【609】 思い出の乗務列車56:中央西線~篠ノ井線 荷5043列車(後篇)

荷5043列車の乗務は、中央西線沿線住民であった私としては、駅名どころか駅順をはじめホームの右左、地理的感覚など、さまざまな予備知識があったので、仕事上はたいへん有利でした。しかし、作業衣に前掛、手鉤を持って、檻のような保護棒がついた汚い荷物車の中で働く姿を知り合いに見られる可能性がありました。「見たよ」と言われたことはないので、見られたことはたぶんなかったはずです。しかし、囚人のような姿を見た人は、おそらくびっくりしたことでしょうから、本人に面と向かってそんなことは言えなかったのかもしれません。
以前にご紹介した長谷川宗雄著「動輪の響き」に書いてあることを引用しますが、高山駅のホームで、SLの庫内手の仕事ぶりを見ながら話をしていた乗客の話です。

「あんなに黒く汚れる仕事をする人は、どんな人やろうなあ」
「そうやなあ、ちょっと特別な人達とちがうんかなあ」
「油臭くて真っ黒で、ああいう人達のお嫁さんにくる人あるんやろうかなあ」
「そりゃあ、ああいう人はああいう人で、同じスジがあるで、そういう人からもらうんさなあ」
「そりゃあ、そうやろうなあ」

と、あり、これには苦笑いをする外ないと筆者は書いています。

この手の仕事の内容は、特に鉄道に明るい人でないとわかりせんし、説明も通じにくいものです。一度、同級生に「国鉄で何やってるの?」と聞かれ、小荷物が云々…と説明したところ「な~んや、貨物の車掌か!」とのリアクションがありました。ちょっと違うけど、まあええか…ということにして生返事をしておきました。
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これも前に書きましたが荷物車での荷扱の様子を見て、「お母さん、檻の中に人がいるよ!」と母親に向かっていう子供。「勉強しないとああいうふうになるよ」という親。そう思われても決して不思議ではない仕事でした。でも荷扱の仕事であっても、乗務員というのは、国鉄ではものすごく恵まれた職種であって、駅に配属されると最初は雑用で、「便所掃除」と「おさんどん」(と言っても今の人にわかるかな?)をするのが普通でしたし、危険な貨車の連結解放に関わる構内作業、一般公衆の命に係わる踏切保安の仕事もやらなければならない辛い境遇にありました。国鉄の仕事は全般的に「3K職場」(きつい 汚い 危険 )として認識されていたと思います。

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長い前置きをしましたが、荷5043列車の話に戻ります。
この列車の使命のひとつであった名古屋からの夕刊輸送。これは以前に書いた関西本線225列車(【474】思い出の乗務列車37:関西本線 225~荷43列車(前篇))や921列車(【370】思い出の乗務列車19:紀勢本線921列車(前篇))と同じです。このうち名古屋を13:27発の中央西線5043列車と13:41発の関西本線225列車は、どちらも昼下がりの早い時刻に名古屋を発車しますから、比較的遠方で配達される夕刊輸送をしているわけであり、似た性格の列車と言えるわけです。しかし、まるで逆方向へ向かう列車ということで、気持ちの上では大きく印象が異なりました。
個人的には、中央西線の場合は、自分の住まいに近付いていくのに対し、関西本線では遠ざかることになりました。夏場であれば、信州に向かう中央西線の場合は、多少なりとも涼しくなっていく期待感があったのに対し、関西本線の場合、特に亀山の長時間停車中に車両全体が焼け付いてしまうこともあって、非常に暑い列車のイメージがありました。冬場は裏返しになるわけで、中央西線のほうが寒いというのは当然ですが、これは気候が原因だけでなく、中央西線の荷物列車を含む旧形客車列車では、電気暖房が用いられていたことにもよりました。そもそも旧形客車ベースの荷物車は、どんな車種でも隙間風がひどかったもので、どの荷物車も、乗務員室の扉や戸袋部分に粘着テープが貼られ、窓枠には新聞紙を挟んで隙間風を防いでいました。電気暖房併設車の乗務員室には、元から蒸気暖房の放熱管が座席下や事務机下に配管され、そのあと空いている床面や壁面に電気暖房のヒーターを増設したという事情があって、ヒーターの取付位置やスペースの制約上、十分な暖房効果が得られないということがありました。せっかくのヒーターの温気も足元を温めることなく天井に上がってしまい、隙間風とともに外へ逃げて行ってしまうのです。
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その寒冷地対策が、中央西線の荷扱行路独自に定めてあった灯油ストーブ運用でした。冬場は灯油ストーブ運用期間を定めておき、あらかじめ決められた運用にしたがって、気温による要不要を問わず乗務員室に持ち込みました。
荷5043列車の場合は中津川停車中に決められた場所へストーブを取りに行くことになっていました。ストーブは特殊なものではなく、家庭や事務所で使われる竪型の芯上下式のものでした。
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画像は北陸本線の今庄駅の待合室にあったものです。このような形のストーブでしたが、保護のケージはありませんでした。
灯油は中津川車掌区の手配で満タンにして用意してありました。この先長野まで信州の寒さに備えて、乗務員室でストーブを焚いたわけですが、振動の激しい荷物車車内ではずいぶん危険なことだったと今更ながら思います。耐震装置が付いていたように思いますが、転倒でもしない限り作動しないような代物だったのか、走行中に耐震装置が作動したような記憶はありません。

私が荷物列車の話をすると、新人の役目である使い走りの話になります。食事や休憩のときのお湯の確保の仕事を以前にもしましたが、ストーブの受取返却も仕事のうちでした。こうした普通列車は大駅での停車時間が長いので時間的に余裕がありましたから、東海道本線の急行荷物列車のように列車が停車する前に飛び降りて走ることはありませんでした。木曽福島駅では、ホームのソバ屋に給湯依頼がしてありました。いつもその店内に夏冬を問わず、ものすごく大きく、湯がいっぱい入って重いヤカンが、七輪に載せてありましたから、そこからセルフサービスで、いつも持ち歩いている家庭用魔法瓶にお湯を分けてもらいました。場合によっては、ついでにソバも食べてくるほどの時間的余裕がありました。藪原あたりまで来ると時刻は夕暮れ時で、当然、長野に着いてから飲む酒の調達の話も出てきます。誰ともなく、「今日はどれだけ飲む?」と言いだし、「俺は2合だ。」「わしはビールを買うわ。」「わしは持っとる。」などという話になり、その日に長野で泊まる3人が日本酒で統一されれば、飲む量によってそれぞれお金を出し合って「塩尻で真澄のリットル瓶をかえば安くつくから、おまえ買ってこい」ということで、塩尻ではまた使い走りでした。「真澄」は上諏訪の地酒で、今でもおいしい地酒を造っているメーカーさんです。
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「リットル瓶」とは1リットル入りの瓶のことで、スイッチバックしていた旧塩尻駅のホーム売店にいつも売っていました。

画像(日本交通公社版1978年4月号時刻表からの引用画像。この画像は、時刻が判読できる程度に元画像を大きくしました。)

仕事そのものは、各駅で荷物を積んだり卸したりの作業でしたが、特に木曽路に入ると、東海道本線の急行荷物列車のようにドサッと積まれドサッと卸すという感じでもなく、のんびりしていました。しかし列車の運転上のことを言えば、中津川以北の中央西線と篠ノ井線全線(篠ノ井からは信越本線なので対象外)には、このときすでにCTC(列車集中制御装置)が導入されていました。今では当たり前のシステムですが、このころは、駅ごとに列車運行を管理しているのが普通で、ほとんどの駅に運転取扱要員が配置され、駅長・助役他が列車の監視と出発合図(電車・気動車の場合は車掌への出発指示合図)を行っていた時代でした。その場合、車掌が一人で状況確認をして列車を発車させる駅は一部の無人駅や列車扱をしない閉そく区間の中間停車場などに停車した場合だけでした。(荷5043列車の場合、無人駅でも新聞と郵便の取扱があった武並駅が該当)。しかし中津川以北のCTC区間では、大駅(ここでは中津川・木曽福島・塩尻・南松本・松本)以外では、すべて、運転取扱を兼掌指定された車両の専務車掌(ニレチ)が、他車の荷扱・郵便扱も含めて作業が終了したことを確認し、出発信号機の現示を確認したうえで、乗務員無線機で機関士に「荷5043列車発車~」と出発合図を出さなくてはなりません。こういう運転関係の仕事は「車掌」の資格がないとできないことなので、荷扱の乗務掛であった私にはやらせてもらえない仕事でした。
この列車の場合、私どもが乗務する車両のニレチが運転兼掌の指定がされていました。停車する各駅で到着監視から出発監視までをしていくわけですし、ほぼ各駅停車で長野まで22時過ぎまでの長丁場で、ニレチが荷物の管理と運転取扱業務を兼務するのは大変であることから、乗組基準人数に加えて増行路を設定して、ニレチがもう一人乗務していました。その結果、長荷21マニ1両に専務車掌(荷扱)2人と乗務掛2名の計4名もが乗務しました。増乗務のニレチは、基本的に列車全体の責任を負う運転取扱を専門に担当し、これによって本務のニレチは自車の荷物取扱業務に専念できたのです。この増乗務のニレチ行路は、この列車の運転取扱業務に特化した乗務でしたので、長野に着くと、1人だけ夜行急行「きそ」で名古屋に戻っていきました。波動要員枠(季節的に臨時に運転する列車用の要員枠)から充当した要員運用でしたので、予備勤務の人が乗務する場合が多く、あるいは、翌日用事があって年休を申し込んだニレチが、要員需給上年休取得できない場合に、この行路があてがわれました。年休を取らずとも、この行路の翌日は、夜行急行「きそ」で朝6時台には勤務解放となりましたから、休みと同じようになったのです。特にこの行路に乗る機会が多かったのは、労組の役員さんたちで、団交や集会など労組行事の日程に合わせてこの行路に乗っていたようでした。乗務中には、その役員氏から、次のダイヤ改正の際の人員削減情報や仕事の変更点についての当局からの提案内容とその対策を教えてもらい、また日頃困っていることを相談するなど、仕事が一段落すると乗務員室そのものがミニ職場集会の様相を呈するようこともありました。

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長野に着くと、夜行「急行きそ」ですぐ名古屋に戻る増乗務のニレチ氏とはお別れで、冬場だとストーブをそのニレチ氏が乗務車両まで持って行ってくれます。ストーブは深夜の急行に併結された荷物車の乗務員室でまた活躍するわけです。残る3人は長野車掌区で到着点呼ののち、仕事用の鞄をロッカーに入れて、洗面用具や、寝る前に読む本や雑誌、それとお酒がはいっているプライベート用の鞄だけを持って乗務員宿泊所へ向かいました。

これは善光寺をイメージしたその当時の長野駅正面。風格がある建物です。
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長野車掌区は駅舎の南(上野方)に隣接していた長野鉄道管理局関係の施設が集まった場所にありました。
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しかし長野オリンピック開催に備えて建物は解体され、跡地にはホテルが建設され、今は面影が全く残っていません。
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長野駅の留置線と隣接してあった客貨車区、車両工場跡地も新幹線用地などに転用されましたし、非常に煤けたイメージだった駅裏は見違えるような街に生まれ変わりました。
乗務員宿泊所は裏口から、南側に少し歩いた線路端にありました。
画像は国鉄分割民営化後の撮影です。
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乗務員宿泊所では、ニレチが管理員室で宿帳に名前を書いてくれ、管理員室内に集中設置されていた起床装置のタイマーをセットしてくれました。部屋に着くと備え付けの浴衣に着替え、風呂に行って汗を流した後は、寝酒を飲んで一日が終わるのは0時前でした。翌日は10時半過ぎに長野車掌区に出勤すればいいので、起床装置のタイマーはもっと早い時刻にして、翌朝は喫茶店へモーニングサービスの朝食に出かけ、そのあと車中食を買い出 しスーパーに行くことがこの行路では多かったように思います。
そのときのメンバーよっては、早起きして善光寺まで散歩に出かけようかという話がまとまることもありました。

この記事へのコメント

  • NAO

    おさんどんは若いときの夜勤でよくやりました。近所の店で何か買ってこいという先輩、何か作ってくれという先輩、いろいろでしたが、厨房出身の私には苦にはなりませんでした。警察24時の番組を視ていたら、高速隊の分駐所は街場から離れたところが多いのか、進入隊員の方々が先輩から賄いの作り方を教えてもらうシーンを何度か目にしましたが、炊事をしたことがない人たちには大変そうに思えました。
    そば屋さんのヤカンのお湯を汲むのはいいとして、売店で酒を購入というのも古き(多分)良き時代ですね。もちろん制服でですよね。
    2015年08月03日 07:39
  • しなの7号

    NAO様
    国鉄のおさんどん、出面の多い稲沢のような大駅の場合は大変だったそうですよ。もちろんスーパーへ買い物から始まるわけで、仕事は雨の日も雪の日もひたすら貨車に飛び乗り連結を繰り返す。先輩にどやされ貨車の陰で涙する。何が何でもここから抜け出そう。…列車掛の試験を受け車掌になるんだ! そういう決心をして列車掛になるため勉強したという同期の者は何人もいました。
    名古屋駅の紀伊の事故が起こるまでは、制服ではばからずにKIOSKで酒やビールも買いました。

    <補足>
    飲酒に関して、特にお若い方々には当時の時代背景がわからないと思いますので、国鉄だけが常識はずれなことをしていたのかと思われるかもしれないということが、気にかかります。事実、飲酒に対して「なんとなくわかった」的なコメントをいただいたことがあり、それはおそらく今の感覚で書き込まれたものと思います。そのへんの当時の世間一般の常識を伝えることが私にできないことが、片手落ちであり、力不足であると承知しています。
    2015年08月03日 08:33
  • やくも3号

    こんにちは。暑いですね。
    今日は仕事のやる気が全くでません。

    うちは代々、岡山で世襲の郵便局(特定郵便局)をしていたのですが、局長である祖父は土用の日には郵便配達の局員にうなぎを調達に行かせ、自ら庁舎裏の七輪で調理をし、局内職員だけでなくお客さんにもふるまっていたようです。もちろん(?)そこにはアルコールもあったと祖母からは聞いています。
    また、地元の卒業式には駅長さんとともに来賓で呼ばれたりもしたようですが、駅長さんたちもその帰りに局長室に立ち寄り、明るいうちから親睦を深めたりもすることもあったようです。
    是非については何とも言い難いですが、休憩中のおまわりさんが制服姿でほかほか弁当屋さんに並んでいるだけでも苦情が入るような今日とはあまりにも違いを感じます。
    昔は「やることをやっていれば多少は大目に・・」とか「制服を着ている人々だって我々と同様の生活を営む人間だし」といった寛容な考え方の世の中だったのでしょうか。

    それこそ、先日の「イラッシャイマセコンニチハー」ではありませんが、世間一般が必要以上にマニュアル重視の世の中になり、少しでも外れていると容赦しない風潮になってきているのかもしれません。

    後日談:
    婿養子である父は、郵便局を継ぐために大手私鉄社員を辞めて祖父の郵便局員になりましたが、結局祖父のワンマンや田舎のコミュニティなどにはいろいろなじめなかったようで、私達家族はまた京都に戻ってきました。私が3歳のときです。
    郵便局は郵政直営になりました。
    2015年08月03日 16:00
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    いやはや、ほんとに暑いですが、当地では只今雷雨です。
    フォローありがとうございます。
    飲酒に限らず、大きく常識が変わってきたことを感じるのはジジイになった証拠で、昔はああだったこうだった、というジジイは私が就職したころにもいました。
    え~!そんなことしてよかったんだ!
    と思ったことはいくつもありました。社会常識もまた10年20年経てば変わっていくのでしょう。

    当時の田舎の局長さんなら、みんなにウナギをふるまって気を利かすことは、地元の名士としての常識と考えていいでしょう。そうした常識を皆が持てば付き合いは増えますし、負担になってしがらみのない都会のほうを選んで田舎を出てきてしまう人が増える。そうなると人と人が疎遠になって、まとめ役もいないからマニュアルにお任せする今の社会常識にたどり着くというところでしょうか。
    連動することですが、最近の上司と部下、あるいは同僚同士の関係も大きく変わってきたと感じます。以前は会社そのものが大きな家族のような関係にあったのに、今では気持ちもバラバラで、仕事が終われば関係はそれまで。これは精神衛生上いいのですが、そうすることによって、無言のうちに協力関係が生まれ円滑に進んでいた仕事が、お互いマニュアルで決められたことしかしなくなって問題が起きるんですよねえ(*_*)
    2015年08月03日 17:34
  • 北恵那デ2

    こんにちは。檻の中で働く人の話は、何度聞いても面白いものです。ところでそもそも荷物とは貨物とどう違うかということを知らない人が多いのではないかと思います。荷物車併結の旅客列車ですと「これは貨物だから乗れないわ。もっと後ろへ行かなければだめだ。」というような会話をよく聞いたものでした。さらに鉄ちゃんであってもEF58は貨物専用機だと言って譲らない人がいます。その末期には東海道筋で荷物列車を牽いていたからだと思いますが、ご丁寧にワキ8000などという紛らわしい車輌も連結されていたからなおさらです。ですから、ぜひともこのブログで荷物扱いと言うものについて繰り返し解説していただかなくてはと思います。現在では労働環境が変わってますので、檻の中の労働者については、その汚名を払拭できるところまではいかないかもしれませんが(笑)。
    2015年08月03日 18:49
  • 黒モコナ

    昭和は遠くなってしまったと言うとこですね…

    自分は、昭和末期に関西大手私鉄の学生班をやってました
    その鉄道会社が初の大晦日終夜運転をするこことなり、とある停留場の学生班をしていたときの出来事をつれづれと…

    この駅は近郊団地からの路線バス系統の起点となっていました
    そのため、停留場でありながら助役さんが居て、朝ラッシュ時には乗務所から運転助役さんが応援に来ていました

    で、初めての終夜運転の日
    19時ぐらいに、学生班の面々が三々五々と助役室に集まってくる
    この駅は、乗降客が多いので学生班の定数は6人でしたが登録者は11人いました

    自分も20時ぐらいに行き、終夜運転の準備開始
    この駅は、駅務室の隣に台所を備えた休憩室とまた奥に宿泊室がありました
    その休憩室で、豚汁などのおさんどんと燃料の買い出し等々(w

    いよいよ終夜運転時間帯に突入すると、駅務室で窓口担当の人はデスク下に、休憩時間の人や我々学生班は休憩所で、新年の祝い酒を飲みながら仕事してました

    今では許してもらえない、昭和ならではの楽しい一時でした
    2015年08月03日 19:41
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    北恵那デ2様にも囚人姿は見られてないと思うんですが、わかっている人は、別にびっくりしたりしないでしょう…と思いたい。
    国鉄の貨物と荷物、ときどきブログ内でも書いているつもりなのですが、違いがわからない方もおられるでしょうから、檻じゃなく折を見てまた説明しますか。しかしEF58は貨物専用機だと言って譲らない人がいますか(゜o゜)
    そこまでいくとちょっとお困りですね。
    あんまり関係ないですが、今でも宅配便のことを、その会社を問わず「宅急便」という人が多いように思いませんか?
    ヤマト以外の会社の人は何と思っているのかな?

    荷貨共用のワキとワサフが荷物列車に入ると目立ちましたが、20系ブルトレ北星に青いワサフが連結されていたのを雑誌で見て、ブルトレがコレかと思ったことです。せっかくのカヤの行燈式列車名が見えないし… 

    <補足>
    貨物列車との違いはこちらで
    【2】荷物列車
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201005article_2.html
    2015年08月03日 20:19
  • しなの7号

    黒モコナ様
    昭和の想い出のご紹介ありがとうございます。
    そのころの常識として、人が働くのを嫌がる大晦日から元日にかけて仕事をするのに、そういうことくらいなくてはアホらしくて働けんわという風潮はあったでしょうね。公共交通機関に限らず、一般の会社でも正月は似たようなものだったでしょうし、あの当時は正月休みが終わってから、年始に会社へ出勤しても仕事なんかせず、社長の訓示など聞いたら、年始回りしてお屠蘇をいただいて早々と帰ってしまうような会社も普通にあっただろうと思います。それは、正月に私が乗務する列車に乗ったサラリーマン氏たちの行状から私が察したことですが…違うかな(^○^)
    2015年08月03日 20:40
  • 北恵那デ2

    もう一度登場しますが悪しからず。どこ会社の宅配便についても宅急便という人は、もしかすると日本人の半数以上ではないのか、というのは言い過ぎでしょうか。我が家にもそんな人がいます。指摘すると「そういうこと言ってると嫌われ者になるよ。」とご教示?くださいます。そもそも「携帯電話」を「携帯」というのはおかしいし、「犬に餌をあげる。」って最悪だと思いますが。そう言えば、鉄の仲間内で最も嫌われるのは「1/80の縮尺の鉄道模型はHOではない。」という言葉だったりしますが。
    2015年08月03日 23:04
  • しなの7号

    北恵那デ2様
    そういうツッコミをされそうなワタクシ(^_^;)
    HOと16番は別物というのは重要な問題で、そのへんは使い分けをしているつもりです。
    こういうことは気になる人は気になるし、言葉なんだから意思が通じればそれでよしというわけで気にならない人は気にならないもんですね。
    言い訳になりますが「携帯」は「ケータイ」という別の名称だと思えばいいかと考えて使っています。
    私は食い物には無頓着なので、「食事にしようか」というのを、あえて「エサ食うか」と言ってます(^_^;)
    何事もそうですが、わかって言っているか知らずに言っているかが問題ですね。

    これは老化現象なのか、私など「アピタ」「ピアゴ」という言葉が出て来ず旧店舗名の「ユニー」「ユーストア」と無意識に言ってしまうことがよくあります(*_*)
    決して知らないわけじゃないですから、念のため!
    2015年08月04日 07:11
  • 茶色の会社の元学生班

    ええっと、平成になってもバブル頃までは
    社員さんの泊まり勤務の夕食にはビールが
    つきものだったと思いました(^^;

    現勤務先は年末最終日の大掃除が終了した
    後につい最近までちょっと1杯で納会する
    風習が残っていましたがここ数年で・・・

    年始のお客様向けのお屠蘇だけが風習とし
    ては残っているだけですかねぇ

    なんか年々窮屈な世の中になってきている
    ような気がします。
    (外資系金融なんて昼からワイン飲んでる
    人もいるってのに・・・)
    2015年08月06日 23:17
  • しなの7号

    茶色の会社の元学生班様
    「年々窮屈な世の中になってきているような気がします。」という部分には同感で、飲酒に限らず鉄道に限らずそう思うことだらけです。しかし当然私を含めての話ですが、これまで節度をわきまえた行動をしなかったためのツケであり、反省すれば結果はおのずとそういう結果になるものと思います。一度失墜した信用は、そう簡単には取り戻せません。
    安全こそを輸送業務の最大の使命として、それを旗印とした国鉄を大きく貶めたのは、特急紀伊の飲酒事故でありました。
    どうも失礼しました。。。
    2015年08月07日 09:11
  • 黄色い車掌

    こんばんは。みなさんのコメントを見てて同じ気持ちを持ってらっしゃる方が多く、少し励まされたような気がします。

    本当にここ最近は業務中の些細なことでも問題とし、徹底的に根掘り葉掘り聞かれ、それが適切な行動だったかチェックされ…と一体、何の(誰の)為に働いてるのか!? と自問自答しています。

    おまけに、新聞・テレビなどのマスコミはひとつ何かあればさも、此方が悪いような報道をし、間接的に悪いといい…

    本当にごめんなさい、こんなコメントで。みんな疲弊してるのは分かってます。でも、現場で働く人々には労いの言葉をかけてもらいたいものです。
    2015年08月07日 20:55
  • ワム80000

    こんばんは
    はじめまして。
    私も以前は私鉄で運転士をしておりました。
    田舎でしたので乗務交代の際も制服制帽でお客様と同じくホームのベンチに腰掛けタバコを吸いながら自分の電車を待つというのも普通でした。
    タバコを吸ってたらお客様から火を貸してくれと言われ話が盛り上がり仲良くなったこともありました。
    お客様とタバコの交換をしたこともありました。
    コーヒーを奢ってもらったこと、ミスして凹んでたら慰めてもらったこともあります。
    つい数年前まではそうでした。
    ここ数年でホームから灰皿が撤去されました。
    駅構内は禁煙になりました。
    お客様とも話すことがなくなりました。
    とても寂しかったです。
    確かに今は良い時代です。
    しかし何か違うと思います。
    2015年08月08日 00:43
  • しなの7号

    黄色い車掌様
    ワム80000様
    内容が共通するものですから、個々の返信コメントになりませんのでご了承ください。
    おっしゃるような状況は社会全体に蔓延していますね。
    何のために働いているのか自問自答しなくてはならないという状況は、労働者として尊厳されていない最たる状況だと思えます。人間として働く喜びを味わえない世の中は間違っています。いつも内部だけでなく外部からも監視され、外部からの攻撃にも会社は責任を個人に押し付けるばかりか、それに対抗する労働組合もないに等しい(か、どうかは会社によって異なるかも知れませんが)現状は、国鉄つぶし(≒労組つぶし)に加担した多くの国民が望んだ結果であり代償なのではないでしょうか。

    タバコも、もう人前では吸えない世になりました。酒もタバコもコミュニケーションアイテムでしたが、勤務中、それも乗客の前ではもってのほかですね。デメリットばかりが強調されて消えていく文化にメリットがあったことを、失った後に気づく私どもは愚かです。苦情を受けたら、「まあ一服」とタバコを差し出して気分を落ち着かせるような対応も、もう聞きませんしね。
    乗務中の水分補給さえできなかったり、会社に報告しなくてはならないような世の中から変わらないことには、乗務員にとって厳しいことばかりで、仕事に誇りを持てなくなるばかりか、やりたくない仕事に挙げられるようになっていくように思います。今朝の朝刊によれば警察官の志望者が減っているとか。社会生活に欠かすことのできない重要な第一線で働く人たちが、誇りを持って働けるようにならないといけませんね。
    2015年08月08日 09:41
  • しなの7号

    <上のお二方への返しコメントの続きです>
    最近、私はよくスーパーに行きますが、投書コーナーがある店が増えました。その投書内容のくだらなさに呆れるものが多く見られます。これは駅員への暴力事件が増加しているのと同じで、客側に個人的な鬱憤が溜まりやすい世の中だからこそ、気に入らないことがあると、相手に対し攻撃的になるのでしょう。それをマスコミがおもしろおかしく報道するものだから、そういう風潮さえできてしまいます。そんなくだらない投書までも掲示せざるを得ないことにも疑問を感じます。いわれもない個人攻撃を受けた従業員の精神的苦痛を、店側はどうフォローされているのかと思って私は見ています。
    2015年08月08日 09:42
  • 平成駅務係

    はじめまして。関東私鉄で駅員をしております。
    就寝前の一杯が当たり前だった頃の話を、面白おかしく聞かせてくれる先輩方は、君は入社するのが10年20年遅かったねとよく言ってきます。
    私は国鉄時代を知らない世代ですが、しなの7号様の国民が望んだ結果という言葉に尽きるのではないかと思いました。
    日々納得いかないことばかりですが、善良なお客様や純粋なお子様との出会いを励みに頑張ります。
    2015年08月09日 08:08
  • しなの7号

    平成駅務係様 はじめまして。
    コメント投稿ありがとうございます。
    先輩たちの話を聞くと、あと10年早く生まれていたら…などと考えるのはいつの世代でも同じですが、今のほうがよいこともあって、国鉄で言えば3K職場であったのに、ハード面に限れば今の職場環境は格段の進歩をしています。
    そのかわり、仕事の密度は高くなり時間的精神的ともにゆとりがなくなってしまったのは労働者にとっては後退
    (=経営側にとっては前進 ∴労働者の地位の低下)

    稀にお客様からの感謝の言葉が一つでもあると報われるものですね。そして鉄道が好きそうなお子さんを見ると、こちらが癒されます。やはり純粋な子供を大人は見習わなくちゃと思います。そして大人に求めるべきことは、普通に事が運んで当たり前と思うのではなく、無事に事が運んでありがたいと感謝する謙虚な気持ちだと思います。これほど当たり前のように安全正確に動いている日本の鉄道会社の従事する皆さんに感謝と尊敬!!
    2015年08月09日 13:43
  • やくも3号

    こんにちは。
    設計職は長続きせず(というか会社勤めが性に合わず)、現在は教壇に立つ仕事を営んでおります。
    数年前に「”子供”は“子ども”と書かなくてはならなくなりました」ということでテキストが差し替えになったことがあります。
    例:
    大人x円 子供y円とする →大人x円 子どもy円とする

    聞くところによると、『供』という字が未成年者を見下しているとの意見があったようですが、また、今年から“子ども”は“子供”と表記してよいことになったそうで、従来の記述に戻った教科書も出てきました。
    また、昆虫のついた学習ノートが親や教師の『気持ち悪い』というクレームから販売されなくなったと思ったら、復活の要望が高くまた再販になりました。

    多くは語りませんが(←十分語ってるやろ)、なんか違うなぁと思うことが多いです。
    2015年08月16日 13:44
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    どこの世界も、首をかしげたくなることが多いですね。正しいことを教えるのが教職であるのに、朝令暮改のように正しかった常識が、一転してタブーになるようでは仕事もやりにくくて仕方がないですね。会社勤めだった私は、トップが変わったとたんに、同じようなことが人事異動のたびにあり、何が正しいのか見えてこないという生活を長年送ってきました。
    2015年08月16日 14:16

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