【561】 武豊線、朝の「のりくら編成」の移り変わりを探る(1)

私が乗務していた国鉄時代終盤の武豊線には、朝2往復と夕方1往復、急行間合運用の普通列車が運転されていました。このうち定期列車のなかで最も長かったのが、朝の名古屋発武豊行2番列車922D~折り返し名古屋行通勤列車927Dでした。(1985年3月まで9両編成)
この927Dは名古屋到着後に高山本線経由の富山行「急行のりくら1号」に変身しました。
(画像は国鉄時代の高山本線「急行のりくら」)
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少なくとも私が乗務していた期間(1981~1986年)には、927Dが名古屋駅到着後に701D「急行のりくら1号」に変わる十数分の間の停車中に乗客を締め出すことはなく、事実上の直通列車でしたが、時刻表上は一貫して直通列車との表示がされることはありませんでした。ですから、以前の拙ブログ記事【557】サボ交換時のドア扱いでご覧いただいたように、名古屋駅ではホーム反対側のドアも全開し、作業員が車両側面の行先札・種別札・愛称札の交換作業をしていたのでした。
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グリーン車が連結された9両もの長い急行編成だったこの列車は、地元の通勤客にはよく知られていました。武豊線内ではホーム長さが短いので、線内全駅で2~3両半がホームにかからないという特別な列車でもありました。特に武豊から折り返す927Dは、武豊を7時過ぎに発車し名古屋着が8時過ぎという時間帯からしてお分かりのように、平日には非常に混雑する列車であるにもかかわらず急行用の2ドア車両ということもあって、なにかと問題だらけの列車でした。この問題点については機会を改めて書くとして、この列車は、私が車掌をしていた当時に車掌長をされていた大先輩の方々も皆乗務経験があり、「ああ、オタケの長大編成か」と、すぐわかるくらい歴史がある列車でした。いつごろから朝の武豊線の「のりくら1号」の前運用があったのか。とりあえず、手許に用意できるJTB発行の戦後復刻版時刻表なども動員して、調べられる範囲で推定してみました。

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前年に日本国有鉄道が発足し、東海道本線では特急つばめ、はとが活躍を始めたという時代背景である昭和25年の時刻表を見ますと、武豊線に気動車列車はまだなく、客車列車はすべて機関車牽引になっています。しかし武豊発列車の行先は名古屋のほか、垂井行や関ヶ原行という列車も見られ、大多数の列車が東海道本線に直通しており、線内折り返しの大府着発列車は1往復だけになっています。
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(日本交通公社 時刻表 昭和25年10月号復刻版からの引用画像)
この時刻表で、「1980年代の国鉄末期に私が乗務していたころの927D」(以下、「国鉄末期の927D」と記述します。)に相当しそうな列車は、時刻的に見て武豊6:55~名古屋8:10の923レです。朝の名古屋までの直通列車が、ほぼ同じ時間帯に運転されていたことがわかります。
一方でこのころの高山本線には、名古屋から直通する列車の設定は1本もなく、名古屋から高山本線方面へ行く場合は必ず岐阜で乗り換えるダイヤになっていますので、この武豊線923レと高山本線との関連は認められません。

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東海道本線は昭和28年には稲沢まで電化され、その3年後の昭和31年11月に米原・京都間が電化された時点で、東京~神戸間全区間が電化完成となります。
その昭和31年11月号時刻表(武豊線:昭和31年5月28日訂補ダイヤ 高山本線:昭和31年9月1日訂補ダイヤ)を見ますと、武豊線は大府折り返しの気動車列車主体のダイヤに変わっています。画像にはありませんが、時刻表の欄外に「915、939、912、934レを除き気動車」との注記があり、朝夕の各1往復だけが名古屋直通の機関車牽引客車列車のまま残っています。(
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(日本交通公社 時刻表 昭和31年11月号復刻版からの引用画像)
このとき、時刻的に見て、「国鉄末期の927D」に相当しそうなのは武豊7:00~名古屋8:13の915レで、これが気動車でなく朝の機関車牽引客車列車に該当します。
高山本線では、名古屋から直通する2.3等の客車「準急ひだ」が土曜日の午後に設定されるようになっており、そのほかにも東海道本線の門司行きに名古屋~岐阜間併結というかたちで直通する夜行の富山行列車も運転されていますが、時刻的に見てこれら2本の直通列車と武豊線915レとの関連は認められません。

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昭和33年11月号時刻表(昭和33年10月1日訂補ダイヤ)をみると、武豊線の全列車が気動車列車になっています。画像はこれまでと反対の武豊方面行のページです。
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(日本交通公社 時刻表 昭和33年11月号復刻版からの引用画像)
ここで注目すべきは、朝の武豊行一番列車 気912レ(現在のように気動車列車に「D」が表記されていないので、以後記事中では列車番号の前に「気」を付記することとします。)と夕方の1往復の「計1往復半」(2往復でないことに注意)に2等車が連結されていることです。(注:当時は3等級制度ですから2等車は今のグリーン車に相当します。)朝の武豊行一番列車 気912レは名古屋5:30~武豊6:36で、その武豊到着後の折り返し列車は気915レ(武豊7:00~名古屋8:08)と考えるのが順当です。もちろんこの時刻の列車は、その時間帯から「国鉄末期の927D」に相当します。
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(日本交通公社 時刻表 昭和33年11月号復刻版からの引用画像)
ところが気912レにあった2等車が気915レには連結されていません。夕方の1往復まで2等車連結列車は線内にはなく、それらのことから推定するに、混雑する時間帯に準急用の気動車を導入したのは昭和32~33年頃であったものの、最も混雑する朝の名古屋行だけは2等車の営業をしていなかったと言えそうです。2等車だけを、急行での営業に備えて整備済となっていたため「締切扱い」として施錠したことも考えられないこともないですが、それが理由であるならば、武豊行気912レでも施錠しておけばいいはずです。そう考えると混雑緩和策として3等車代用として開放していたか、団体列車ではよくあった例として、施錠こそしないが座席には座れないという「通路扱い」として取り扱っていた可能性が考えられます。

このときの時刻表で、高山本線関連の準急列車として、名古屋発9:05の高山本線経由高岡行気動車「準急 第1ひだ」が2等車連結で運転されています。
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(日本交通公社 時刻表 昭和33年11月号復刻版からの引用画像)
ただ名古屋では武豊線の915レとは1時間近くも時刻が離れていますので、武豊線列車との関連性についてはなんとも言えませんし、仮に武豊線気915レが「準急 第1ひだ」の前運用であったとしても、国鉄末期のように乗客を乗せたまま直通するような形態ではなかったものと思われます。1時間もあれば2等車の座席カバーの交換など整備はできそうに思われますので、気915レの2等車は通路扱かハ代用として3等客に開放していた可能性が強いと私は思います。

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昭和36年9月号時刻表(武豊線:昭和36年3月1日訂補ダイヤ 高山本線:昭和36年7月1日訂補ダイヤ)では、朝の時間帯に、名古屋~亀崎間に1往復の休日運休列車が新たに設定されており、朝の武豊方面行では、その列車と、名古屋発武豊行にそれぞれ1等(昭和35年に2等級制に移行したため2等車が1等車と呼ばれるようになった。)の表示があります。
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(日本交通公社 時刻表 昭和36年9月号復刻版からの引用画像)
そして混雑する朝の名古屋方面行の列車を見ますと…
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(日本交通公社 時刻表 昭和36年9月号復刻版からの引用画像)
やはり朝の時間帯には名古屋方面行に1等表示の列車は1本もありません。画像は朝の時間帯だけを表していますが、この時刻表で夕方の時刻を見ますと、昭和33年11月号時刻表にあった夕方の名古屋発武豊行の列車1本から1等表示がなくなっていました。しかしその折り返しと思しき夜の武豊発名古屋行列車には、1等表示が残ったままとなっています。夕方の混雑時間帯では朝と反対に武豊方面行列車でも1等車としての営業をとりやめ、2等代用か通路扱として運用するようになったものと思われます。
この時刻表で、「国鉄末期の927D」に相当しそうなのは気917レです。時刻は武豊7:00~名古屋8:08で、昭和33年11月号時刻表と変わっていません。なお前述の亀崎折り返しの名古屋行は、気915レという列車番号で、気917レの10分~13分ほど前を走るダイヤとなっており、明らかに最混雑時間帯の気917レの救済列車という位置付けなのだと考えられます。国鉄末期でも亀崎から先が最も混雑していましたので、納得できる列車設定です。

名古屋から高山本線への直通列車のほうに目を向けますと、この前年から前述の「準急 第1ひだ」が、名古屋発8:20発に繰り上げられた恰好で、列車名が「しろがね1号」と変わるとともに、名古屋~岐阜~高山~富山~福井~米原~名古屋という経路の循環準急列車に成長していました。
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(日本交通公社 時刻表 昭和36年9月号復刻版からの引用画像)
この名古屋発8:20という時刻は、武豊発名古屋行気917レの8:08着とかなり接近しており、武豊線を1往復したあとに名古屋から高山本線にそのまま直通するという運用はこのあたりから始まっているのではないかと推定しますが、いかがでしょうか。
この推定が正しいとしたら、昭和30年代半ばには事実上の武豊発高山・北陸本線経由名古屋行という壮大な長距離列車が走っていたことになります。

その昭和36年9月号時刻表の翌月号となる同年10月号(昭和36年10月1日改正ダイヤ)では、名古屋~亀崎1往復の列車に変化が見られ、運転区間が名古屋~武豊間に延長されています。このダイヤ改正時刻表でも、武豊線の1等車の表示パターンに変化はありません。
「国鉄末期の927D」に相当する気917レの時刻は武豊7:05~名古屋8:07です。画像はないですが「しろがね1号」のほうは時刻が少し変わって、名古屋発は8:15に変わっています。この間わずか8分しかありませんので、ホームでそのまま準急列車に化けたことはほぼ間違いないでしょう。

これ以後のことは、次週に回させていただきます。

(今回、JTBよりかつて発刊された時刻表復刻版戦後編1~3を参考にしました。現在、古い時刻表は電子図書として入手可能なものもあるようです。)

この記事へのコメント

  • NAO

    おはようございます。
    残念ながらオタケは一度しか乗ったことがありません。半田や常滑の営業では名鉄ばかり乗っていましたので。
    時刻表名探偵という本がありましたが、しなの7号様も歴史を遡った読みが深いですね。
    武豊線普通列車運用から乗客を閉め出すことなく急行に変身、運用を知っている乗客だったら自由席の確保が出来そうですね。複雑に車両を使いこなす高山本線の急行、宮脇俊三氏も夜行急行の運用で間違って乗った女性にアドバイスされたものの、そのあとご自身も神岡線で乗り間違えられてしまい、タクシーを使っても富山港線末端ひと駅を乗り残された話しを思い出しました(時刻表2万キロ)。四国帰りにそのひと駅を乗り直しにゆかれましたね。
    扉を開けたままサボ取り換え、知ってる人ぞのみ直通乗車出来る.....、今こんなことをやったら新聞記事になってしまうのではないでしょうか。でも私はそんな時代に戻ってもいいのに、なんて思ってしまいます。
    2015年02月23日 07:22
  • しなの7号

    NAO様 おはようございます。
    武豊線は、名古屋とのアクセスに関しては、運賃・距離・所要時間・運転本数のすべての面で名鉄と比べれば不利な条件下にありましたので、知多半島でのお仕事ならばその気にならない限り名鉄に乗ってしまうでしょうね。昭和30年代半ばに亀崎折り返しの名古屋行があったことからも、武豊線内対名古屋の旅客は名鉄から地理的に離れる亀崎以北が中心であったことがわかります。
    昭和30年代のこととなると、さすがに資料も乏しくて怪しい推定でしか語れませんが、時系列に国鉄時刻表を見比べることは、自分が知らない国鉄発掘の手段であり今後の楽しみの一つになりそうです。
    特に国鉄気動車に多くあった分割併合を繰り返す運用は、趣味的には面白い分野で、「時刻表2万キロ」のその場面のようなことが起きてしまいますね。

    趣味としてはツッコミどころが多い昔の方がおもしろいわけですが、当事者としてはこの「国鉄末期の927D」列車は厄介な列車だったわけで、それは別に機会にアップします。
    2015年02月23日 08:32
  • 中央西線

    中央線の全線電化前名古屋でスイッチバックする武豊ゆきというのがありましたね。電化すると海シン車両送り込みで再現しますかね。中央線でも急行間合いはDCもECも結構ありましたね。
    2015年02月23日 08:37
  • しなの7号

    中央西線様
    昔の時刻表を見ていると、今では信じられないような行先の列車がありますね。塩尻発武豊行(武豊行は多治見から連結の注釈付)という列車もその一つで、明らかに車両の送り込みのため多治見~名古屋間の増結車として使用した列車でしょうね。名古屋駅では切り離し作業があり、同じホームで折り返しの中央西線列車と武豊線列車に分割された記憶は残っています。
    2015年02月23日 09:19
  • 門ハイ

    こんばんは。
    昭和50年頃の佐世保でも似たような運用がありまして、急行「弓張」編成が早朝に松浦線の平戸往復に就いていました。当時は電化前で急行の乗車率は凄くて、平戸からの返し運用で客を降ろさずに急行に変身していたので、知っている急行乗客は松浦線の手前駅から乗っていました。
    良くも悪くも「国鉄」でした。(笑)
    2015年02月23日 20:04
  • しなの7号

    門ハイ様 こんばんは。
    昭和50年にいちばん近い手持ち時刻表として昭和49年3月号がありましたので、早速見ると松浦線にグリーンマークの普通列車が早朝にありますね。ほかにも大村線や長崎本線でも普通列車にもグリーンマークが散見されますが、折返しどの急行になったのだろうかなどと古い時刻表を、つい見入ってしまいますね(^_^;)
    2015年02月23日 20:24
  • 急行 陸中

    こんばんは。
    急行の間合い運用、急行くずれ、みつけては乗っていた記憶があります、夏のクーラー付き車すごく得をしたような。
    2015年02月23日 20:47
  • しなの7号

    急行 陸中様
    逆にDC時代の赤倉号のように、普通列車でも冷房車が普及しつつある時代に、急行でも自由席に冷房がない列車が存在して、あれも問題でしたね。
    2015年02月23日 21:26
  • TOKYO WEST

    かつて、急行「さんべ」が鳥取・熊本間を運転していました。(昭和55年まで) この当時、三角線にグリーン車連結の普通列車がありますが、「さんべ」の間合い運用だったと聞いたことがあります。
    2015年02月23日 22:48
  • 大阪の愛知県人

    初めまして。以前から愛読しておりましたが、今般実家近くの武豊線ネタ(しかも927D)という事でコメントを投稿させて頂きます。
    幼少時から急行間合い運用を毎日見て、高校~社会人初期は通学通勤に利用していました。件の「のりくら1号」前運用は大変魅力的で価値のある列車でした。但し927Dの名古屋寄り3両(キハ58+キロ28+キハ65)は亀崎まで締め切りとされ、乙川以前からの利用者は不満を抱いていたのも事実でした。
    また、間合い運用での優等車無料開放は武豊線では伝統らしく、1960年代の「中部日本新聞」記事で『亀崎駅での構内横断写真』と『二等車の無料開放サービス(キハ55系クリームに赤帯塗装写真)』を紹介していた事を覚えています。
    夕方のキニ26を連結した「紀州・かすが」間合い運用でも、度々グリーン車無料開放を利用して帰宅していました。基本的には消灯扱いでしたが、夏は冷房が入りかなりの乗り得列車でした。

    繁忙期には最長10両運行だった927Dの厄介な点とは?
    乗務員の視点からの記事を楽しみにしています。
    2015年02月23日 22:50
  • 北恵那デ2

    おはようございます。気動車の間合い運用や送り込みなども時には面白いことがあるということですね。それはその通りですが、「昭和25年の時点で武豊線に気動車列車が無く」という記述が興味深いです。その後昭和31年頃には気動車列車も導入され、明知線などと同様に我々がこの世に生を受けた頃には機関車牽引の客車列車が無くなっているのですね。中央西線・関西本線などの幹線にはその後も客車列車は存在したということと対照的です。オタケはちょっと異質ではありますが、概してローカル線の方が先に無煙化されているというのが面白いというか残念に思います。
    2015年02月24日 07:49
  • しなの7号

    TOKYO WEST様
    上の門ハイ様のコメントで、九州の時刻表をひも解く結果になりましたが、観光地を控えた路線だと、普通列車でもグリーン車の営業をしている列車が意外なほど多かったのだと感じました。
    DC「さんべ」も美祢線経由と山陰本線経由とに分割してまた併合する面白い列車でしたね。時刻表を見ると三角線にも普通列車でグリーン車マーク付が複数見られますので、このなかに「さんべ」編成の間合い列車があったことは想像に難くありません。私が見た時刻表に限って言えば、朝の熊本では両列車の着発時刻の間隔が開いていますので、「のりくら」編成のようにそのまま急行になったわけでないように思いました。
    2015年02月24日 08:26
  • しなの7号

    大阪の愛知県人様
    ご覧いただきありがとうございました。
    いつもの月曜日は、直接乗務に関わる内容にしていますが、今週から3週ほどの間は、武豊線が電化されるということもあって、一度この朝の武豊線列車と高山本線急行の歴史を調べてみたいと思っていたので、このようなことを書いています。歴史の記事の後には、亀崎までの締切回送の件も含め、来月以降順次922D~927D乗務体験談をアップしていく予定にしています。その際には乗客としての感想や思い出もコメントしていただけたらと思っております。
    新聞記事の件は、私ははじめて知りました。たしかに新聞ネタになってもおかしくない特殊な列車でした。私の場合10両編成は、キニ連結がなくなったあとの夕方~夜の一往復で体験したことがあります。
    【330】思い出の乗務列車12:武豊線948D 編成の移り変わり
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201211article_5.html
    室内を消灯としたのは、通路扱であることの表現?(客室としてのサービスは提供しない)であったのだろうと想像します。私が乗務していたころは、明確に「ハ代用」とされていましたので、消灯はしていませんでした。
    2015年02月24日 08:27
  • しなの7号

    北恵那デ2様 武豊線の無煙化については、まだ調べていませんが、歴史について書かれた著書も出版されているようですので、いずれ読んでみたいと思っています。
    「鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション13 国鉄の気動車1950」巻末の配置表(昭和30年3月15日)では、多治見区にキハ41300が5両、キハ42500が7両、キハ45000が4両配置されていることになっています。用途は個々に想像するしかありませんが、まだ名古屋区には気動車の配置はないことから想像すると、キハ41300(天然ガス車キハ41200からディーゼル車への改造形式で後のキハ04の一部)あたりから武豊線の無煙化がスタートしていたのでしょうか。
    ちなみに昭和31年12月号時刻表復刻版では、明知線には気動車の表示がなく、中央西線には中津川まで気動車列車が運転されています。 たしか明知線には、その翌年にキハ02が就役したんでしたね。
    2015年02月24日 09:43
  • 北恵那デ2

    昭和30年の配置表とのことで、キハ41300・キハ42500・キハ45000と聞いても何のことかさっぱり分かりませんので調べてみました。それぞれキハ04・キハ07・キハ17でよいのでしょうか。キハ04については、改造および改番が頻繁に行われてかなり複雑でしょうし、よく似たキハ05やキハ06もありますし。ところでくだらない突っ込みですが、書籍名が「国鉄の気動車1950」とありながら「昭和30年3月15日」というのは、「国鉄の気動車1955」でよろしいでしょうか?すみませんです。
    2015年02月24日 17:40
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    私も配置表の形式を見て???でしたが、その書籍の本文には形式についての説明がありました。車両称号改正が行われた昭和32年4月以降には、おっしゃるような形式に変更されていますね。キハ41300はガソリン→天然ガス→ディーゼルと変わって、その都度形式が変わり、最後はキハ04の一部に落ち着きました…という内容が書かれていす。そんな知識も私にもありませんでした。
    書籍名ですが、内容的に「1950年代」になっています。その10年間の記事の再録をメインにした本といえます。続巻で「鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション14 国鉄の気動車1960」もありまして、こちらも同様に「1960年代」の内容で、1968年のキハ181系あたりまでを収録しています。
    2015年02月24日 21:40
  • 大阪の愛知県人

    948Dの記事も興味深く拝読いたしました。私の記憶にあるキニ26連結編成は、1974~75年頃になります。
    改めて当時の記録を確認すると、新宮830発の桜井線・和歌山線・関西線経由『しらはま1号』と紀伊勝浦1236発『紀州4号』の併結編成でしたので、訂正させて頂きます。名古屋1729着で一旦引上げ後、0番線に1755発武豊行として据え付けられました。
    また1981年~85年は名古屋市内の大学にバイク通学していたため、この間は鉄道利用から遠ざかっていました。当時キロ2両連結だったとは惜しい機会を逃していたんですね(苦笑)
    1974~80年頃の開放扱いキロの消灯ですが、稀に点灯の日もあり「良心的な車掌さんに当たった」と勝手に喜んでいました。
    2015年02月24日 21:52
  • しなの7号

    大阪の愛知県人様 こんばんは。
    夕方のキニ26編成に乗られていた翌年1976年に私が国鉄に就職して、深夜の紀州5号でキニ26そのものに乗務掛として乗るようになりました。車掌として武豊線に乗務していたのは1981年以降です。
    私が仕事で関わっていないときの武豊線の状況のご教示ありがとうございます。なにか記憶に残っていることがありましたら、またお聞かせください。

    ご覧いただいたかもしれませんが、キニ併結の紀州については、
    【319】思い出の乗務列車7:キニ併結 急行「紀州5号」(1)
    【321】思い出の乗務列車8:キニ併結 急行「紀州5号」(2)
    【323】思い出の乗務列車9:キニ併結 急行「紀州5号」(3)
    【325】思い出の乗務列車10:キニ併結 急行「紀州5号」(4)
    の4つの記事になっています。
    一度は写真に撮ろうと思いながらキニ26の写真は撮れずじまいでした。
    2015年02月24日 22:32
  • こがね しろがね

    こんばんわ、初めてまして。いつも楽しく拝見しております。幼い頃は年に一回か二回乗る鉄道が大好きだった、高山線沿線在住者です。件の927D~急行のりくら1号の直通運用は、自分が利用する列車ではないのになぜかその存在を知っていました。読み物からの知識ではなく、鉄道好きだった父か伯父から教えてもらったように思います。循環していた頃は3回も進行方向が変わったわけで、グリーン車の回転器具も痛みが早かったことでしょう。ラッシュ時に名古屋駅で、両側のドア開放して、『のりくら』『おくみの』『うなづき』のサボを差しているなんて、LEDの時代からすると、人の仕事にも物にも、存在感や価値があったように思います。1月下旬には、高山駅の歴史ある駅舎もあっさりと壊されてしまい、車両もステンレス製のLED表示になってきています。
    2015年02月27日 21:38
  • しなの7号

    こがね しろがね様 はじめまして。
    ご覧いただきありがとうございます。
    循環急行というものが存在したこと自体、今では考えられませんね。たしかに車両は長距離かつ過酷な運用でしょう。私が927Dに乗務していたころには、その疲れが見られました。詳細はいずれブログアップします。また、「おくみの」編成(2両)を含むと11両にもなってしまいますので、武豊線内では切り離した状態で9両で運転されました。「おくみの」「うなづき」のこともこのあとのブログ記事で触れる予定でおります。
    2015年02月28日 05:36

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