めでたく武豊線は昨日3月1日に電化開業しました。しばらくの間、拙ブログでは武豊線関連の記事が続く予定です。ご期待されても困りますが(~_~;)よろしくお付き合いください。
先週は、武豊線で国鉄末期まで続いた朝の急行前運用となる長大編成と、高山本線の準急列車との関係について昭和36年まで探ってまいりました。
その中で武豊線列車と、高山本線で武豊線と関係がありそうな列車について時刻表から推定できることや、判明したことは…
1 鉄道省から日本国有鉄道に組織が変わった昭和20年代半ばには、すでに機関車牽引客車列車として名古屋直通列車が存在していたこと。
2 昭和30年代まで、気動車に混じって朝夕に残った機関車牽引の客車列車は、少なくとも昭和33年には気動車準急編成が導入されたことで姿を消した。この編成には2等車(のちに2等級制になると1等車)が連結されていたが、朝の混雑する列車では2等車の営業はしていなかった。
3 高山本線では、このころには気動車準急が2等車(のちに2等級制になると1等車)が連結された状態で運転されていた。
4 昭和30年代半ばには、名古屋から高山本線~北陸本線を経由する準急「しろがね1号」が運転されており、これがJR化後まで続いた急行「のりくら」の前身であり、その前運用は武豊線の朝の1往復である可能性がある。
と、いうことになります。
それでは、続きを始めます。(準急形急行色のキロ25の模型です。我家には準急色のキハ55系の配置がございません。)
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昭和39年10月には東海道新幹線が開業します。このダイヤ改正で東海道本線には多くの変化があったわけですが、武豊線の朝のダイヤはほとんど変化がなく、列車番号が変わっているくらいのことです。そのあと昭和41年には高山本線の「しろがね1号」は急行料金制度が変わったため準急から急行に昇格していますが、名古屋発時刻は似たようなもの(927D名古屋着8:08 しろがね1号名古屋発8:14)ですので、両者は依然として密接な関係にあるといえます。この関係を明確にするには、両列車の名古屋駅での発着ホームがわかるとよいのですが、国鉄時代には全国版時刻表に東海道本線の名古屋駅ホームの表示はまだありませんでした。しかし、昭和42年10月から、名古屋鉄道管理局版のポケット時刻表に名古屋駅の発着ホームが表示されるようになったのでした。ここでは以下「名局版時刻表」と記します。)
ここで参考にした「名局版時刻表」は、旅客案内用として部内で配布されたものですが、表紙絵、広告ページの有無、一部収録線区や編集が異なるものの類似内容のポケット時刻表は弘済出版社中部支社から出版されており、鉄道弘済会売店(のちの愛称名KIOSK)で一般頒布されていました。
その昭和42年10月名局版時刻表によれば、(上2枚とも昭和42年10月名局版時刻表からの引用画像)
武豊発927Dの名古屋着は6番線で8:08着
しろがね1号の名古屋発は同じく6番線で8:14発
納得がいきますね。これで、名古屋を早朝出て武豊で折り返した列車は、そのまま高山本線~北陸本線~東海道本線を経由して中部地方を一周して名古屋まで戻るという長距離運用であったことが確実とわかり、改めて当時の気動車運用のおもしろさを知ることになります。それにしても、このしろがね1号、一周する途中の敦賀で、出雲市を朝出て山陰本線~宮津線~小浜線を経由する名古屋行の急行大社を併結するという付録もつき、その急行大社は、敦賀まで金沢行の急行あさしおを併結してくるという芸の細かさなのでした。(昭和42年10月名局版時刻表からの引用画像)
なお、画像は掲載しませんが昭和42年10月号日本交通公社全国版時刻表(昭和42年10月1日改正ダイヤ)では、朝の名古屋発武豊行の1等表示がなくなっています。しかし不思議なことに名局版時刻表には1等表示があるのです。そしてどちらの時刻表でも従前どおり折り返しの朝の武豊発名古屋行には1等表示はありません。しろがね1号のほうも、大きな変更点はありません。
朝の名古屋発武豊行の1等表示の件は、誤植が少ない書物であるはずの時刻表での単なる記載漏れと捉えるか、それとも1等車の営業の是非について結論が出ないまま締切に間に合わなかったと捉えるか。なんとも申せません。
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このあと、全国的な大改正であった昭和43年10月を迎えます。名鉄局ポケット時刻表(昭和43年10月1日改正ダイヤ)を見ますと、高山本線の左回りの循環急行が1本に減ったことから、列車名は単独の「しろがね」になっています。武豊線通勤列車との関係を見ると、武豊発列車の名古屋着は6番線で8:08着
しろがね1号の名古屋発は同じく6番線で8:25発
(上2枚とも昭和42年10月名局版時刻表からの引用画像)
すこし名古屋での停車時間が伸びて17分停車になりました。6番線は東海道本線下り本線なので、ちょっと長すぎるかなとも思えますが、この列車が停車している間に、2本の東海道本線下り普通列車の着発があり、いずれも4番線を使っていることが時刻表から読み取れますから、この間は、この編成が東海道の下り本線を占領していたであろうことがわかります。
ところで、画像でお気づきになったかもしれませんが、時刻表には全国版、名局版ともに武豊線の朝の名古屋行列車には大きな変化が起きています。なんと混雑する名古屋行にも1等車の表示が付けられているのです。それまでは朝夕とも混雑しないほうの列車(朝は武豊行、夕は名古屋行)だけに1等の表示がありました。夕方の武豊行を見ると、同様に1等車の表示があり、朝夕の1往復が上下列車ともに1等運賃を徴収するようになったものと見えます。
ちなみに、全国版時刻表には、「しろがね」の列車編成表が掲載されるようになりました。(日本交通公社 時刻表1968年10月号復刻版からの引用画像)
「名古屋-敦賀」の4両が「大社」編成だと思われますが、それとわかる表示にはなっていません。ちなみに「大社」単独での編成表は掲載されていませんでした。
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その翌年の昭和44年10月1日改正ダイヤでは、2等級制運賃が廃止されて、1等車は特別車両(グリーン車)に移行しました。このことから表示がグリーンマークに変更されていますが、そのまま武豊線内の朝夕の1往復が上下列車ともにグリーン車として営業を続けているようです。名古屋駅での急行「しろがね」への変身パターンに変更はありません。ところが、そのわずか3ヵ月後の昭和45年1月名局版時刻表では、ダイヤの変更こそないものの、武豊線の全列車からグリーンマークが消滅しています。
上の画像は、昭和44年10月と昭和45年1月の名局版時刻表表紙
下の画像は、昭和44年10月(上)と昭和45年1月(下)の名局版時刻表の該当ページ引用画像です。ダイヤ自体は昭和44年10月1日改正で双方に変わりありませんが、グリーンマーク(潰れて黒い長方形のマークに見えますが…)は、昭和45年1月(下)の名局版時刻表にはありません。画像は付けませんが、当然に名古屋駅での急行しろがねへの変身パターンに変更はなく、急行「しろがね」にはもちろんグリーンマークがあり、この時点で武豊線普通列車では、1等車~グリーン車の営業は終了したことになり、以後は武豊線にグリーンマークが現れることはありません。この上下列車で1等運賃~グリーン料金を徴収していた1年程度の短期間に、乗客からは「昨日まで2等運賃だけで乗れたのに!」「こんなに混雑しているのにグリーン車なんか連結せずに普通車を連結しろ!」といった国鉄の営業方針に対する批判や苦情が寄せられたことが想像されます。あるいはマスコミ攻撃などもあったのかもしれません。もちろん現場で直接その苦情をぶつけられたであろう車掌の苦労も計り知れません。
(今回は名古屋鉄道管理局版のポケット時刻表のほか、日本交通公社(JTB)刊の古い時刻表を参考にしました。現在、日本交通公社版の古い時刻表は電子図書として入手可能なものもあるようです。)
来週は、武豊線1往復を終えて、本番ともいうべき朝の高山本線「しろがね」~「のりくら1号」の運転形態の変遷をたどってみたいと思います。
その前に、今週木曜日には、電化開業前に乗ってきた武豊線訪問記をアップする予定です。










この記事へのコメント
中央西線
しなの7号
「名局版時刻表」は、日観連にも配られていたのですね。
鉄道弘済会版についても触れましたが、手持ちのものは同じ昭和44年10月で赤表紙でした。これは自分で買った記憶で¥50とされています。「名局版時刻表」にない富山港線など一部の金沢局支線各線のほか、申しわけ程度に名古屋鉄道各線も付加されています。
トシ@グッズマニア
先週の(1)を読んで、昭和30年代のキハ55系の運用表がどこかで紹介されてないか検索してみたんですが、残念ながら現時点で見つかっていません。
その間見つかった画像を見ていると、準急『ひだ』編成に組み込まれた2等車は、少なくとも数年間はキロハ18であったようです。
キロハ18をキハ55で挟み込んだ3両編成の画像が何枚か見受けられました。
運行開始当時のキロハはクリーム/青の旧一般色のまま組み込まれ、順次準急色に変更されたようです。
しなの7号
調査していただきありがとうございました。なるほど「ひだ」のキロハ18画像が見つかりますね。キロハ18は「かすが」と思っていましたが、同じ名古屋区運用であれば、キロハ25に混じって「ひだ」にも使用されたということなのでしょうかね。
こがね しろがね
北恵那デ2
しなの7号
高山本線の古い時刻表を見ると、急行の折り返し運用と思われる普通列車にグリーンマークが散見されますね。
時間帯によっては観光路線ですので需要が見込めたのかもしれないですし、このころはオンシーズンだと普通列車にも観光客の割合が結構多かったのだろうとも思います。
しなの7号
子供のころ、父親が廃棄処分する大型時刻表を、職場から毎月のように月遅れで持ってきてくれたのに、私もほぼすべてを、後に廃棄してしまいました。多く残っている国鉄時代の時刻表は、場所をとらない「名局版時刻表」とSL撮影の際に購入したボロボロの時刻表だけです。
一つの列車を複数の時刻表で時系列に移り変わりを眺めるということを、今回初めてやってみましたが、新しい発見がありますし、関係している「事情」が想像できて、お金がなくて出かけられなくても、十分に家でタイムトラベルを楽しめそうです。
キロハ18はさすがに見たことがないですが、名古屋駅でキロハ25のほうは興味を持ってみた記憶があります。すでに準急色ではなく、旧急行色?というのか私も知りませんが、「真ん中で下に角のように尖った塗装」でした。自分もあの塗装のほうが好きです。名鉄局で新急行色?に統一されてしまってからも、乗務で長野に行くと飯山線用のキハ55か26か忘れましたが、その旧急行色?のままの車両をよく見かけましたので、そのたびに、今度はカメラを持って来ようと思ったのですが、結局それっきりになってしまい、写真に残すことができませんでした。
TOKYO WEST
しなの7号
営業面からアプローチする方法がありましたか。もっともそのような資料は持ち合わせていませんから、如何ともしがたいですが、ご教示いただいたことによって、昭和44年10月1日改正直後に武豊線のグリーン車営業が終了したことは確実と見ていいようですね。
フォローありがとうございました。
NAO
現代のようにコンピュータが発達していれば別ですが、アナログの時代によくこれだけの車両運用をこなしていたと思います。
私が時刻表に慣れ親しみ始めた頃でも、ローカル線では以外とBグ営業がありました。中学を卒業してすぐ、四国の予土線に行ったのですが、江川崎から宇和島まで乗った58系DC、ちゃんとBグを営業していました。終始お客さんは居られませんでしたが、普通車掌さんはキロ28に陣取っておられました。
江川崎を境に線路規格の変わる予土線、早くから建設されたカーブの多い江川崎以西を、グリーン車連結の急行型DCがゆっくりすぎる速度でクネクネ行くのは、また違った風情がありました。
しなの7号
先週の記事のコメント欄で、九州でもBグ営業が多かったようなことを書きましたが、私が高校生の時に乗った豊肥本線の朝の普通列車もグリーン車付でした。自分は乗りませんでしたが、同行の友人がBグは珍しいので乗りたいというのでこのときは別行動になりました。
宮脇俊三さんの「最長片道切符の旅」では、豊肥本線で「火の山2号進入注意!」などと大声を出していた老人がいましたが、それよりさらに5年くらい前の話です(^_^;)
NAO
私も近いです。声に出さなくとも心のなかで換呼しています。
しなの7号
自分は時刻表を抱いて寝たりもしませんし、JR化後に買った時刻表も先日必要なページだけ破いて残し、そのほとんどを廃棄してしまった狼藉者ですが、こんどの時刻表は買おうと思います。って 楽天ブックスも品切れ!amazonではプレミア価格!
しなの7号
ただいま、書店へ行きましたら、JR版JTB版とも山積♪
もちろん通常価格1,183円でしたが、amazonではそういう売り方なのでしょうか?
送料無料だから送料分を本体に上乗せという考え方かな?
この時点で1,775円~
TOKYO WEST
今度は昭和39年10月現行の「鉄道旅客荷物運賃算出表(国鉄線の部)」を調べましたが、武豊線は「1・2等」とあり1等の営業線区であったことがわかりますが、実際に1等の営業をしていたかは判然としません。なお、大阪の交通科学博物館に所蔵されていた鉄道公報のなかには、1等車や寝台車を連結している列車の一覧が掲載されていたこともありました。(昭和30年代)
しなの7号
本文では、「昭和39年10月のダイヤ改正で、武豊線の朝のダイヤはほとんど変化がなく、列車番号が変わっているくらい」と、サラッと流しましたが、39年10月号のほか前月9月の時刻表復刻版も含めて確認した結果でして、36.10当時の「朝夕とも混雑する方向の列車のみ1等表示がないパターン」から変化がありませんでした。このころにはキロ(またはキロハ?)は1等車としての営業をした列車とそうでない列車とがあったものと考えられます。
このように私が就職する前のことはもちろん、自分が実際に行っていた作業の根拠となった規定通達も手元にないものが多く、今となっては曖昧で怪しい記憶だけが頼りになったりします。リニア鉄道館あたりに名鉄局関連だけでもいいので資料室的なものの設置を望んでいますが、そういう話はまったく聞こえてきませんので、営業・運転ともに、ローカルルール的なことを知ることがなかなかできません。
TOKYO WEST
しなの7号
情報管理は、どこの企業も厳しくなっていますね。資料の保存年限を細かく設定したり、きちんと情報管理されればされるほど、後々調べたくても何もないということばかりになっていくことでしょうね。
国鉄在職中には車掌区にいつも局報を書き写しにくる学生さんがいました。国鉄最末期にはその姿も見なくなりましたから、きっと閲覧不可になったのでしょう。
NAO
営業員の頃、出張申請するために時刻表で旅費を調べていたら、後輩から「すごいアナログですね」と言われました。
私にはこの方が早いのですが。
しなの7号
「時刻表ある?」
「あるよ」
「ちょっと見せて」
「はいどうぞ」
と(それは逆だろう…)いうことが1度や2度ではありませんでした(~_~;)
その時刻表も、数年前から経費節減ということで職場には常備されなくなりました。
大阪の愛知県人
①『鉄道ピクトリアル』2003年3月号(729号)「高山本線のキハ55系 【のりくら】を中心としたDC列車の変遷をたどる」
②『鉄道ピクトリアル』2000年7月号(687号)「キハ58系気動車急行の興味 西日本篇」
上記①では58系・91系急行型や10系・20系一般型にも触れており、高山線主要列車の年表まで掲載されています。DC準急【ひだ】の運転開始当初はキロハ25と共にキロハ18も運用されている旨記されています。但し55系運転開始の翌59年3月にはキロ25が配属されたとあり、キロハ18組込は短命だったかも知れません。
②では【しろがね】【こがね】の変遷に触れており、夜行しろがねにキハユニ26が連結されていた事や、一時期【わかさ】【大社】と併結する区間があった事も記しています。また、【こがね】高山増結車には名タミのキハ26が運用されたそうです。
しなの7号
ご教示ありがとうございました。
幸い、両書とも書棚にありました(*^^)v
いま、少し眺めてみました。キロハ18の件は、奈良から名古屋への車両持ち替え+新製配置時期と時刻表を見比べながら推測でコメントを書きましたが、これで氷解ですね。
新聞輸送に使われたキハユニ26を初めて見たのが、私が乗った夜行の「のりくら」でした。これにキハ55系を3両従えた富山止付属編成は、中央西線でキハ57、58を見て育った私には遜色急行のイメージでした。
年表などの資料も参考になりますね。この雑誌が発売された時期は立ち読みして、これは!と思うととりあえず雑誌を買っては来るものの、多忙で1回読んでそのまま書棚へ、というパターンも多く忘れた存在でした。改めて読み直してみたいと思います。ありがとうございました。