3月1日に武豊線が電化された。車掌時代に私は武豊線を何回往復したかわからない。電車になれば高加速かつ快適になるわけだが、気動車のエンジン音がここで聞けなくなるとなれば、最後にもう一度だけでいいから、その走りを味わっておきたいと思い、1月のある日、武豊まで乗りに行ってきた。
どうせなら、名古屋からの直通列車に乗りたかったから、午前中の名古屋始発の区間快速武豊行に乗車した。車両はキハ25の4両編成で車内は空いていた。名古屋駅3番線、私にとって初めての武豊線乗務列車になったキハ35の3両編成940D( 【248】思い出の乗務列車1:武豊線940Dで、以前アップ)もこのホームからの発車だった。
新しい車両であるキハ25は、JR東海313系電車に車内外とも非常によく似た車体ながら、発車するとエンジンの振動や騒音は気動車独特のもので、電車とは大きく違った。その音や加速感は国鉄形のそれとも違うけれど、東海道本線を走っていても「武豊線の列車」であることを意識させてくれる。中央本線との並走区間では、211系電車と互角に走っているところはさすがであるし、区間快速なので、東海道本線区間では通過駅がある。気持ちよいエンジンの加速音がしばらく続いた後、惰行運転になるということをくりかえしながら、気動車で小駅を通過するという走りは、車掌時代によく乗った早朝の急行編成920Dと922Dを思わせた。大府駅到着前、「この列車は大府から武豊線に入ります。東海道線上り方面にはまいりませんのでご注意ください。」と車内放送がある。こういう放送も、在職中には何回でもしたから、今でもすぐ代わりにできそうではあるけれど、JR東海の決まり文句になってしっかり定着した「ドアから手を離してお待ちください。」など、きちんとマニュアルどおりに放送される現代のやり方にはとてもついていけそうもない。
大府を出ると、「尾張森岡、緒川、石浜、東浦の順に各駅に停まります」と放送が入る。その駅名の一つ一つに思い出があるから、決して遠くへ来たわけではないけれども、確かに武豊線に来たぞという気がする。そういう気にさせるのもBGMのエンジン音があればこそで、発車してすぐに東海道本線の下り線を高架で乗り越えるためいよいよ武豊線に入るぞと言っているようにエンジンを思い切り吹かすからでもある。
その高架を乗り越えて地上に降りたところに武豊線内最初の駅、尾張森岡がある。(画像は反対の武豊方から大府方を向いて撮影しています。)
減速の感触も電車とは明らかにちがっていて、ブレーキをかけると制輪子と車輪の摩擦音がすごい。キハ35時代の乗り心地を思い出させてくれる。
尾張森岡は停留所のような無人の棒線駅である。国鉄時代には、ホーム上に小さな待合所はあったけれど、ホームの大府寄り終端部にある出口のところには屋根もなく、集札をするとき雨が降っていればびしょ濡れになった。集札箱もなかったので、上屋と集札箱を設置するよう労組を通じて当局に申し入れても「現行どおり対処されたい」という回答しかなく、まったく聞く耳を持ってもらえなかった。今では立派な上屋がついているし、その壁面には集札箱もあった。
次の緒川は高架駅である。国鉄時代は地平駅だったし、駅の近くの大型ショッピングモールなどなかったので、当時の面影はないが、駅前後の高架区間からの眺めは新鮮であった。
高架から降りて次は石浜。ここも尾張森岡同様に国鉄時代から無人駅であった。画像は大府方面行の先頭車から武豊行列車を撮影したもの。前の緒川駅近くの大型商業施設が見渡せるほど何もない。今はホームが上下各1本ずつあるが、国鉄時代には行き違いができない棒線駅であったから、まったく別の駅のようである。この画像にある駅の出入口がある大府方面行ホームが、棒線駅時代からもともとあったホームで、国鉄時代には尾張森岡駅同様にこんな立派な屋根はなかった。当時は日中1時間に1本程度の列車本数だったから、この場所から私たち車掌は、一直線に続く駅への道を一所懸命に走ってくるお客さんを置いてきぼりにできず、時刻を気にしながら待ったものだ。その道路はすっかり整備されて面影はないが、一直線に遠くの信号機のところまで見通せることは当時と変わらない。
車掌時代、反対の大府行列車では、ここを発車するとすぐ車内に入り、乗ったお客さんに車内乗車券を発行しながら、途中の緒川、尾張森岡各駅とも中間車両の乗務員室の車掌スイッチでドア開閉をした。大府まで駅間距離が短く、尾張森岡も無人駅だったから、列車によっては忙しくて大府までに乗車券を発行しきれないことも普通にあった。
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後篇は翌木曜日にアップを予定しています。








この記事へのコメント
NAO
新幹線でなく381系「大阪しなの」で名古屋、117系ECで大府、そこからは35系DCと、だんだん車両が格落ちするように乗り換えたのが懐かしい。当時乗った昼前の117系はかなり混んでいて立ったのに対し、35系は空き過ぎで、これには極端さを感じた。ひょっとすると、あれほど鄙びたロングシート車に乗ったのは他にはないかもしれない。
その後、知多半島に数回行った営業は名鉄、数回行ったドライブはもちろんクルマで、これまた自分の行動にも極端さを感じる。営業中に半田で昼を食べたのはケーキ屋さんのレストランだったが、もっと早くから鰯を食わせてもらえる店を知っておけばよかったと思う。
オタケから名古屋に戻った私は豊橋までの「こだま」に乗り換え、現代の慌ただしさに引き戻されたが、そのあと二俣線に乗るとまたもや鄙びた観となり、なんだかこのコメント内容も慌ただしくてややこしい。
しなの7号
だいたい、中京圏に他所から来る人たちは国鉄にはほとんど乗らなかった。
鉄道なら名鉄か地下鉄だし、それが無理な目的地なら自動車であった。やむを得ないときだけ不便で運賃が高い国鉄に乗らされるという傾向があったやに思われる。だからNAO様のように、その気になって乗らない限り国鉄武豊線に乗る機会などなかったように思われる。
ロングシートに乗客もまばらで、キハ35オンリーという場末の雰囲気が漂う日中の武豊線であったが、朝晩には急行用長大編成が入り、別の顔も持ち合わせていた。そのことはいずれお伝えすることとする。
私は、沿線の見どころは退職後に初めて行ったところが多い、鰯専門店も再就職先の先輩に連れて行ってもらったのが最初である。これからも折に触れ知多には出かけたいと思うけれど、時間とサイフの中身等を総合的に判断すると、たぶん私の場合は自家用車で出かけることが主流になってしまうのではないかと思っている。
やくも3号
毎回、少しずつ複線化あるいは電化されて、まだらではあるが駅間の線が太く表示されてゆくこの路線図の変遷を見るのが子供心には楽しみであった。
本線は多くが複線電化されていったが、本線から分岐する枝線が太く表示されることはめったになかった。
武豊線が電化されることは、当時想像だにしなかった。
しなの7号
分割民営化後に、意識して乗り鉄を始めた私は年に1回くらいはJTB時刻表を買っていたが、さすがに冊数が増えてしまったので、先々週あたりから必要なページだけ破り取って保存し、あとは廃棄した。そのなかの1冊、2010年3月号の特集ページに「ひと目でわかる電化と複線区間」があった。ああ、まだあったんだと懐かしく思い、そのページは捨てずにとっておいた。
一方、巻頭の索引地図にやたらと新幹線の紅白線が増えた3月号を一昨日入手したが、北陸信越地方の黒白線がヒゲ付線++++になっているのを確認し、時の流れを感じ取った。
武豊線の新ダイヤでは、平日早朝に1本ある大垣発武豊行という列車が目を引いた。大垣始発武豊行とはSL牽引客車時代だった昭和20年代以来ではないか!? この列車、大府で浜松行から分割されるというのもおもしろい。
サンダーバード46号
当時は東海道線も国鉄時代と比べれば増発はされたものの、名古屋駅の在来線ホームは現在と比べたら人影は少なかったように感じます。電化はされたものの、昼間時間帯は気動車時代と変わらない本数なので、昼間時間帯も名古屋直通電車を増発するなど、攻めの姿勢で武豊線を盛り上げて欲しいと思います。
デスモ
20年前大府勤務だったころ、東浦、半田へは武豊線で移動してました。東浦から南はまだ草原がけっこう広がっていた時代。2回野生のキジを見ましたよ、本当に。
大府~名古屋も気が向いたら、武豊線から直通の速くない快速に乗ってたりはしてました(*^。^*)
TOKYO WEST
大阪の愛知県人
懐かしの乗務路線も久しぶりとなると光景が一変したようですね。
かく言う私も、年2~3回の帰省の度に街の風景が変わり、驚くほどです。さすが愛知の景気の良さと開発余力の底力を見せつけられます。
You Tube動画で電化初日の光景を見ましたが、あの轟々たる気動車から静かなインバータ音の電車に変わった途端、なぜか拍子抜け?のような感覚に陥りました。
鈍足DMH17の58系、隙間風のキハ35系、爆音激揺のキハ65、窮屈なキハ47・48ボックス席、そしていきなり豪華なキハ75。いずれも懐かしい思い出です。
なおキハ25は残念ながら未体験。
ちなみに、古くから沿線では『複線電化推進運動』があり、過去には標語の看板を見かけたり、関係者のお座敷列車も走りました。
私自身も40年前に電化を想定したノートを書いており、「亀崎~東浦間に変電所新設、電車は東海道本線と共通運用」「臨海鉄道のDEは残置」としていた。相違点は「急行間合い運用の存続」「架線方式は可動ブラケット&シンプルカテナリー」という点。
さすがに急行絶滅や新き電方式の採用までの予想は難しかったか(苦笑)
しなの7号
武豊線は全国ダイヤ改正の3月14日を避けるように3月1日に電化開業しましたね。表向きは1886年3月1日の武豊~熱田間開業日に合わせたみたいですが、新幹線開業に埋没しないためという営業上の意図もあったのかな?
14日からは増発もありますが、私が乗っていたキハ35時代より日中の列車本数がすでに倍増状態に改善されていますから、今後は日中の東海道本線との一体化運用が望まれますね。
しなの7号
そういえば、野生のキジがいるというのは運転士から聞いたことがあったような。東浦~亀崎はいちばん駅間距離が長いので、車内巡回に入っていることが多かったから???自分では見てないですけれど。
平成に入って沿線にマンションが一気に増えたように思います。
しなの7号
武豊線編鉄道唱歌、これは現代版ですね。明治時代の歌詞もお創りいただいて、対比させてみるのも一興ではないかと思います。眠れない夜に枕もとで本家の鉄道唱歌を流していると、神戸までには寝ついてしまえる私です♪
しなの7号
武豊線へは3年ぶりの訪問でした。4年前にも乗っていますが、そのたびに何かしら変化があります。どうしても国鉄時代の印象が強いので、来るたびに思うのは高架化された緒川駅と行き違いができるようになった石浜駅の変わりようです。その石浜には今回初めて降りてみました。
地元線区の将来像は子供のころ、私もノートに記したことがあります。ただしその内容は大阪の愛知県人様のようなしっかりしたものではなく、「我田引鉄」方式の夢物語でした。現況とは全く違っていてお恥ずかしいので、本来非公開にすべきところ(^○^)ですが、ついでながら言ってしまいますと、中央西線に長野発の九州ブルトレが走っていたり、151系電車クロ151の交直版クロ551という新形式まで登場しますから、馬鹿馬鹿しさを通り越して我ながら呆れてものが言えません(*^^)v
鉄子おばさん
しなの7号
この日も、すでに313系電車の試運転が始まっていたので、その試運転列車を撮影している方も見かけましたが、一般の方から見ればキハ25と何も変わっていないように感じられるでしょうね。
私はもうJR車両や規定にはまったくついていけないので、ご教示お願いします。私は専ら国鉄時代の勉強にハゲむとしますので(^○^)
ぱす
ヒデヨシ
かなりの有効長があるのでてっきり国鉄時代からかと思っていました。
対抗列車が停車しないうちに発車出来て一見複線みたい
しなの7号
武豊線では通学の高校生には乗務中にいじめられましたことも(~_~;)
昭和30年代に、名鉄にどういう施策を持って対抗しようとしていたのか、当時の名鉄局経営陣に聞いてみたいものです。
ダイヤ改正後も、名古屋直通列車の設定時間帯は今までどおりですね。夕方に大府始発武豊行列車を複数増発しているようですが、終日にわたって直通を作らないということは、電化によって名鉄に対しての新たな営業施策はしていないということなのでしょう。
しなの7号
自分は昭和時代から武豊線には疎遠ですので、地元の方には当たり前の風景である「行違いができ、跨線橋まである石浜駅」は、国鉄時代とは別の駅のような感じがします。有効長が長いのは衣浦臨海への貨物列車用ということでしょうか。
ウィキペディアによれば、1989年(平成元年)10月 ホーム増設、行違線と跨線橋を新設とされていました。
おんたけ号
こんにちは。
小生が武豊線通勤始めた頃は、キハ25初期車でしたので転換シートで、冬期は
石浜駅や緒川駅で行き違い待ち時、エンジン音と振動でウトウトと・・・
今では313-1300番台と315-3000番台の双方が入線、313-1300番台の車番確認
が日々の楽しみです。(これ、この前木曽で乗ったやつとか、保有Nゲージと同
じ番号だとか)
キジは結構頻繁に目撃しますよ。遭遇率高いのは尾張森岡出て大府に向かう上り坂右車窓。勤務中でも毎日のように鳴き声が聞こえます。狐もいるそうで。
武豊線は電化しましたが、ロングレール化していないので、ジョイント音が
楽しめます。衣浦臨海鉄道の貨物が通過する時は賑やかです。
追記、予約してあった381系幌付きしなの号、昨日入線。現在老眼にはキツイ
シール貼りに苦戦中。(勿論、ルーペは必須)
以上、失礼しました。
しなの7号
こんばんは
この記事から10年たちましたが、以来武豊線にはご無沙汰です。それ以前に鉄道に乗る機会がほとんどないので、そろそろ名古屋近郊のJR線に乗りに行こうとも思っています。ロングレール化していない線区は、乗っていても気持ちがよいです。しかし、JR世代の車両ばかりになった今、どんな車種が来ようとも国鉄車両のように気に留めることがなくなってきました。キジは近くの田畑でも見かけますが、殖えているみたいですね。
うちの381系幌付きしなの号は増結セットだけの増備ですが、手を加える時間がありません。