私が列車掛として乗務していたのは1979~1981年(昭和54~56年)で、そのころには「快速貨物列車」という列車種別がありました。国鉄では、各駅からヤード所在駅に貨車を集めて、そのヤードでは貨車の行先方向別に振り分けて次のヤードまで運転するという古くからあった輸送方式を基本としていました。しかし、近代化の一環として貨物の速達化と到着日時の明確化を目的として運転されていたのが快速貨物列車でした。車両の編成は普通貨物列車と見かけは全く変わりませんが、まずその例をご覧ください。
1980年(昭和55年)8月30日
東海道本線 快速貨4163列車
運転区間 大宮操~吹田操
乗務区間 稲沢12:43~吹田操15:42
EF65 63(吹二)
ハワム 81678 宇都宮(タ)~梅田
ハワム184298 宇都宮(タ)~梅田
ハワム 85439 宇都宮(タ)~周防富田
ハワム181652 宇都宮(タ)~東広島
ハワム186726 宇都宮(タ)~吉塚
ハワム187879 宇都宮(タ)~吉塚
ハワム 87377 宇都宮(タ)~浜小倉
ハワム188233 宇都宮(タ)~浜小倉
ハワム284934 小山~水島
ワラ 9615 栃木~高鍋
ワラ 2410 栃木~東岸和田
コキ 25702 熊谷(タ)~梅田
コキ 51247 熊谷(タ)~東広島
ワム 67966 熊谷(タ)~熊本
ハワム285192 熊谷(タ)~徳島
オトキ 26669 安中~梅田
オトキ 27426 安中~梅田
ワム 74661 前橋~東貝塚
ワラ 3309 前橋~東貝塚
テム 979 葛生~豊後森
ハワム181449 葛生~南部
ハワム281690 葛生~藤並
ハワム182399 葛生~藤並
ハワム284024 葛生~東岸和田
ホキ 8808 大叶~飾磨
ワラ 3214 北高崎~後免
ワラ 16648 中之条~東広島
オトキ 28492 安中~梅田
ワム 65892 北高崎~福岡港
オトキ 27198 安中~梅田
ワラ 15231 松井田~古賀
ワラ 4551 高崎~益田
ワム 62646 宮本~水島
ワラ 971 葛生~東岸和田
テム 995 第三会沢~高松
ワラ 12944 大叶~紀伊田辺
ワラ 15989 大叶~紀伊田辺
ワラ 4545 皆野~鹿児島
ワラ 10273 高崎~東中津
ハワム185219 伊勢崎~周防富田
ワム 66637 稲田~湊町
ホキ 5406 上白石~西八幡
ホキ 7015 上白石~飾磨
ハワム 80117 宇都宮(タ)~浜小倉
ハワム285213 宇都宮(タ)~浜小倉
ヨ 6639 (南トメ 車票なし)
現車46 延長換算57.9 換算119.9
幹線である東海道本線を、国鉄時代には当たり前のように走っていた長編成の貨物列車です。
解結貨物列車との違いは車票の発駅と着駅を見ないとわかりません。そこで編成の発着駅を眺めますと、発駅は北関東地区で、着駅は近畿地方以西行の貨車ばかりで組成されています。速達化を図るために大宮操車場に集まった貨車のうち、吹田以西行の貨車ばかりで組成し、途中にある稲沢駅などのヤードをパスさせた結果です。
発着駅名は、私が車票の着発駅を記録したもので、例によって品名等の情報を記録していませんので不備ではありますが、貨車の世界にお詳しい方であれば車種と発着駅から積載物がある程度想像できるものも散見されます。
下は乗務に使用していた「抜すいカード」です。
ここからも多くの情報が読み取れます。
「機関車形式EH10」となっていますが、この時期はEH10の最終末期に当たっており、編成記録時の列車では、EF65に変更されています。
「定数120」というのは、運転するうえでの重量制限で、10トン=1両換算として計算されます。この場合は1200トンまで連結できることになります。拾い出した編成表の最後のところをご覧いただくと、「換算119.9」となっており、制限ぎりぎりまで貨車が連結されていることがわかります。これは乗り継いだ乗務員から引き継いだ「貨車解結通知書から転記した数字です。
一般的に東海道本線の下り貨物列車の場合は、枇杷島~稲沢間は通称「稲沢線」という貨物線を使用するのですが、この快速貨物列車は稲沢でヤードに入らないので、「枇―稲 東海道線運転」と記載され、この区間は旅客線を走行するよう指定されています。
「貨車輸送方」は単純明快で「吹田以西行+ヨ」で、貨車輸送方の記載順は最後部からとなっていました。また、「ヨ」とされていても、快速貨物列車は最高速度時速75kmでしたので、「ワフ」の場合もありました。
上の画像は、この編成表を拾い出したときとは別の日に撮影した4163列車です。この日には逆向きのワフ29500形式が連結されています。
再び抜すいカードの記載内容に戻りますが、「現車60両(藤枝)以内」というのは、延長換算両数の制限で、ここでいう「現車」は貨車数ではありません。藤枝駅は私の乗務区間(稲沢以西)より手前の駅ですので、お示しした抜すいカードからは読み取れませんが、藤枝駅では後続列車の待避のため副本線(下り1番線)に入線するダイヤだったはずです。停車駅のうち、有効長が最短の駅が藤枝駅で延長換算が60両(8m×60=480m)を超えないようにせよという制限です。この制限を超えると尻尾がはみ出てしまって、後続列車が追い越しできない結果となってしまうので、貨物列車には先にご説明した重量による制限のほか、このように列車の長さの制限もありました。重さだけでなく長さのほうも、編成例では延長換算57.9となっており、その上限に近いことがわかります。
快速貨物列車という列車種別は、1984年2月の「59.2ダイヤ改正」でヤードを用いた輸送形態が廃止されたことによって、列車種別が再編されてなくなりました。
この4163列車は私が乗務した稲沢以西では、米原(操)で、機関車乗務員交代のため3分停車するだけで終点吹田まで無停車でした。そのために列車掛の業務である乗務検査指定や入換駅がなく、列車に異常がなければ「乗っているだけ」でした。編成車両の行先を把握する必要もないので、編成内容を確認さえすることはなく、確認すべき情報は「現車46 延長換算57.9 換算119.9」という長さと重量だけでしたから、車両番号も職務上知る必要はありませんでした。必要な情報は始発駅の大宮操から終着駅の吹田操に通知されているからです。そういう列車ですから、いつ乗務しても長大編成であったこの列車の組成内容(形式番号や発着駅等)を停車時間を利用して貨車の検査業務をしながら個人的に知りたくても時間的に無理がありました。上の画像は、途中駅米原(操)で、そのわずか3分の停車時間中に撮影したものです。
終点の吹田でヤードに入るこの列車は、広大な吹田操車場の北東端にある「吹2」と呼ばれる到着線に停車した時点が列車としての終点で、ここで停車すると乗務終了でした。その場所の最寄旅客駅は「千里丘」駅でしたので、到着点呼場所の大阪車掌区吹田派出所や休養場所の吹田乗務員宿泊所最寄旅客駅である「吹田」駅まで2駅も東海道緩行線の103系電車に便乗しなければならず、こういうところで吹田操車場の広大さを感じたものでした。
実は、ここに掲載した編成表は、「吹2」で乗務終了後に、便乗列車に乗るまでの間に、4163列車の先頭まで一往復して拾い出したものです。暑い夏の日のことでもあり、我ながら物好きだと思いましたが、乗務先の吹田では特にすべきこともなく、暇つぶしにやったことです。
編成中で、現在なじみがない駅を拾い出しますと、
「湊町」は現在の「JR難波」です。これはご存知の方が多いでしょう。
「周防富田」は山陽本線にある「新南陽」の旧駅名で、この記録の翌々月に改称されています。
「大叶」「宮本」「第三会沢」「上白石」は、いずれもかつて東武鉄道佐野線にある葛生駅のさらに先に伸びていた貨物駅でした。
「飾磨」は国鉄播但線(枝線)の駅でしたし、「福岡港」は鹿児島本線(枝線)の貨物駅でしたが、いずれも現存しません。
このほかにも、「こんな駅で貨物?」と思わせる駅もいくつかあります。
こうして眺めると、連結されている貨車には特別目を引くような珍しい形式がありませんが、発着駅には時代を感じます。



この記事へのコメント
NAO
東岸和田でも貨物取扱いがあったのですね。この駅近くにも営業先があったのですが、単なる大都市近郊駅としか思っていなかったので以外です。もっとも阪和間営業先はほとんどが南海本線沿線でしたので、ここへ行くときは南海岸和田駅からバスで往復ばかり、東岸和田駅前は何度も通りましたが乗降したことはないので、駅構内の構造は知りませんが。
しなの7号
並行した国鉄駅と私鉄駅が微妙な距離で離れている都市では、たいてい利用するのは私鉄駅のほうというパターンは多かったですね。中京圏でも同じで国鉄駅のほうは貨物駅としての存在価値があったといってもいいくらいです。
この貨物列車は最高速度が時速75㎞で外側線運転でしたから、草津以西では内側線電車に抜かれ、その停車中に貨物列車が追い越し、また抜かれるということを繰り返しました。
天鉄竜機
竜華機関区の担当は、ほぼ貨物列車。大貨物駅の入換機。
こうして見ると46両中11両が竜操経由です。1両のみ関西線下り。他は阪和線解結貨物に5両。和歌操行に5両。
牽引機はDD13、ED60(61)、EF15でしょうか。東岸和田は1番線の山側に貨物1・2番線が有りました。東貝塚は、補機の連結・解放がありました。
まじめに仕事してたんですけどね~。
黄色い車掌
東武鉄道の駅発の貨物があったりと当時の私鉄も貨物輸送が盛んだったとこれを見て感じます(^-^)/
皆野(秩父鉄道)発の貨物があるとは意外!?でした。秩父鉄道は石灰石輸送のイメージが強いので最初見たときは驚きました(*_*)
しなの7号
そうですねえ。このころは吹田操~竜華操の間はかなりの輸送量があったのですね。阪和線ではEF58もアリですかね。
私もまじめに仕事してたんですけどね~。
しなの7号
今のコンテナと専用列車中心の定型貨物列車と違って、当時の貨物列車は基本的に毎日編成が違うのが当たり前でした。
私は東武は貨物輸送がけっこうあった印象を持っています。というのも、東京スカイツリーのおひざ元、旧業平橋のネルソンが有名だったことによります…ってもちろん見たことはないんですけど、東京の私鉄はすごいなあと雑誌を見て思ってました。
北恵那デ2
しなの7号
貧乏人の私は「59-2ダイヤ改正」の本を中古本で買いましたけれど新本同様でした♪ 59.2のころ、仕事では貨物から完全に離れていたので、新たな知識も得られました。
貨物列車の録音と言えば、春日井貨物のワムハチがなくなる前に、ICレコーダを持って昼休みに沿線に出かけたものの、ロングレールの普及で2軸車のジョイント音が録れませんでした(T_T) 連続する二軸貨車の音も過去のものですし、発車時の汽笛さえ聞けない昨今の列車は、物足らない思いがしますなあ。
田端車掌区レカ
延長換算が新宿駅の有効長以上の組成されていること。便乗で新宿へ、山手運転事務室で貨車解結通知書を受け取り機関士に手渡し、始発検査をしながら後部緩急車へ、ブレーキテストを行います。この時列車はどうなっているかと言えば、
機関車とつながる貨車は出発信号機を超えて止まっています。出発時間になると一旦出発信号機の外側まで後退、当然最後部の何両かは本線に飛び出します。そして出発信号機が変わったら駅長の出発合図で新鶴見ソに向けて出発していきます。空車が多かった様な列車でした。貨物が衰退したとき
貨車の置き場所が無くなり、空車のカモレを走らせていましたね。
急行 陸中
終わろうとしていたころでしょうか。
末端のローカル線にも貨物列車が運転され、
貨物列車ファンは、今思っても最高の時代でした。
本当はSL時代がよかったが。
しなの7号
首都圏の意外な実態をご披露いただきありがとうございます。首都圏の狭い構内に収容できない長い貨物列車に対しての特異な事例ですね。そういうことが「あの」新宿駅で時々行われていたことは初めて知りました。「あの」を付した理由ですが、荷40~荷2641の乗務がなくなった53.10から、新宿乗り出しの荷物列車で新鶴経由の行路があり、山手貨物の運転事務室のところから乗務していました。東口ビルにMyCity商店街ができたころでした。2年ほど前に様子を見に行ったところ、周囲は別の街に変わっているのにあの一角だけはひっそりとして面影が残っていました。
しなの7号
末端駅の貨物取り扱いは少しずつ縮小・廃止されつつあった時代です。このあと3年半で貨物輸送の大変革59.2を迎えます。
田端車掌区レカ
しなの7号
新宿駅ホームに貨物というのは、どうしてもイメージとして結びつきませんね。
国鉄時代の名古屋駅では、
【332】思い出の乗務列車13:新聞輸送貨物列車271列車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201211article_7.html
を思い出しますが、これは山男山女たちを乗せていった夜行列車が出て行った静寂の名古屋駅ホームからの発車でした。山男山女たちを乗せていった夜行列車は急行「きそ」でした。荷物車が併結されていて、列車掛になる前に荷扱で乗務していました。そのお話はいずれ本文にて。(いつになるかわかりません(^_^;))
緩急車でラジオ! 持ち歩いていましたね。非常制動がかかって、床に転がり落ちたこともありました。
大井町の住人
鉄道ファンにとって、貨物列車も当然興味の対象です。しかし、当時インターネットがあるわけでもなく、鉄道雑誌でも取りあげられることも少なく、一般の時刻表にダイヤが載っているわけでもありませんので、私のような部外者一般人にとって、貨物列車は謎の多い存在でした。
東海道本線・汐留~小田原間は客貨分離されており、旅客列車と貨物列車が並走することがありました。旅客列車の乗客は貨物列車に興味津々で、特に車掌車をのぞき込む乗客は多かったと思います。
車掌車の乗務員は、並走列車の乗客の視線を感じることがあったのではと思います。
もちろん、私は車掌車に乗ったことはありませんが、トロッコ列車に改造された2軸無がい貨車には乗ったことがあります。2軸車の揺れのひどさにびっくりしました。
貴ブログにおいても、車掌車の乗務環境について書かれておりますが、長距離乗務は過酷であったかとお察し致します。
貨物枝線の話ですが、新橋駅から少し歩いた銀座郵便局の傍らに警報器がぽつんと立っています。
これが、汐留~東京中央市場(築地市場)間の貨物専用線跡で、かつて存在した銀座唯一の踏切跡として、地元により警報器が保存されています。
往時は、鮮魚貨車が行き来したのでしょうね。
そんな東京中央市場も、間もなく築地から豊洲へ移転します。
しなの7号
貨物列車の乗務では、吹田操までの乗務がありましたので、草津以西が、複々線区間でした。上の方で書きましたが、旅客列車と抜きつ抜かれつという場面はよくありました。そうなると当然緩急車は注目を浴びます。見て見ぬふりの人が多いですが、こちらを指さし、連れと何か喋ったり笑っている人もいました。正直申し上げて、「お互い」何もすることなく乗っているので、間が持たないといいますか、暇そうだなあと思われていたことは疑いがありません。
汐留~東京市場間の踏切跡のことは、本文の最後に載せた「59-2ダイヤ改正」の本に警報機の写真入りで紹介されていました。現物を見たことがありませんでしたので、上京の折には訪問したいと思います。
ヒデヨシ
編成表、この時代はワム90000が一足先に引退していてハワム280000がまだ増備が始まったばかりという感じですね。
当時はありふれた光景でしたが
コキ25000、50000もコンテナ列車ではなく車扱い貨車に混じっていて若い人からしたら凄く違和感あるのではないでしょうか?
しなの7号
自分が列車掛をしていた時期(55.10を挟む約1年半ほどの間)には、ワム90000は一般運用から引退していました。
コンテナ車もコキ50000は高速貨B専用のように思ってしまいがちですが、車扱貨物にはよくコキ5500(4個積改造後20000番台)と混用されていましたね。コキ50000は車長が長くオーバーハングの関係で、他車より長い専用の空気ホースを使用していました。
ヒデヨシ
成る程、それでコキ50000にはホースの先端が鎖で吊られているんですね。
コキ50000同士だとホースを繋いだ後に
接続箇所を踏んでやらないと確実な連結ができないです。
しなの7号
ああ、そうなんですか。
構内経験がないので、実際にホースを切ったり繋いだりの作業自体、実習で何度かやらせてもらったくらいなので、コキ50000のホースを自ら繋いだことは経験がないですね。
列車の運転中に、ホースからひどいエア漏れがあった場合、ホースの交換を列車掛がする必要があるのですが、この場合の応急処置としては、最後部の緩急車の後ろのホースを外してきて交換することになっていました。ところが、コキ500000では互換性がなくそれができないので、予備ホースが常備してある駅まで何もできない。まあそんなことはまずないでしょうし聞いたこともありませんでしたが、注意事項として教わりました。
旧高砂市民
初めて投稿させていただきます。
いつも楽しく拝読させていただいています。
今回の編成については、貨車マ見えてきます。ぜひ未公開の編成もご被露いただければと思います。これからも期待しております。ニアから見ると興味満載です。ホキ8800、7000の新日鉄広畑への生石灰、ホキ5400八幡行きのドロマイトなど、石灰産地と製鉄所の繁がりが見えてきます。これからも未公開の編成もご被露いただければと思います。
しなの7号
ご覧いただきましてありがとうございます。
この快速貨物には、東海道区間を挟む東西の物流の一端が見えていて興味深いものがありますね。列車掛には、始発駅や一部の途中駅で「乗務検査」の指定がありましたので、乗務範囲である中部地方を中心とする駅を始発地とするローカル貨物列車では、乗務検査のついで(と、申しますか自己の列車の全容を把握するため)にナンバーや発着駅を記録に残せましたが、こういう直行輸送の場合、乗務員は短区間の乗継リレー乗務になり、解結もなく停車時間が短いことが多いので、無理がありました。その結果、主にローカル貨物列車の編成記録しかできていません。各駅で解結していく貨物列車の編成記録などは、機会があればアップしたいと考えております。
東武の貨物輸送研究者
私は民鉄の貨物輸送 特に東武 名鉄の貨物輸送を長年研究しており 蛇足ですが将来的には 不可能ですが書籍を出したいと考えております
書き込みにある車票に記載してある輸送品目の内容は
大叶~紀伊田辺 炭カル肥料 葛生~南部 藤並 炭カル肥料 葛生~東岸和田 石灰質肥料
葛生~豊後森 中和用消石灰 第三会沢~高松 製鋼用生石灰 宮本~水島 ドロマイトプラスター
上白石~西八幡 炉材補修用 ドロマイトクリンカ 上白石 大叶~飾磨 製鉄用生石灰
皆野~鹿児島 石粉(蛇紋石タルク)
これで正解だと思います
蛇葛生地区の石灰製品は関東・東北・甲信越地区に主体に
輸送していたらしいですが 一部は西日本や東海地区に輸送されておりました。西日本には岡山や岐阜県に石灰を産出する地域もありますがこれらは特別な事情によるものです。
なおドロマイトプラスターとはマグネシアセメントの類です。これらは全て定型定量輸送によるもので ある程度は運用が決まっていたみたいです
しなの7号
ご教示ありがとうございました。積載品目について記録していない中途半端な調査ですが、乗務員は、火薬類及び危険品といった類で輸送上の条件が厳しかった積載品目を除けば、積載品目に注意することが通常はありませんでしたので、こういうことになっています。特にこのような解結のない列車の乗務なら、通常はまったくのノーチェックでした。
資料は限られ、困難なご研究かとお察ししますが、完遂されることにをお祈りします。
木田 英夫
高二の時の白馬栂池への修学旅行(スキー合宿)や、社会人になってからの東京出張の時に、あの「大阪しなの」で何回か乗っているところですが、今回、こちらの記事やレサ編成の記事を読んだ上で改めて通って見ると、その広さに圧倒される思いでした。
そして、しなの7号様が乗務を終えて、終点ですから操車係の方でしょうか、に「異状なし」と列車を引き継いだ吹田2番線。
吹田まで2駅電車に乗って向かわれた、「乗務終了、異状なし」の点呼が行われた事務所。
更には、レサ編成の写真を撮影された操車場。…
どの辺りになるのかなと思いながら通勤しておりました。
今回の抜粋カードですが、
駅名、右側の列の上から2つ目「神」一文字、これは神足駅で今の長岡京駅ですね。
運転経路、草津・茨木間外側線にも思わず反応してしまいました。
機関士1人乗務。子供の頃、母に連れられて交通科学館に行ったときに「いい映画だから」と言われて「ある機関助士」という映画を見たことを思い出しました。尤も、50年以上も前の事ですから、映画の中身は全く覚えておりませんが…。
とりとめのないことで申し訳ありません。木田英夫
しなの7号
近年、京阪神方面に乗車する機会はありませんが、旅客線の車窓から見ていると、旧吹田操車場跡地はほんとうに長々と続いていたと改めて思いますね。
この4163列車は吹田操車場が終点でしたので、千里丘駅に近い終着列車専用の下り到着線(吹田第2信)に入りましたが、吹田操車場が終着ではない貨物列車は到着線に用はないので、ヤードの外周を囲むように敷かれた貨物線上にある全く別の着発線で停車して乗務員が乗り継ぎました。ですから九州から首都圏に直行するレサ編成の上り5050列車が停車した場所は、4163列車が停車した場所とは別の岸部駅の吹田寄りあたりにあるの上り着発線(吹田第6信)でした。今、旅客線から見ると吹田貨物ターミナル駅のコンテナがたくさんあるあたりを挟んで向こう側(北西方向)になると思います。広い敷地のことゆえに、列車を扱う信号扱所が1か所に集約されていたわけではありませんでした。
「機関士1人乗務」の記載から、当時はまだ機関助士が乗務する列車があったことがわかりますが、乗務ではあまり気にしたことがありませんでした。東海道本線では入換もなく直行する貨物列車は1人乗務になっていたのだと思われます。
「ある機関助士」はYoutubeで閲覧できます。国鉄時代の様子がよく描写されている映画だと思います。
木田 英夫
大阪〜千里丘間、1回目は大人しく座って行ったのですが、2回目は「前かぶ」で行きました。その時思ったのは、操車場の広大さもさることながら、「これだけのたくさんの線路の中を、どのように走って抜けて行くのだろう?」ということでした。一瞬目が回るような気もしました。
一番印象深いのは、仕事場から見えていることもありますが、やはり南茨木の立体交差です。大阪駅と「うめきた地下駅」時刻表の地図では全く同じ場所、実際には新大阪を出て新淀川上流の鉄橋を渡ったところで分れ、うめきたの方へはその先で地下に潜って行きます。
然し乍ら、本当はもっとずっと手前の、あの立体交差で振り分けられています。「こんな手前で、大阪駅へ行くか、うめきたへ行くかが決まっているんだ。」と、はるか号が見える度に感心しておりました。
貨物列車とは全く関係ないことで申し訳ありません。木田英夫
しなの7号
「はるか」の経路は、かつての貨物線を利用しているからこそ吹田操の手前で旅客線から分かれなくてはならないということが理解できますね。かつての吹田操車場は今の吹田貨物ターミナル駅のような貨物の積み卸し機能はなく、貨車1両ごとの仕分け機能に特化した「操車場」でしたから、今よりもっと線路が張り巡らされていました。一般にはもちろんのこと操車場の職員でないと、多くの群線が何のための線路なのかわからないのが当たり前でした。自分も仕事上で関わった場所を除けば、広大な吹田や稲沢の操車場のどのあたりでどんな作業が行われていたのか説明できません。