【566】 電化直前の武豊線~車掌時代を思い出しながら(後篇)

先週の【564】電化直前の武豊線~車掌時代を思い出しながら(前篇)の続き

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私がその日乗車した武豊行列車は、ここまで緒川、石浜と、すっかり国鉄時代と雰囲気が変わってしまった駅が続いたが、このあとは東浦、亀崎と比較的国鉄時代の面影を残す駅が続く。東浦・亀崎間は、武豊線内では駅間距離がいちばん長いので、車掌時代にはこの区間で上下列車とも車内巡回をすることが多かった。
その次の乙川の木造駅舎はなくなっていて、鉄骨造の簡易な駅舎に変わっていた。駅裏も大きくかわり、新しい商業施設が軒を並べている。国鉄時代にも別の大型ショッピングセンターがあったが、大駐車場は完備していたものの、武豊線の列車を降りても駅裏へ直接出られる通路がなく、かなり遠回りする必要があった。現状も車窓から似た限りでは同じで、商業施設側は武豊線の客を相手にしていないように思え、そこのところは変わっていない。
その次は武豊線の主要駅半田。木造駅舎とホームのほか、1910年(明治43年)に完成したJRの跨線橋の中では最古の跨線橋が現存する。隣接してレンガ造のランプ小屋もあって、国鉄時代の面影をもっとも残している。
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以前【146】保存鉄道車両訪問2:半田市 C11 265 でも紹介した蒸気機関車が車内から見える。その記事に使った写真を撮ってから4年が過ぎようとしているが、今では立派なナンバープレートが取り付けられたC11 265はさらに美しく、というより今にも走り出しそうな状態に磨き込まれていた。この付近一帯を鉄道公園のようにして、美濃太田車両区の片隅に今も残る数両の国鉄車両にキハ40なども加え、ここに移送展示できるものならと、無責任ながらそう思ったりもする。

半田を過ぎると東成岩。“ひがしならわ”と読む。貨物専業鉄道である衣浦臨海鉄道が分岐している関係で、国鉄時代は駅に運転従事要員としての駅員はいたものの、旅客要員は配置されていなかったので、切符は車内で車掌が発売し、集札も車掌の仕事になっていた。乗降客は少なかったが、駅に接して大手製鉄会社の工場があった関係で、単身赴任の帰省客や、出張で遠方から来た人に、車内で高額の乗車券を新幹線自由席特急券付で発売するケースがよくあった。
遠方から出張で来る人は、車内で名古屋市内着の乗車券を差し出して、「“ひがしなるいわ”まで乗り越し」と間違えて申告されることがあったし、逆に正式駅名を知っているはずの地元客が“東”を省略して「“ならわ”まで1枚」というのが普通であった。ちなみに近くを並行している名鉄河和線に、本家?の「成岩」駅がある。

そして次は列車終点の武豊。 
【279】武豊駅乗継詰所での思い出に出てくるホームの大府寄りの端にある乗継詰所は、今もそのまま残っていた。
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詰所のそばの伊勢湾・三河湾に囲まれた知多半島をイメージした池もそのままあり、金魚が泳いでいたが、その知多半島部分に土管とコンクリートを使って手造りされた「野間灯台」は上部が壊れていたし、あまり手を加えられてはいないようだ。
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駅前に出ると、広場では【255】武豊駅の高橋駅手でご紹介した 高橋駅手が迎えてくれる。
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かつて乗務員宿泊所として2階の和室を間借りしていた民家もまだ健在であった。こういうのを「民泊」と言ったが、もちろん今はこのような形態の乗務員宿泊所はないだろう。国鉄時代には2週間に1回はここで泊まった時期があったが、あくまでも2階の間借りであって、1階にはその家の人が住んでいた。夜遅く来て朝早く出ていく乗務員は、その家の住人と顔を合わせることはまずなかったが、1階玄関そばにあったトイレを使わせてもらっていたので、ばったり出くわすことはあった。しかし風呂は使わせてもらえず、真夏にはせめてシャワーだけでもほしかった。
【254】 武豊泊りでの思い出

どう考えても宿泊施設としては最低だったから、尾張森岡の上屋と集札箱の件と同様に、武豊駅構内に乗務員宿泊所を新設するよう労組を通じて再三にわたって当局に申し入れても、「困難である」との回答だった。そして1982年(昭和57年)関西本線の電化が完成し、次の電化予定は武豊線か高山線の美濃太田かと言われるようになると、その回答が「武豊線電化の中で乗泊新設を踏まえて計画していく。」という回答に変わった。
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その電化計画は分割民営化が具体化してくると立ち消えのようになって、それから33年を経てやっと実現したことになる。乗務員宿泊所のほうは、国鉄最末期に武豊駅舎内にカプセルホテルタイプのベッドユニットを入れた宿泊所ができたというが、それは私が専務車掌になってからのことで、そこに泊まったことはなかった。
そして今は車掌が武豊に泊まることさえないと聞く。

何度も来た武豊には、恥さらしのような思い出もある。
【256】 武豊駅~入換作業の失敗談
今はホームのはずれで線路は行き止まりだから、そのような失態は起こり得ないが、私が乗務していたころは赤さびた線路がその先に延びていた。
実は武豊駅は、この先にある武豊港に面した場所にあった旧駅(のちに貨物駅「武豊港」(たけとよみなと)駅になる)から、開業の6年後に現在地に移転したのだという。そこで武豊線開業時の旧駅跡地まで線路の跡をたどって約1㎞歩いてみた。そこまでの廃線跡のほとんどが道路で、旧駅跡地は小公園になっており「武豊停車場跡地」の碑とともに、発掘された貨車用転車台が保存されている。
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この場所こそが、中部地方の鉄道が始まった記念すべき地であるのだが、私がここへ来たのはこの日が初めてであった。と、同時に気動車で訪れた最後の日でもあった。新しく生まれ変わろうとする武豊線と、その歴史の原点を見たあと、私は武豊駅に戻った。出改札窓口はシャッターで閉鎖されて駅員はおらず、券売機とインターホン、簡易自動改札機が設置された駅は、がらんとしていた。キハ75のエンジン音が響くばかりの駅を守っているのは高橋駅手…というより高橋駅長ひとりだけなのであった。
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この記事へのコメント

  • NAO

    私が武豊駅を再訪したのは、就職してからのとある休みの日に知多半島へドライブに行ったときであった。
    当時、名古屋都市高速から接続していた知多半島道路は片側一車線で、どこかで一般道路と平面交差していてもおかしくないようなのどかさで、道路ぎわの簡易パーキングエリアの看板も「便所」と書かれた表示板、何年も逆戻りしたような雰囲気であった。ダジャレではないが、前々の記事のコメントでキジが飛んでいたとお書きになっていたのも頷ける。
    帰りに武豊駅に寄ってみた。正直に記すと、実は駅自体の変貌を確認しに行ったわけではなく、当時競馬をかじっていた私がお守りがわりとして入場券を買うのが目的であったという不届き鉄である。であるから駅の再訪の印象は全く残っておらず、窓口から水色磁気切符が出てきたのを覚えているだけだ。
    その後国道247号線を通って並行する衣浦臨海鉄道をしばらくたどってみたが、これもたまたま予期せぬ貨物線が現れただけのことであって、本来の目的は衣浦トンネルをくぐってみたかっただけの、さらなる不届き鉄、この場でコメントするなど無礼千万甚だしい。
    2015年03月12日 13:11
  • しなの7号

    NAO様
     さかんに「不届き鉄」とおっしゃるが、普通列車で朝っぱらから缶ビールをずらりと並べるようなどこかの元国鉄職員を含むオッサン3人組よりは、よほど正常なのではあるまいか。
    【59】清酒ん18きっぷの旅2010.8.28:松本
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201008article_15.html

     武豊駅の入場券はそのような理由で買われることも多かったらしい。かつて、太多線の可児駅が「広見駅」と名乗っていたころも、郷ひろみ、岩崎宏美、太田裕美のファンが入場券を買うケースがよくあったという。
     知多半島の末端まで遠い武豊で線路が途切れる武豊線は知多半島観光には使いにくい。だから私も知多半島巡りには自動車を使う。のどかでありながら便利な知多半島道路もよいが、私は海岸沿いの一般道が好きだ。師崎から船に乗れば篠島や日間賀島へも渡れる。国鉄を退職したその年、再就職先の旅行で初めて知多半島道路と船を使って日間賀島へ行ったことがあるが、島内で見た軽トラックに小型乗用車の白いナンバープレート(名古屋55*○○○○)が付けられていたことに非常に驚いた。この島では車検を受けているのだろうか?軽自動車税は納めているのだろうか? 私が住んでいる同じ愛知県でありながら日常ありえないことが起こっていたのだ。知多半島はよく見るとイタリア半島に似ている。この一帯は日本ではないのかもしれない。
    2015年03月12日 14:24
  • やくも3号

    なるほど、知多半島はイタリアに似ている気がする。北部は工業化が進んでいるが、中部は軽工業、南部は農業と観光がメインという産業構造までが一致している。もちろん、本家イタリアのような極端な南北格差やマフィアの台頭は知多半島ではありえないが、北中部ヨーロッパの住民が抱くイタリアのイメージと我々が抱く知多半島のイメージはいずれも「南へ旅したターミナル」という点では同じなのではないかという気がする。
    2015年03月12日 16:18
  • しなの7号

    やくも3号様
    「不届き鉄」の私としても、「南へ旅したターミナル」のイメージはある。南部の海沿いは特に良いから、どこかの元国鉄職員を含むオッサン3人組も行ったことがある。
    【145】「50代5000円でGO!」2011.3.5:知多
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201103article_2.html
    イタリアでは「デカメロン」を書いたボッカチオ(たしか中学の時に習ったぞ)がいるように、知多半島でも有名文学者新美南吉が半田から出ている…ってそれはこじつけであり、メロンは隣の渥美半島が有名だったりする。
    それと、西ローマ帝国が滅亡したように、平成の大合併のとき南セントレア市などというくだらない市名を掲げ合併を目論み、非難の嵐の末に滅亡?したこともあった。
    2015年03月12日 17:10
  • 田端車掌区レカ

    上野東京ライン開業前夜、さぞかし各現場では多忙かな?案外、粛々と進めているかも。この区間で思い出すのは線見だけして一度も乗務しなかった秋葉原~田端操間の貨物列車。
    行路には入っていましたが当日ウヤになったりで乗務しませんでした。経路は秋葉原~上野~常磐線に入り日暮里~東北線の脇を通って東北線の下をくぐり田端操まで運転の列車でした。たぶん同期の連中も乗務していないはず。開通、試運転のニュースを見ていて、かなわなかった秋葉原仕立ての貨物列車乗務と当時の秋葉原の構内を思い出しています。2000頃の運転でラッシュの最中、上野~日暮里間の電車線をトコトコ通過するというものでした。(先輩談)
    2015年03月12日 22:49
  • 大阪の愛知県人

    >知多半島はよく見るとイタリア半島に似ている
    そのとおりで、南知多町師崎にはバブル直後に作られたリゾートマンションがあり、名称はそのものズバリ『チッタ・ナポリ』。南欧の雰囲気が漂い、今でもきちんと管理運営されているようです。

    閑話休題、実家に近いのは乙川駅。かつては亀崎駅並みの駅舎があり、駅員さんが転轍機を動かしに出たり、タブレット閉塞機の作動音が甲高く聞こえたものです。

    現在は半田駅隣接地に展示されているC11 265は、かつて乙川駅南東の市民ホール(現在はジョーシン店舗)敷地内にありました。C11現役引退後、乙川駅の貨物用側線から仮線を市民ホールに引き込んで搬入した光景を覚えています。
    駅南西は70年頃までは溜池、その後ユニー~カインズ及びパチンコ等の商業施設が建てられるも、一貫して駅から出入りは不可能ですね。これは往年の駅北側商店街の反対運動にJRが何ら反意を示さない結果のようです。

    東成岩の隣接製鉄会社はJFE(旧川崎製鉄)の事ですね。かつては東海市の新日鉄の方が格上?とか言われたものですが、今は事故続きの新日鉄よりもJFEの方が業績も株価も勢いがあります。更に半田市では富士重がボーイング機材の新工場を稼動するそうで、武豊線が活気づくことを期待したいもの。
    2015年03月12日 23:16
  • ぱす

    盛り上がってるところへ水を注す様で申し訳ありませんが、最近就任の経団連の会長が半田高から名大を経て東レ社長の様で……東レとトヨタがメインバンクが同じで、トヨタはJR東海の大株主だったかと。憶測しますと武豊線電化に結びついたのでしょうか?師崎は今やアイドルグループSKEの聖地とかで人気スポットとされていますが、知多の観光では名古屋鉄道常滑線が中部国際空港に入ってますね。
    2015年03月13日 02:45
  • こがね しろがね

    小さな島へ旅すると異国に来たような光景を目にすることがあり、自動車のナンバープレートの無いクルマだらけだったことは何度かあります。駐在所のパトカーはさすがに付いていましたが。そういう島は自動車リサイクル法の治外法権のようで、動かなくなってしまったクルマが部品取りされて、草に埋れています。古いクルマの比率も高く、そちらが好きな方には良さそうですが、鉄道車両はそういう訳にもいかないですね。

    私も武豊線に乗った時は、武豊港は何処だろうかと歩いてみました。半田の鉄道資料館は中に入れず、イワシ料理屋も行けず、大府へ戻りました。知多半島は鉄道と道路に関しては便利になってきていますですが、一般路線バスはひどいことになってしまっています。公共交通全般の改善という目標を設けないと、せっかくの電化も効果が挙げられないのではないでしょうか。
    2015年03月13日 09:05
  • しなの7号

    田端車掌区レカ様
    秋葉原で貨物営業をしていたのは、私が就職する前のことと思います。乗務線区ではなかったものの、秋葉原・御徒町には汐留や品川での折り返しの手待ち時間によく買い物に出かけたので、そのときには国電の車窓からは貨車のいない敷地しか見えなかった記憶です。終末期になるとウヤのほうが多い貨物列車というのは、私どもでは岡多線の普通貨物列車がありました。汐留をはじめとして各地の貨物駅の跡地が、それとわからないような風景に一変していることで、時の流れを感じます。
    2015年03月13日 11:43
  • しなの7号

    大阪の愛知県人様
    私は山の人間ですので、海を見ると遠くへ来た感じを抱くのですが、お手軽リゾート気分で行けるのが知多です。しかし武豊線では、その交通手段とはなりえないのが残念です。乙川時代のC11 265は覚えています。乗務中に佇んでいる姿はいつも見ていましたし、一度子供を連れて見に行ったこともありました。乗務中、東成岩の工場敷地内から一筋の黒煙が見えることが時々あり、工場内に小さなSLでもいるんじゃないかと気になったことがありましたが、あれは移動式蒸気クレーンだったのかな?
    2015年03月13日 11:43
  • しなの7号

    ぱす様
    そもそも愛知県そのものが、トヨタがコケたらコケるようなところです。おっしゃるようなつながりがあるのなら影響することがあるかもしれないですね 。しかし電化完成なるも、地元以外には話題性がない武豊線。経済効果は目立ちませんし、JR内部の効率化がメインで、副次的に二酸化炭素の排出削減による環境効果が出るくらいがメリットと見るべきなのでしょうか。
    乙川から中部国際空港へ 延長する案もあったやに聞いていますが、あまり現実的ではなかったように思っていました。南方貨物線があれば武豊線、城北線、愛知環状鉄道とつなぐとか夢物語しか浮かびません。
    2015年03月13日 11:44
  • しなの7号

    こがね しろがね様
    私は地に足がついていない乗り物はダメなほうなので、小さな島に行った経験はほとんどなくて、船を使わないと行けないようなところは日間賀島・篠島と琵琶湖の竹生島くらいのものです…

    そういえば四国で、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の終着駅奈半利からバスで阿佐海岸鉄道の終着駅甲浦まで来たときのこと、列車まで時間があったので甲浦港あたりをぶらぶらしていたら、黄色く塗った木板にへたくそな手書きで書いたナンバープレートを取り付けた軽ワゴン車が止まっているのを見ました。

    実は、この武豊線行きのときに半田市鉄道資料館にも立ち寄ってきました。
    「【145】「50代5000円でGO!」2011.3.5:知多」のときも、バス連絡がわるく、2回もタクシーの世話にならざるを得なかったので、5,000円予算を大きくオーバーしてしまったのでした。
    2015年03月13日 11:44
  • ヒデヨシ

    しなの7号様おはようございます
    確かに東浦以南は国鉄時代の駅や構造物が残っていますね。
    北側は高架により緒川駅舎や付近の線路、
    大府駅舎、武豊線の貨物列車用出入線(かつての本線)のレンガ橋脚の五ヶ瀬川鉄橋
    そういえば武豊線内の駅舎は大府、緒川、亀崎、東成岩、武豊と全国的には少数派の妻入りの駅舎が多いです。
    半田駅の跨線橋は最古と呼ばれるだけあってビックリするほど狭いですね。
    武豊駅が現在駅員無配置なのは驚きました。
    2015年03月15日 10:59
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんにちは。
    武豊線では武豊駅以外、正面から駅舎を見ることはなく、いつも列車から見るしかありませんでしたので、正面から見た旧駅舎のイメージがまったく湧きません(^_^;)
    車両が変わり、駅舎も変わり、国鉄の遺物はことごとく消え去っていきますが、半田駅は建物設備を文化財として活用すべきでしょう。その半田は武豊線唯一の有人駅で、線内には「集中旅客サービスシステム」というのが導入されていて、ほかの駅はすべて無人で、券売機と自動改札対応、案内はインターホンでオペレータがするんですね。たまに乗る乗客はとまどうでしょうね。
    2015年03月15日 13:51
  • 鉄子おばさん

    お疲れ様です。記事はトワイライトエクスプレスのラストランを見送りに大阪へ向かう列車の中で読ませていただいたのですが、トワイライトエクスプレスが引退してトワイライトロスにかかりコメントが今日まで延び延びになってしまいました。涙まだ涙で花粉症でかゆい目がはしるのです。北日本の天候が心配されましたが、本当にいいラストランで翌日はカラオケボックスで「ありがとう」を大声量で歌い労を労いました。東成岩と言う駅名ですが、早速時刻表で確認しました。普通に読むとひがしなりいわですよね。私の地元の駅は「香登」と書いて「かがと」と読みます。福知山からラストランの183系に乗ったあと帰りの切符を買う時、自分の作った行程表を見せて「このルートの切符をください」と言うと「これはどう読むんですか?」と訊かれました。
    2015年03月16日 11:04
  • しなの7号

    鉄子おばさん様
    別れはいつも辛いものです。
    新幹線延伸開業のたびに歓迎のお祭りムードに沸く報道の陰で消えていく列車や鉄道のほうに想いを寄せることが多くなりました。ただ、私の場合は人ごみがダメなので現場に立ち会いたいときは、ラストランの相当前に出かけて静かに別れるほうで、当日は多くの人に見送られて幸せだなと思ってテレビを見るパターンです。私はトワイライトエクスプレスには乗車する機会がありませんでしたが、北斗星には一度乗る機会がありました。そのときの乗車記念品?と映像を、次回アップしたいと思っています。
    「香登」駅を私は知りませんでしたし、もちろん読めませんでした。
    2015年03月16日 11:59

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