【581】 思い出の乗務列車54:東海道本線直行貨物 152列車

私が列車掛になって貨物列車に乗務するようになる少し前の、1978年(昭和53年)10月のダイヤ改正時に、汐留~梅田間にパレット式有蓋車ワキ5000形式を連ねた直行貨物列車の運転が始まりました。
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ワキを連ねた貨物列車といえば、さらに時代を遡りますと戦前の宅扱ワキ1を連ねた列車が知られています。戦後はコンテナ列車「たから号」に代表されるようにコンテナ化が推進されていましたが、トラック輸送が幅を利かせてきた昭和50年代に入って、ワキ5000を用いて首都圏対関西の小口貨物の混載輸送で巻き返しを図ろうとしていたのかもしれません。
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そのへんの背景や当時の輸送実態はどのようなものであったか、乗務員であった私もよく知らず、部内紙や業界紙「交通新聞」の記事で、その列車が「スワロー号」という愛称が付けられた混載貨物列車であったことを知っていた程度です。実のところ、貨物列車の列車掛は、貨物営業について業務に関係があった部分といえば、輸送に関する制限や荷物事故の類だけで、そのほかの営業内容をほとんど知らないのが普通でした。旅客列車の車掌が車内改札や車内補充券の発行をしたり、案内をするために旅客営業について熟知する必要があることに比して対照的でした。その代わり貨物は乗客のように、ドアを開ければ勝手に乗り降りしてくれるわけではないので、入換作業をやり、編成の順序に気を遣い、重量・長さの制限を気に掛け、管理することが必要でしたし、車両の検査業務がありましたから、走行部分やブレーキ関係など下回りも含めた車両構造の知識が必要でした。しかし東海道本線のこの列車のように直行輸送の列車では、毎日決まった車種によって編成されていただけでなく、途中駅の解放連結がなく、始発駅からの乗務でもないため検査業務もないわけで、自分が列車から「落ちないように乗っている」のが仕事と言ってもいいくらいでした。ただし、こういう列車は夜間に運転されることが多く、特に首都圏と京阪神に挟まれた東海地方では、今も昔も必然的に深夜帯の勤務が多くなってしまうものです。

1980年(昭和55年)7月12日~13日
東海道本線 152列車
運転区間 梅田~汐留
乗務区間 稲沢23:54~西浜松1:33

EF65 76(吹二)
ヨ 14388(仙ナチ)車票なし
ワキ 5506 梅田~汐留
ワキ 5263 梅田~汐留
ワキ 5907 梅田~汐留
ワキ 6075 梅田~汐留
ワキ 5629 梅田~汐留
ワキ 5970 梅田~汐留
ワキ 5964 梅田~汐留
ワキ 5405 梅田~汐留
ワキ 5358 梅田~汐留
ワキ 5584 梅田~汐留
ワキ 5357 梅田~汐留
ワキ 5969 梅田~汐留
ワキ 5388 梅田~汐留
ワキ 5084 梅田~汐留
ワキ 5949 梅田~汐留
ワキ 5344 梅田~汐留
ワキ 5416 梅田~汐留
ワキ 5144 梅田~汐留
ワキ 5114 梅田~汐留
ワキ 6345 梅田~汐留
ワキ 5201 梅田~汐留
ヨ 14308(岡オカ)車票なし

現車23 延長換算44.0 換算75.8

この列車は、梅田を出て深夜にわたって東海道本線を走り、翌朝汐留に着く直行ダイヤでしたので、途中の停車は乗務員の交代のためであって貨車の解結はありませんでした。
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乗継駅の稲沢・西浜松ともわずか3分停車で、乗務検査の指定もなく、車両個々の把握をする必要もない列車でしたから、編成車両のナンバーを書き写す必要性はもちろんなく、またその暇さえ.ありませんでした。この編成を書き写せるのは西浜松到着直後しかなく、後の乗務員へ引き継いだ後、わずか3分で約350mの長さがある列車の先頭部分まで大急ぎでナンバーを書き写しながら走るしかありません。まったく同じ方法で先頭までたどり着けずに、前2両のナンバーを書き写せないまま列車が発車してしまったことがあり、それは【490】思い出の乗務列車(37):汐留行高速貨74列車で、その中途半端な編成記録を掲載しました。
延長換算44.0の152列車では全編成を書き写すことができたわけですが、たぶん3分間の停車時間内ではこれが限界だと思われます。前2両のナンバーが書き写せず発車してしまったその列車の延長換算は49.0で、コキ50000の延長換算は2.5でしたから、まさに延長換算44両のところまで書き写せているわけです。全部書き写すことができたから何なのだと言われれば、それだけですということなのですが、単調な深夜に乗務する鉄道好きの物好き列車掛は、そんなことに楽しみを見出していたのでした。

この列車は最高速度が時速85kmで、使用される緩急車はヨ5000・6000・8000に限定され、最高時速75㎞対応だったその他のヨとすべてのワフは使用されませんでした。非常によく揺れたコキフ50000を使用する高速貨Bの最高速度よりわずか時速10km遅いだけなのに、2軸車なりの騒音はあったものの振動の点においては身体的に楽な乗務でした。

この列車も、先々週ご紹介した快速貨物4163列車同様に稲沢の操車場をパスしましたので、「稲‐五 東海道線運転」と抜すいカードに明記され、稲沢~五条川信号場(清州→枇杷島間にある信号場)間は旅客線経由で運転されました。また、当時の一般貨物列車はその日によって編成両数や長さが違って当たり前でしたが、この列車はたいてい延長換算36~46程度と比較的長編成で運転されていました。このような貨物列車に乗継乗務となるとき、線路端で待機している位置は毎回ほとんど変わりません。画像の抜すいカードにも私の字で「延46.0東上本乗継詰所前」と加筆してあります。意味は「通常は延長換算46両くらいの長さだから、(貨物線でなく旅客線の)東海道上り本線の乗継詰所前で到着を待っていればよい」という内容です。この日の編成表で延長換算は44.0ですから、ほぼ同じわけです。なぜ、こんなことを書き込んだかというと、それは停車時間が短いためでした。

わずか3分で乗り継ぐこのような列車が臨時的に極端に短い編成になった場合には、最後尾の緩急車は乗り継ぐ列車掛が待機している位置を大幅に行き過ぎてしまいます。乗り継ぐ列車掛は大急ぎで100メートル単位の全力疾走で列車を停車位置最後部まで追いかけなければならない場面が出てきます。発車時刻までに、引継事項があればそれを訊き、機関士とは無線機の通話テストと変更事項の照合をする必要があります。こういう列車が臨時的に極端に短編成になった場合は、乗務終了後に、そのまた先を乗務する列車掛へ、電話で延長換算両数をあらかじめ知らせていました。たとえば、九州方面から上ってくる列車で、吹田~稲沢~西浜松~沼津と列車掛が乗り継ぐ列車の場合、自分が稲沢から乗務する際には吹田まで乗務してきた乗務員から出勤点呼場所である稲沢車掌区へ延長換算両数の連絡が入ります。稲沢まで乗務した列車掛は、乗り継いだ私に西浜松までの乗務であることを確認したうえで、浜松車掌区西浜松支区へ電話連絡。同様に自分は西浜松で乗務終了後に沼津車掌区へ連絡をするという交互リレー方式で、これは現場でのエチケット的な慣行でした。

この152列車にはスワロー号という営業上の愛称があったとは言っても、べつにヘッドマークやテールマークがあったわけでもなく、しかも人目につきにくい深夜に運転されていたことから鉄道ファンのなかで話題に上るような列車ではありませんでした。
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ワキ5000そのものも全国どこでも見られた有蓋車で、私は分割民営化後に2軸車のワムが廃車されたあとも長く使用される形式だろうと思っていたのですが、ワム80000よりもかなり早い時期に貨物輸送から撤退してしまいました。

この記事へのコメント

  • 天鉄竜機

    こんにちは。GW真最中です。
    竜華機関区はウヤになる列車が多く、「単機に変更」「片道便乗に変更」続発でした。
    深夜一人乗務で進行信号だけ見て走る私達にとって、列車係が乗務しているのは心強く思ってました。
    大きな反射板2枚が列車係の代わりとは情けなかった。
    昔の話ですね。話変わります。
    亀山「日通」のおじさんの暗号。「YOU Tube 昭和16年 貨物列車」でおじさんが暗号を言ってます。
    2015年05月04日 17:09
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは
    ワキ5000を連ねた152レはお話の様に名古屋地区を深夜の通過と言うことで私も勤務中に見たことはありません。
    今なら話題になるでしょうが貨物列車がまだたくさんあった当時は気にもとめませんでした。
    乗務員交替が3分とは短くて驚きです。
    列車は知らないのでワキ5000の事を
    写真のNゲージKATOの製品はワキ10000
    からの塗装変更製品なので車体中程に側
    ブレーキ表現がありますが実車は端部にあり長い車体で突放時のブレーキ調整が少し難しい貨車でした。
    1500両も作られたのでたまに到着貨物で刈谷でも扱いました。
    名局にはバイク輸送用に棚付きに改造されたものや、改造内容が少し違うワキ7000になったものも
    2015年05月05日 02:07
  • NAO

    不思議なことに、普段梅田と聞くと大阪中心部の喧噪を思い出すのに、貴ブログを含め、鉄道の話題のなかでこの地名を見ると、真っ先にあのヤードや積み降ろしドームを思い浮かべます。
    交互リレーのエチケット慣行、素晴らしいコミュニケーションですね。私もアナログな引き継ぎが多い仕事に就いていますので、是非どこかでマネ出来るようなところがないか探してみます。
    愛称名が付いているのに勿体ないですね。夜つばめ、なんかにすれば、夜に燕が飛ぶのか、なんて批判されそうですが。朝に吹く風があるのだから、すがすがしい朝に飛ぶ鳥、とういうことにして、あさつばめ、いや、もうやめます。
    2015年05月05日 04:50
  • しなの7号

    天鉄竜機様
    この時期、貨物はウヤになるのが楽しみでした。こんなときでもウヤにならないのが解結貨物でしたが、各駅の入換がほとんどなく、無駄な停車時間にはすることもなくただ乗っているだけというのも乙なものでした。
    「Youtube 昭和16年 貨物列車」も拝見しましたが、これはすごいの一言(゜o゜)
    前後の緩急車に車掌が乗り、小口貨物の荷扱手も乗ってますね。発車前の検査掛の様子も映っていますが、我々のころの貨物列車は車掌が検査業務も兼務(車掌+検査掛=列車掛)で1人、そしてさらに反射板で代用…。
    亡父が生きていたら見せたい映像でした。貴重な映像ご紹介いただきありがとうございました。
    2015年05月05日 13:56
  • しなの7号

    ヒデヨシ様
    おっしゃるように、NゲージKATOの製品はワキ10000の台車と色を変えた製品なのですが、側ブレーキ表現がもともとない!ので、問題なし(いや、そりゃ大問題!)です。床下を見ると、電磁ブレーキ表現があるのもご愛嬌。最後の画像は河合商会(旧トミックス)の後期型です。こちらも側ブレーキ表現がなく、どちらも突放禁止で、留置すにも伴車が必要ですね。
    ワキ7000は加佐登駅常備でしたが、列車掛になったときにはすでに運用されておらず連結されたことはありませんでした。棚があるなら、鉢植え用に転用…は無理ですかね。
    当時、貨物列車の乗務員交代駅では停車時間は3分、旅客列車は2分が確保してありました。
    2015年05月05日 13:57
  • しなの7号

    NAO様
    私の場合も、梅田も品川も新橋も駅裏が拠点でしたから鉄道の場合はそういうもんですね。最後までそれらしかった梅田駅を、廃止前に空中庭園から眺めておきましたが、変わりつつあるのでしょうね。
    仕事上の引継が的確かどうかで、引き受けたほうは仕事の質や能率が上下するもので、近年の長距離優等列車によくある「こま切れ乗務乗継」は、一長一短だろうなあと思います。自分の番が終われば後は知らんという人もありますし、なかには罠をかける人、稀に「爆弾」を仕掛ける人もいますのでご注意? いずれ詳細を白状しますが「クイチ」がこま切れ乗務になって「9と1」に分割されて乗継になった時、重要事項の引継を忘れたことがあります。
    「たから」は貨物列車に命名された例として有名ですが、快速貨物列車の前身ともいうべく「地域間急行列車」にも名前が付けられていたことがありまして、地元中央西線には「あさつゆ」というのがありました。「すがすがしい朝」を想起させ旅客夜行列車にしてもいいようなネーミングだと思うのですが、ほとんど知られていません。夜走るからといって「よつゆ(夜露)」では…いや、もうやめます。
    2015年05月05日 13:57
  • hicky

    152列車のワキ5000は、専用運用だったとのことでしょうか。私も井田川などで停車中の貨車の編成をメモしていましたが、5分程度で発車する列車が多く、編成が長いと発車してしまいわからなくなりましたが専用列車の場合、貨車の数字タキ45025の数字だけメモし、次の車両を目で記憶して到着時から記入していました。おかげでクレぺリン検査の練習になったような気がします。

    ワキ7000は加佐登駅常備で鈴鹿のHONDAで製造されている50CCの単車、私達はおばちゃんのバイクと言っていましたが、午後3時頃加佐登始初の上り貨物列車で福岡港に行き、帰りは草津線亀山経由で帰ってきましたね。ワキ7000~7006まであり、毎日1~2両ずつ発送されていましたが、昭和55年頃ストライキと運賃値上げが重なった後、HONDAが輸送をやめたのかしばらく留置され、いつの間にか見なくなりましたね。

    ワキ5000は南四日市からも久留米、鳥栖へ合成ゴムを発送していましたが、現在はコンテナ化されて現在も輸送が続けられているようです。
    ワキ7000は連結駅が貨車に書かれていましたね。南四日市のワキ5000は小川、長町、黒磯、久留米、鳥栖間専用と書かれていました。
    2015年05月11日 12:27
  • しなの7号

    hicky様 
    152列車の実現車数はきっちりとは決まっておらず、乗務のたびに微妙に増減していましたから、荷の多少によって調整していたと思われ、固定編成ではなかったように思いますが、専用で運用していたのかは「?」です。

    前述のように、私が貨物列車に乗務していたころにはワキ7000は運用されていませんでした。けれども南四日市~久留米・鳥栖着発のハワムに混じるワキ5000は記憶にあり、ワキ7000でご指摘のように、南四日市の場合も対山陽~九州方面の貨車は、発送は稲沢経由で上りに連結。到着は亀山操経由で上りで解放するケースが普通にありました。
    想像するに、稲沢仕立の快速貨物に継送して吹田操などをパスするための列車指定運用ではなかったかと。
    2015年05月11日 13:38
  • 秋津のOB

    しなの7号様

    昭和が年々去りゆく昨今、貴重さを増すばかりの幅広い乗務経験談を読めることをありがたく思うのみです。

    さてワキ5000による直行列車。車種は統一されてますが屋根形状の差で案外アクセントはあるように思えます。Nゲージだと丸屋根のKATO、角屋根の香港tomy/河合があるので適当に混ぜて遊びたいと思います。

    ただ角屋根仕様の方がなかなか見付からず…。丸屋根のKATO版はよく見かけるのですが。川崎駅前の地下街の某模型店にKATO版13両まとめて中古品が出ていたので、解結貨物のアクセントで少し買いました。2軸車だけではなくボギー車も少し混ざっているとよりらしくなると考えてます。

    後日に当記事を思い出しまだ残っていた分なども買い足し、専用のブックケースを用意しワキ14両と85km対応の車掌車2両を入れてます。当記事の2/3程度の両数ですが全車繋ぐと長編成コンテナとはまた違った雰囲気でした。

    ようやく河合版ワキ5000を4両仕入れられたので、もう少し角屋根仕様を気長に探し当記事を愉しみたいと考えます。

    そういえばこの152列車。現車を見たことはないし買う予定はありませんが、黒貨車に黄帯を巻いた急行貨物列車にあい通じるものはあると思います。
    2022年06月03日 15:07
  • しなの7号

    秋津のOB様
    どうもありがとうございます。
    模型でも、前期後期で屋根形状が異なるワキ5000が混在している編成をぜひとも再現したいものです。
    KATO・旧河合商会の製品は、ともに相当古いので、前期後期車ともに同一メーカーさんから同等レベルに揃えたリニューアル製品が望まれるところかもしれません。KATO製品はワキ10000の塗装と台車を変更して発売された製品のようですので、同じようにTOMIXの角屋根ワキ10000とワキ50000現行製品の派生製品として角屋根のワキ5000が発売されたら手っ取り早いような気もしますね。
    しかし上のほうのヒデヨシ様からのコメントにあるように、ワキ10000とワキ5000では側ブレーキの位置が違っています。ワキ5000の側ブレーキは車端部にあるということなので、現行のディテール表現レベルで正しく模型化することにこだわると台車の動きを阻害しそうですから、そのまま色変えで発売するのには抵抗があるのかな?とも思いました。
    このスワロー号は、おっしゃるようにさらに昔にあった黄帯の黒ワキ編成と同じ役割を担っていたのではないでしょうか。152列車は乗務していなかったら、まったく存在さえも知らずにいただろうと思う列車です。
    2022年06月03日 21:22

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