先週まで3週にわたって、私が乗務していた昭和50年代後半の、朝の名古屋武豊間の9両編成の922D~927Dのお話をしてまいりました。今回も名古屋行927Dの続きになります。下の画像は高山本線の急行のりくら号です。
927Dは各駅武豊線内のすべての駅でホームにかからない車両があることや、武豊・亀崎間で前寄り3両を回送としたことによって、さまざまなトラブルがありました。
まず、亀崎駅の手前の駅から乗車する乗客からの苦情がありました。それは「なぜ亀崎の客を優遇するのか?」ということでした。「亀崎の客は座れるのに手前にある乙川駅で乗った者が座れない。しかも亀崎で座れる車両がグリーン車なのはおかしいではないか。」というのが言い分です。
もっとも、57.11ダイヤ改正時からは、編成は9両のまま、日によって美濃太田の3両運用と4両運用の位置が変わる場合があるという変則的な編成になった関係で、5両目がグリーン車になることがあり、必ずしも回送車にグリーン車が含まれるとは限らなくなりました。また、そのあとの59.2ダイヤ改正ではグリーン車に5両目に固定されたため、グリーン車に限れば問題は解消はしました。こういう苦情に、安全のため3両を回送にしていますという説明は通じるはずはありません。先週書いたように、たとえば半田駅の停車位置は、線路の有効長による停止位置の関係で前後とも1.5両がホームから外れる結果となり、締め切ってある2両目の一部と3両目は「ホームにかかりながら乗車できない」という状態になりましたから、乗務員自身不可解な回送扱いだと思っているのです。現場としてもこういう取り扱いは、むしろ廃止してほしいと思っていたわけです。
この列車が亀崎駅に到着すると、ホーム上にはここまで回送だった3両の車両のドアの位置に、いつも長蛇の列ができていました。たしかに始発列車でないのに混んだ通勤列車に着席でき、(場合によっては)そのうちの1両がグリーン車ということは、その恩恵を受けられない者の怒れる気持ちがわからないでもありません。
こんな回送扱いは国鉄としてはやめたいのだけれど、政治的な経緯?があって、やめられない事情があるというような噂もあったくらいです。私はその事情を今解明したいと思っているわけではありませんので、これ以上は言及しませんし、あくまでも「仮に」という話となりますが、もしそういう事情があったとしたら、「我田引水」をもじって「我田引鉄」と言われたように、政治駅の開設や、地方ローカル線の無理な新規開業や延長などなど、国鉄が政治的な支配を受け、政治家の票稼ぎの手段になって食い物にされてきた実態のミニ版かなと思ったりもします。
亀崎駅の手前の駅から乗車する乗客からの苦情は、車掌の対応に関しても噴出し揉め事になりました。それは回送車との境となる3両目と4両目の貫通扉の扱いについてでした。
もともと、この部分の貫通扉は武豊から施錠しておくのですが、ある車掌は亀崎の手前の乙川を出たら解錠し、別の車掌はは亀崎到着後に解錠するといったように、解錠する時期が統一されていなかったのでした。乙川を出ると3両目と4両目の間に、3両目に乗り移ろうと待ち構える乗客がありました。この人たちは、亀崎の駅のホームに並んでいる乗客より早く貫通扉経由で回送車に割り込もうとしていたわけです。客扱担務で乗務の場合、亀崎では3両目でドア扱いをします(この位置でないと曲線を描いたホームでの乗客の乗降確認と信号確認ができない。)から、前3両の戸閉NFBを「入」にしてから、亀崎駅でのドア扱いのため3両目の乗務員室にいると、亀崎に着く手前で、3~4両目の連結部で、乗客が3両目の貫通扉を早く開けろとドンドンと叩くこともありました。亀崎まで回送ですから、亀崎に着くまでは入っていけませんと伝えると、昨日の車掌は通してくれたなどと言いますから、これは車掌区で討議材料になり、のちに亀崎のドア扱い後だったか忘れましたが、解錠時機を統一するよう徹底されました。
さて、亀崎を出た927Dは9両すべての車両に通勤通学客を満載して名古屋へ向かいますが、武豊線内にはまだ4つの駅があり、いずれの駅でもホームから外れる車両が出ました。
《大府方面:9両の場合ホームにかからない両数》
(前3両の武豊~亀崎間の回送車を含む両数)
武 豊 後3.5両
東成岩 前3.5両
半 田 前1.5両と後1.5両
乙 川 前2.0両
亀 崎 後2.5両
東 浦 前1.5両と後0.5両
石 浜 後2.5両
緒 川 後3.5両
尾張森岡 後3.0両
特に後寄りの車両がホームにかからないことが多いので、2人の車掌は事前に打ち合わせをしておいて、亀崎駅以外の駅でも、客扱の車掌が3両目の乗務員室でドアをはじめとする運転上の扱いをすべて行うとか、あらかじめ打ち合わせの上で、連携して作業をする必要がありました。ところで昭和56年の時点では、大府・東浦・亀崎・半田・東成岩・武豊の各駅には駅に運転取扱要員がまだ配置されていましたので、これらの駅ではホームに駅員が出て安全確認はもちろん、車掌に出発指示合図も出してくれていました。しかし最終的に大府以外は昭和61年3月までに、駅側の運転上の取扱は全廃になり、すべて車掌だけで安全確認をして列車を発車させるようになっていきました。
そうなると、のんびりした日中の列車ならできた【49】入場券集めのお手伝いのようなこともできなくなっていきました。私が武豊線に乗務していたのは、そんなのんびりした時代から分割民営化を前提にした急激な省力化が推し進められている時期までの過渡期であったとも言えました。
ホームや駅に駅員の姿がないと、とんでもないことをする乗客も出てきます。たとえば今ですと駆け込み乗車が問題になってくるわけですが、この927Dの場合の例を挙げてみましょう。
亀崎の駅は必ず駅の改札口から跨線橋を渡らないとホームへ行けない構造でした。通勤通学客が次々とギリギリの時刻に改札口を通過して跨線橋を渡ってくるのを待っているのはいつものことです。しかし、武豊寄りの自転車置き場から改札口を通らず、もちろん跨線橋は渡らずに、線路上を走って横断して乗車する例が毎日のように見受けられました。
もう一例。石浜駅はもともと無人駅で、今は行き違い設備がありますが、そのころは行き違いできない駅「棒線」駅でした。927Dは上に示したように、後寄2両とその前の車両の後寄のドアがホームから外れて停まりました。最後部が停まる位置は、駅の武豊寄りにあるこの小さな踏切のあたりで、ホームまでは40~50mほどもありました。例によって締切扱いはしませんので、ホームにかからない車両もドアは開きます。
そこへ踏切から線路内にオッサンが侵入して、乗務員室用のステップに足を掛けて最後部のドアから乗り込んで来るようになったのです。ある車掌はホームから乗るよう注意したが無視されたとか、逆に「そんなこと言うならホームを延ばせばいいだろう」と文句を言われたとか、こうした行為は車掌仲間でも話題にになってきました。そこで、ある車掌は、亀崎までの回送で使ったように、最後部のホーム側のドアの戸ジメNFBを「切」にして、ドアを開けなかったそうです。それ以来、そのオッサンはいなくなりましたということなら、めでたしめでたしということでしたが、その後そのオッサンは、列車が到着する前に踏切から線路端へ入ってきて、後ろから2両目のあたりの停車位置で待機して、そこから乗るようになりましたので、何の解決にもなりませんでした。





この記事へのコメント
NAO
国鉄民営化直前に佐世保駅ホームで急行「平戸」を待っていたときのこと、目の前の特急「みどり」が発車する際、車掌長が最後尾クロ481の連結面側専務車掌室ではなく、最後尾運転台側乗務員室扉前ホーム上で、笛を吹いて発車合図されていたのは私鉄風で、ショッキングでした。
急行 陸中
のどかといえば、のどかな時代だったのでしょうか。
この時代、山陰か東北・北海道の客車列車じゃあ、ホームあってもなくても、
乗り降りしてたような気がしますが。
しなの7号
ホーム外への乗客の立ち入りは、この時代はおおらかな時代でした。私が高校生のころは駅構内での撮影に関しても同じように受け入れられていました。
EC「みどり」は、「特急+短編成=1人乗務」⇒民営化
という図式ですね。特急も国鉄時代のローカル気動車急行と同じ形態になったということですね。
しなの7号
NAO様へのコメントにも書きましたように、こういう実態は全国の国鉄線で例があったと思われますね。特に自動ドアでもない旧形客車ならば、転落したとしても気を付けて降りないほうが悪いというような、行動は自己責任で、という風潮が強かったのも事実でした。医療事故とか学校内での事故とか、社会一般で起こった事故でも事業者側の責任が問われるケースは少なかったですね。
こがね しろがね
しなの7号
『安全』と『カネ』のバランスは、いつの時代も明確な答えが出ません。車掌業?は今も本質的に変わることなく健在ですが、ワンマン化もありますし、周りの環境の変化とともに、仕事内容はかなり変わってしまい、仕事に誇りを持ちにくくなってしまっただろうと思います。「これは俺の列車!誰にも文句は言わせない」的なことはできないでしょうから、何かあれば無線で指令にお伺いを立て、言われたとおりに機械的に動くことこそが求められる実態は、なにも車掌に限ったことではありませんけれど…
★乗り物酔いした元車掌
区長が乗ってくるので、
「お召し列車」と呼ばれてましたね。
懐かしい、思い出です。
亀崎の大府向き(本当は上り)
最後部では前方が全く見えない、
初めて乗務したとき、直前に知らされました。
ボクが乗務したときは、前車両締め切りは
無かった気がします。
こがね しろがね
しなの7号
お召列車ですか。現場長に列車の実態をよくご覧いただくのには、927Dはもっとも適した列車でしょうね。
1人乗務で締切扱いは物理的に難しいと思われます。
しなの7号
子供が学校で教わったことをすべてマスターして100点満点で卒業しても、社会に出て役に立ちませんよね。一人前になるには、社会に出てからの勉強が大切なわけですが、その社会が今、規則正しいよい子になっていますね。そこでは「先生」の言うことをロボットのように聞ける人だけがよい子になりますが、その先生の言っていることが正しいのか判断できなくてはよい仕事にはならないわけです。
「学校は勉強しに来るところじゃないよ。勉強は社会に出てからするものだよ。学校は勉強のやり方を教わりに来るところだよ」とは さだまさし氏が先生に聞いた言葉だそうです。
NAO
しなの7号
さだまさし氏の歌はもちろん、話も薀蓄がありおもしろいです。本人は落研に所属していたとのことです。