡山~上郡間だけ列車番号を偶数にしています。
ヒデヨシ
その刊行本は知りませんが
「蒸気機関車」を古書店で買った中で
著者とM君の話を読んだことがあります。
中央西線や東名港線などが出てきて興味津々でした。
まとめられているとは知りませんでした。
表題のオタケ、国鉄入社後刈谷駅に配属と言うことで接続の関係で何人もの助役、隣駅の大府駅の関係者から頻繁にオタケが出てきました。
なので部内の共用語であるらしいのは直ぐ判りました。
自分が思うに路線を擬人化して「お武」と言ったと想像しています。
語呂も良いですし
発生が相当古いので大府~武豊からオタケとした場合武豊以南に武豊港があったりしてちと苦しい気がします。
しなの7号
「動輪の響き」は昭和40年代の投稿写真雑誌であった「蒸気機関車」誌の中の読み物として連載されたものを、筆者長谷川氏が国鉄で中部鉄道学園を最後に退職された昭和53年にまとめて発刊されたものでした。筆者は高山と稲沢で機関車乗務員を経験されていて、話の舞台は中部地方の各線に及びます。私がこの本を買ったのが発刊翌年の昭和54年、列車掛の試験に合格し、中部鉄道学園に入学する直前でしたので、長谷川氏の退職後でした。それでも巻頭ページの写真を撮影された中のお一人が勤務しておられ、その方が私どもの担任講師で、貨車のブレーキ装置などメカの講義を受けました。
オタケはおっしゃるように語呂もいいですね。先日「半田市鉄道資料館」へ行く機会があり、館長さんにお伺いしましたが、もちろん「オタケ」という言葉そのものはご存知でしたが、語源などはわからないとのことでした。
急行 陸中
武豊線開通、尾張に住んでいると
いつしか覚えてしまう歴史です。
東海道本線よりも古い、確か半田駅にも歴史建造物があったような。
北陸新幹線開通ですか、わたしとしてはまたひとつ
鉄分薄くなるできごとです。
平行在来線の3セク化これがたぶん鉄を減らしていく一要因の気がします。
新幹線ができ対東京は便利になっても、隣の県に行くのが
不便になる・・・・。
今の鉄道、旅じゃなくビジネスのための物になっているような。
「DISCOVER JAPAN」いい時代でした。
しなの7号
武豊線は、国鉄在職中には岐阜県人だった私には、乗務する直前までは乗ったこともない枝線でした。歴史的建造物の存在にもちっとも気づかずに乗っていたというのが実態です(^_^;)
北陸新幹線の開通による経済効果は相当なものと思います。効率的で便利になれば、その結果として旅としての楽しみは反比例するように減っていきますが、国鉄分割民営化路線に沿って民間企業として効率的な経営をするよう、国民が望んだ結果でもありますね(-_-;)
北恵那デ2
しなの7号
メカニック面のフォローはよろしくお願いします(*^^)v
技術屋的な仕事をした経験は、列車掛で貨物列車に乗務していた1年半足らずしかありません。それも怪しいもんです。
「青大将」の言葉だけが「特別な列車」という意味で「つばめ・はと」時代以降も現場に残ったのかと自分では考えています。
先日半田市鉄道資料館に保存されているC11265を見てきました。圧縮空気による汽笛の音も聞けました。館内には昭和61年にC56が走った時のヘッドマークが保存展示されていて、懐かしく拝見しました。
アルバイト生
以前の記事に失礼します。
9月2日まで開催中の豊橋市中央図書館での展示に関連して、川端新二さんの証言が取り上げられています。
豊橋空襲から間一髪逃れることができたのは、駅長の指示によって早発したからとのこと。
詳しくは以下のニュースをご覧ください。
http://www.nhk.or.jp/nagoya/websp/20180814_toyohashi/
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/railnews/list/CK2018062602000264.html
http://www.higashiaichi.co.jp/news/detail/3125
NHKのウェブサイトに掲載された特集を読み、川端新二さんを検索して、こちらのブログ記事を思い出した次第です。
掲載や放映から少し時間が過ぎてしまっていますので、ご存知でしたら恐縮です。
オタケ、国鉄OBの方が使ってみえたのを覚えています。
アルバイトでお世話になったのですが、残念ながら私の周りにオタケは伝わらなかったようです。
この記事を読むとその方を思い出すことができ、ありがたいことだと感じます。
しなの7号
情報のご提供ありがとうございました。
たまたまNHKの番組を拝見いたしました。川端さんご自身が、あの戦時下において、あえて早発したことで多くの命が救われたことは、後世に伝えなければならないことと言っておられましたね。
マニュアルに縛られた今の判断は果たしてどういう結果になるのか?
そんなことを思いながら拝見しました。拙ブログを思い出していただき感謝します。ありがとうございました。
オタケは新人車掌時代の思い出の線です。電化路線になって当時の面影は薄れつつありますが、忘れることはありません。
たまちゃん
しなの7号
この記事本文の下に川端新二著「ある機関車の回想」のアフィリエイト広告がありますが、その本の73ページに「…C11は武豊線に残り、貨物列車の牽引に昭和45(1970)年夏まで健闘した。」とあります。
また、それとは別に誠文堂新光社刊「'67国鉄新車ガイドブック」巻末の機関車配置・運転区間表によれば、名古屋機関区のC11の運転区間が「稲沢操~武豊間」、用途は「貨物列車」とされています。
以上のことから、武豊線用のC11が、旅客列車の気動車化後も貨物列車用として大府駅の入換作業にも従事していたと考えられます。