【571】 思い出の乗務列車50:武豊線927D(前篇).

先週まで2週にわたって、昭和50年代後半の、朝の名古屋発武豊行二番列車9両編成の922Dのお話をしてまいりましたが、今度はその折り返し列車である武豊発名古屋行927Dのお話です。この列車は終点の名古屋へ着くとそのまま高山本線経由の急行「のりくら1号」になりました。画像は高山本線を走る9両編成の急行のりくら号です。
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922Dから9両編成のまま武豊で折り返します。下の編成例では7号車が欠車です。その理由は不明ですが、不具合があって運用前に抜かれた可能性も否定できません。

1981年(昭和56年)10月15日

武豊線~東海道本線927D
運転区間 武豊~名古屋
乗務区間 武豊~名古屋

1   キハ58  729 名ミオ
2   キロ28  109 名ミオ
3   キハ28 2456 名ミオ
4   キハ58  311 名ミオ
5   キハ58  764 名ミオ
6   キハ28 2076 名ミオ
7     (欠車)
増1 キハ28 2426 名ナコ
増2 キハ58  431 名ナコ

増1増2=名41 
5.6.=太13(7号車欠)
1.2.3.4=太7

9両編成の場合は、武豊駅では後寄り(線路の終端側)3両半がホームからはみ出した状態で停車していました。
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上の画像は、現在の武豊駅の線路終端部分ですが、当時はさらに先まで線路が続いていましたので、画像で言うと車止めのあたりが927Dの最後部になり、その状態で大府方先頭車がホーム先端にぴったりの位置になりました。折り返し時間は十数分ありましたが、往路の922Dで故障が発見されれば、名古屋客貨車区の「旅客車サービス班」に連絡したり、状況によっては故障状況を名古屋で乗継ぐのりくら1号の車掌長と専務車掌に連絡してもらうよう車掌区にも連絡するケースもあり、それほどのんびりもしていられませんでした。以前にも書きましたが、夏場には冷房用電源エンジンの音がうるさいので、駅員が電話するのにも支障があるから、停車中は駅舎の前に停まる車両の冷房用電源エンジンを切るようにと、駅から車掌区を通じて要請されたこともあったので、エンジンを止めたりする余計な作業もありました。922Dでドアの不具合があったりして列車を遅らせたりしていればなおのこと忙しく、とりあえずそのドアだけ応急的に施錠して、武豊駅で紙とフェルトペン、セロテープを拝借して、「故障のため開きません。他のドアをご利用ください。」などと紙に書いてそのドアに貼ったりしていると、いつのまにか発車時刻になるのでした。

折り返し時間内には、その前にしておくべき仕事がありました。それは前寄り1~3号車の締切作業でした。往路のガラ空き列車922Dでは締切にはしなかったのですが、927Dでは途中の亀崎駅までは前寄りの3両だけを回送として、ドアを締め切っていたのです。ドアの締切は一括制御はできないので、1~3号車各車の乗務員室にある、左右別になっている戸ジメNFB(ノーヒューズブレーカー)を1両ずつ操作して回りました。下の画像はクハ111のNFB(戸ジメではない。)ですがキハ58系でも位置は異なりましたが形状は同じものが使われていました。
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これを「切」にすると開けてあるドアが閉まるわけで、この操作は武豊駅の改札が始まる前にやっておく必要がありました。

武豊線は武豊~半田間が名鉄河和線と比較的近接して敷設されています。名古屋へは名鉄のほうが近くて速くて安くて便利なので、国鉄は名鉄にはまったくかないません。そのため列車が混雑するのは両線が離れてしまう亀崎から先になります。ですからそれまでは安全のために前3両を回送とするというのが理由だったのでしょう。けれども、たとえば半田駅では線路の有効長による停止位置の関係で前後とも1.5両がホームから外れる結果となり、締め切ってある2両目の一部と3両目はホームにかかりながら乗車できないという状態になりましたから、実態にあっていないと申しますか意味がよくわからない措置でした。

この列車では922Dのような荷扱はなかったので、2人の車掌のうち1人は運転担当、もう一人は客扱担当となりました。(59.2ダイヤ改正以降、客扱の行路が普通車掌から専務車掌持ちに変わりました。)
締切作業は客扱の担当で、回送車との境目連結部の3号車の運転室に乗務しました。運転担当は最後尾の車両に乗務していましたが、前述のように武豊ではホームから3両以上もはみ出しているので、後ろからは安全確認が難しい状況にありました。
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上の画像は現在の武豊駅ですが、ホームの日陰になっているあたりが改札口です。この画像を撮影している位置が4号車付近になりますから、改札口からホームに入った乗客の正面には回送車両が停車していて乗れません。乗客はホームを後のほうに歩いて4両目か5両目の前寄ドアからしか乗り込むことができないのでした。
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発車時刻になって駅の助役が改札口と出発信号機の現示を確認し、出発指示合図を後方の運転担当車掌に送りますと、運転担当車掌が車掌スイッチを扱い、後6両のドアが閉まります。客扱の車掌はその間、3号車の乗務員室前のホーム上で、安全確認から車側表示灯の滅灯までを確認して、運転車掌に腕を高く掲げてくるくる回す動作で「オーライ」と伝えますと、運転担当車掌は、運転士にブザーで出発合図を送るという手順で列車が発車しました。
【94】武豊駅からズームイン!! でテレビで放映されたのが実はこの一連の作業中でした。このとき何も事情を知らないレポーターさんは、客室に乗って乗客にインタビューするつもりだったのに、目の前の車両のドアが閉まっていて、あわてて回送車である3号車の乗務員室ドアから回送車に乗ってしまったというハプニングであったわけです。すぐ後の4号車には乗客は乗っているので、レポーターさんはそちらへ行きたかったのでしょうが、停車中に空っぽの回送車へ移動しようとする乗客対策として、貫通扉はロックしてありました。手で解錠すればすぐ開くのですが、そこは生放送で、しかも「発車風景の撮影」としか事前に聞かされていませんでしたので、こんな結果になりました。

こうして発車した927D。通勤時間帯ですから各駅で乗客はたくさん乗ってきましたが、亀崎まではまだ通路を通り抜けられる乗車率でした。この間に客扱担当は車内を一巡しましたが、亀崎のひと駅手前の乙川発車後の走行中に、武豊で「切」にした1~3号車の戸ジメNFBを「入」に戻しておかなければ亀崎でドアが開きませんので、乙川駅までには3号車に戻っている必要がありました。このように動きっぱなしなので、放送はほんらい客扱担当の仕事でしたが、後の運転担当にお願いしておきました。

その亀崎駅は、駅の前後がどちらも駅構内を過ぎるとすぐ下り勾配になっていて、要するに坂の頂上にある駅でした。
坂の頂上にむりやり行き違い設備を備えた駅を造ったような感じになっていて、ホームは真上から見るとちょうど半月形で「D」の字形でした。

航空写真では上が大府方で下が武豊方になっており、「D」を左右逆に裏返した形になっています。下の画像も航空写真と同じように武豊方から大府方を向いて撮影しています。武豊方面行ホームの線路は直線で見通しがいいのですが、大府方面行の線路は弧を描いて、ホームの前のほうには跨線橋があって後から前まで見通すことができない構造でした。これは現在の様子です。画像にある跨線橋は最近新たに建設されたエレベーター専用の新しい別の跨線橋で、国鉄時代からある跨線橋がさらに前にもう一つあるのです。
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しかも坂の上の狭い土地に作られた駅の有効長は短く、9両編成のこの列車の最後部はホーム先端まで、まだ50mほどもある上下本線を分けるポイント上に停車しました。
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当然のことですが、亀崎から乗車するお客様は、ここまで回送だった前寄3両の車両に集中しますが、後の車掌からはその状況まったく見えないわけですし、ホームの反対側にある出発信号機はもちろん、ホームの上屋に設置されている出発反応標識もよく見えませんでした。そこでこの駅では、必ず客扱の車掌が3両目の乗務員室でドアをはじめとする運転上の扱いをすべて行うようにしていました。

この記事へのコメント

  • NAO

    ローカル線の普通列車に乗っていて、急行型車両がやって来ると得した気がしそうですが、裏側では手間暇かかることもあるのですね。私は非電化路線で朝の通勤通学列車に乗ったことがほとんどないので、今回の記事を読ませていただいてちょっとオドロキです。
    乗客専務の行路なら、次の急行乗務の専務さんに車両状態の引き継ぎが少しぐらいはし易かったのではと思いますが、そうも簡単には済まないものだったのでしょうか。
    2015年03月30日 18:27
  • ★乗り物酔いした元車掌

    何から何まで、懐かしいですね。
    でも、
    ボクが乗務したときは、ひとり乗務でした。
    確かに、亀崎は、最後部車両では、
    最前部車両が全く、確認できませんでした。
    2015年03月30日 20:13
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは
    亀崎駅は確かに駅の両端が下り勾配になっていますね。
    ただ、線路の有効長がそれほど短いとは思いませんでした。
    かつては貨物扱いもあった一般駅で側線もありますが転動防止対策は念を入れろです。
    そういえば発電機用エンジンは国鉄のはうるさいですね。
    気動車のでも、そうなんですか?
    刈谷駅で退避していた団体のスハフ13の発電機用エンジンのうるさかったこと。
    共和駅で抑止していた寝台特急カニ25の轟音
    深夜でもあり駅に苦情と言うより恫喝の電話が何本も・・・
    列車が動くまで何も出来ませんでした。
    2015年03月30日 20:18
  • しなの7号

    NAO様 こんばんは。
    問題になる点は、
    ①武豊線のキャパを越えた長大編成であること
    ②古い車両で不具合が多いこと
    ③名古屋駅のわずかな停車時間の後にグリーン車を含む指定席車両を擁する急行列車になること
    と言えますね。
    この列車の乗務は59.2ダイヤ改正から2人乗務の車掌のうち、1名が専務車掌(客扱)になりました。私も専務車掌(客扱)としての立場としてもこの列車に乗務したことはありました。急行・特急という優等列車の引継は、普通列車より格段に気を配りました。また、特に大規模な車掌区になると、ローカルばかりに乗っている普通車掌と優等列車ばかり乗っている車掌長とは仕事上での接点はほとんどなく、大げさに言えば普通車掌にとって車掌長は雲の上の存在でした。
    2015年03月30日 21:35
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様
    61.11以降、1人乗務では、8両編成すべての把握はできないと思いますから引継も必然的に簡略化なのでしょうね。
    いちばん怖いのは亀崎でした。運転士が停車中の後方確認をするなど、車掌業務の補助を義務付けて対応したのでしょうか?
    2015年03月30日 21:35
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんばんは。
    私が乗務しているころには、すでに亀崎の貨物営業はなかったですが、留置車両の逸走が怖い駅ですね。大府行き列車で乗務中、亀崎発車時に、運転士がブオンと1回エンジンを吹かしてすぐノッチオフ。そのままノロノロと下り勾配にはいり次駅東浦までアイドリングのまま走り切ったこともありました。
    冷房電源エンジンの騒音は気動車も客車と同じで、駅でも問題になったんですね。長時間居座られたら苦情が出て不思議はありませんね。
    2015年03月30日 21:36
  • 大阪の愛知県人

    こんばんは。
    927Dは問題点①のとおり、確かに武豊線にとっては“贅沢すぎる”普通列車と言えましょう。しなの7号さんが乗務された頃は9両が定番でしたが、先日記述させて頂いたように10両組成の時期もありました。従って武豊線内の交換では、対向列車を先着・後発としていた気がします。
    ②の古い車両という点では、やはり名古屋は東鉄局などの“お下がり”感が否めませんでした。名鉄局は58系でも若番が多く、先般話題に出た新ニイ『赤倉』は指定席以外非冷房ながらも後期増備車が必ず入っていました。

    1976年3月20日 2801D【赤倉】新潟行 新ニイ
     ↑塩尻方
    キハ58 1019
    キロ28 113
    キロ28 116
    キハ58 1021
    キハ58 1534
    キハ58 1009
    キハ58 630
    キハ58 636
    キハ58 493
    キハ58 1012
    キハ58 419
    キハ58 661
     ↓岐阜方
    ※3月なのでキロは100番台のみ。夏は3両給電4VKの2500番台も使用
    2015年04月01日 22:09
  • 大阪の愛知県人

    長文ですので、2回に分けて投稿させて頂きます。
    927Dにとっては亀崎のラッシュが鬼門。旧跨線橋のみの時代、乗客は名古屋寄りに偏ります。それゆえ跨線橋を避けて、過日ご紹介した新聞記事「構内を悠々と横断する乗客」のような事象が起きたのかも知れません。
    3両を亀崎で優先開放することで混雑を分散(乙川・東浦は武豊寄りに改札口で混雑)させたのでしょう。その亀崎駅、湾曲したホームは安全確認が困難だろうと子供ながらに心配していました。

    乙川~亀崎間沿線にある実家は、1970年代にはまだ田んぼが広がり、列車の姿・音が直接確認できました。重厚なジョイント音は58系で、エンジン吹かせば名古屋方面、ジョイント音のみなら武豊方面と音だけでも時計がわりに。
    現在は313系の他に311系も入線しているそうですが、宅地化が進んで音自体届かないので判別以前の問題ですね。
    2015年04月01日 22:11
  • しなの7号

    大阪の愛知県人様 コメントありがとうございました。
    927Dは亀崎の次、有効長の長い東浦で貨物列車と行違いをしていました。亀崎では9両でも行違いは不可能ですから、それを考慮したタイヤ設定だったのでしょう。ダイヤが乱れて誤って亀崎交換とすると取り返しがつかない事態になってしまいます。
    赤倉号の編成記録ありがとうございます。私は記録できませんでした。たしかに製造番号4ケタが多いですね。冷房準備車もこの編成でしか見ることがありませんでした。
    次回は亀崎問題?から記事の続きをスタートします。前部3両の回送扱いの真の理由を私は知りませんが、分散乗車による混雑緩和の効果だけなのでしょうか。

    いつも武豊線には乗るばかりで、沿線で走っている写真を見たり撮ったりしたことがありませんでしたが、10両もの長大編成の様子を、亀崎の陸橋の上あたりからぜひ見てみたかったと思います。
    2015年04月02日 08:10
  • 大阪の愛知県人

    こんばんは。
    武豊線で長大編成を写真に収めようとすると、まず亀崎~東浦間か尾張森岡~大府間が思い浮かびます。
    『鉄道ホビダス』の<わが国鉄時代>に、尾張森岡~大府間の高架橋を渡る10両編成の927Dが投稿されています。1977年の撮影ですが、まだ非冷房車が残っているのが判ります。
    http://rail.hobidas.com/kokutetsu2/archives/0060-7/cat5659/
    2015年04月03日 22:21
  • しなの7号

    大阪の愛知県人様
    リンク先の記事と画像を拝見しました。 自分が乗っていたころには927Dに非冷房車はありませんでした。画像の先頭字幕が「急行」となっているようですが、こういうのは「どうせ急行になるのだから」くらいな気持ちで気にもしない感覚でいました。
    国鉄時代に唯一カメラを持って武豊線の沿線に行ったのがC56が走った昭和61年4月でしたが、やはり場所はこの東海道を乗り越すところでした。
    2015年04月04日 04:53
  • 大井町の住人

    こんにちは。
    キハ58にもドア締切扱いにする手段はあったのですね。
    ただ、この操作で各駅ごとのドア締切扱いを行うのは無理ですね。
    ところで、以前コメントさせて頂きました東海道本線東京口でも、一部列車が一部駅でドア一部締切扱いを行っておりました。
    その際、乗務員がどのような操作を行っていたのか、今となってはわかりません。多分、都市圏の多くの私鉄で行われているような、専用スイッチによるものではと思います。
    東海道本線の場合、ドア締切扱いを行う点は武豊線の事例よりは安全かもしれません。しかし、しなの7号様も懸念されていらっしゃいますように、ホームから外れた最後尾の乗務員室から運転車掌が15両編成の安全確認をどのように行っていたのかは謎です。
    推測の域を出ませんが、当時の東海道本線東京口ではほとんどの駅にホーム監視の駅員がいましたので、駅員によるサポート。あるいは、東海道本線東京口はほぼ全列車にグリーン車が2両連結されており、客扱の車掌長、または乗客専務が必ず乗務していましたので、客扱車掌によるサポート。そのいずれか、または両方であったのではないかと思います。
    しなの7号様とちがい、私には乗務員視点がありませんので、当時はあまり疑問には思いませんでした。
    2015年04月06日 14:27
  • しなの7号

    大井町の住人様 こんにちは
    自動ドアの電気回路にはブレーカーがありますから、各車個々の入切はどの車両でも可能でした。しかし一人乗務前提では運行に支障なく取り扱えるのはせいぜい後1~2両だけでしょうね。東海道本線の165系11両大垣⇒東京夜行に乗務したときも、名古屋近郊の10両対応ホーム駅では最後部1両だけの締切をこの方法で車掌が行っていました。
    安全確認は、首都圏では発車合図をするための駅運転要員以外のホーム要員が配置されていることが多かったでしょうから、そちらから安全確認と閉扉時期の合図がもらえます。このため直接車掌の目を介さずとも前方の安全確認ができました。ホーム要員は赤旗を持っていますので、非常の場合はその旗の目視。グリーン車の車掌がいれば、即停止できますし、そうでなければ15両もあると最後部での赤旗の視認も困難ですが、前方の駅員から後方の駅員に合図の中継がなされ、車掌に伝わると思われます。ホーム要員が減員され、あるいはなくなるとモニター画面の確認となっていくわけですが、その設置位置や大きさが立地条件の制限などで不適当になる場合もありましょうし、カーブした駅の発車は確認できないと怖いです。あと首都圏ではホーム上のマイク~スピーカで業務連絡を日常的にしていますね。田舎ではマイクを持つ要員が配置される駅も少数でした。
    2015年04月07日 10:21

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