私が毎年長野の善光寺へ出かけていることは以前にも書いたのですが、国鉄退職後の平成元年以降には、御朱印をいただいてくるようになりました。別に私は信仰心が篤いわけではありませんので、入場券を記念に買ったり記念スタンプを押してくる感覚と変わりません。しかし、お参りするのは、今の自分がここにこうして生きていることへの有難さを感じ、これまで関わったすべてのものへの感謝の気持ちをお伝えするためであります。お寺で御朱印をいただくようになったのは、国鉄退職後2年目の時、再就職した会社で西国霊場巡りを趣味としていた上司に巡り合ったことがきっかけでした。私の旅行好きや収集癖もよく知っていたその上司から
「おみゃーも、ぜったいハマるぞ!」
と言われ、一時はそのとおりになりかけましたが、そのうちにむやみやたらにお寺参りにいくのもどうかと思うようになりました。同様に、以前やったことがある入場券や乗車券の収集も、自分が行った証として買ってくるだけにしていましたから、わざわざ御朱印のために出かけるようなことはしなくなりました。酒のラベル収集も自分が飲んだものだけを集めるというスタイルになっています。どこかで区切りや限度を設けないと趣味の道は奥深い泥沼であることは、これまでの「 金失 」の道で重々承知していました。
そんな経緯ではありますが、年に1回の善光寺参りのときだけは、今でもかならず御朱印をいただいてきます。その結果、朱印帳のほとんどが善光寺ばかりになっているのです。国鉄在職期間のうち、荷物列車に乗務していた就職直後約3年間と、しなの号に乗務していた退職直前約3年間の専務車掌時代には、仕事で最低でも月に1度は長野まで来ていました。特に年明け後最初の乗務のときは、同乗の先輩たちといっしょに善光寺参りをしていましたから、これまで何十回とお参りしているはずです。しなの号に乗務していたころ、納経帳を常時携帯されているチーフ(車掌長)がおられました。その方は、善光寺へ100回お参りするのを目標として、しなの号乗務のたび、折り返し時間がある行路だと必ず「判押してもらってくるわ」と言って善光寺へ行っておられたので、私も連れて行ってもらったことがありました。その後ついにお百度参りを達成されて、みごとに善光寺の墨書と御朱印がずらりと並んだ朱印帳が、その年の車掌区内の文化祭に出品されていました。
私の場合は退職後の平成元年から納経帳を持ち始めていますので、その数はまだ27です。死ぬまでに50集まるかどうかおぼつかないわけですが、別に数を集めようという趣旨ではありませんから、これまで年に2度以上善光寺にお参りしたこともありましたが、最初の1回しか御朱印はいただいていません。
平成19年に訪れた際に、本堂再建300年記念の御朱印がありましたので、それを押していただいたことがありましたが、これは記念入場券的な意味合いの御朱印なのでしょう。ノーマルバージョンもいただきたかったので、その年だけは2つの御朱印をいただきました。一般の入場券のほか観光客用記念入場券をいっしょに購入するような感覚と言えます。この入場券、日付をご覧いただくと、国鉄分割民営化まであと2か月を切ったころのものです。その日、午後の「しなの15号」で長野入りして、翌日朝一番の「しなの2号」で戻る乗務でした。このころの私は「【570】駅弁食べ比べ ~1987年3月国鉄最末期~」で書いたように、長野に来るのも今日が最後かもしれないとの思いで乗っていましたので、わざわざ入場券を買ったのでした。しかし、その後に翌3月の退職まで4回長野まで乗務で行く機会があり、最終の乗務行路は、【10】最後の乗務 で書いたように、3月27~28日のこの「しなの15号」~「しなの2号」の乗務でした。
今年、善光寺は御開帳の年でしたから、その期間中にお参りしたところ、記念の御朱印が別に用意されていましたが、あえてノーマルバージョンにしました。それでもこのように、御開帳を示す印が左上に押されていました。
国鉄退職後、お参りのために乗ったJR車両は、381系・383系・313系・211系・165系・169系・115系・E127系電車と14系客車といったところでしょうか。一昨年など、お参りの後、長野新幹線で東京へ行って用を済ませ、東海道新幹線経由で帰ってきましたから、東京へのついでに善光寺に寄ったようなものでした。また、近年は高速バスや自家用車で出かけた年もあるようなありさまで、鉄道離れの傾向がうかがわれます。自分にとって乗りたいと思わせる列車がなくなって、新しい車両に変わっていき面白味が薄れてきつつあることが原因ですが、何よりも善光寺は変わることなく私を迎えてくれます。
この記事へのコメント
NAO
母が他界するまでは初詣は両親と善光寺へ行っておりました。但し私の運転するクルマ往復で、両親と中央本線には乗ったことはありませんでしたが。
ウチの実家は変わった家族旅行で、父親はイビキがすごく、翌日の私の運転にも差し支えるので、ビジホのシングル3室に分かれて泊まり、お参りのあとの夕刻はどこかの部屋で持参のおせち料理を食べ、その後、翌朝出発時のロビー集合まで自由行動というものでした。退屈な私はひとりで飲みに行ったり、長野電鉄未乗区間乗りつぶし、開業間もない長野新幹線高崎往復などして夜の時間を過ごしていました。長野新幹線「あさま」は往路普通車は指定券のダブリ初体験、また復路グリーン車はとある業界の方々が乗っておられて、小さくなって座っているしかありませんでした。ダブリは私が先客でしたが、あとから来られたおばさんに対し、車掌さんは「空いている席に座って下さい」
確かに車内はガラガラでしたが、あのひと言だけでいいのかな。
急行おが1号
NAOさんも仰っておりますが、車掌区の文化祭というのがあるのですね。いろいろな方が集まっておられる職場だと思うので、器用な方も多いと思い、私個人的には何だか興味深いです。
神社仏閣へのお参りは、動機はともかく行かれることは良いことだと思います。神様や仏様に、邪まな思いでお参りする人はいないと思いますし、感謝したり、その時だけでも心を改めることは自身の精神衛生上もプラスになると思います。
車掌長さんのお百度参り達成というのも、乗務の合間に行かれることが多かったと思いますが、毎日しなの号に乗務している訳でもないでしょうから、毎回、行路の折り返し時間があるときは善光寺に行こうという気持ちが凄いなと思いました。
ちなみに私はキリスト教カトリックの信者なのですが、教会にも善光寺のような御朱印があれば、旅先でも教会めぐりをしてみたいという気持ちになるのですが、残念なことにそのようなものはなく、教会にあるのは献金箱くらいです。
そこまで信心深くない私は、旅先で教会巡りに行くより居酒屋巡りをしています^^;
しなの7号
地元の国鉄駅では秋になると、待合室で地元団体や駅員が育てた菊や盆栽が展示されていましたが、同じようなことをやっている車掌区など現業機関はよくありました。もちろん末期には文化祭どころではなくなり、主催する親睦会自体が解散するに至りました。職場の労使は対立するする場面が多いのですが、こういう行事はその垣根を越えた清涼剤であったようにも思います。
うちは初詣はしないし、子連れ親連れの家族旅行には縁遠かったので、旅先で暇を持て余すようなことは乗務以外にないですね。そんな忙しい旅には一緒に行きたくないと職場で言われるような行程ばかりです。
空いているときならダブりもそんな扱いでよろしいのでは?
相手が「とある業界の方々」だとそうはいかないかも。
しなの7号
車掌区の文化祭といっても、鉄道に関する展示物は少なく、鉄分と言えば、鉄道写真。ブルトレのヘッドマークのレプリカを製作された方もいました。最後に開催された文化祭では16番の鉄道模型が出品されていました。長野泊りでも、朱印を押していただける時間帯に行ける行路は限られました。もっとも便利なのが私が最もよく乗ったしなの7号~18号の日帰り行路で、本文画像にある入場券を買った行路(しなの15号~2号)では不可能でした。
私は宗教にはまったく興味がありませんが、2年前に父が他界してから、お寺さんとお付き合いができてしまいました。そうなると、単純に京都にある総本山はどんなところか行ってみようと思ったりするようになります。そういうのが動機になって旅に発展するわけです。
居酒屋巡りでも、食に無頓着な私は、食い物のことはわからないので食べてしまえばみな同じで、身も蓋もない人なのですが、かつてはお店でマッチ箱が収集できる楽しみがありました。箸袋は今でも持って帰りますが、近年は箸袋さえなかったりすることが多くなったので、旅先で飲食する楽しみも減ってきました。
鉄子おばさん
しなの7号
山陰の日本海は荒れますね。5月に日御碕へ行った時も、良い天気でしたが強風と高波に見舞われました。
福袋(+_+)~そういうことは関連つけて考えてしまいがちですので、私の場合はもとから運試しみたいな福袋、宝くじの類は買ったためしがありません。気が小さいもんで(';')
やくも3号
↓
金失 女子
↓
牛勿 谷欠
↓
火暴 貝冓
↓
糸合 米斗
↓
糸色 文寸 糸冬
しなの7号
,ζ, ,ζ, ,ζ, !
王見 テ殳 弓|辶良 ι ナょ σ 7 〓〃 ぅ 金 欠 病 (*_*)
急行 陸中
四国八十八箇所・西国三十三所・坂東三十三箇所・
秩父三十四箇所etc
遍路です。
しなの7号
私は西国しか回っていませんが、そのコースは観光地を経由するよううまく考慮されていると思いました。
本文冒頭の画像は、その西国用朱印帳の最終ページに押してもらったものです。
ヒデヨシ
暑い日が続いていますが体調はいかがでしょうか?
善光寺関連は全く興味の範囲外ですので
華麗にスルーしようと思っていましたら
善光寺の家紋の一部が見えていて戦国大好き♪としましてついついコメントしました。
立葵の家紋ですね
立葵と言えば徳川四天王の本多家の家紋
何故に本多家?と思ってぐぐりましたら
善光寺開祖は本多善光さんと言う方だったのです。
またひとつ勉強になりました。
しなの7号
暑いですが、なんとかやってます(*^^)v
立葵、一部ですがわかりましたか。自分はまったく開祖のことまで知りませんでした。
私の方こそ、またひとつ勉強になりました。
ずいぶん前から関ヶ原駅に東軍西軍の武将の名前と家紋がずらっとならんだ看板がありますね。戦国オンチな私ですが、あれで家紋も覚えられるなあとホームから写真を撮ったことがあります。
おんたけ号
こんにちは。
連コメ失礼します。
「あの年の~」か「国鉄の命日」記事にコメントか悩みましたが、
やはりこの記事にしました。
記事内写真の善光寺イラストの長野駅入場券についてです。
実は小生も持っておりまして、長野駅以外で持っているのが、
上田(上田城址)、小諸(懐古園)、野辺山(野辺山高原)、清里(清里
美しの森)、黒姫(野尻湖)、上諏訪(諏訪湖と間欠泉)、茅野(白樺湖
と蓼科山)、白馬(白馬三山)、信濃大町(黒部ダム)、穂高(安曇野の
わさび畑)、松本(松本城)、木曽福島(御嶽山)、南木曽(妻籠宿)
です。
管理人様はご承知でしょうが、()内はイラスト名です。
これで全てコンプリートしているのか?
何時、何処で買ったのか?(名鉄局でないのに)
小生保有の他の記念券を例にすると、
急行赤倉・きそ・紀州
<さよなら記念急行券>
昭和60年3月14日
ダイヤ改正
名古屋鉄道管理局
と印刷された肌色のケース?に入っているのですが、件の入場券は
バラなのです。
なので何の記念券かも判りません。
しかもビックリなのが全ての入場券の日付、62.-3.31とあります。
毎度、自分の記憶無し、記録もしていない事で管理人様を煩わせて
申し訳ありませんが、ご存じならばご教授下さい。
しなの7号
この善光寺イラストが入った長野駅D型入場券は、本文に書いたとおり、長野駅の窓口にあったので乗務で長野に来た記念として購入したものです。当時の長野局では他の駅でもこうした入場券を発売していたことさえ、私は知りませんでしたので、それでコンプリートなのかどうかもわかりません。JR北海道でもこうした入場券がありましたので、長野局でも観光地の玄関駅には置いてあったのでしょう。お手持ちの入場券がすべて国鉄最後の日の日付ということは、まとめて販売していたものと想像しますが、あのころは販促活動が盛んに行われていましたので、イベント会場や出張販売等意外なところで買われたのかもしれないですね。