先々週から、国鉄末期まで続いた武豊線にあった朝の9両もの長大編成の急行編成と、その継承列車である高山本線の急行列車の関係について探ってまいりました。
先週は、昭和30年代前半に開始されたと思われる「しろがね」号の前運用での武豊線の1往復を、2等級の廃止をまたいだ約10年間にわたって見てまいりました。その間一時的に混雑する通勤列車でも「キロ」を1等車~グリーン車として営業していたらしいことがわかりました。
そして主なダイヤ改正や修正のたびに発刊された名局版時刻表によれば、武豊線の当該列車の運転形態は、わずかな時刻の変更や列車番号の変更、名古屋駅到着ホームの変更がありましたが、国鉄末期まで大きな変化は見られませんでした。(名局版時刻表 昭和61年夏 からの引用画像)
もちろん、この列車の名古屋駅到着ホームが変われば、継承列車の高山本線直通急行列車の発車ホームもきちんとリンクして変わっています。この間、武豊線普通列車が名古屋に着いてから高山本線急行が発車するまでの間隔は、時刻改正のたびに微妙に変わっていきますが、調べてみると間隔(停車時間)は最短6分、最長でも17分ですし、国鉄最後の61.11ダイヤ改正直前までの長期間にわたって、終始東海道本線の4,5,6番線を使用しています。61.11ダイヤ改正後は、到着ホームが主に関西本線用に使用される12番線に変更されていますが、このときのりくら1号も、同じように12番線からの発車に変更されていますから、国鉄時代には両列車の関係が崩れることはなかったはずです。(名局版時刻表 昭和61年11月ダイヤ改正 からの引用画像)
<名古屋着発ホーム変遷>
S47.3.15ダイヤ改正直前まで
武豊線普通列車6番ホーム着 高山本線急行6番ホーム発
S47.3.15ダイヤ改正以後
武豊線普通列車5番ホーム着 高山本線急行5番ホーム発
S60.3.14ダイヤ改正以後
武豊線普通列車4番ホーム着 高山本線急行4番ホーム発
S61.11.1ダイヤ改正
武豊線普通列車12番ホーム着 高山本線急行12番ホーム発
武豊線内での運転形態がほとんど変化がなかったのに対して、高山本線直通急行列車のほうは、この期間に、数々の変化が見られます。
まず、昭和45年10月1日から、それまで名古屋を午後発車する急行に併結されていた越美南線直通の急行「おくみの」が、この武豊線普通列車継承列車の「しろがね」に併結されるようになっています。(名局版時刻表 昭和45年 秋版 高山本線下りページからの引用画像)
そのあと、昭和47年3月15日から本体の「しろがね」は富山行に改められ、愛称は「のりくら1号」に改称され循環運転がなくなっています。このまま縮小傾向で分割民営化に進むのかと思えば、時はまだ昭和40年代で、まだまだ長距離の直通運転は行われていました。昭和48年10月1日からは、のりくら1号編成の付属編成を、季節列車として富山から延長し富山地方鉄道の宇奈月温泉へ乗り入れる形で、急行「うなづき」の運転が開始されたのでした。(日本交通公社 時刻表 昭和49年3月号からの引用画像)
急行「うなづき」は季節列車とはいっても、準定期列車と言ってもよいほど運転しない日が少なく、四季をを通して設定されていました。循環運転なきあとの朝の高山本線直通急行列車は「のりくら1号富山行・おくみの号北濃行・うなづき号宇奈月温泉行」という3つの行先を持つ列車になったのでした。しかし私が車掌になってしばらくしてから、明らかな凋落傾向が続くようになりました。
まず昭和57年5月17日ダイヤ改正時には急行「おくみの」の直通運転が取り止められました。翌シーズンの冬と夏には臨時として一時的に復活しましたが、その後は続くことはなく、急行「うなづき」のほうも、運転設定日が減って昭和58年夏の運転が最後となりました。そのあとは急行のりくら1号は単独の9両編成での運転になっています。(日本交通公社 時刻表 昭和59年2月号からの引用画像)
これで安泰かと思えば、昭和60年3月14日ダイヤ改正では、1両減車され8両になっただけでなく、グリーン車を含む6両は途中の高山で切り離される運用になり、末端の高山~富山間は、自由席車2両だけのさみしい編成となってしまいました。(日本交通公社 時刻表 昭和60年3月号からの引用画像)
翌年の国鉄最後のダイヤ改正(61.11)では、さらに2両減車されて、富山行2両と高山止4両の計6両に縮小されて分割民営化を迎えました。(日本交通公社 時刻表 昭和62年3月号からの引用画像)
<斜字部分2015.3.10追記>
この61.11時点では、私は専務車掌をしており、主にしなの号と幹線系普通列車に乗務していた関係上、武豊線に乗務する機会が一度もありませんでしたので、武豊線内の編成を知りません。61.11で「のりくら」を6両に減車しても武豊線の通勤時間帯の927Dで2両もの減車は難しいのではないかという疑問が残ります。実はヒントがあり、かなり前の記事で、ある方からコメント欄で「かすが」編成を併結して8両だったという内容のコメントも頂戴しています。ただし、きちんと記録を残してなく曖昧といったご発言でした。しかしそう考えると、927Dと「のりくら1号」が61.11で名古屋駅の着発線が関西本線用の12番線に変更になったことと、「かすが」が「のりくら1号」発車後わずか10分後同じ12番線から8:40発であったことから、武豊線927Dは国鉄最後のダイヤ改正時には「のりくら」「かすが」の併結列車だった可能性が見えてきます。(名局版時刻表 昭和61年11月ダイヤ改正 からの引用画像)
この関係については、いまのところ私に確証はなく疑問点となって残っていますが、かなり真実味があります。ちなみに私が乗務していたころ(60.3以前)は、以前記事にした1本前の武豊線920D~925Dが「かすが」編成で、その「かすが」の名古屋発時刻は60.3時点で8:17と23分も早い時刻になっていました。
<斜字部分2015.3.16追記>
再び追記ですが、61・11以降の運用と変わっていないはずである分割民営化直後の昭和62年夏から実際に関わった方から、927Dについて「8両編成中武豊方2両は名古屋駅12番線で分割して、201Dかすが号になった」旨をご教示いただきました。やはり武豊線内では8両で分割民営化後まで走っていたのでした。
このような経過をたどった武豊線の朝の長大編成と高山本線の急行の関係は、分割民営化後キハ58系のJR東海キハ85系への置き換えによって崩れたわけです。
この編成表を見るだけで、私が武豊線に乗務していた期間は、国鉄が凋落していった時期であり、同時に分割民営化というビジョンが鮮明にされつつあるなか、近距離エリアの輸送にシフトしていったことがわかります。
電化され新しい歴史が始まった武豊線に、こうした急行間合い編成があったことも、やがて伝説の世界になってしまうのでしょう。ほんの少しでも、ああ、そういえばそんな列車があったねと思い出していただければうれしく思います。
次週からは、この「のりくら編成」を使用した武豊線朝の長大編成922D~927Dに乗務していたときのできごとなどを「思い出の乗務列車シリーズ」の一環として、引き続き書いていきたいと思っていますが、そのまえに今週木曜日は、先週木曜日にアップした「電化直前の武豊線~車掌時代を思い出しながら」の「後篇」がございます。武豊線漬けになりますが、ご容赦ください。












この記事へのコメント
管理人しなの7号
唐獅子様 ご指摘ありがとうございました。
NAO
「おくみの」併結、急行「北アルプス」(たかやま?)の鵜沼停車、「のりくら銀嶺」「近江路」の列車名、全車指定席「しらさぎ」の食堂車、新垂井の時刻掲載方法.....。
いろんな個性ある役者さん揃いのミュージカルを観ているみたいです(舞台ものは地元の舞踊公演ぐらいしか観たことはありませんが)。
しなの7号
「昭和45年 秋版 高山本線下りページ」の引用画像の「しろがね」の右は急行「北アルプス」飛騨古川行で、両列車の間に入っている運転期間の表示は「北アルプス」の立山延長運転期間を示しています。この時期には夜行の「のりくら」にも季節運転の「むろどう」立山行を併結しており、本体の夜行「のりくら」も季節延長運転で能登線宇出津行でした。まさに百花繚乱。昔の時刻表は見ごたえがありますね。
ミュージカルには縁遠い私でありますが、会社で、鉄オタでもないのにやたらと関西の鉄道事情に詳しい女性が、ヅカオタであることが判明し、納得したことがあります。
鵡川宗次郎
緒川に親戚が居るので幼少のころは早朝に駅へ行き間合い運用の長大編成を良く眺めておりました。
とても懐かしいですね。
時刻表だけでなく、当時のサボからも武豊線とのりくらなどの結びつきがありましたね。
名古屋-武豊の片面にしろがね、こがね、高山線系統の物がよくありました。
しなの7号
緒川駅はすっかり別の駅になりましたね。
私は当時のサボの裏面を確認したことがありません。私が乗務している頃は、プラ製に変わっていました。TOMYTECから出ているミニチュアの「サボコレクション」に「表面・名古屋⇔武豊 裏面・武豊⇔多治見」というのがありますが、あれは入出区の運用で使われたのでしょうね。
サボの運用表が国鉄内部に存在したはずですが、そういう資料が残っているならば、ぜひ閲覧したいものですね。
こがね しろがね
しなの7号
昭和49年3月の時刻表からの引用画像で、X印みたいなマークはウイークデーに指定席券が100円になる列車でした(基本は300円)
中央西線の急行も同じ扱いでした。さらに格が低い?列車(中部地方だと、飯田線や身延線)の急行の指定席券は年間を通して100円で、そちらは三重丸の中心部が塗りつぶされたマークが使われました。のりくら銀嶺やのりくら51号にマークがないのは、休日や休前日の運転に限られていたからだと思われます(*^^)v
乗客の減少によって実態に合わせて短編成として効率化することはやむを得なかったのでしょうが、退職後に乗り鉄を始めた私としては、新しい車両による快適さとスピードアップというメリット以上に、座席数の減少によって余裕ある旅がしにくくなったことを痛感しています。
こがね しろがね
しなの7号
効率化優先で、乗客不在の改悪は避けてほしいものです。
高山本線の時刻表引用画像は「昭和45年 秋版」です。まだ短絡連絡線は存在しないころなので、鵜沼駅でスイッチバックしていた時代ですね。その後にできた短絡線もそのような状態でしたか。時の移り変わりは早いものです。
こがね しろがね
しなの7号
高山本線にロングシート・・・・
がら空きであれば、キハ25の広い窓からの車窓は視野が広くて、今までにない風景を楽しめましょう←かなりこじつけ気味です(*^^)v
高速バスは、近年自分の移動兼お楽しみ交通機関として有力な選択肢になっています。ただし夜行は除きます(^○^)
そういえば、若いころには夜行のりくらにも2度ほど乗ったことがあります。そのうちの1回は宇出津までの延長運転日でしたので、七尾まで直通利用しました。目的は蒸機の撮影でした。、昭和48年9月のことで、名古屋発は土曜日。併結の「むろどう」は少し指定席が売れ残っていましたが、「のりくら」の方の指定席は完売でした。それだけの需要があったのが信じられませんね。
大阪の愛知県人
指定券の“格差”マークも興味深かった記憶があります。
循環急行【しろがね】【こがね】は時刻表での憧れの列車で、【のべやま】【すわ】とは違って優等車連結という点に風格を感じました。
1975~76年は写真と並行して編成記録のメモも時々とっていました。例えば75年7月20日の【のりくら1号】【うなづき】【おくみの】の編成は次のとおりでした。また、発着番線は5番線でした。
↑武豊・豊橋方
キハ58 424
キハ28 2111
キハ58 430 (ここまで【うなづき】編成)
キハ28 2159
キハ58 479
キハ28 2088
キハ58 474
キハ65 509
キロ28 127
キハ58 429(ここまで【のりくら】編成)
キハ26 244
キハ55 108(55系2両は名古屋で連結の【おくみの】)
↓岐阜方
ちなみに、この日は817発東舞鶴行【エメラルド2号】5両編成の姿も見えました。
こがねしろがね様の『国鉄民営化と地方経済の衰退が、たまたま同じ時期に重なったとは思えません。』とのコメント、私も全く同感です。投資の株価チャートで気付いたですが、85年プラザ合意~バブル経済で日本はピークを迎え、90年以降のバブル崩壊で衰退の歴史へ踏み込んだ。そのバブル真っ只中に国鉄分割民営化が行われました。これは「効率化」「利益優先」即ち「過疎化の進む地方が一層衰退する」ことを意味していました。
今北陸新幹線などに沸き立つ一方、JRから切り離された在来線が第三セクターで苦難の道を歩むのも、こうした歴史の流れなんだなぁと感じています。
こがね しろがね
改正後も少しは残るキハ40系も乗る機会はかなり減りそうで、国鉄を感じるものが無くなっていくことは、心情的にも寂しいのですが、国鉄時代よりも利便性や快適性も損なわれてきているのでは・・・と思っている利用者も多いのではないでしょうか。武豊線のように、民営化後に利便性が向上したは稀でしょう。
さて、次回はラッシュ時の急行車両の長大編成のお話。木曜日が楽しみです。
北恵那デ2
ヒデヨシ
なかでも「おくみの」
武豊線とは関係ないと思っていたらあったんですね。
名古屋から車輛もおくみの編成に乗車
知識ではキハ55使用だと思っていましたがすでにキハ58系(非冷房車)でした。
美濃太田で2両は切り離され進行方向が変わり越美南線へ。
あとは線内普通列車で今まで急行だった事は忘れ去られてしまいます。
直通と言うより単に接続の列車が乗り換え無しみたい。
武豊線の反対パターン?
郡上八幡などの観光客目当ての列車でしょうが線内もせめて快速列車でなければ併結の意味がないと感じました。
しなの7号
私が乗務していないころの編成記録のご披露ありがとうございます。
私が武豊線に乗務するようになったのが1981年でしたから、その6年前ですね。そのころとは微妙に編成内容が違っていることがわかります。
まず、「うなづき」編成が3両あり、武豊線内も10両運転ということです。来週、1981年の編成例をアップする予定ですが、「うなづき」編成は2両でした。(本文では当初から「うなづき」が2両だったような表現になっていますので、訂正させていただきました。)
基本編成はたぶん美濃太田車だと思いますが、キハ65も混じっていますね。これはのちに名古屋第一に転属したはずで、私が乗務していたころには、この列車にはキハ65は入りませんでした。キロ28は2000番台でなく単独冷房なので、隣のキハ58429が冷房車であればキハ65509から冷房電源を引いています。梅雨明け~真夏の時期なのに、「おくみの」はキハ55系で非冷房とは悲惨ですね。
後段のご意見はまったくおっしゃるとおりだと思います。バブル経済で沸き立つ日本に、給料の削減とミスに付け込んだ退職勧奨による雇用不安等々、真逆の環境に立たされた元国鉄職員として、再就職先での常識に、国鉄と違った「ぬるま湯」感を知りました。その感触はその会社だけでなく日本そのものの常識であることを知ると同時に、必ず会社も国鉄と同じようなことになる日が来ることを覚悟しておくべきだと思ったものですが、それは意外にも早くバブル崩壊という形で会社だけでなく日本中が旧国鉄と似た状態に陥ったのでした。
しなの7号
高山線のダイヤ改正後の普通列車の運用が気になりますね。特定の混雑する列車にロングシート車を導入することは必要ですが、うまく運用を分けていただきたいものです。
最近は特に鉄道を利用する機会が少ないので、偉そうにものが言えません(^_^;)
出かける時も総合的に考えて鉄道の旅が最も最適と思えることが、明らかに減ってしまい、それは昨今の鉄道に魅力が感じられなくなりつつあることを示していると自己分析します。国鉄形車両に乗って郷愁の旅をすることすら叶わないほど時は流れました。
こがね しろがね
新幹線開通で便利になってもいいはずの高山線北部が、全く変化がないのも、分割の弊害ですよね。
このように書くと、分割民営化したから北陸新幹線が出来たんだと反論されそうですが、国鉄を民営化することも、新幹線を造ることも、そのために在来線を分離することも、更には、雇用不安が一般化することも、根っこは同じだと私は思っております。
しなの7号
おそらく武豊⇔多治見のサボは43.10時点の列車番号では828Dですね。日中の塩尻発武豊行で、このサボは多治見からの増結編成で使われたのでしょう。恵那から多治見まで明知線車両の入区回送を兼ねたキハ52X2を併結していた時期(いつだったか忘れましたが)もあり、多治見で本編成キハ28X2の前寄りでは恵那からの2両を切り離し、後寄りでは武豊行を含んだ数両を増結という列車でした。新垂井経由のローカルも懐かしの列車ですね。今回は1つの列車を縦に見てきましたが、私も横のほうに目がいってしまう場面が多々ありました。それほど昭和の鉄道には面白さがあったのだと思っています。
しなの7号
「おくみの」ですが、私が乗務していたころは、武豊からの列車が名古屋到着した時に増結するパターンでした。それ以前に「おくみの」編成が武豊から通していた時期があったかどうか不明でしたので、《武豊線普通列車継承列車の「しろがね」に併結されるようになっています。》と、あえてはっきり書きませんでした(^_^;)
紛らわしくて申し訳ありませんでした。
幸い、大阪の愛知県人様から1975年時点での編成表をコメント欄にアップしていただき《55系2両は名古屋で連結の【おくみの】》と明示していただいたことにより、「おくみの」は一貫して名古屋で増結の形をとっていた可能性があり、武豊線に直接入っていたわけでない可能性が高くなりました。私が知る武豊線の最大編成は10両ですので、それ以上の長大編成は無理だったのでしょう。同時に、アップしていただいた編成表からは1975年時点でもキハ55系を使っていたことがわかり、これも貴重な資料ですね。
「おくみの」は本文にも書いたように、昭和45年10月1日より前は、名古屋を午後発車する急行に併結されていました。たぶん昭和41年10月のデビューだと思うのですが、そのときの時刻表によれば、美濃白鳥まで急行で、そこから北濃までは普通列車になっています。上りは折り返し運用ではなくて北濃を午前中に出ており、北濃からいきなり急行となっていました。
しなの7号
富山~高山のアクセスは、もっと考えてられてもいいように思えますが、JR2社ともにメリットがなければ力の入りようがありませんね。「しらさぎ」の富山直通がなくなるものの、今後も名古屋圏から「ひだ」で富山へ直通できるので、高山線が通過線として躍進することを期待したいところですが…やはりおっしゃるように分割の弊害ですね。
私は中山道歩きをした者ですが、明治以降に鉄道が開通したことによって中山道をはじめとする旧街道に大変革が起こったことを、新幹線開業と同じように考えています。妻籠など一部は観光地としてにぎわいを見せていますが、大多数の宿場町は本来の役目を終えた後は寂れ果てています。
p.s.次回は先週木曜日の続き「電化直前の武豊線~車掌時代を思い出しながら(後編)」になります。来週以降月曜日に武豊行922Dから927D名古屋行という順にアップしていく予定です。
ラモス
時刻表で過去を推理するなんて、探偵小説みたいですね。
私の義父も運転士をしていたそうで、駆け出しの頃の話として武豊線や、しろがねの話が出てきます。
中津在住で中々会えませんが、昔のこういった話を聞くのはタイムスリップしたみたいで楽しいです。
しなの7号
特定の列車を何冊もの時刻表で過去に遡って眺め、自分なりにその実態を導き出していくことは新たな楽しみだと感じます。
多くの「昭和の鉄道員」によって国鉄のエピソードがまとめられれば面白いでしょうね。
奥飛騨号
私は生まれ育ちが岐阜県高山市で、自宅が高山線沿線にあり、高校生までの学生時代がモロ「急行のりくら」の時代でした。
なので…高山周辺の「急行のりくら」はよく知ってましたが、名古屋口の「急行のりくら」の事が少し知れたのが嬉しくなりコメントしました(^-^)。
当時、「武豊線」と「急行かすが」に「急行のりくら」が絡んでいたなんて知りませんでした。記事を読んでいる間、楽しくて仕方がなかったです。
急行「おくみの」連結に関しても、のりくら廃止後に知った次第ですf(^_^;。
そのかわり(⁉)、急行「うなづき」連結はうろ覚えではありますが、記憶に残っています。
武豊線電化前に走っていたキハ75、キハ25が今、高山線で活躍していますので、今でも武豊線との何かしらの縁があるんだなぁと感じました(^^)。
私にとってうれしい貴重な知識となりました、ありがとうございますm(__)m。
そして、突然のコメント失礼しましたm(__)m。
しなの7号
私は、かつての岐阜県人でありながら飛騨地方とか高山本線は自分が国鉄に入るまで縁が薄く、はじめて飛騨地方を夜行の「のりくら」で乗り通したのは高校生になってからでした。今では信じられないですが、乗った列車の本編成は宇出津行(金沢経由)・キハユニ26を含む富山止編成に加え、2両の立山行「むろどう」を併結していました。気動車ならではの複雑で末端区間まで直通できる特性を最大限に発揮した「のりくら」は興味深い列車でもありました。その変遷を一部ではありますが古い時刻表で追っていくと、時代によって意外な事実が判ったり推定できたりして楽しかったです。偶然にもお目に留まり見ていただけたことをうれしく思っています。ありがとうございました。
よしの
高校時代キハ58、キハ57系のりくらへ名古屋岐阜ミニ周遊券で、乗車しました。急行気動車は、これしか、乗った事ありません。だから、特別な想いでです。
これからも、ブログ楽しみにしています。
しなの7号
ご覧いただきありがとうございます。
車掌として武豊線に乗務し始めたのは、チャレンジ20000キロが始まった翌年でした。そのあと「青春18のびのびきっぷ」が発売されると、大垣夜行から大府で乗り継いで武豊まで1往復される方がさらに多くなりました。大垣夜行から大府で接続する列車は、「のりくら編成」の前を走る「かすが・平安編成」の920D(キハ58系普通車編成)でした。ただし920Dは休日運休でしたので、休日は「のりくら編成」の922Dで武豊折返し927Dということになりました。
乗務関連の新規記事の予定はありませんが、バックナンバーでお楽しみいただけたら幸いです。