昭和50年代後半、私が乗務していた武豊線には朝2往復と夜1往復、急行編成を使った長大編成の普通列車が運転されていました。
朝の2往復のうち、名古屋発武豊行の一番列車920Dとその折り返し925Dは
【543】キハ58系の暖房調節~武豊線920D~925D
で、主に暖房調節のことについて紹介しました。
夜の1往復948Dとその折り返し953Dは
【328】思い出の乗務列車11:武豊線948Dのキニ28
【330】 思い出の乗務列車12:武豊線948D 編成の移り変わり
で、それぞれ紹介しました。
私の場合、臨時増結によって、夜の948D~953Dで10両編成を1度経験したことがありましたが、それを除けば、今週から紹介する朝の名古屋発の武豊行二番列車922Dと、その折り返し列車の927Dが、その当時(55.10 ダイヤ改正時)の武豊線の定期列車では最長の9両編成でした。この1往復のあと車掌は名古屋で乗務終了になりましたが、列車はそのまま高山本線経由の富山行「急行のりくら1号」に化ける事実上の直通列車でした。普通車として開放されたグリーン車が連結されたこの1往復には、実にさまざまな思い出が詰まっています。名古屋発の場面から、実際にあったことを思い出しながら綴ってまいりたいと思います。
列車は、名古屋駅では一番の920Dが発車した後に据え付けられるので、その頃に2人の車掌はホームに出場しました。仕事内容と乗務体制は、一番列車の920Dと似ており、この922Dも2人乗務で、1人は荷扱、もう1人が運転客扱担当(運転といっても、運転するわけではなく列車の運転に関連するドア扱や出発合図などを担当します。この場合は客扱も兼ねますので放送、車内巡回集改札なども担当します。)でした。そしてこの列車は最混雑列車となる折り返し927Dのための送り込み回送のような列車で、乗客は非常に少ない列車でしたが、一番の920Dと異なることは、休日運休ではなく毎日運転ということでした。ですから休日には922Dが一番列車ということになります。
1981年(昭和56年)10月29日
東海道本線~武豊線922D
運転区間 名古屋~武豊
乗務区間 名古屋~武豊
増2 キハ58 431 名ナコ
増1 キハ28 2196 名ナコ
7 キハ58 243 名ミオ
6 キハ28 2161 名ミオ
5 キハ58 786 名ミオ
4 キハ58 734 名ミオ
3 キハ28 2076 名ミオ
2 キロ28 2301 名ミオ
1 キハ58 713 名ミオ
増2増1=名41
7.6.5 =太13
4.3.2.1=太7
この時期(55.10改正後)には、ちょうど中間にあたる5号車が荷扱車両に指定されていた関係で、荷扱担当車掌は、その5号車の運転席近くの座席一区画に陣取りました。2人でお互いの仕事をカバーしやすいよう、運転客扱担当車掌も後部標識の確認をしたあとはドア扱いを主に中間の5号車で行いました。このあとの57.11ダイヤ改正時からは、編成は9両のまま、日によって美濃太田の3両運用と4両運用の位置が変わる場合が発生する変則的な編成になった関係で荷扱車両が後から4両目に変更となりました。この場合5両目がグリーン車になってしまう場合が出てきてしまうための措置だと思われますが、なぜ編成が2パターン発生したのかは私は知りません。
(A編成とB編成がありました、B編成が所定運用)
どちらにしても荷扱位置が最後部でなく中間車両に指定されるのには訳があります。それは武豊線内ではホーム長が短かく、すべての駅でホームから外れる車両があったからです。駅によって、前寄りで最大3両半、後寄りで最大3両半、前後両方がどちらも1~2両ずつホームにかからない駅も3駅あったので、中間車両でないと各駅ホームで荷物の授受ができないというわけです。ちなみに扱う荷物はきわめて少なく、車内の荷物スペースは4人ボックス1区画だけあれば用が足りました。それは、この時点では武豊線各駅の一般荷物扱が、基本的にトラックによる代行輸送に切り替わっていたことによります。
922Dで運んでいた荷物は新聞と国鉄内部の事業用書状でしたが、貴重品扱の特殊荷物もありました。荷主の休業日以外毎日定期的にあった貴重品荷物とは、汐留で前夜発送され深夜の荷物列車で東海道を下ってきた半田着の有価証券類でした。中身はおそらく株券または手形小切手の類だろうと思われます。このほか不定期であったのが、事業用書留。こちらの中身は、鉄道管理局から各駅へ送られる未使用乗車券類や職員の乗車証のほか、駅や車内で発見され持ち主がわかった乗客の忘れ物のうち財布など。これら貴重品扱の荷物は車掌が目の届くところで輸送中厳重に管理し、駅員と乗務員との授受の際は、特殊荷物用受授証の発行交付をして、控えに受領印を押してもらうことになっていました。朝刊は武豊着が7時前と時間的に遅いので、配達用でなくKIOSK売店の店頭販売用のようでした。このほか事前印刷の特集ページもあったと思われます。
ローカル線の小さな駅では限られた要員しか配置されていませんでしたから、少量の荷扱だけのために駅員がホームに出場することはできないので、線内のほとんどの駅では「単独受授」という方法で、荷物の受け渡しをしました。この方法は、ホーム上の荷扱車両が停車する付近に郵便ポスト状の単独受授箱を設置しておき、駅から発送する荷物とその受授証(上に示した特殊荷物用とは異なり一般荷物用の別様式)を、列車到着前に駅員があらかじめその箱に入れておき、列車が着くと、車掌は、到着荷物とその受授証を単独授受箱に入れ、同時に駅からの発送荷物とその受授証を取り出して車両に積み込むという授受方式で、乗務員が駅務を補助する取扱でした。車掌が授受作業を単独で行う方法なので単独受授と言われました。駅員は出札・改札・列車扱いの仕事が忙しいわけで、列車が発車してから到着荷物と受授証を単独受授箱で受け取るのです。小さな駅では扱う荷物が少量なのでこのような方式が、ローカル線では増えつつありました。セルフサービスというわけで、この単独授受箱は、いまでもJR駅ホームで、たまに見かけます。
もちろんの話ですが、前述の貴重品扱いの荷物は単独授受はできませんから、ホームに列車扱いで出場している職員と直接授受することになります。定期的に貴重品の到着がある半田駅では単独受授ではありませんでした。922Dは、ニレチと呼ばれる専務車掌(荷扱)でなくとも、こういうローカル線では普通車掌が荷扱を担当していた一例といえます。
運転客扱担当のほうの車掌は、車内巡回時には荷扱担当車掌に放送とドア扱をお願いしました。このような早朝に名古屋からこの列車に乗車するお客さんの中には、5時半すぎに九州から着く寝台特急「はやぶさ」から乗り換えた方がときどきありました、多くの場合、名古屋市内までの切符しか持っておられないので、この列車では「はやぶさ」からの乗り越し精算の乗車券をよく発行したものです。
この列車で最も注意すべきことは、武豊線内の短いホームからはみ出した車両から降りられない乗客や、転落する乗客を発生させないことでした。ここで、「転落する」という言葉を使ったので初めてお分かりになった方が多かろうと思うのですが、武豊線では後日紹介する折り返しの927Dの一部区間をを除きドアの締切扱を行いませんでした。そこで東海道本線との分岐駅である大府を出ると、必ず次のような放送を入れました。
「この列車は武豊行です。尾張森岡、緒川、石浜、東浦の順に終点武豊まで各駅に停まります。お客様にお知らせいたします。この先、武豊線内では各駅ともホームの長さが短いために、前寄りの車両や後寄りの車両がホームにかかりませんので、中程の車両からお降り下さい。次は尾張森岡です。尾張森岡では前2両と一番後ろの車がホームにかかりませんのでご注意ください。」
こんな調子で、武豊線内の1往復は各駅ごとに、
「次は○○です。前寄り○両、後寄り○両、それぞれホームから外れます。」
と放送する必要がありました。
たとえ乗客が少ないといっても、今から思うと非常に危険なことで、もし、転落事故でも起これば、まちがいなく国鉄のみならず乗務員個人の責任も問われそうなケースです。当然車掌としては問題意識を持っており、組合を通じて、長大編成の廃止を要求していました。また、そのころに某私鉄で転落事故があり、乗務員が業務上過失致傷容疑で取り調べを受けた例があったので、そのときにも組合側は、武豊線の長大編成における対策と乗務員の責任について当局側に問いただしたりしたこともありました。しかし当局として対策はなかったようで、すぐに結論を出せずにいました。もっともこの列車の乗客はほとんど常連さんであって、そういうアブナイ列車であることはよくご存じのようでしたが、寝台特急から乗り換えたようなお客さんなどは要注意ですので、車内巡回ではそういうお客さんの下車駅を把握して、必要に応じて一言掛けるなど案内が必要でした。幸いにも私の在職中には、乗客が転落したような話は聞いたことがありませんでした。
《武豊方面:キハ58系9両の場合にホームにかからない両数》
尾張森岡 前2.0両と後1.0両
緒 川 前2.5両と後1.0両
石 浜 後2.5両
東 浦 後1.5両
亀 崎 後2.5両
乙 川 後2.0両
半 田 前1.5両と後1.5両
東成岩 後3.5両
武 豊 前3.5両
この列車の荷扱は1984年の59.2ダイヤ改正で廃止されると同時に、編成もグリーン車の連結位置が編成中央部(前からも後からも5両目)に固定されました。荷扱が廃止されても要注意列車であったこの1往復は、その後も2人乗務のままで残され、荷扱担当車掌が乗務しなくなったかわりに増乗務のカレチ(専務車掌(客扱))が乗務するようになりましたが、乗務する機会がなかった国鉄最後の1986年の61.11ダイヤ改正以後の編成や乗務体制の実態を私は知りません。







この記事へのコメント
NAO
車両がホームを外れるというのは国鉄時代にはよくあったと思います。当時は乗客側にも自己責任の意識が多少はあったのではないでしょうか。一度、20系急行「だいせん」で大社線に乗ったとき、中間駅では座席車がホームにかかるように停めていたからか、たまたま開け放たれていた私の乗った寝台車の扉の外は雑草の生えた地面でした。長い編成なので、私には危なっかしいというより、ハミ出て当然、の感覚でした。
しなの7号
中間車での荷扱ですが、乗客数と荷物数は現場で全く問題にならないほど少数でした。
NAO様のように、国鉄時代に全国各地に乗車しておられると、ホームにかからない事例に出くわすことは経験されておられるでしょうね。そういう実態はご存じない方も多いものと考えますし、同時に社会全体が責任の所在に対する意識が変わりましたね。
信じられないかもしれませんが、地元中央西線でさえ、名古屋駅を含む中間駅で一部車両がホームにかからず、締切扱いもない列車は存在していました。現在プラットホームの側壁面に継ぎ足し跡がある駅をよく見かけますが、そうした歴史を伝えていると思っています。
管理人しなの7号
北恵那デ2
しなの7号
特殊荷物の範疇には、「報道用原稿類」というものもありましたが、これも電子化でなくなったでしょうね。運ぶものも時代とともに変わります。それで物流業界が縮小するわけでなく、逆に通販やネットオークションなどによる新しい需要が出てきて業界は拡大していきますね。
プラットホームがないところから乗車した経験がおありとは、いかにも昭和時代の方ですなあ^^
折返しの927Dにはそういうお客さんもいました。いずれ本文で、その様子をご紹介します。
JR東海の電車の乗務員室扉外側にドアノブが2つあるのが、プラットホームがないところから乗車するときの大変さを無言で教えています。国鉄時代にはそんな配慮はありませんでした。
NAO
しなの7号
別府鉄道、行けずじまいでした。
あの混合の展望車とバスケットカーはものすごく魅力的でした。「まともな客はひとりもいない」のかと思っていましたが、和服姿の高齢女性が利用していたとは驚きました(゜o゜)
NAO
土山線は別府港ではホームのない線路から乗るようになっていましたが、数年後の同じ時間に再訪したところ、貨車は無く二軸客車1両だけで極端さを感じました。作務衣を着た初老の男性乗客が颯爽とステップを駈け上がって乗り込まれ、土山駅では当然ホームで降車出来ましたので、これまた初回訪問とは極端さを感じました。
極端でなかったのは、どちらも洋服でない、「まともな客はひとりずついる」ことでした。
しなの7号
別府鉄道は休日には貨車がなく客車1両だけになったと聞いています。また盆正月だったかは、バスケット付気動車が代走することもあったように聞いています。一度行きたかった鉄道でした。
そういえば、宮脇俊三さんが、やはり貨物中心の鹿島臨海鉄道旧鹿島港南駅へ行かれた時は、和服のおばさん1人だけがまともな乗客でした。
大井町の住人
編成の一部がホームから外れる事例は、東京の大手私鉄でも散見されました。
ただし、当然ドア締切り扱いです。
関東郊外の江ノ電では通常2両編成ですが、混雑時は2両編成を2つつなげて4両編成で運転しています。この場合、一部の駅で増結編成がまるまるホームから外れ、ドア締切り扱いはいいのですが、編成間に貫通路がないため、手前の駅で車両を乗り換えておかないと、降りられないことになります。
一方、国鉄の話しですが、天下の東海道本線でも、15両編成の列車では小田原以西一部の駅で、編成の一部がホームから外れました。当然ドア締切り扱いでした。
武豊線とちょっと似た事例は、大糸線で165系急行アルプスの間合いの普通列車があり、急行通過駅の一部では、編成一部がホームから外れ、ドア開放していました。この列車グリーン車も連結していましたが、通路扱いでした。
当時、大糸線では急行の一部が末端区間で普通列車となり、グリーン車を営業していたので、公平性に考慮した措置かとと思います。
最後に、驚くべき事例を紹介させください。
山陰本線の保津峡駅です。この駅もホームから外れる列車があり、ドア開放していました。
鉄の方なら、ご存知と思いますが、この駅谷川流れる断崖絶壁の上にあり、特に上り列車でホームのないドアから落ちようものなら、がけ下何メータの谷川に転落のおそれもあったわけです。
当時まだ旧型客車が残っていたとはいえ、乗務員の方はさぞ気をすり減らしたことと思います。
ちなみに、12系化後の普通列車「山陰」もこの扱いでした。
しなの7号
私の知らない事例のご教示ありがとうございました。
ホームを外れる場合は、都市部では締切、地方では開放という傾向でしょうか。
首都圏の混雑した15両、私は在職中からはたして最後部から安全確認が物理的に可能なのか疑問に思っていました。個人的な経験では旅客列車の場合、12両が最長でしたが、特に夜間は非常に不安に思って乗っていました。今はITVなど補完する施設があったりしますが、中部地方の国鉄では、昭和50年代後半から視認困難な駅にモノクロの小さいブラウン管で非常に見にくいITVがボチボチ設備されるようになった時期で、それによって2人乗務の車掌が1人に減員されました。
保津峡の件ですが、これは怖いですね。私は高校生の頃「山陰」(まだ列車名称がなかったころ)に一度乗りましたが、保津峡は通過でした。京都発車時に「山陰線内ではホームが短いために云々…特に福知山より先の駅では2両または3両の車がホームから外れます」という注意喚起放送がありました。その放送(録音していました)が、武豊線のこの列車での車内放送に参考になりました。
大井町の住人
私が危険だと思ったのは、50系客車だったので、「山陰」ではありませんね。
国鉄時代山陰本線以外でも、混雑時の長編成を客車列車が担うケースが多くあり、保津峡も長編成の50系列車でみられ事例だったと思います。
古い記憶を、確認せず書いてしまい、申し訳ありませんでした。
しなの7号
私は山陰本線の50系時代は、京都口から引退した後の末期(平成ひとけた時代)しか知りません。数両の列車でさえも長編成だなと思えるようになった時期です。それからでも、20年は経っていますので、自分の記憶に自信が持てないことは毎度のことです。お気になさらないでください(^^)v
山陰本線で最後に乗った50系客車はDD51の暖房故障で、大変寒い思いをしました(T_T)
★乗り物酔いした元車掌
61年に転勤してきて、
初めて乗務した行路に含まれていました。
4行路+31行路
しなの7号
61.11ダイヤ改正直後、専務班の行路に乗せてもらえず、車掌班のAB組に約1か月格下げ乗務しましたので、車掌班の行路表と交番表が手元に残っています。それによると、車掌班C組にある4行路+31行路は922Dではなく一番の920D~925Dでした。922Dの方はD組の35行路、927DはC組32行路にありました。こうして今、行路表だけを見ると、これら4列車ともすべて1人乗務で、35行路は922Dでスタートして武豊3往復になっていて、私が乗っていたころより、内容は濃いですね。これから927Dのほうにも話を続けていきますが、とにかくボロのキハ58系の長大編成でしたから、とてもこの乗務体制では、多少頑張っても急行列車の乗務員に対して、完璧な車両状態での引き継ぎはできないだろうと感じました。
…そうでした。この時点で分割民営化前提だったのですから当然と言えば当然かなと。
品じぃ
分割民営後の昭和63年暮れ、名古屋駅で九州ブルトレの最後尾がホームを外れていた記憶があります。
25形はやぶさかあさかぜだったと記憶していますが、増結だったのか発着番線変更だったのか・・。
しなの7号
当時のブルトレはどうだったのか知らないですね。
国鉄時代、金星号廃止が近いころに、夜間の撮影に出かけ、ブルトレの尻尾をひととおり撮影していますが、ホームをはみ出す列車は見かけませんでした。
これが中央関西ホームになると状況は変わってきまして、気動車の12両だとホームから外れる場合が発生しました。
大井町の住人
以前、本欄コメントに、九州ブルトレが名古屋駅で、編成一部ホームから外れていたと、コメントされた方がおられました。
私にも同様の記憶があり、「はやぶさ」、「あさかぜ」は横浜駅で後部車両がホームにかからず、ドア締切扱いをしていたと思います。
しかし、記憶だけで何ら確証がありませんでした。
ところが、最近ひょんなことから、「あさかぜ」について真実を知ることができました。
国鉄最末期、「あさかぜ」の客車は、後の「北斗星」への布石とも思われる、大幅なリューアルがはかられました。その際、編成が長くなってしまい、下りについては、なんと始発の東京駅以外すべて駅で後部車両ドア締切扱いとしたそうです。
今思えば、九州ブルトレがそれくらい編成が長かったということですから、まさに隔世の感ですね。
しなの7号
九州ブルトレが、そういった地上設備の限界を超えるほどの需要があった時代こそが、鉄道の輝いた時代であって、今後どんな豪華列車や速達列車が現れようと、そのころの鉄道の交通機関としての使命の重さと趣味的な面白みの大きさには敵うことはないでしょう。
おんたけ号
こんにちは。
武豊線は近いから何時でも行ける。の考えだった為に、
国鉄時代には行かず、2011年に現在の勤務先に通勤する
ようになってからの完乗です。
行動力の無さに今更ながら後悔です。
(金が無かったのが本音)
それにしても、記事にあるような急行用の長大編成の
普通列車があったとは驚きです。
今でも存在すれば、乗務員さんは大変でしょうが、鉄ヲタ
的には大歓迎。必ず乗りに行くでしょう。
増殖中なので当たり前ですが、315系の入線範囲が拡大し
てます。
金曜日の帰宅時、いつも通り東浦17:12発、大府17:27発
の新快速で用事があったので名古屋まで。4番線停車中の
区間快速武豊行きが315系でした。
早速、昨日の315系の様子がyoutubeにあがってました。
しなの7号
私も武豊線は、車掌で乗務することになる直前まで未乗でした。乗務する線区について何も知らないようでは不安なので、実際に乗務している者といっしょに仕事のことを教わりながら一往復したのが初乗りで、その2か月ほど後から乗務するようになりました。国鉄分割民営化後に乗ったことは数回程度なので、行くたびに駅や車両が変わっています。
ダイヤ改正で朝の大垣からの武豊線送り込み列車は313系と315系との併結になったようですし、この先も315系の活躍の場は増えていくのでしょう。
木田 英夫
最近のコメントの目次からこちらに入りました。
「◯◯◯線は近いから何時でも行ける」「◯◯◯形はたくさん走っているから何時でも見られる」と思っていると大変なことになりますね。私の場合、能勢電鉄の妙見山ケーブル、リフトのお別れ乗車には行かずじまいでした。大阪環状線の新車への置き換えも、「スーパー改造されているから、まだまだ大丈夫だろう」と思っていたら、ほんの数年でスーパー103、スーパー201系は見られなくなりました。
ホームの長さが足りないためのドアの締切扱い、古い話ですがこちらでも阪急京都線の大宮駅(8連の特急に対してホームは7両分)、宝塚線の川西能勢口(10連の急行に対してホームは8両分)で見ることができました。前かぶをしていると、その駅の手前の駅と、締切をする駅で、運転士さんがドアカット(阪急ではそう言っていました)スイッチを操作していました。その間運転席ではずっとピーピーとブザーが鳴っていました。今の新車で鍵を入れると自動的に「ETCカードが挿入されていません」という注意喚起と同じようなものでしょうね。
空いている電車で立っている時は、楽なのでついドアにもたれたりすることもあります。走行中はたとえドアスイッチを押してもドアは開きませんが、今回のような場合、もたれていたら停車中に転落…。になりますね。
いつもありがとうございます。木田英夫
しなの7号
いつでも見られるもの、いつでも行けるところ、それらは身近すぎて有難さに気付きにくかったり、失って初めてその価値に気付いたりすることがあるものですね。この世にあるものは無常であることをそのたびに感じ、今を大切にしたいと思います。
ホームにかからない駅で扉の締切りもしないとは、今では考えられないことですが、当時の国鉄では旧客のように手動扉も当たり前で、走行中に開放された扉から転落する事故や、ホームでの飛び乗り飛び降りといった危険な行為が日常的に見られたものです。この武豊線の長大編成は設定されたころには半自動扉のキハ55系が使用されていたと思われますが、自動扉のキハ58系になって危険度がより増したように思えます。
今では日常生活の中に自動扉が浸透し、人々は建物に設置される自動扉と同じように列車の自動扉でも閉まりかけた扉に手やかばんなどの荷物を差し込めば、当たり前にまた開くと思い込んでいるフシがあり、意図的に手やかばんなどを差し込んで扉に挟まれる事故が発生します。乗客の意識は時代とともに変わってしまい、昔は考えられなかった危険が生まれていくことに気付かされます。
おんたけ号
こんにちは。
「○○線は何時でも行ける」で大変なことに・・・
仰る通りです。
中学時代、ローカル線ブーム、宮脇氏、種村氏の著作本に
感化され、大人になったら小遣い増えるから、あちこちの
ローカル線に行こうと思っていたのですが。
免許+自動車所持で公共交通機関では行けない所の登山や
キャンプに行ってる間に3セク化。
小生にとって近場で大変なことになった○○線は、明知、
樽見、伊勢、信楽、神岡、二俣と多く、お恥ずかしい限り
です。
以上、失礼いたしました。
しなの7号
限られた人生の限られた時間と限られた財源では、できることも限られてしまうのはやむを得ないことですね。そうは言っても、挙げていただいた特定地方交通線は、第三セクター化されたとはいえ、神岡鉄道を除けば今も鉄道として営業されていて、その気になれば今でも乗れるとは有難いことと考えます。ただし、それはこの先「いつでも乗れる」わけではないことは肝に銘じておきたいものです。