【606】 思い出の乗務列車55:中央西線~篠ノ井線 荷5043列車(前篇)

熱田荷物基地の全面開業の少し前、まだ非電化であった関西本線名古屋口で客車列車から荷物車が分離されて、荷物列車が名古屋口でも運転されるようになったことを、先日「【596】熱田駅荷物基地全面開業の日」でお伝えしました。これに対して中央西線と篠ノ井線のほうは、それより前の昭和48年に全線電化されており、その時点で旅客列車はほぼすべての列車が電車化されるとともに客荷分離が進行しており、名古屋から2往復の荷物列車が設定されていました。画像は恵那~美乃坂本間を行く荷5043列車ですが、私が就職するまえの撮影です。「田中内閣打倒」とEF64に大書されています。.
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このほか、夜行急行「きそ」1往復で荷物・郵便輸送が行われ、80系電車併結のクモニ83の荷電運用もありました。2往復の荷物列車のうち1往復については、中津川~長野間のみ客車を3両併結して、荷物車主体の旅客列車という形態でした。

これからご紹介する荷5043列車は全区間を「荷物専用」列車として運転された列車でした。荷物専用列車と言っても、前述の夜行「きそ」ともう1往復の客車を一部区間に併結する列車も含め、鉄道郵便局員が乗務する郵便車(オユまたはスユニ)が連結され、郵便輸送の使命も併せ持っていました。郵便車で取り扱う郵便物は鉄道郵便局員と集配郵便局員との間で授受されていましたので、一部にあった郵便車を連結しない区間の「託送郵便物」以外は私ども国鉄職員が直接輸送にはタッチしていませんでした。
もうひとつ、この荷5043列車では、主に名古屋から中央西線沿線の岐阜県東部地域への夕刊輸送の使命も担った列車でした。夕刊は国鉄が取り扱う荷物の範疇になりましたが、速達性と定時性確保の必要性から、「特別扱新聞紙」として取扱と輸送方が一般の荷物とは区別されていました。

荷5043列車には、私が1976年(昭和51年)に就職してから約3年間、ずっとひと月に1回ほどの割合で乗務していました。その間、この列車の基本的な使命に変化はなかったものの、運転形態と荷物の輸送形態は微妙に変わっていきました。その理由は、国鉄では全国規模で荷物輸送の改革を進めていたためで、受託した荷物はいったんトラック代行輸送で拠点駅に集約し、そこから荷物専用列車によって拠点荷物基地間を輸送し、そこから末端駅まではまたトラックで代行輸送する方式を推し進めていたからでした。名古屋駅でも手小荷物取扱業務が熱田荷物基地へ少しずつ移行し、同様に長野駅の手小荷物取扱業務も北長野へ移行していたのです。熱田と北長野は拠点荷物基地という位置付けでした。

馴染みもなく趣味の分野として面白味がないことと思いますが、他に当時の荷物輸送の移り変わりを伝えるようなサイトが見当たらないこともありますので、この列車を例として、荷物輸送方の変遷を遺しておきたいと考えていますので、よろしくお付き合いいただければと思います。

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初めて乗務した昭和51年の時点では、この列車の運転区間は名古屋~長野間でした。このころは列車の車両番号を写し取ることはしていませんでしたので、当時の編成と運用番・運用区間のみを記しますと次のようになります。

<1976年5月当時>(50.3ダイヤ改正)

荷5043列車
運転区間 名古屋~長野
乗務区間 名古屋~長野

EF64(篠) 名古屋~塩尻
スユニ 長郵21 名古屋~塩尻
マ ニ 長荷21 (熱田)名古屋~長野
マ ニ 名荷21 名古屋~長野(青森)
マ ニ 名荷22 名古屋~長野(上沼垂)
(ワキ 名荷251 名古屋~松本)
マ ニ 名荷24 名古屋~松本

[塩尻~長野 逆編成 EF64(稲二)]


カッコ書きにした名荷251ワキは、編成表上存在しましたが、「当分運用休止」となっていました。
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このころは、まだマニ50が就役していませんでしたので、茶色の荷物車ばかりをEF64が牽いていました。
私が乗務した受け持ち車両は2両目の長荷21マニで、この車両だけ名古屋圏の拠点荷物基地として部分開業していた熱田始発となっていました。熱田~名古屋間は荷2043列車という別列車で、荷物室を封印して荷扱乗務員は乗務しない状態で荷物を「締切輸送」していました。

このころの名古屋発車時点における中央西線列車の荷物積載範囲を見ておきましょう。
下の画像の範囲になります。画像は、文字が判別できる程度の大きさにしてあります。
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そのあと、列車が走っていくにつれ、積載範囲は当然広がっていき、奥羽本線経由で北海道まで及んでいきます。

中央西線内途中駅の中継範囲。
昭和51年の就職当時のものです。すでに廃止になっていた東濃鉄道駄知線が抹消され、おんたけ交通のバス路線とも連絡運輸が過去にはあったことがわかります。北恵那鉄道は現役でした。
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個々の車両について見ていきましょう。
個々の荷物車には、その運用区間にもっとも適した積載方が指定され、上にお示しした積載範囲に制限が設けられていました。

1両目、長郵21スユニの郵便室は言うまでもなく郵便輸送用で、ここに鉄道郵便局員が乗務しましたが、この列車では荷物室は「積載禁止」で使用されませんでした。

2両目、私どもが乗務した長荷21マニの積載方は
①荷物。ただし名古屋・多治見・中津川発は貴重品を除き長野までの荷物。
②坂北 稲荷山着は松本中継。
とされていました。

①で中間主要駅からの荷物を長野までの荷物に限定しているのは、後述する長野以遠に直通運用となっている名荷21と名荷22に荷物を誘導することで、長野で積み換える手間が省けるからでしょう。
②で、坂北・稲荷山着の荷物を手前の松本駅で中継という指示は、運転時間帯が夜間になるため、これら小駅では営業時間外となり無人駅扱となっていたためでした。これら両駅着の荷物は松本駅で卸された後は、翌朝の列車に積み換えられたものと思われます。
このほか、長荷21マニは、塩尻で郵便車スユニが切り離されたあと、「託送郵便物」として塩尻・松本発長野行の郵袋を積む車両に指定され、そのほかにも長野鉄道管理局管内各駅と長野鉄道管理局とを行き来する国鉄部内の事業用通袋の輸送をしていました。

3両目、名荷21マニは、青森までの長距離運用でしたので、それなりの積載方が指定されていました。
①松本までの荷物(松本~長野間締切)
②北長野~青森間着中継荷物(勝川~坂下間発北海道着荷物を含む。)

4両目、名荷22マニは上沼垂行で、長野以遠に足を延ばしますので、積載方は
①長野~長岡間着中継荷物
②勝川~坂下間発塩尻までの荷物(松本~長野間締切)
とされ、名荷21とともに、長野から先まで行く荷物を主に扱うことになっていることがわかります。

最後尾、名荷24マニは、松本で切り離される車両で、積載方は
①松本着中継荷物(名古屋・多治見・中津川・塩尻・松本間締切)
この車両は「締切輸送」として無人で運用され、指定された主要駅のみで駅員が封印で施封されているドアを開封して、松本着中継荷物だけを積み込むための専用車両でした。

この編成で、名荷21マニと名荷22マニには、長野鉄道管理局の乗務員が乗務しており、両車両ともに「松本~長野間締切」という括弧書きがあることからもわかるように、どちらも乗務員は松本で下車してしまいましたので、松本・長野間は私どもの長荷21マニ1両だけに乗務員が乗って各駅の積卸を担当していました。

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この荷5043列車は翌昭和52年3月から、列車そのものが熱田始発になりました。中央西線対東海道・関西間の荷物中継機能が名古屋から完全に熱田の荷物基地に移ったことによる改正でした。私どもの乗務も熱田から始まるように変更されました。

<1977年3月当時>

荷5043列車
運転区間 熱田~長野
乗務区間 熱田~長野

EF64(篠) 名古屋~塩 尻
スユニ 長郵21 名古屋~塩 尻
マ ニ 長荷21 熱 田~長 野
マ ニ 名荷21 熱 田~長 野(青森)
マ ニ 名荷22 熱 田~長 野(上沼垂)
ワ キ 名荷251 熱 田~松 本
マ ニ 名荷24 熱 田~松 本

[熱 田~名古屋 逆編成 EF58(浜)]
[塩 尻~長 野 逆編成 EF64(稲二)]


熱田~名古屋間の機関車はEF58(浜)で、この時点で長期運用休止となっていた名荷251ワキが運用を開始しています。画像は美乃坂本~恵那間を行く荷5043列車の姉妹列車上り荷5042列車です。ワキが連結されています。
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しかし、本来ワキ8000は「パレット」と呼ばれる台車ごと荷物を積載する車両であるのに、このころ中央西線の運用ではパレットを使用せず、荷物はバラ積でした。もちろん乗務員はおりませんので、指定された主要駅だけで駅員が開封して荷物の積卸を行っており、名荷24マニの補完的な役割であったと考えられます。
パレット荷役は、駅員だけで対応できるので、ある程度まとまった数の発着荷物がある主要駅間の輸送で推進されていた荷扱方法でしたが、ここでパレットが使えなかったのには、何か事情があったはずです。しかし、その理由を私は知りません。プラットホームの高さや、エレベータなど施設上の関係でパレットの使用が不可能だったのかもしれません。いつパレット輸送に移行したのかも私は知りません。

当時の交通公社の時刻表にも荷5043列車は掲載されていました。
画像(日本交通公社版1978年4月号時刻表からの引用画像。この画像は、時刻が判読できる程度に元画像を大きくしましたので、必要に応じで画像をクリックしてください。)

熱田始発になった荷5043列車ですが、郵政省が管轄する郵便輸送まで熱田基地に移行したわけではなかったので、郵便車スユニはこのときは名古屋で増結という形をとっていました。
荷5043列車は、東海道本線に運転されていたような急行荷物列車ではなく、基本的には郵便・手小荷物・特別扱新聞紙(夕刊)の取扱駅にはすべて停車していました。ただし、名古屋を出ると名古屋市内にある4つの駅は通過で、次の停車駅は勝川でした。昭和50年代初期には、その通過駅の中で手小荷物を取り扱う駅はすでに大曽根駅だけになっていましたが、その大曽根を通過する理由は、大曽根駅着発の手小荷物がトラック輸送に切り替えられていたことによります。大曽根発送の荷物はトラックで熱田駅へいったん持ち込まれていたのです。ですから大曽根発長野行の荷物があれば、トラック便で熱田へいったん運ばれたあと、再び大曽根駅を荷物列車で通り過ぎるというルートで運ばれました。こうした現象は荷物取扱駅の拠点駅化によって増えていくことになります。当時は瀬戸南線という国鉄自動車線があり、瀬戸市内にあった瀬戸記念橋「駅」で手小荷物も扱っていた時代ですから、大曽根駅は、こうした自動車便の余力を活用して大曽根駅をトラック便に移行させたのではないかと思います。

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続いて翌1978年2月には北長野駅で荷物基地が稼働をはじめました。そのため、この列車も運転区間が北長野まで延長されましたが、長荷21マニは長野到着時に専務車掌(荷扱)が封印のうえ、我々荷扱乗務員はすべて長野で下車し、この車両は「締切輸送」となりました。ここからは長野局の車掌が乗務したはずです。

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昭和53年10月のダイヤ改正では、熱田~名古屋間の機関車がEF58(浜)からDD51(稲一)に代わりました。編成は、以下のようになっています。

<1978年10月当時>

荷5043列車
運転区間 熱田~北長野
乗務区間 熱田~長野

EF64(篠) 名古屋~塩 尻
スユニ 長郵21 名古屋~塩 尻
マ ニ 長荷21 熱 田~北長野
マ ニ 名荷21 熱 田~長 野(青森)
マ ニ 名荷22 熱 田~長 野(上沼垂)
ワ キ 名荷251 熱田~松 本
マ ニ 名荷24 熱 田~松 本
マ ニ 名荷201 熱田~名古屋(鹿児島)
マ ニ 名荷1 熱 田~名古屋(富山)

[熱田~名古屋 逆編成 DD51(稲一)]
[塩尻~長野 逆編成  EF64(篠)]

熱田~名古屋間だけ、東海道本線下り急行荷物列車に継送される2両の荷物車が連結されています。東海道本線の荷物列車では、熱田駅仕立の荷物車の連結は従来どおり名古屋駅で行われていたのでした。列車組成駅と荷物基地とが別々になったことで、かえって面倒かつ荷物の速達性が失われ不合理なように思われましたが、過渡的な事象だったのかもしれません。その後は改善されていったのかどうか、荷物輸送の仕事から離れた後の実態を私は知りません。

中央西線内での編成は、従前とさほど変わった様子はありません。このダイヤ改正時に、この列車の使命と積載方に大きな変更はなかったものの、細かい変更がたくさん出てきました。それは自動車代行便の拡大と荷物の拠点駅集中化によるものでした。
そのために通過駅が増え、これまで停車していた勝川~高蔵寺間が通過となったことで、名古屋を出ると多治見まで停車しなくなったのでした。これは、トラック代行範囲が中津川以南の各駅に拡大されたことによるものでした。ところが不合理なことも起きます。それは従来からの使命である岐阜県内の中央西線沿線への夕刊の輸送と郵便車の取り扱いでした。名古屋の新聞社から発送される夕刊は速達性が命ですから、他の荷物とは別に従前どおり熱田を経由せず名古屋駅から列車に積み込んでいました。郵便車のほうの郵便物は乗務する鉄道郵便局員と地元集配郵便局員によって国鉄職員を介さず独自に行われていました。そのため多治見~中津川間にある中間各駅(土岐市~美乃坂本)では一般の荷物はトラック輸送に移行しているために荷物列車では荷物を取り扱わないのに、夕刊と郵便の取扱があるばかりに通過できず、各駅に停車していました。(通過となった勝川~高蔵寺間の郵便は、もともとこの列車では郵便の取扱をしていなかったのだろうと思われますが、確認しておりません。)
《2020年12月3日 カッコ内一部を打ち消し線にて削除》
鉄道郵便車保存会会長様より「53.10以前から郵便の取扱いは名古屋を出ると多治見からであった」ことをご教示いただきました。


画像は田立~南木曽間を行く荷5043列車です。機関車の次位はスユニです。
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このほか、従来あった坂北・稲荷山着の荷物を手前の松本駅で卸すような特例がなくなっており、この時点で両駅では荷物営業が廃止されていたものと考えられます。それに代わって新たに、篠ノ井・川中島では荷物を卸さず、終点の北長野荷物基地からトラックで逆送するという取扱ができました。このため川中島駅は通過となりましたが、篠ノ井駅のほうは停車して新聞だけは卸すが一般荷物は卸さないという不可解な取扱になりました。

この記事へのコメント

  • NAO

    しなの7号様、おはようございます。
    しかし細かい輸送方の取りきめですね。荷物は自分で動いてくれませんから致し方ないのすが。
    北長野までの荷物車ですが、長野まで乗務ですか。そういえば北長野は臨時急行に乗務されたときに折り返されていた駅ではなかったですかすね。確か入場券を買われていたと思うのですが、制服姿の「身内」の方が「お客さん」になったときは販売側はどんな反応をされていたのか興味深々です。
    2015年07月27日 07:53
  • しなの7号

    NAO様 おはようございます。
    末端の長野~北長野間を締切輸送としたのは人件費対策で勤務時間増としないためか? 締切車では原則貴重品の輸送を禁止していましたが、区間を指定してそれを可能にする例外規定を作ることで対応していましたから、安全性が犠牲となったように思うのです。人件費抑制が大前提だったのでしょうから当然の措置か?

    よく覚えていてくださいますね。北長野は「きそ51~52号」の回送区間で折り返した駅です。出札氏は物好きなヤツだなあと思っていたのでしょう。
    長野乗泊がある長野駅裏口出札に、職員割引の常備硬券とかあったみたいで、切符好きな職員はわざわざ買っていた人もいたように記憶しています。
    2015年07月27日 10:00
  • NAO

    連投すみません。予め「職」の赤影文字が印刷されている切符のことでしょうか。現物を見たことはありませんが貴重な常備券でしょうね。「小」は日常茶飯事でしたが、たまに「学」もあったようですね。高知に下宿していた知り合いが地元に帰省してきたときに使った学割常備券を見せてもらったのが最初で最後です。
    2015年07月27日 10:38
  • しなの7号

    NAO様
    長野駅の裏には現業機関や官舎?があったせいでしょうか。ふつうはゴム印対応が多いですよね。念のため今確認したら長野駅昭和60年発行の硬券マル職自由席特急券がやっぱり手元にありました。
    「学」も珍しいですね。京都駅発行のを見たことがあります。大学所在最寄駅にはあったのでしょうか。
    2015年07月27日 11:11
  • 中央西線

    80系電車併結のクモニ83の荷電運用は夕方で始め新守山古虎渓間通過の快速でその後各駅停車になりましたね。55年3月からは113系になりました。
    2015年07月27日 18:03
  • しなの7号

    中央西線様
    快速時代の夕方の80系快速クハ85に乗って帰るのが楽しみでした。仕事で80系に乗ることはありませんでしたが、クモニ83は名古屋~熱田間で何度か往路締切、復路回送で車掌として乗務しました。
    2015年07月27日 18:51
  • 代行192便

    しなの7号様 こんにちは。
    中央西線の小荷物輸送のトラック代行への移行をわかりやすく解説していただきました。この延長上に、60.3の全面代行化があるのですね。
    私は、駅の小荷物業務受託やトラック代行輸送を担った「鉄道荷物会社」という国鉄関連企業のことも、関心を持って調べています。中央西線代行輸送を担った会社についても、興味が惹かれます。
    また、本文では、トラック代行化したにもかかわらず新聞輸送のためだけに列車の発着を残しているケースが見られます。新聞の取扱については、確か昭和56年度の国鉄小荷物営業に関する会計検査院の決算検査でも、少量でも新聞の取扱があると駅では対応のために従前の勤務体制(深夜・早朝対応)を続けなければならず、効率化を阻んでいることが指摘されていたように思います。
    2020年06月03日 17:33
  • しなの7号

    代行192便様
    中央西線に荷物専用列車が運転されるようになったのが全線電化された昭和48年でした。それから10年ちょっとの間で、荷物輸送は少しずつ変わっていったということになります。名古屋鉄道管理局管内の荷物輸送の委託先は「中部国鉄用品輸送(株)」だったと記憶しますが、そこでどのような輸送業務が行われていたのかは存じませんし、資料もありませんのでわかりかねます。
    会計検査院の決算検査のことも、まったく存じません。昭和56年には、すでに荷扱業務から離れ車掌をしておりましたが、客室の一部を用いて新聞輸送を主とする荷扱列車があり、そういう列車の多くは事業用品(乗客の遺失品・印刷所から各駅に配送される乗車券類・局報など)の輸送を兼ねていることが多かったです。
    2020年06月03日 20:41
  • 代行192便

    しなの7号様
    大変貴重なお話をご教示くださりありがとうございます。中部国鉄用品輸送(株)という会社については全く存じておらず、初めて知りました。
    前回のコメントにおいては、つい、関心を持っていることを思うままに書いてしまいました。問い詰めるかのように感じられたとしたら申し訳ありません。
    2020年06月04日 18:14
  • しなの7号

    代行192便様
    別にそういうふうに受け止めてはおりませんが、「中部国鉄用品輸送(株)」でよかったのか気になったので、国鉄時代の資料を当たってみました。その結果、昭和57年5月に荷物車車内業務が委託化されたときの関係職員への周知用の資料が見つかり、そこに委託先は「中部国鉄用品運輸K.K.」とありましたから、前回書いた「輸送」ではなく「運輸」が正当でした。よく調べずに記憶で書いてしまい申し訳ありません。この昭和57年時点には、私は荷物車の乗務員ではありませんでしたが、私どもはこの会社のことを就職時から「マルナカ」と通称しており、作業員が着用する作業帽や作業服には、〇のなかに「中」の字が書かれたマークが付いていました。
    2020年06月04日 20:16
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    本日よりこのページでコメントさせていただきます。
    荷5043列車に連結の郵便車(スユニ)は、鉄道郵便の便名は名古屋塩尻間下り便を意味する「名塩下」となっていました。
    乗務は名塩便を含む名古屋長野間全便を長野鉄道郵便局が担当しました。名古屋長野線の受渡局は当会ホームページ資料館に掲載の線路図をご参照下さい。
    長野鉄道郵便局管内鉄道郵便線路図 
    http://oyu10.web.fc2.com/rosenzu-nagano.jpg
    この線路図は53・10以前のもので、名古屋長野間では、その後の塩尻駅移転後と対比すると、
    ★塩尻駅受渡と塩尻分局の廃止 
    ★南木曽駅受渡局「吾妻」を「妻籠」に改称
    ★松本南局受渡駅変更(村井?又は南松本?から松本に)
    ★長野鉄道郵便局を長野駅から北長野駅移転したことに伴い、北長野駅受渡に変更
    が変化します。多治見~中津川間にある中間各駅で受渡する各局(土岐~坂本間)も、荷5043列車は全局受渡しており、小荷物トラック代行化のあとは新聞と郵便だけの停車になってしまったようです。
    2020年12月03日 13:14
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    中央西線沿線に長く住んでいましたので、普通旅客列車のうち2往復に郵便車が連結されていたことや、郵便物の積み下ろしの時刻に合わせて郵便局の軽自動車が駅に来ていたことを子供のころから存じています。中央西線の全線電化時点で客荷分離が行われ、郵便車併結客車列車時代のダイヤに似た時間帯に2往復の荷物専用列車が運転(うち1往復は中津川~長野間は旅客車を併結)されるようになりました。そのうちの1本が荷5043列車でした。

    長野鉄道郵便局管内鉄道郵便線路図は53・10以前のものとのことなので、郵便の取扱いは名古屋を出ると多治見からであったことがわかりました。これで53.10から勝川~高蔵寺間が通過となったことに納得できます。(本文にご教示いただいたことを付記しておきます。)
    塩尻駅移転時の自分は普通車掌時代で、荷扱を離れて4年経っていました。あの頃の国鉄はあらゆる面で変化が著しい時期でしたから、荷物業務を離れたあとのことは想像もつきません。しかし移転直後の時刻表(昭和57年6月号)によれば、塩尻駅に荷5043列車は停車していることがわかるので、塩尻駅での荷扱は移転後も継続していたと思われます。その後昭和59年2月号時刻表では荷5043列車は塩尻が通過マークになっていますので、鉄道郵便の塩尻駅受渡と塩尻分局が廃止されていたとするなら、塩尻では新聞停車していた可能性はありますが一般荷物扱は拠点駅から代行便による輸送に変更されたと考えられます。
    2020年12月03日 21:01
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    名古屋長野便は59・2で廃止されましたが、その後も荷物輸送だけは続いたようです。
    名古屋多治見間の中間駅にも愛知県内の集配局は点在するので大昔は受渡したかもしれませんが、昭和40年代にはすでに名古屋の次は多治見まで受渡しておらず、沿線各局は自動車便による名古屋中央局経由で送達されました。大曽根駅と中央西線相互間着発荷物を熱田駅で中継したのと似ています。鉄道郵便線路では、東京、名古屋、大阪近郊の受渡局は早くに整理され、乗務の開始、終了、大量の受渡がある駅近くで小規模局が受渡をすると、乗務作業の開始、終了整理、特に郵袋締切と記録、送致証作成に支障があります。名長便で考えると上り便で多治見を発車したあとで名古屋到着までに仕事を締めるのは慌ただしかったと想像しています。大阪近郊では亀山大阪線の八尾、柏原、大阪福知山線の伊丹、宝塚の各局も昭和40年代に受渡を廃止して、自動車便により大阪中央局経由となりました。名古屋和歌山線で名古屋から桑名まで受渡しなかったのも同様の理由と思われます。
    2020年12月05日 10:49
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    中央西線で郵便車が59.2で廃止されたことは、市販の昭和59年2月号時刻表で急行「きそ」の編成表から〒マークが消えて「ニ」が2両になったことから想像ができます。荷物のほうは新聞輸送の関係もあり残されたのでしょう。その翌年昭和60年3月号時刻表では、「きそ」も荷5043列車ともども列車自体の記載がなくなっており、この時点で中央西線から列車による荷物輸送は消滅し、熱田~松本~北長野間の荷物輸送が完全に代行輸送化されたものと推定できます。

    物流一般において、道路事情がよく、面として捉えられる都市部では自動車輸送のほうが効率的で有利であることは言えると思います。
    一般に鉄道荷物は、駅留荷物は着駅そのものが運送契約上の始終点ですし、配達荷物は日通がある大駅が着駅に指定されていましたから、郵便車のように車内で仕分けを細分化する(一つの駅で複数単位で締め切るなど)必要が拠点駅以外にはなく、しかも1個ずつの荷物を受授証で照合するのでなく、貴重品などの特殊な荷物を除けば個数による授受であったこともあって、郵便のように乗務区間終了直前に慌ただしい思いをすることはそれほどありませんでした。時間的な勝負になるのは、まったく仕分けがされていない乗務開始から最初の停車駅までの間がほとんどでした。
    2020年12月05日 20:32
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    中央西線荷物輸送が60・3まで続いたなら、郵便輸送も護送便で中津川、松本の受渡に集約して続ければよかった気がします。
    1982年5月17日塩尻駅移転で、鉄道郵便では塩尻局の受渡と塩尻分局が廃止されると共に、荷5043列車のスユニ車は塩尻ではなく、松本までの連結になったと考えられ、便名が「名塩下」から「名松下」に変更されています。(名古屋からはかつて「名松線」(名古屋松阪)がありましたが、すでに「名和線」(名古屋和歌山)に改称されていたので問題はありません。) これにより名古屋長野線受渡駅はは洗馬の次が松本に、東京松本線(このとき東京塩尻線を延長、改称)は小野の次が松本となりました。
    鉄道郵便線路図から塩尻の名前が消えるとは信じられほど塩尻の存在は大きく、名古屋長野線と東京松本線の積み替えは松本駅に、長野県西部(郵便番号39地域)の小包分配は松本南局に移管したようです。乗務員事務室は塩尻のままだったようで、塩尻駅では東京(新宿)塩尻間の乗務員が乗り降りし、東松線の全便が塩尻松本間締切となっています。それ以降も小荷物と新聞の受渡は続いたようで、旅客の乗降、乗り換えともども重要な駅であることは変わりませんね。
    2020年12月06日 13:46
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    中央西線で59.2以降も護送便として郵便輸送を残す選択は、その先の国鉄分割民営化という前提がなければ考えられたかもしれないですね。それがなかったとしても、背景として1982年(昭和57年)には中央自動車道が全線開通していますので、長野県中部の交通体系が大きく変わった直後でもありました。次いで国鉄分割民営化翌年となる1988年に長野道の部分開通で松本市が東京・名古屋と高速自動車道で直結されますので、この昭和50年代の終盤が郵便や荷物を自動車輸送にシフトするには妥当なタイミングだったようにも思えなくもありません。
    塩尻は鉄道が開通する前から交通の要衝の地で、塩の道(三州街道)の末端という意味での地名がそのことを現わしています。鉄道でもその地位は変わらなかったですが、列車の運行形態を鑑みると塩尻駅移転は自然の流れでした。もちろん今でも中央東西線の接続駅として重要な駅であることに変わりはありませんが、1982年5月17日塩尻駅移転時に、電車急行「きそ」と「天竜」の併結作業も塩尻から松本に変更され、松本~塩尻間は別列車として続行運転されるようなっています。駅の移転はターミナル機能が縮小され、塩尻の地位が低下していったことでもあり、荷物や郵便が前後しながらも、この時期に相次いで中心都市である松本に拠点を移していったのもやむを得なかったのではないでしょうか。
    2020年12月06日 20:58
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    やはり鉄道小荷物、郵便輸送の自動車シフトは高速道の開通、延伸と関係するようです。
    59・2では東京松本便、豊橋辰野便も廃止され、長野県南部の郵便輸送が一変した感じです。それに先立ち塩尻分局廃止のついでに、松本糸魚川便(大糸線)まで廃止していました。
    さて、当ホームページで、塩尻駅移転後の名古屋長野線、東京松本線の時刻表を公開しました。トップページ更新情報から見れますが、荷5043列車は「名古屋松本間下り便」として掲載されています。
    名古屋長野線 下り 
    http://oyu10.web.fc2.com/jikoku-meinagashita.jpg
    文中に書いておられます、スユニ車が塩尻止めとなったあとの「名荷21」による郵袋託送は、当時は「塩尻長野間通常託送」という便名で塩尻⇒松本、長野への通常郵便物を荷物車託送したと判断されます。そのとき、「名古屋塩尻間下り便」乗務員は、車中で松本、長野宛郵袋を締切り、塩尻局積み込みの郵袋ともども荷札を付けて「名荷21」に積載したと推定しています。塩尻駅移転後となる今回の時刻表にも荷5043列車「名古屋松本間下り便」と共に「松本長野間通常託送」が記載されており、長野への郵便物託送は続けられていたわけです。
    小荷物の積載方にあたる差立方では、松本局は長野中央局宛(長野県内)、松本南局は東京直江津下三号便宛(長野鉄郵媒介、妙高以北郵便物)となっています。
    2020年12月07日 18:56
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    山に阻まれて道路事情がよくなかった長野県に、高速自動車道や一般道のトンネルが着々と開通していくのが楽しみで、部分開通すると走りに行っていたのもこのころでした。距離感覚がまったく変わったことを味わい、日帰りの行動範囲は広くなっていきました。信州方面各地への高速バスが設定され、それが夜行急行の衰退につながったと思われます。
    名古屋長野線の時刻表を拝見すると、郵便は最後まで熱田には移転せず名古屋起点であったのと対照的に、長野から北長野発着に変わっていたのですね。
    荷5043列車での託送郵便物の流れは、塩尻が松本に変わった以外は従前から変わっていないのでしょう。
    2020年12月07日 20:13
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    確かに中央道の開通と延伸は南信州の時間地図を変えていきました。恵那山トンネルを抜けて田切Ωカーブに着くと、関西から飯田線北部がこんなに近いのかと実感したものですから、荷物・郵便輸送も切り換えられて当然なのでしょう。急行「ちくま」「くろよん」など利用しましたが、すいていたという印象しかありません。
    長野鉄郵受渡がいつから北長野となったのか書籍、資料では判明しませんでしたが、拝読すると53・2に荷物施設が開業しているので、郵便室も同時に開設されたと推測しています。この郵便室跡地を、当会会員が調べていますのでご参照下さい。
    鉄郵跡地ハイキング 長野鉄道郵便局北長野郵便室跡
    http://oyu10.web.fc2.com/kitanagano.html
    郵便室は解体されたあと新幹線に踏みつぶされていますので、荷物施設も同様かもしれません。
    2020年12月08日 00:01
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    乗務員向けに配布された資料によれば、北長野駅荷物基地開業に伴う荷物中継方、積載方の改正の実施期日は昭和53年2月28日0時からとされ、その中で「長野~北長野間に小運転の荷物列車を新設するとともに、中央西線からの荷物車を北長野まで延長し、荷物及び郵便輸送をする。」とありました。郵便輸送の文言があることから、この時には郵便室が開設されていたと考えてよさそうです。しかし、鉄郵跡地ハイキングを拝見すると、郵便室の画像の出典は『郵政建築-昭和49年度年鑑』となっていますので、さらに前から郵便室があったことになります。また、航空写真も1975年撮影とあり、北長野駅荷物基地開業前ですが、ホーム屋根は白く新しそうに見えますし、さして大きな規模の駅とは思えないのにテルファと思われる設備も確認できます。Wikipedia「北長野駅」のページには「1970年代以降、1981年(昭和56年)までに小荷物取扱機能の長野駅からの移転・周辺線区の小荷物代行基地化も行われる。」とあり、正式な基地化以前から熱田のように段階的に稼働をしていったと受け止められる表現がされていました。
    本文にもありますように、私どもの乗務区間は北長野駅荷物基地開業後も長野までであり長野~北長野間は締切輸送だったので、あいにく、それ以上のことは調べようがありません。
    2020年12月08日 20:21
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    Wikipedia「北長野駅」は事前に読んでいたのですが「1970年代以降」というのが釈然としないままでした。当方の読みが浅かったもので、郵便室(長野鉄郵乗務と駐在の拠点)が早くから存在したことになりますが、郵便車が北長野駅に来てもらわない限り、受渡も乗務もできないところで、北長野駅荷物基地が53・2に開業する以前、長野~北長野間で郵便車だけの列車が運転された事実も見聞きしていないことから、北長野郵便室を開設後に郵袋中継や小包の分配を行いながら、長野駅との間でトラック輸送して長野駅で受渡した、乗務員は長野駅近くの鉄道郵便局本局から乗務した、という苦しまぎれの解釈しかできなくなっています。全国版鉄道郵便局史ではこのあたりが判明せず、長野鉄道郵便局史あたりでないと特定しにくいところですが、今後の研究課題とします。
    ひとつ思い当たるのは、59・2まで存在した長野川口便(飯山線)で、各列車とも長野~豊野間は信越本線を走行するため北長野駅に停車はしますが、荷物基地が開業した53・2の時刻表を見てもほとんどの列車が1分あるかないかの停車時間にキハユニ車といえどもすべての郵袋を積み込み、取り降ろすのは不可能でしょう。乗務員も北長野駅で乗務開始、終了は無理があり、長野駅での受渡、乗務員乗り降りが廃止まで続いたものと考えます。荷物基地開業後に、信越線、篠ノ井線~飯山線着発小荷物の中継が北長野駅であったのなら、またひとつ解明の足がかりになるところです。
    2020年12月08日 21:33
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    北長野荷物基地開業以前は、長野駅の荷物中継範囲に飯山線各駅が含まれ、マニュアル本には「長野駅で直接飯山線直通列車に中継する」とありました。53.10直後の昭和54年1月現在のマニュアル本では、「北長野駅で直接飯山線直通列車に中継する」という文言になるとともに、飯山線は北長野駅の中継範囲として、信濃浅野以遠(上今井方面)各駅対長野以遠(川中島方面)各駅・牟礼以遠(古間方面)各駅の荷物は北長野中継。例外として長野中継とするのは「特に急送を要するもので、長野中継が速達となるとき」に限られていました。

    飯山線の列車ダイヤが北長野荷物基地の稼働前後でどう変わったのか確認をしていませんが、北長野での停車時間があまりにも短かったとすれば、郵便同様に荷扱作業に支障があったことが想像できます。そこで53.10以後の802列車「きそ5号」に連結されていた名荷23マニ(上沼垂→熱田間)の運用経路に多少思い当たることがあります。この名荷23は全区間締切運用でしたが、乗務資料にある参考事項によれば、直江津~長野間は普通列車322列車、そのあと北長野まで荷5341列車でいったん戻り、折り返し荷5802列車で再び長野、そこで802列車に連結され名古屋に向かうという動きをしています。322列車長野着から802列車長野発まで9時間以上もあったのですが、322列車で北長野駅切り離しとせず、長野からいったん戻っているのです。以下、まったく根拠のない推測ですが、この形態から想像すると、飯山線の気動車列車や信越本線の荷電なども、北長野駅至近の車両基地から長野駅までの入出区時に小運転荷物列車として、いったん北長野に立ち寄って荷物や郵便の積卸作業をしていたということも、なきにしもあらずという発想は???。
    2020年12月09日 20:22
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 53・10以降、飯山線と他線との小荷物中継が、一部例外を除き北長野駅であったとこで、郵便はどうしたのか?疑問が増幅します。北長野駅で長野川口便の積み降ろしをするため、キハユニ1両だけで長野~北長野の小運転をしたとも考えにくく、郵便だけは長野駅受渡だったのではないかとの考えが拭えないでいます。しかし信越線荷電なら、単行で1駅間を往復するのは得意技なので、ご推測は当たっているかもしれません。
    そこで、中央西線から逸脱して恐縮ですが、北長野駅の郵便取扱を解明する手がかりにならないかと、信越本線の郵便車時刻表(58・3)もアップしました。
    東京直江津線時刻表 
    http://oyu10.web.fc2.com/jikoku-toucyoku.jpg
    長野駅は完全にカットされ、全便が北長野駅で受渡しており、停車時間は上下とも8分の列車がありますが、郵便車にとって、途中駅であるならいくら郵袋数が多くても余裕で受渡できます。むしろ343Mの18分、340Mの20分は、連結される普通電車の乗客からは、「客荷分離してくれ~」と言われそうです。332Mの8分も、朝の長野へ向かう通勤通学客にとっては長野の目前だけに長く感じられるのではないでしょうか。
    時刻表は2往復が電車(クモユ143)になってからのものですが、全便が客車だったころは、上二号は直江津長野間が340Mと似た時刻の322列車でした。それでも北長野で10分停車し、郵便受渡をしたはずです。一方で名荷23のマニも同じ列車ながら、長野から小運転で北長野に戻って荷扱いし、802列車に連結とのことです。上り二号のオユは、長野で15:04発326列車に連結するので1時間しかなく、名荷23と共に北長野に戻していては間に合わなかったと思われます。
    2020年12月10日 00:44
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    逆方向への小運転の例をもって、他に根拠のない推測でかえって混乱させてしまったようですが、キハユニ1両だけで長野~北長野の小運転をしただろうとはもとより推測しておらず編成単位という想定でした。長野運転所は北長野駅に近いので入出区時に編成ごと逆の北長野駅側から直接出入りさせれば、一回進行方向は変わるとは言っても個人的にはかなり合理的な方法だろうと思ったのですが、聞き流していただいて結構です。

    信越線の普通列車は旅客列車のダイヤに少なからず影響したのですね。専用列車化と拠点集約・代行輸送化途上で、客荷分離が完全に行われていなかった弊害と言えますでしょう。
    信越本線322列車は時刻表上は長野止、326列車は長野始発ですから、北長野で郵便扱のあと郵便車が長野でそのまま326列車に継承されるのは自然ですね。(322~326列車は直通?)
    名荷23マニが北長野でどのような荷扱作業があったのかはわかりませんが、少なくとも322列車で北長野駅で名荷23マニの解放作業をするという選択が難しい状況があったのでしょう。荷扱のなくなった長野で9時間留置しておくはずもなく、北長野へ折り返して夜までに集荷した荷物をしっかり詰め込んだのでしょう。
    2020年12月10日 20:54
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    飯山線キハユニ連結は2往復で、編成のまま長野運転所出入りのついでに北長野駅に入線させ、小荷物、郵便物とも積み降ろししたと考えるのが現実的と思われます。今後関心をもって調べます。
    荷5043列車の編成に変遷はあるものの、長野以北直通のほか、長野止め、松本止めという組み合わせで同線の荷物の流れがわかります。荷物車に個々の積載方があった割りに郵便車は大ざっぱで、「とりあえず塩尻方面への郵便物は何でも積んでいいよ」となるのですが、スユニ車「名塩下(⇒名松下)」の積載方特定に「篠ノ井以北に達する大型通常、速達小包、小包締切郵袋を積載しないこと」とあり、これらは長野までの託送は対象外ですし、半室車で、しかも途中止まりの便に、篠ノ井を含む長野、上田、直江津方面宛の、優先度が低く、かさばる郵便物は積むな、という解釈で、それらはおそらく翌朝の名長下一号便(全室オユ10)に積まれたと思われます。(途中局から乗務員宛郵袋に少量を混入する限りは大型、小包類も可能ですが) また、通年か繁忙期だけかわかりませんが、名古屋鉄郵⇔松本南・長野鉄郵にコンテナ締切便が設定され、普通小包などを貨物列車輸送して郵便車を救済しました。
    2020年12月11日 17:18
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    スユニは中央西線の郵便輸送では輸送力不足だったのですね。その輸送力不足を、オユが運用された荷5041~荷5044列車(中津川以北は旅客車併結)1往復とコンテナで補完する必要があったということでしょうか。昭和40年代から中央西線の列車を見ていた者からすると、電化前のSL時代からオユ1往復とスユニ2往復という体制が続いていたように記憶していますから、経済成長期の郵便物の増加には対応しきれていなかったのかもしれません。荷物輸送は1973年の全線電化でほぼ従前の郵便車運用の時間帯に合わせた2往復の専用列車と、新聞輸送を兼ねた夜行の急行「きそ」1往復に集約されたことによって、複数の荷物車を1本の列車にまとめて車両ごとに使命を明確化させることができたということかもしれません。
    専用列車化されずに残った荷物車運用に、名古屋~松本間普通列車併結の大垣区クモニ1往復の運用があったと本文に書きましたが、松本からは、中央東線に入り甲府まで運用されていました。専用列車化されていなかった中央東線との直行便という使命があったようにも考えられますが、その荷物積載方は不明です。
    2020年12月11日 20:04
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    中央西線(名長便)の郵便輸送力は、片道あたり実質オユ2両ぶんであり、この区間の需要にはいささか足りない気もします。荷5043列車のスユニが「長郵21」(名塩下り)となっており、しかも荷物室に積載禁止となっているなら、荷物室に郵袋を積ませてもらう契約をしてもいいのですが、小荷物と違った郵便物の特性があり、東海道線荷物列車のコメントでも書きましたが、車中の郵袋で容積の比率が大きい大型通常、小包の宛先は郵便番号上2桁ごとの地域区分局が大半で、この時代ですと、大型、速達小包は39地域が松本南、38地域が長野中央で、小包は39地域が塩尻分局、38地域が長野鉄郵でした。名塩下便は積載方で38地域(篠ノ井以遠)宛を禁止して、名古屋から岐阜県多治見坂下間と長野県39地域を主体に輸送しました。そのため塩尻、松本までの郵袋が大半の車内に、荷物室を借用してまで長野方面宛郵袋を受け入れても列車が塩尻止めだと意味がなかったと考えます。801列車(名長下二号)は別の機会に書きますが、これも積載方で何かと制限がありましたので、実質、荷5041列車(名長下一号)のオユで篠ノ井以遠宛の大型、小包締切郵袋を運んでいたことになります。
    名古屋~松本~甲府への荷電には、それなりの輸送需要があったものと思われますが、郵便物も、辰野、諏訪、岡谷方面は39地域なので、岐阜県以西からはおのずと塩尻経由で運ばれますが、ほとんどが塩尻分局、松本南局で「途中下車」して再分配(袋詰めのやり直し)となるので中央西線東線直通郵便車を設定しても意味をなさないところです。こういった郵便輸送の特性が、各地を直通する郵便車を設定しない要因でした。
    2020年12月11日 22:09
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    この列車のスユニのニ室を積載禁止にした理由がわかりませんが、この列車に関しては荷物輸送量を確保できていたということなのでしょう。中央西線には繁忙期にコンテナや貨車による代行もあったと思いますが、東海道本線のような臨時列車や臨時増結は見られませんでした。
    郵便輸送で「途中下車」して再分配をされるとのことですが、荷物列車でも締切車ですと、途中の拠点駅で再分配に近い作業をしていたと思われます。以前書いた記事「【431】思い出の乗務列車33:東海道本線 荷31(名古屋~大阪)」で、鹿児島本線経由で鹿児島まで直通する荷31列車の南東荷4マニが、東小倉で切り離され熊本まで後続の荷35列車に継承される例がそれにあたると思われます。北長野で322列車から切り離されず長野から逆送された名荷23マニも、締切車ゆえに長野からの801列車の積載方指定「熱田着中継荷物」以外の荷物をすべて北長野で取り卸し、そのあと他線区や代行便から集められた「熱田着中継荷物」を積み込む作業があったのではないかと考えられます。
    2020年12月12日 20:33
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    締切の荷物車は走行中に車中の仕分けができませんから、拠点駅で取り降ろして仕分けし、その車両、あるいは別車両、後続列車に振り分ける作業が必要なのは理解できます。
    郵便物との決定的な違いは、小荷物は1個ごとに宛先駅があるのに対して、郵袋1個には小包が平均3個ほど、大型通常が50通ほど入っていたので、これらをとことん地域区分局に宛てていたことで、積まれる郵袋を読み上げても同じ局ばかり連続というのは珍しくなく、これらをあえて車中でぶちまけて区分してあげたら、どれもが早く届くだろあなぁ…なんて考えていました。実際、郵便番号施行前は、車中の小包区分数が多く、小包担務者が乗っていたほどです。
    あえて小荷物輸送に近づけるとすれば、小包1個ごとに郵袋に入れて締切り、配達先集配局名を標札に書けば、地域区分局は不必要で送達日数も短くなりますが、読み上げると聞き慣れない局ばかりで、記録する便長との意思疎通が大変で、石垣積みしても郵袋の座りが悪く、列車の振動で簡単に崩れそうです。重い郵袋を下に敷いて崩れない積み方をしていたからです。郵便番号施行に際して「かさばるブツはとにかく都道府県ごとの拠点局へ」という方針になりましたので、車中では決まった宛先の郵袋ばかり多く積まれ、作業はしやすくなりました。
    2020年12月12日 23:10
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    車内での作業は限られた空間と時間との闘いですね。郵便と荷物では扱う物の種類や性質の違いによって、適切な作業方法や集約の仕方もまた違ってくるのでしょう。荷物の範疇だけでも、新聞、一般荷物と生き物など急送品を同じ作業方法や集約化を採用するには無理があり、改善と言っても画一的な輸送方法では弊害が出てしまうので例外を認めることとなってしまいます。
    53.10で「拠点駅単位にまとめて輸送」する方法に変わったことは、郵便番号施行時の「かさばるブツはとにかく都道府県ごとの拠点局へ」という方向性と同じだと思いますが、鉄道荷物が遅れていたことを再認識します。
    2020年12月13日 20:54
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    小荷物輸送では53・10で小駅は拠点駅から自動車代行が進んだわけですが、鉄道郵便輸送で、通常小口郵便物は原則各駅各局受渡する方針を59・2まで続けました。また、新聞や急送荷物もあり、全国的に荷物専用列車化と中間小駅通過により拠点駅から自動車代行にできないことが、中央西線の荷物列車ダイヤを見てもわかります。
    また、ワキ8000(パレット車)にパレット台車を使用せず、荷物をバラ積したとはびっくりです。荷物輸送廃止までにパレットを使うようになったのか疑問です。マニ車による締切便でもよかった気もしますが、パレット車が余剰ぎみだったのかもしれません。
    スユ44に郵袋をバラ積みするのを想像してみますが、室内の等間隔の仕切りがかえって郵袋の積み分けを困難にしそうです(笑)
    2020年12月13日 22:45
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    中央西線にあったワキ8000のバラ積については、以前に「【478】思い出の乗務列車39:関西本線 荷44~224列車(前篇)」のコメント欄で話題になったときに書いたこと以外は不明です。
    その直後に発売されたJ-trainの記述で、パレット化に際してホームの柱や売店、ホーム階段の位置も障壁となることが書かれており、納得したものです。

    ワキ8000でバラ積みすると、平パレットによる貨車のように天井までの空間を無駄なく使った積載方法ができなかったのは当然で、ましてや座りの悪い郵袋は問題外でしょう。パレット車スニ40とスユ44の荷重はいずれも17トン(パレット24個)なので、貨車でいえばワキ相当の大きさなのに、「ムラサキ」の「サ」を飛び越えたワラ級にすぎません。そのためスニ40とほぼ同じ構造のワキ8000を荷物車として使用する場合、積車換算両数は車体に表記されている積車換算4.5を用いず、スニ40と同じ4.0を使うこととされていました。つまり背の高い荷物用パレットを用いる通常使用の場合でも、貨物の平パレットで隙間なく積んだ状態よりかなり軽かったということになります。荷重から考えても、異例なワキ8000のバラ積みの場合に、天井近くまで積み上げるような想定ではなかった(そんな積み方をすれば荷崩れの危険があるので不可能でしょうし、換算4.0を超えてしまう)はずで、それでいて通常のマニの荷重14トンより数字の上では3トンも多く積めることになりますので、思っておられるほど積載効率は悪くなかったのかもしれません。車内の仕切りも荷崩れ防止に役立っていた?かもしれないです。

    パレット車が余剰ぎみだった可能性はあり得ると思います。中央西線に運用された電暖対応のワキ8000は名ナコ持ちでしたが、調べてみるとすべて名マイからの転入で、元をたどればワキ10000からの改造車でした。10000形式を専用使用した特急貨Aが減って50000形式を使用した特急貨B化が進んだことでワキ10000が余剰となって、その有効利用策がワキ8000への改造だったと考えられ、まだパレット化の環境が整っていなかった中央西線で締切車の代用としてワキが導入されたと思えないでもありません。

    ◆一つ訂正連絡です。
    「【596】熱田駅荷物基地全面開業の日」で当方が2020年11月29日に投稿したコメントにオユ10が熱田に入らなかったような書き方をしてしまい、リンク先の編成表と矛盾する表現になっていました。のちに回送でオユ10が熱田に入る列車は存在したという文章に訂正しましたので、ご承知おきください。
    2020年12月14日 20:09
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    急きょ郵便車の活動に出まして、残務もありコメントが長い日数滞ってすみません。
    積載効率を考えるとワムに詰め込む方が効果的かもしれません。まあ貨物と小荷物の形状の違いもありますが、小荷物、特にパレット車はワキ並みの車体でもワラ並みの荷重とは考えてもいなかったです。
    また、ワキ8000の荷重がマニよりも3トン多かったのも、パレット郵便車の積載郵袋個数が護送郵便車よりも少なかったことと正反対ですね。スユ44の諸元にはパレット搭載24台とあるのみで、積載郵袋数は積めても1台30個程度で実質積載数は少ないです。
    積載トン数の比較はさておいて、マニ車は中央に通路を確保して両側面に向けて積み上げるのに対して、パレット荷物車は床面にすき間なくパレットを詰め込むこと、パレットに満載にさえすれば、室内容積に対する荷物の比率は大きかったと自分なりに解釈します。郵袋パレットはカゴの上まで満載の積み方ができず、室内上半分が空気だったように記憶しています。パレットにかかる荷重も荷物用の方が重く、構造が頑丈だったかもしれません。
    2020年12月25日 22:10
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    中央西線に限らず、荷物列車にワム80000(時速75㎞が限度)を連結してバラ積で主要駅で開封積載を繰り返す締切運用を行えば、マニによる締切輸送よりも効率的なようなものですが、荷物列車の最高時速95㎞ではワムは運用できません。ワキ5000にしても時速85㎞しか対応しませんでしたから、そこがワキ8000の存在価値と言えるのかもしれません。

    荷重は、荷物車としての使用時のワキ8000=スニ40=スユ44→17トン
    パレット24個積載ですから、単純計算でパレット1個あたりは17,000㎏÷24≒700㎏
    郵袋を1個30㎏限度?と考え、以前のお話から20個積めるとすれば30㎏×20=600㎏
    △100㎏はパレット自体の重量と考えると、重量級の郵袋ばかりを満載して17トンという数値は上限値として納得できるのではないでしょうか。
    以前書いたことの繰り返しになりますが、通路や作業スペースを必要としないパレット輸送は、容積的に有利なように思えますが、パレットという小さい器に区分し、大小長短さまざまな形状の荷物を効率よく収容することは困難でしょうから、おのずとパレット内の空間に無駄が出てくることは明らかです。その結果として、重い荷物ばかりパレットに隙間なく積載するような使用方法でなければ、実際の運用上では小荷物の場合においても郵便同様に、スペック上の17トンに満たない状態で満載になってしまうことは普通にあったことかなと想像します。
    2020年12月26日 20:32
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    お示しの計算式はよく理解できます。もっとも、スユ44の輸送力を最大限発揮できていたかというと疑問です。郵袋1個は、最大でもおおむね18kg以下とする規則がありました。小さくて比重がある封書、はがきですともっと詰められますが、取り扱う職員の腰痛防止とベルトコンベア等設備への負担から算定された数字でした。現実には大きく詰められた郵袋で、だいたい1個10~15kgくらいでしょうか。この点は小荷物よりも平均重量は低くなります。
    パレットにすきまなく詰め込むのは小荷物でも難しそうですが、郵袋パレットに主に積まれる速達小包郵袋も1袋に小包を数個入れるとサイコロ形でなく、三角とかいびつな形状の郵袋になりますから、パレット内のすき間を少なくするにはサイコロに近いものを下に敷き、上半分はどんな形状でもとにかく放り込みますが、15個でカゴがいっぱいになるものもあり、これで24台積んでも360個程度となります。
    一方、大型通常郵袋はすき間を少なく詰めやすかったですが比重が重くカゴ8分目くらいでした。何より、パレットを満載にするほど郵袋がない場合などカゴの半分以下という、もったいない運用もあり、カゴの発駅着駅が1台ずつ決まっていたので、融通がききません。それは小荷物パレットでもあったかもしれませんが。
    2020年12月27日 03:40
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    きちんと規格がそろった物でないと、パレットにすきまなく詰め込むことは難しいですね。パレットの規格が、旅客ホームでの積卸を前提にせざるをえないために、実際の使用には必ずしも適切なサイズにできなかったということがあったのでしょうか? いずれにしろ、器が小さいと無駄になるスペースが増えてしまうのは確かです。

    行った客があれば、そのほとんどが帰ってくる旅客輸送と違って、物流の世界では上りと下りとでは必ず輸送量のアンバランスが起こってしまい、パレットも車両同様に片道輸送で帰路は空車かそれに近い状態になってしまうこともあるだろうと思われますが、それも宿命ですね。パレットを運用するに当たっては、往復ともに一定量が常時ある駅間の集中運用にしないと、有効な活用がしにくいでしょうから自ずと運用区間は限られてくるでのしょう。
    2020年12月27日 21:00

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