先週まで4週にわたって、私が乗務していたころ(昭和50年代後半)、名古屋武豊間を走っていた9両編成922D~927D気動車列車のお話をしてまいりましたが、これで最後です。
画像は高山本線の急行のりくら1号です。朝の武豊線内での出来事など何もなかったかのように山峡を優雅に通り過ぎていきます。
927Dでは、乗客のいたずらもよくありました。
ご承知のようにキハ58系にはグリーン車以外どの車両にも運転室があります。ここは施錠しておくのですが、次の車両と貫通させて通路を作ると、構造上助士席側には自由に入れるようになりますから、ここは高校生の溜まり場になりました。(画像はキハ58系ではなくキハ40系の助士席側です。)
高校生たちは何をやるか、だいたいご想像はつこうというものですが、まず喫煙。当時は車内禁煙ではない時代でしたが、他の乗客からの目を避けるため、貫通扉を閉め施錠までしてしまうのです。こうすると車内巡回で隣の車両から乗り移れないわけで、ドアを叩いて、開けろと怒鳴ってやります。彼らは、煙が充満しないように乗務員室扉の下降窓を開いていますから、そういうことになると、吸っていたタバコは火が付いたまま、その窓から外へ投げ捨ててしまいます。タバコ臭くないか?とひとこと言ってやります。
この列車ではなく、武豊線の別の列車でのことでしたが、高校生らが貫通ドアを施錠したまま下車してしまったらしく、車内巡回中だった私は次の駅に停車するまで前の車両に缶詰になってしまったことがありました。
この列車での話に戻りますが、停車中や走行中に警笛が鳴り響いたこともありました。助士席側にも床に警笛ペダルはついていたのです。(先日JR東海のキハ40系に乗ったところ、助士席側の警笛ペダルは撤去されていました。)このほか、中間車両にある助士席の連絡用のブザーが鳴らされるとかワイパーが作動していたということや、走行中むりやりドアをこじ開ける行為とか、ドアが閉まらないよう力比べのように閉まるドアを引っ張る行為に出くわしました。
また、私が乗務したときではなかったですが、乗客どうしの喧嘩に出くわして、それを止めようとした車掌が乗客に殴られたり、中間車両の助士席にある車掌弁(非常ブレーキ)が扱われて列車が急停車するといったようなことが、この列車では実際にありました。
車掌弁がいたずらされた事例は、私はプライベートの旅で経験したことがあります。それは指宿枕崎線へ乗りに行ったときのことで、高校生たちで満員のキハ58+キハ28の枕崎行ワンマン列車に乗車中、駅間で急停車したと思ったら、「非常ブレーキが作動しましたので停車しました」との車内放送。満員の客室を運転士氏が前から後部運転台に向かわれ、その様子から察すると無人の最後部運転台に入り込んでたむろしていた高校生たちが面白半分に車掌弁を引いたようでした。その列車は混雑のために各駅での乗降で遅れ気味だったことに加えて、そのおかげで列車は20分ほど遅れてしまい、折り返しの枕崎駅では時間がなく、南薩鉄道時代からあった駅舎の写真すら撮れませんでした。
キハ58のワイパーは空気式でしたから、バルブを回して空気を送り込んで作動させる方式でした。上のキハ40系の助士席側の画像には、中央下部に見える丸い計器のすぐ左に、そのバルブが見えています。
下の画像はクハ111形電車の乗務員室の様子です。上の赤いのが車掌弁の引き紐の握り手。左下に連絡用ブザーが見えます。その上に非常ブレーキスイッチが写っていますが、それはキハ58にはありませんでした。これらがいたずらされても、混雑した9両編成では区間によっては車内巡回も困難な状況でした。未然に防ぐことは無理でしたし、特にブザーの鳴動や車掌弁を作動させるケースは運転に支障が出る重大な犯罪行為ですが、何号車でそういうことが起こっているか現場を特定することさえ困難でした。
1982年10月(57.11ダイヤ改正直前)での労組から当局への要求内容を紐解いてみます。
◎武豊線の長大編成を廃止されたい。
〈当局回答〉困難である。
◎武豊線927Dに公安職員を添乗させ、運転室への入場者を取り締まってほしい。
〈当局回答〉名古屋公安室へ添乗取締りを依頼した。
◎亀崎駅で通勤時間帯、改札口からの乗車を徹底されたい。
〈当局回答〉関係駅へ協力方要請した。
◎武豊線各駅で、ホームにかからないところから乗車する旅客に、ホーム乗車を徹底されたい。
〈当局回答〉関係駅へ協力方要請した。
◎東成岩駅武豊方面行列車の集札は駅側で対応されたい。
〈当局回答〉運転従事員のみ配置されており、困難である。
このように、中部圏の数多くの普通列車に乗務していた車掌からの要求は、この927D列車に関することに集中しました。それだけこの列車には問題が多かったということになります。これらは、国鉄末期まで一向に改善されぬままでした。
1981年(昭和56年)12月12日
武豊線~東海道本線927D
運転区間 武豊~名古屋
乗務区間 武豊~名古屋
1 キハ58 111 名ミオ
2 キロ28 2302 名ミオ
3 キハ28 3001 名ミオ
4 キハ58 799 名ミオ
5 キハ58 797 名ミオ
6 キハ28 2169 名ミオ
7 キハ57 34 名ミオ
増1 キハ28 2177 名ナコ
増2 キハ58 71 名ナコ
増1増2=名41
5.6.7 =太13
1.2.3.4=太7
ところで私が乗務していたころ9両編成だったこの927D、昭和57年5月17日ダイヤ改正時の「急行おくみの」の定期運転が取り止められるまでの間は、名古屋到着後に「急行おくみの」編成2両(8.9号車)を先頭に増結して、「のりくら1号富山行・おくみの号北濃行・(季節列車)うなづき号宇奈月温泉行」という複数の行き先を持つ併結列車に変身しました。上の編成実例では、前7両(1~7)が「のりくら1号富山行」、後2両(増1・増2)が「うなづき号宇奈月温泉行」です。(11両編成になり、号車番号が「8.9.1.2~」と変則的になります。)
「うなづき号」が運転されない日でも増1増2の2両は毎日連結されていて、「のりくら1号富山行」の一部となっていました。
故障個所など連絡すべき事項と編成の形式番号は「旅客列車引継書」に全部書いて、名古屋から乗務する急行の車掌長に引き継ぎました。
(「旅客列車引継書」の様式は【175】臨時列車の乗務(10):455系回送電車でアップしています。)
武豊線が仮に複線区間であって増発可能な状況であったならば、武豊~名古屋間を5両と6両の2列車に分割して10分程度の間隔で続行運転して、名古屋で合体して急行にすれば、武豊線内の短いホームの問題もほぼ解消できるだけでなく、輸送力も増強できたことでしょう。単線で線路容量は限界、11両ではとても運用できないから、おくみの編成2両は名古屋で遊ばせておく…ということだったのでしょうか。
さて、武豊線内をなんとか無事にやりすごして、大府駅に着くと、もうここからは東海道本線。9両編成でもホームにかからない車両はありませんでしたし、カーブで安全確認がしにくい駅もありませんでしたので一段落でした。ここで客扱担当の車掌はキロ28グリーン車の乗務員室に移りました。普通車掌の分際でキロ28の乗務員室に乗務できるのは、この列車だけでしたので、客扱担当の場合の気分は車掌長で、後ろの運転担当の車掌にドア扱いと放送はお任せしておけばよいのです。車内は満員で車内巡回も思うようにではきませんでしたから、ドアの不具合など故障個所さえなければ乗っているだけで、各駅着発時の列車監視だけが仕事になりました。しかし名古屋駅到着時の乗換列車の案内放送は、さすがに長くなりますので、私が客扱担当の場合は、自分でやることにして、運転担当車掌と事前に打ち合わせておきました。
名古屋駅到着時の放送では、他の列車の場合と同じでしたが、形どおりの乗換案内のあと、この列車では一番最後に、「高山線で、下呂、高山方面へお越しの方、急行“のりくら1号”富山行と富山から富山地方鉄道線に入ります急行“うなづき号”宇奈月温泉行き、美濃太田から越美南線に入ります急行“おくみの号”北濃行きは8時35分発です。この急行をご利用の方は、ただいまご乗車されているこの列車が、そのまま名古屋から“のりくら1号”と“うなづき号”になりますので、そのままご乗車ください。“のりくら1号”富山行は、この列車の前寄7両、1号車から7号車までが、“のりくら1号”富山行です。なお1号車から3号車は名古屋からは指定席になります。そのうち2号車はグリーン車ですので注意ください。“うなづき号”は後寄の2両、増結1号車と増結2号車です。“おくみの号”北濃行は、この列車の前寄に連結します。“おくみの号”北濃行ご利用の方は、いったんホームに降りて前寄でお待ちください。混み合いましてご迷惑をおかけいたしました。お降りの際には、お忘れ物などございませんようご注意ください。降り口は左側で5番ホームに到着します。ご乗車いただきましてありがとうございました。」
この放送の前後に、私は必ず「アルプスの牧場」のオルゴールを入れました。
並行する名鉄電車が地下に潜ろうとするあたりで、マイクを握りもう一声。
「まもなく線路の切換で、各車両とも左右に揺れます。お立ちのお客様、お足元にはご注意ください。到着ホームは5番線。降り口は左側です。なお、到着後しばらくしますと、作業のためホーム反対側、線路側の扉も開きますので、ご注意ください。」
(反対側のドア扱いについては【557】サボ交換時のドア扱いで実態を取り上げています。)
このあとホーム到着監視のためキロ28の乗務員室の、下降窓を目いっぱい下げて、前方を見つめます。ホーム先端近くに到着を待つ乗継の先輩専務車掌の姿が目の前を通り過ぎていきますので、お互いにっこりと敬礼します。駅の放送が「なごや~ なごや~ 終点の名古屋です。この列車は高山線経由急行のりくら号富山行き……」と雑踏するホームに呼びかける中にたどり着きます。到着すると目の前のホームには車掌長がいます。キロ28には乗務員室扉がありませんので、乗客が降り終わるまでは降りられませんから、窓越しに「4号車、ドアの開閉不良です。閉まるには閉まりますが、閉まるのが遅いのでサービス班に来てもらってます。通告券は、これから渡してきます。混んでましたので暖房は閉めてあるか、かなり絞ってありますので、開けてください。それでも今は22度くらいあるはずです。」と引継をします。このあと故障で旅客車サービス班の出場依頼がしてあれば、現場へ行って状態を説明し、通告券を交付してきます。最後部では運転担当車掌が、ホーム側のドアを開けた後、「反対側ドアが開きますのでご注意ください。」と放送を入れたあと、サボ交換作業のために車掌スイッチを扱い、ドアは両側を開けた状態で、専務車掌と交代となりました。
瞬く間に武豊一往復の勤務は終わりました。時刻はまだ朝の8時半。前日から続いた仕事はこれで終了ですので、勤務解放後は1日フルに使えました。そういえば、この列車の仕事が終わってからまっすぐ家に帰らず、いずれ乗ることになる高山線での先輩の仕事ぶりを見学するために後続の特急“ひだ”に乗って、高山まで行ったこともありました。しかし、専務車掌になってから高山本線に本務で乗ったことはたったの2度だけしかありませんでした。このとき教材用にカセットテープに録音した先輩車掌長氏の“ひだ号”車内放送は、今でも時折聴いています。今日まで、全国各地の鉄道を乗り歩きましたが、その放送に勝る車内放送を私は聞いたことがありません。927Dは、このようにひどい列車ではありましたが、私はその方の車内放送の録音を聴きながら、こんな立派な先輩がたが居られた同じ車掌職場に在籍していたことは、最高の幸せであったと思うのです。
この記事へのコメント
NAO
数年前の営業中に、スーパー雷鳥、しらさぎ編成から交流機器を取り外した山陰線特急クモハ183形200番台に乗ることが数回あったのですが、助士席側は必要最低限の計器類しか無いからなのか(締切扉がない)解放状態で、久々に乗務員室扉の落とし窓を開けて外の空気を味わいました。背広姿のオッサンが悪さをするとは思われなかったのか、通りかかった車掌さんも何も言われませんでした。
朝の武豊線乗務は大変そうですが、最後は専務車掌室で案内らしき案内?が出来て、束の間の車掌冥利といったところでしょうか。専務車掌室の窓越しに引き継ぎ、私には今でもすごく羨ましいシーンです。
しなの7号
>マネしてみよう
NAO助役吊し上げだ!との声がどこからか…
クモハ485-200は、キハ82の顔にしたらよかったのに。本文中にアップしたキハ40系はJR東海車で、中間に連結された状態で撮影しましたが、助士席側に立ち入らないようロープがかけられていました。同じようないたずらは、日常的にあるのだろうと思いました。
今のJR東海の名古屋到着時の放送は簡素でよいですが、説明を要するような乗り換え列車がなくなってしまったから、至極当然ではありますね。
サンダーバード46号
しなの7号
私が乗っていたころ、地方の国鉄では全面禁煙ではなく、禁煙区間や禁煙タイム、禁煙車両など部分的に禁煙になりつつある時期でしたので、高校生の車内喫煙はよくありました。地方線区に行くと、列車が特定の高校の専用列車的になるケースは多く、車掌区を通じて学校側に添乗指導するよう申し入れをしていたと思います。マイクの設備は助士席側になかったのですが、その手のいたずらは耳にしたことがあります。というのは、中間運転台が無施錠の列車は当時意外と多かったのでした。
私の場合は、地元中央西線で1往復だけあった大垣の153系快速に「東京ー平塚 禁煙」とステッカーが貼ってあるのを見て、東京まで行っている車両に地元で乗っている喜び?を感じたものです。
天鉄竜機
国鉄退職後、半田市の某酢店が取引先で何度か行きました。
名古屋支店の同僚と同行です。車か名鉄。JR利用は圏外でした。JR駅、鉄路は見ました。
懐かしい文体ですね。さてここで問題です。
以下の単語を漢字に直し、説明せよ。「ゲンキョウ」「ロウアン」「ダンコウ」「ヨウインジュウキュウヒョウ」。
久しぶりに思い出しました。
こがね しろがね
しなの7号
「懐かしい文体」っていうのは、「~されたい。困難である。」のやりとりのことですね。
問題の解答ですが、最後のが?です。
そのほかはわかります。家には57.11のころの「ゲンキョウニュース」が、保管してあります。ゲンキョウが廃止になったころでしょうか。「ゲンキョウという型での開催はまかりならぬという上部からの強い指導もあり我々としても型はともあれ協議の場を持つ意志はない。しかしながら労使関係については180°変えるつもりはなく従来の関係は維持していく。」という訳が分からない当局側の回答で終わっています。
問題の解答は、みなさんでお考えいただくとしましょう(*^^)v
しなの7号
長々だらだら書いてきたことを、ご理解いただきありがとうございました。通勤列車での車内放送は極力簡潔にと配慮はするのですが、この列車の放送は他のどの列車より長くなりました。しかしながら、たぶんまともにお聞きいただいたお客様はいなかったと思います。放送とはそういうものです。お手本のために録音した「ひだ号」の車内放送は、ご本人様にご許可をいただく必要があろうかと思いますので、無断では公開するつもりはございませんことをご了承ください。国鉄で特別功労賞を受賞され、現在も地域社会で奉仕活動を積極的にされておられる方です。
ひだ号は数年前に乗ってからご無沙汰ですが、今の時代にオリジナリティあふれる放送はさせていただけないだろうと思います。いろいろ個人的に言い回しやタイミングを工夫して放送していた国鉄時代にはもう戻れないのだと思います。
鉄子おばさん
しなの7号
名古屋あたりですと、名鉄は便利だけれどタバコが吸えないから国鉄で通勤するといった話も聞いたことがあります。
車掌は英語で「conductor」=指揮者ですから、乗客に対しても指揮すべき立場なんですけれど、現実はそうはいかない場面の方が多いかと…
門ハイ
長崎佐世保線の電化開業前は、急行DCだらけで、高速バスもないとあって込みあっていました。デッキのごみ入れを座席代わりにしていました。私も、混雑でキハ58の助手席に座っていて、汽笛鳴らしたことあります。間違えたふりして、何回かペダルで楽しんだ事を、この場を借りて懺悔します。
しなの7号
おそらく、身に覚えがある方は多いのでは?と想像します。あのペダルは知らずに踏んづけると、ビックリしますね。
自分も懺悔すべきことは就職前~在職中~転職後を問わず多々ありますので、少しずつ白状しているところですが(^_^;)
とうかいしれい
本職さんが「ファ~ン」と優しく鳴らしてるように、優しく鳴らしてみるつもりが「プヮアアアア~~~ン!」
一目散に逃げた(といっても隣の車両の客室へですが)のは言うまでもありません。
しなの7号
懺悔される方、続出ですね(^○^)
いや、あの音は自分で鳴らすとすごく大きく感じますね。
大阪の愛知県人
927Dの名古屋到着前アナウンス、まさに我が青春鉄時代を思い起こさせると同時に“脳内再生”しておりました。我々にとっては単なる通勤通学の足でありながら、同じ編成が名古屋駅を境に『非日常的』旅のロマンを掻き立てる急行列車へ変貌する…魅惑的な927D。
それは当時の乗務員の方々には苦労の連続、国鉄当局との確執を象徴する存在だったのですね。
助手席の警笛は確かに度々吹鳴していました。助手席に腰掛けた学生が足で誤って踏む場合が多かったようですが、助手席や前面窓手前の計器盤上に置いた学生鞄がペダル上に落下して吹鳴する事も。鞄で吹鳴する事に誰も判らず(場所も特定出来ず)数分間に渡って警笛鳴りっ放しで走行する927Dに乗車した経験があります。
キハ35の列車でも警笛誤吹鳴や助士席での喫煙は見受けられましたね。タバコ嫌いの私には息苦しい『喫煙天国』時代でもありました。
しなの7号様の「東京-平塚禁煙」153系は私も記憶があります。大垣夜行の運用(82年11月改正まで大垣夜行は153系中心の編成だった)にも入るから?とか、首都圏からの“お下がり”で剥がしていないのか?とか想像しました。とにかく首都圏では禁煙が先行しているのだと感心し羨ましく思ったものです。
81年2月、大雪で遅延した927Dのキロ28で芽生えた学生の恋。束の間の交際で淡く儚くも懐かしい思い出かな。
927Dにまつわる長編の記事編纂、お疲れさまでした。
ヒデヨシ
長期連載終了残念です、違うか?
警笛の件ではまだ小学生だった私が久留米から別府へ行く急行「日田」で助士席で思わず踏んでしまい席へ逃げ帰りビクビクした思い出があります。
鳴った時はビックリでした。
国鉄時代の気動車は取り扱いが大変だったのがよく判りました。
私も気動車はかなり利用しましたが具合の悪い車両に当たったことはありません。
特急「くろしお5号」で名古屋から白浜までキハ81を使った時トイレの照明が切れていてトンネル内で真っ暗になったこと。
車掌氏が申し訳なさそうに「古くてボロい車両ですから」と謝っておりました。
今でも疑問
急行「大社」名古屋から乗車すると編成案内の車内放送で4両の短い編成であること、食堂ビュッフェ車は連結されていないことがいつ利用しても言ってましたが何なんでしょうね。
他の気動車急行「赤倉」「南紀」「かすが」「平安」「のりくら」ではそのような放送は無いです、もちろんこれらは長編成ですが食堂車無いです。
「大社」はどこの車掌区の受け持ちなのかな?
しなの7号
武豊線の話にお付き合いいただきありがとうございました。まさかこういう形で、国鉄時代の927Dの乗客のお一人としてこの列車にご乗車いただいておられた方からコメントを頂戴することになろうとは思っていませんでした。
朝の通勤通学列車から降りるとき、「ここで降りず、このまま列車に乗って旅に出たい」と思うことはよくあることですね。そういう気分にさせてくれるのが927Dでした。
中京圏で普通列車の禁煙区間が設定されたのは名古屋~多治見間が最初だったと記憶します。東海道本線と関西本線にも禁煙区間が拡大したのが59.2ダイヤ改正で、そのときから大垣区の113系・165系の車内には、その禁煙区間を明示したステッカーが貼られるようになりました。
乗客の方にも、この列車での忘れられない思い出とドラマがあったのですね。81年2月は、私が車掌になって初めて武豊線乗務をした月です。私は、この列車が大雪で遅延したという記憶はありませんが、大雪の日に武豊発名古屋行一番列車921Dに乗ってかなり遅延した記憶はあるので、乗務日誌をひも解きましたら、それは3年後の84年の2月のことでした。
しなの7号
またまた懺悔のお言葉ですね。あれは踏んでくださいといっているようなものです。それにしてもキハ58の笛の音色はよかったですね。JRになり211系5000が地元を走るようになって、屁のような警笛には幻滅でした(^_^;)
やっぱり電車に比べて、気動車のほうがキハ40系を除き不具合が多かったという印象が強いです。キハ81系の乗務経験はもちろんないですが、くろしおに転用されたたときには外見も相当にくたびれていましたからね。
大社号の乗務区所を私は存じませんが、車内放送ではイントネーションや方言ばかりではなく、強調する文言や言い回しが、受け持つ車掌区ごとの伝統というのか、特徴はあると思います。私が上りの大社号を利用した際には、敦賀で車掌が交代しましたが、敦賀~名古屋間での放送内容は簡潔で、特徴がありませんでした。今時のJR東海の「ドアから手を離してお待ちください」も会社ごとの特徴ですよね。
NAO
http://ameblo.jp/kumagorou-kumako/entry-11978589781.html
確か昭和55年12月の指定席料金閑散期最終日だったのを覚えています。キロ28乗務員室にお邪魔し、業務が落ち着いていたのか、小浜付近から敦賀まで話し相手になって下さいました。以前は本編成が西舞鶴→名古屋(泊)→出雲市(泊)→西舞鶴という乗務でかなりキツかったが、今は上下とも西舞鶴で分割されたので楽になった、付属編成の福井行きは乗客専務が担当する旨、教えて下さいました。
しなの7号
フォローありがとうございます。
そういえば、以前、拙ブログにもTOKYO WEST様から、大社号が西舞鶴車掌区の受け持ちだったことをコメントでご教示いただいておりました。私の記憶は怪しいので記録をたどりましたら、昭和56年10月に乗っていました。放送の声が変わったのは西舞鶴からだったのかもしれませんし、西舞鶴~敦賀間は福井行のカレチ氏が放送していたのかもしれないです。
西舞鶴車掌区あたりだと、食堂車付の長編成の列車とは縁がないと思われますので、東海道本線や北陸本線へ入る乗務だと、他の優等列車より編成が短いことや、食堂車もビュフェもないことを強調しなければという意識があったのでしょうか?
やくも3号
母から聞いた話ですが、まだ中国自動車道の高速バスもなかったころは京都から新見まで急行だいせんで帰省していたそうです。繁忙期は非常に混んでいたようで、生まれたての私をだっこした母のみならず3歳の姉までもが7時間立ちっぱなしのことがよくあったようですが、人口密度がいくぶん低くオムツ交換もできる助士席部分によく避難していたようです。
うちの場合は、そのとき食べていたバナナの皮を姉が落とし、拾おうとしたときに警笛を鳴らしてびっくりして大泣きしてしまったようで、母が当時を思い出し「懺悔」しておりました。
ところで、やはり車内放送は低めのトーンで安定感のあるベテランの車掌さんのものを聞くと安心します。最近はJR(西日本だけかもしれませんが)の社員さんは『国鉄時代からのベテラン』か『契約社員を含む若者』に偏った、少しいびつな年齢構成になっている気がします。
大阪の愛知県人
お恥ずかしい事に「大雪の日の恋」は昭和56年2月ではなく、1月14日でした。当時はまだ成人式が1月15日で、その前日だった事を今さらながら思い出しました(汗)
ちなみに、948D(旧946D)のキハ助士席で警笛ペダルを踏んだ事を、こちらのモデラーさんも告白しておられます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~seigo/taketoyo.htm
TOKYO WEST
NAOさま 私が昭和57年5月に下り「大社」に乗ったときも車掌長1人乗務で、敦賀で福井発の編成を併結してからは専務車掌の姿も見えました。
しなの7号さま 最近東海道新幹線に乗っていましても、チーフの車掌長や列車長が若手や女性、後部の運転担当が年配者ということも珍しくないせいか、特に気になるのが車内放送技術の低下です。適度なスピードや間というのが大切かと思うのですが、早口でまくし立てるだけの放送も少なくなく、国鉄時代のベテラン車掌長にはとてもとても及びません。
しなの7号
また懺悔の方、お1人ですね。7時間も立ちっぱなしでは、かなりしんどかっただろうと思いますが、そこで、警笛の音で大泣きされれば、一生忘れない思い出になってしまいますね。
お若い車掌さんで流暢に車内放送をされる方もおいでですが、上手そうに聞こえる放送も、巻き舌早口でさっぱり聞き取れないことがあります。一方でご自身で研究されている方の放送には味があり聞きとりやすいですし、逆に仕事だからしかたなく放送してんだよという方も、聞けばすぐわかります。
しなの7号
了解です。昭和56年1月14日は、まだ前職場で貨物列車に乗務していました。乗務日誌にはその日乗務すべき東海道本線の1往復が運転休止になったことが記されています。
警笛吹鳴は、転職後の会社での旅行で下呂温泉へ行った帰路に、会社の女の子を含む数人で一緒に急行のりくらで鳴らしたことを私も白状しときますね。(^_^;)
しなの7号
TOKYO WEST様はお手元にお持ちかもしれませんが、国鉄部内向けに「フロントサービス講座」(中央鉄道学園刊)という冊子がありました。あれは転職後も接遇面で参考になりました。書いてあることは当たり前のことばかりでしたし、JR各社にはもっと優れた放送や接遇用マニュアルはあるのでしょうけれど、話し方、内容の正確さだけでなく聞き手を意識した放送をのぞみます。せっかくのプロの知識も一般のお客様にわかりやすく伝えられなければ何にもなりませんからね。
NAO
私が「大社」に乗ったとき、小浜線内では福井行き前3両の乗客専務と名古屋行き後ろ4両の車掌長の領域がはっきり分かれていたようで、車内巡回の際、名古屋行き先頭車(併結時の前から4両め)の車両前後部で向こうの方に見えるお互いの姿を確認出来たところで、手振りの合図のみで双方引き返してゆかれました。
あと、車掌長さんと鳩原ループの話しをしたとき、「あのループ線は(北陸線の)上りだったかなあ、それとも下り?ああ、確か上り線だったな」なんて仰っておられたのですが、事故でもない限り、車掌さんにとっては線形はそれほど大事なことではなかったのでしょうか。
しなの7号
いつも確かなご観察眼とご記憶に脱帽です。
車掌の複数乗務の場合は担務指定がされます。分割される優等列車では指定席の座席表の管理や案内もありますし、客扱上は別列車のように担当し、片方が満員で手こずっていると応援に行ったりしていたのではないでしょうか。車内巡回もどの駅を出たら前後から、などとと打ち合わせしてからやるのが一般的でした。
長距離乗務の車掌にとって、地元線区以外での乗務においては線形より、各駅各ホームの出発信号機や出発反応標識がどこにあり、現示確認可能なドア扱い位置はどこか、複数の進路があればどの信号機や標識を見たらよいかが仕事上いちばん重要になります。停車駅間での事故の場合は、電柱に貼られた「→」を見て、連絡のため携帯電話機の端子場所まで走りましたので、線形はそんなに気にしません。それと、敦賀~(長浜)~米原間で言えば、乗車人員と停車駅間距離から車内改札に最も適した区間でしたので、「しらさぎ」の場合たいてい車内改札中でした。車掌は一般乗客の方が考える接客上のウエイトより、目に見えにくい運転取扱の正確さのほうが重要視されます。ご承知のようにレチは列車長から来ていますので、列車全体のの責任者であり、運転士はその列車を安全確実に動かす技術者であるのです。もし、運転士が誤って停車駅を通過してしまい、車掌もうっかりしていて何も停止手配を取らなければ車掌も例外なく処分を受ける結果となります。「車内改札をしてました」は言い訳になりません。
大井町の住人
こんにちは。
今回は武豊線シリーズ最終回にふさわし感動編であったと思います。
特に、名古屋駅到着の描写は、画と音が思い浮かんでくるようでした。
車窓はいつしか都会の風景に変わり、名古屋駅の広い構内へ進入のため、列車はスピードを落とします。ポイント通過のたびに、左右に横揺れし、ホームにさしかかると、レールとエンジンの音はホームの下に潜り込み、代わって大ターミナル駅の喧騒が聞こえくる。そんな風景と若い車掌さんのいろんな思いが伝わってきました。
さすが宮脇文学に通じておられる、しなの7号様の文章だと思いました。
気動車の中間運転台の話ですが、私も学生の頃、旅先のキハ40系でここに陣取った思い出があります。
運転助手席の座り心地を確かめたり、乗務員窓から顔を出して、安全監視の真似ごとをしました。
運転席の椅子って、案外座り心地はよくないですね。大きく揺れると振り落とされそうな感じて、あれに座って運転するのは大変だと思いました。
もちろん、“懺悔のペダル”は踏んでしまいました。
それから、車内放送のオルゴールチャイムですが、気動車、または客車の場合、普通列車でも始発終着時には大概チャイムを使用していたと思います。首都圏では川越線や八高線のキハ30系でさえ、チャイムを使用していました。
ところが電車の場合、設備の関係もありますが、急行でさえチャイムなしが少なくありませんでした。
それゆえ、「鉄道唱歌」のチャイムには有り難みのようなものを感じました。
大井町の住人
最後に、車内放送の話ですが、私は終着駅到着前の車内放送冒頭「みなさま大変長らくのご乗車お疲れさまでした」という決まり文句が好きです。
今や列車の速達化で、「長らくのご乗車」は時代にそぐわなくなってきていると感じます。
しかし、この言葉には列車が終着駅に到着する何とも言えない安堵感があると思います。
追伸、長文になり申訳けありませんでした。
しなの7号
過分なるお言葉ありがとうございました。
多少なりとも、早朝からドタバタしながらも、なんとか急行列車に引き継げる安堵感を感じ取っていただけたようで、うれしく思います。
中間運転台の警笛は、拙ブログ内においては“懺悔のペダル”という呼称になりました!(^○^)
乗務員室の椅子は低運転台のクハ153あたりはフカフカの椅子だったと記憶しますが、以後は人間工学とやらを採用して硬いすり鉢状?の椅子が主流になったみたいです。座りっぱなしになる運転士さんは、座布団を持ち歩いている方が多かったです。
私は幼少時には非電化区間で育ちましたので、鉄道唱歌のオルゴールには憧れみたいなものがありました。しかし電車(特急を除く)の場合、クハにはオルゴールがなく、大垣始発の東京行の344Mの放送をしたときは、物足らない思いがしたのは事実です。あいにく344Mでサロに乗務する機会はありませんでした。
たしかに「長らくご乗車」できる列車には、なかなか乗ることができないほど、短距離を速く走るスプリンター列車ばかりになりましたね。どうでもいいことですが、このコメント欄で5件ほど上の方にある私からのTOKYO WEST様あてのコメントで、国鉄部内向けの「フロントサービス講座」という冊子があったことを書いたのですが、その中に「改めたい放送用語」の例が列挙されており、そのなかに「たいへん、ながらく」があります。「適切なことば」は「たいへん(長らくは使わない)」とされています。そのほかいろいろありますので、いずれ機会がありましたら、冊子の内容についていずれ書いてみたいと思っています。
(と、言ってもいつのことか全く未定です(^_^;))
やすべー
たまたま、このサイトを見つけ、とても懐かしく読ませていただきました。
平成元年まで武豊線沿線に住んでおり、よく武豊線を利用していました。利用者からすると925Dや927Dは豪華な特別な列車でしたが、乗務員さんからすると大変な苦労をされた列車だったのですね。思い出としては、昭和58年頃中学の修学旅行で利用した925Dには修学旅行用に後よりに2両か3両ほど増結され、大府からは165系で編成された修学旅行専用列車(大府発7時30分頃だったと思います)で品川まで東海道線を上っていく行程でした。ところが925Dに増結された修学旅行用に用意された車両がホームから外れ、結局一般の通勤通学の人たちが乗っている車両に約300人の生徒が無理やり乗り込んだ記憶があります。
また、JR直後だったか927Dは現在の尾頭橋駅付近のカーブあたりで名鉄本線で間合いで運転されていた北アルプス号用の8000系と並走するダイヤとなっていて、とても見ごたえのある光景が繰り広げられていました。とても懐かしいです。
しなの7号
いつも国鉄をご利用いただきましてありがとうございました。←(語尾「ございます」で国鉄末期にはよく放送に入れたフレーズでした。)
乗れない増結車…いかにも国鉄です。と言っても他に名案が浮かびません。ホーム長が短い武豊線に925D・927Dの編成長そのものが問題ですからね。名鉄8000系の特急との並走は想像すると圧巻ですが、双方とも本来の運用を前にした間合い運用列車になりますね。
おき2号
広島地区に投入されている227系ですが、貫通路は助士席側スペース(椅子はないですが)が解放されていました。しかし、貫通扉やカーテンを閉めたりして騒ぐ高校生がいて、ロープで助士席側が閉鎖されるようになってしまいました。
機器などのいたずらはされることはないように対策してありましたが、こういうスペースは時代を超えて厄介の種になってしまうのですね。
木田 英夫
最近の目次からこちらに入りました。
中間の先頭車の助手席の件、懐かしく読ませて頂きました。こちらの阪急電車では、昭和55年にデビューした7000系より前の電車は、キハ58系と同じく助手席に自由に入れました。運転室(乗務員室)にはこんなことでもない限り入れませんから、電車が空いていて席も空いているのに、わざわざ助手席に立っていたりしたこともよくありました。
目の前には、記事にも書かれている車掌弁や、ドアスイッチなどなど、鉄道マニアとして興味をそそられるものがたくさんあります。「これ触ったらエライことになるな」(急停止、車外転落…。)と思いながら見ておりました。
最近の電車では、運転席、助手席が両方とも締め切られるようになっていますし、中間の先頭車は貫通路も開けない(隣の車両と行き来できない)ケースもありますから、「助手席に入る」ことは今後は出来なくなりますね。
何時もありがとうございます。木田英夫
しなの7号
中間に入った貫通型車両運転室は、混雑緩和を優先すれば助士席側を有効利用したいですし、乗客に開放すればいたずらされやすく始末がよくありませんね。今どきの車両では、重要な機器類は運転席側にあるとしても、今も昔も高校生たちが溜まりたくなるスペースであることはわかる話です。
しなの7号
私の子供のころ、地元は非電化でしたので、助士席側に入れる列車と言えば気動車でした。あのスペースには客室にない雰囲気が漂い惹かれました。そのころは旧客列車のほうが多く、緩急車の車掌室の反対側(手ブレーキがあるところ)もお気に入りでした。気動車列車、旧客列車とも中津川で増解結される列車が多く、中間に運転室のある気動車とかオハフが入る列車が多かったのです。