最初にお断りしておきますが、表題の列車に私が乗務していたのは荷物車です。ですから旅客車のことには触れていません。
先日は、その中央西線~篠ノ井線の昼行列車下り荷5043列車と上り(2836)~836~荷5044列車についてご紹介しました。その1往復はどちらも名古屋~長野間を8時間半前後かけて走る普通列車でした。夜行のほうは寝台車も連結された急行列車でしたが、それでも所要時間は下りが5時間30分台で、上りは6時間20~30分程度と、かなりの時間をかけて運転されていました。もちろん早く着きすぎても困るので、時間調整のため長時間停車する駅が何箇所もありました。現在、特急「しなの」で3時間前後で運転されているこの区間に、夜行列車があったこと自体、今となっては信じがたいような気さえするのですが、私が国鉄に就職した1976年(昭和51年)の中央西線には、夜行急行「きそ」が下り2本上り1本と、大阪からの夜行急行「ちくま」が1往復、それぞれ定期列車として運転されていたほか、季節列車や臨時列車の夜行急行が複数設定されていたのです。
私が乗っていた「きそ」は旧形客車で組成された列車でした。所定編成は以下のようになっていました。
【53.10ダイヤ改正時】
<下り>
中央西線~篠ノ井線 急客801列車
運転区間 名古屋~長野
乗務区間 名古屋23:55~長野5:32
(きそ7号)
EF64(篠)
スユニ 長ナノ(長郵21)熱田~北長野
マ ニ 長ナノ(長荷22)熱田~北長野
1 ハ ネ 名ナコ(名附20)名古屋~長野
2 ハネフ 名ナコ(名附20)名古屋~長野
3 ハ フ 名ナコ(名21)名古屋~直江津
4 ハ 名ナコ(名21)名古屋~直江津
5 ハ 名ナコ(名21)名古屋~直江津
6 ハ 名ナコ(名21)名古屋~直江津
7 ハ 名ナコ(名21)名古屋~直江津
8 ハ フ 名ナコ(名21)名古屋~直江津
塩尻~長野間逆編成で機関車は別運用のEF64(篠)
3~8号車は長野から信越本線325列車(直江津行)となる。
スユニとマニは名古屋まで荷2047列車。長野から北長野まで荷2045列車へ。
<上り>
篠ノ井線~中央西線 急客802列車
運転区間 長野~名古屋
乗務区間 長野23:20~名古屋5:50
(きそ6号)
EF64(篠)
8 ハ フ 名ナコ(名21) 長野~名古屋
7 ハ 名ナコ(名21) 長野~名古屋
6 ハ 名ナコ(名21) 長野~名古屋
5 ハ 名ナコ(名21) 長野~名古屋
4 ハ 名ナコ(名21) 長野~名古屋
3 ハ フ 名ナコ(名21) 長野~名古屋
2 ハネフ 名ナコ(名附20)長野~名古屋
1 ハ ネ 名ナコ(名附20)長野~名古屋
スユニ 長ナノ(長郵21)北長野~名古屋
マ ニ 名ナコ(名荷23)上沼垂~熱田
塩尻~長野間逆編成で機関車は通し運用のEF64(篠)
スユニは長野まで荷5802列車。
マニは
直江津まで荷4046列車
長 野まで322列車
北長野まで荷5341列車
長 野まで荷5802列車
名古屋から荷2040列車
座席車と寝台車は重量を表す記号が指定されていません。名ナコの普通車には当時ナハフ・オハフ・スハフ・ナハ・オハ・スハが混在し、寝台車はオハネフとスハネが配置されていました。座席車を、重量が重いスハやスハフばかりで組成しても、牽引定数以内で収まるから車種を限定しないという意味であろうと解釈できます。
資料をひも解きますと、801・802列車ともに当時の運転速度は「通客C3」で、これに対する名古屋~長野間で定められた定数は48となっていました。この列車の換算両数を、座席車は重いスハとスハフばかりであると仮定して換算両数を算出してみると、
(オ)3.5X1+(ス)4.0X8+(マ)4.5X1=40<48
となり、牽引定数に余裕があります。
出勤時刻は夜遅いので、普通の勤め人が家でくつろぐ時間に家を出なければなりません。出勤のために最寄駅から乗る列車は、人の流れとは正反対になりますので、いつもがら空きでした。車掌区に出勤しても、広い事務室内は閑散としていて、そこにいるのは、泊まり勤務の運用教導掛と、その日の乗務が終わって翌日早朝乗務するため、休養室で寝る前に一風呂浴びて浴衣姿でくつろいでいる人くらいでした。そうした中で出勤してきて制服を着て乗務員のたまり場にいるのは、この23:55発801列車「きそ6号」長野行に乗務する車掌長(客扱)・車掌補(客扱)・車掌長又は専務車掌(荷扱)・車掌補又は乗務掛(荷扱)の4人と、23:58発1915D「紀州5号」紀伊勝浦行の車掌長(客扱)・専務車掌(客扱)・車掌長又は専務車掌(荷扱)・車掌補又は乗務掛(荷扱)の4人、計8人だけでした。
(注)私が所属した車掌区の荷扱行路の場合、「車掌長と専務車掌」「車掌補と乗務掛」は乗務行路はそれぞれ共通で、仕事上もなんら変わることがありませんでした。荷扱行路に関しては専務車掌(荷扱)でなく車掌長(荷扱)の場合もありましたし、乗務掛(荷扱)でなく車掌補(荷扱)の場合もありました。
夜行「きそ」の場合、車掌長(客扱)は、翌朝長野に着いた後、午後の特急で名古屋まで戻る行路が組まれていましたが、寝台車に乗務する車掌補(客扱)1人と私ども荷扱関係の2人の計3人は、その日の夜まで長野で過ごし、再びその日の夜行「きそ」で名古屋まで戻る2夜連続夜行になる行路でした。
暦日3日にわたる乗務になりますが、往復とも急行なので勤務時間は短く、長野での滞在時間が長すぎる、単に間延びしただけの無駄な行路でした。
普通列車で長野を1往復する場合との勤務時間を比較してみましょう。
普通列車(13行路)の場合、2日間で19時間41分の勤務時間があります。勤務時間が多いですから翌日は通常非番日が設けられて勤務時間の調整が図られます。急行列車(14行路)の場合、3日間かけて、たった14時間43分しかありません。それでも3日間のうち初日は夜の出勤ですし、3日目は早朝の勤務解放になります。近所の人に言わせれば、「あの人ほとんど毎日昼間に家にいるけど、国鉄職員はいつ仕事をしとるんやろう?楽でええなあ」と言われるパターンの勤務です。
2夜連続の夜行とは言っても長野で一日中寝ているわけにもいかず、時間を持て余すことが多かったのですが、極端な事例として、ある人は「今日は稲刈りで忙しい。一番の特急で家に帰って稲刈りやって、また夕方戻る。」と言って帰宅した人がありました。夜長野に戻り「3時間くらいだけど百姓ができたわ」とのことでした。このようなことがあると、国鉄職員は農繁休暇があるのかとさえ思われたのかもしれません。
もちろん総合的な勤務時間の管理はされていたので、勤務時間の短い行路を持った組は、ほかに勤務時間が長い行路が組み入れられる結果となりました。
先輩から聞いた話になりますが、長野での時間つぶしの方法として面白いと思ったのは、長野始発の急行「すわ」「のべやま」に乗って過ごすというものでした。長野県内の駅名と位置関係を覚えられるから、新人の過ごし方としてはちょうどよかったといわれたその列車は、
<急行のべやま>
長野11:04-小諸-小淵沢-長野17:11
<急行すわ>
長野11:08-小淵沢-小諸-長野17:49
こんな循環急行で、それぞれ右回りと左回りになっていました。時刻は1973年10月のもので、私が就職する前の1975年3月のダイヤ改正時にどちらも廃止されていましたので、私がそういう過ごし方をすることはできませんでした。長野に早朝着いて、風呂に入り、早い朝食を食べてから乗務員宿泊所で寝ても、昼前には目が覚めますから、目が覚めたらこの急行列車に乗って、居眠りしたり、駅名の勉強をしながら長野へ戻ってこられるというたいへん都合よい列車だったと思われます。
長野での過ごし方は、人それぞれで、スキーをやる人は乗泊に寄らずそのままスキー場に直行し、午後乗泊に戻って寝るという人もいましたし、午前中に寝て、午後は行きつけのりんご農家へりんごを買いに行く人もいましたが、昼食を食べたら善光寺まで散策し、あるいはパチンコをして、夕方乗泊に戻ってまた寝るということが多かったようです。
私も、長野で特に有意義に過ごしたことは記憶になく、若い専務車掌氏と一緒になったりすると、善光寺へ2人で行ったりしたくらいのことです。
現在、新幹線の敷地になってしまったところには客車留置線があり、乗務員宿泊所からその構内の職員通路を通って表口(善光寺口)に行くのが便利でしたから、そこに留置されている車両が気になりカメラを向けたこともありました。
自分たちと同じ801~802列車で運用される寝台車2両も、そこで日中は暇を持て余していたのでした。
1978年(昭和53年)10月から、大阪~長野間の夜行の「ちくま」が、DC急行から12系+20系PC列車に置き換えられ、長野で20系の姿を見るようになりました。同じ急行でも「きそ」より断然格上に感じられました。
この記事へのコメント
DECO
この度、しなの7号さんにぜひ知っていただきたい書籍を刊行いたしますので、コメントさせていただきました。
(本日のブログ記事と関係のないコメントですみません)
書名『新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語』
本書は、新幹線の計画~開業を、当時の総裁・十河信二を主人公に描いたノンフィクション・ノベルです。
なぜ、十河は世銀借款に懸けたのか…。国鉄関東軍と呼ばれた男たちの500キロにも及ぶ用地買収の過酷さは…。ウソの半額予算1920億円とは…。未曾有の大事故“三河島”…。
すべては世界一の鉄道をつくるため、敗戦で失った自信と誇りを取り戻すためでした。
鉄道ファンのみなさまにぜひ読んでいただきたい一冊です。よろしくお願いいたします。
著者 高橋団吉
価格 1900円(税別)
発行 株式会社デコ
お求めは弊社ホームページ(送料無料・オリジナルしおり付き)
http://decoshop.shop29.makeshop.jp/shopdetail/000000000196/004/001/X/page1/recommend/
または全国書店(在庫がない場合はお取り寄せ可)をご利用ください。
しなの7号
急行おが1号
しなの7号様の車掌時代の勤務行程表を見ていると、本当に鉄道の車掌(運転手もですが)さんは「体力勝負」なのだな、と痛感しました。
国鉄時代は、白髪交じりの車掌さんを長距離列車で見ましたが、不規則な就寝や食事で大変だっただろうな、と今更ながら思います。
写真の急行きそ8号は、寝台車は夜までお休みのようですが、座席車は切り離されて、昼間もどこかに仕事に行かれたようですね。
しなの7号
このころの乗務行路は、分割民営化直前よりは密度の点から言えば断然ラクでした。それでも車掌は40歳過ぎたらやるもんじゃないとはよく聞いたものですが…。
801列車の3~8号車は長野から直通で普通列車信越本線325列車(直江津行)となり、おそらく日中に長野まで戻る運用だったと思います。
TOKYO WEST
しなの7号様も触れておられますが、10系と20系のB寝台車を比較すると外観もさることながら、台車、通路の椅子の有無、寝台灯の違い、車内の静粛性など多くの点で格段の違いがありました。
NAO
小海線にも循環急行があったのですか。たぶん自由席車のみの編成だと思いますが、もし指定席車が連結されていて、長野→長野といった指定券を所望したら変な目で見られたのでしょうか。長野-篠ノ井間は復乗となり、循環型片道乗車券は成立しないのですね。
鉄子おばさん
しなの7号
昭和53年7月といえば、すでに乗客案内の車掌補は廃止され、かわりに専務車掌が乗務するようになったころですね。
上りの利用は下りよりも少なかったと思います。私がプライベートで夜行「きそ」の寝台車に乗ったことはなく、座席車(スハ40)しか経験がありませんが、冬場の夜明け、窓からの隙間風がひどかったです。10系寝台の中段は「阿蘇」で体験しましたが、そのときも暖房の暑さと隙間風が同居していたような。20系は回送列車の停車中に車内を見せてもらったことがあるだけで、乗車することは一度もありませんでした。
しなの7号
国鉄の職場規律は問題になりましたが、私も、セーターにサンダル履きで出勤ということも珍しくなく、夜の出勤では、これから仕事に行く人だとは誰も思わなかったと思います。
長野発の循環急行はキハ57(58)3両だったようで、追跡記事は鉄道ジャーナル別冊列車追跡シリーズ4に収録されています。その記事によれば、長野発の連続乗車券(長野~篠ノ井・篠ノ井~長野)が用意されていたとのことです。経由欄のみゴム印対応として、客に右回りか左回りを確認してから経由のゴム印を押して発売していたらしいです。硬券だったのか軟券なのかは、記事から読み取れませんでした。
しなの7号
準公務員として兼業を認められていなかった安月給の国鉄職員には、明けで農業は普通でした。うちの父も同じで、空襲で勤務先の軍需工場が破壊され、戦後の再就職先として、仕事と農業が両立できる国鉄に入りました。当時の日本は農業だけでは生活できず、兼業農家が増えて「3ちゃん農業」(じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん)全盛時代でしたから、夜勤明けの若い男手は、家業と家計をを支えるための重要な役割で、家族の無理解とは別問題だろうと考えています。私の同期にもそうした大百姓の息子がいましたが、彼は苦労がたたったのか、若くして亡くなりました。
【195】H君のこと~明知線の車内補充券・381系最終しなの号
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201108article_7.html
鉄子おばさん
しなの7号
この年代は、仕事で一番つらい時期ですわなあ。
TOKYO WEST
そのときの旅行では、普通列車「南紀」のB寝台(天王寺⇒新宮間)にも乗ったのですが、寝台車の車掌補廃止後の暫定措置である「車掌(乗客案内)」の方が乗務していました。
うさお
しなの7号
ちょうど過渡期ですね。一時期車掌(乗客案内)時代があり、名鉄局の場合は、再教育の上で年齢で切って一部は専務車掌、大多数が普通車掌になられました。
しなの7号
朝の通勤通学輸送も兼ね、冬場はスキー需要もあったでしょうね。網棚にはスキー板がずらりと掛けられていました。
カレチになってから久しぶりに長野へ行ったら留置してある20系の向きが逆でした。ああ、塩尻駅開業でスイッチバックがなくなったからかと納得。車掌区も乗泊も南側でしたので、北長野方へ行くことがなく、どんな貨物を扱っていたのかは記憶してません。車掌補(客扱)については、TOKYO WEST様へのコメントのとおりです。
hicky
またこの写真ではわかりませんが、「きそ」と「はやたま」の寝台車で貫通扉にシャッターのようなものを取り付け、隣の車両に移れなくした改造車があった気がします。乗客の転落防止の意味もあったのでしょう。
しなの7号
旧形客車時代の「きそ」は、私が乗務していた関西本線の普通列車と共用されていましたから、当時はすべて電気暖房併設車で、制限はなかったはずですが、茶色のオハ35はどうかなあと思います。仕事場所が旅客車と隔離された荷物車オンリーですから、まったく気にしておらず、荷物の量などのほうに気が向いていました(~_~;)
門鉄局
旧客の急行きそ懐かしいです。私が乗ったのは昭和57年7月上りの名古屋行きでした。2両連結された10系寝台車以外青色のスハ43系で統一された美しい編成で手入れも行き届いていましたが、夜中に寒くて目が覚め「信州は寒い」と実感したことを思い出します。最後部のオハフ45でしたがガラガラで私と同行の友達でそれぞれ1ボックスを確保、3人分を使いエビのような姿勢で一晩を過ごしました。
この数年前に関西線の客車列車に乗車した時スハ43系青で統一され、同じ旧客でも茶・青が混じりオハ35系が主力の紀勢線との違いを感じたものでしたが急行運用の有無だったのですね、長年の疑問が解決しました。
しなの7号
夜行きその需要は荷客とも下りのほうが多かったと思います。私が未明の中津川から名古屋まで上りに乗った時も1ボックス占有できました。中央東西線は季節波動が顕著でしたから、いつ乗ってもガラ空きというわけにはいかなかったでしょうが。
深夜の木曽はものすごく冷えます。隙間風に巻き上げた雪が混じったりもしましたから、ひどい列車でしたね。
そうはいっても名古屋客貨車区では昭和50年まで急行阿蘇など本線優等列車の運用もありましたから、配置車両は旧客のなかでは比較的よい形式が残されたとも言えるのではないでしょうか。
ねこじゃらし
たまたま京都への旅行と言う女の子2人連れに声かけて えらいもりあがっつたり (急行の割には古い車両って残念がっつてましたが。)
私には 最高の思い出かも 旧型で乗車した唯一の急行でしたから。
その年の年末 スキーで 妙高高原から長野に向かう途中の列車が 直江津から長野までが (きそ号)の車両でしたわ。 (名古屋から 長野到着後寝台車を切り離し後 直江津行 直江津で留置してたはずです。
塩尻駅の方向転換 冬の寒さは半端でなかっつたので 隙間風なんか 想像に値します。
今では 高速道路の開通で大阪からでも4時間で信州入り 時代を 感じますわ。
しなの7号
1981年は、すでにこの列車には乗務しておりませんでした。
やはり上りは全体的に利用が少ない列車でした。冬場の隙間風は悲惨でした。165系ECでさえも木曽に入ると窓ガラスの内側の水滴が凍りました。
鉄道郵便車保存会 会長
夜行急行「きそ」は、上り下り1度ずつ乗車した思い出があります。鉄郵の駅駐在日勤を終えたあと夜行で松本入りし、大糸線の旧型国電とED60貨物を朝から撮る計画でしたが、「ちくま」が気動車だったので寝台に乗りたくて下り「きそ7号」を取りました。そのころは、みどりの窓口がない駅へ出向き、硬券指定券、寝台券で発行してもらい入手するのが常套手段で、その時もあらかじめD券寝台券があると確認して買い求めると、出てきたのはなんと出札補充券…。駅員いわく「名古屋松本間は200キロないから補充券。硬券は201キロ以上しかないよ。」と言われたもので、自分の計画の浅はかさを嘆いたものの、出補寝台券は生涯その1枚だけとなりました。その後は200キロ未満の寝台利用はないまま、やがてマルスしか買えなくなり、いまや寝台に乗ることじたいが難しくなりました。わくわくしたのは、EF64牽引列車の初体験であったこと。確かに寝台車の前にはスユニとマニがあり、多治見ではホームでリヤカーが横づけられ郵袋の受渡をしっかり見ました。しかし、その後は寝入ってしまい、車掌さんに松本で起こしてとお願いしていたので声をかけてもらい、できれば長野まで乗りたいと思いながら見送り、朝から大糸線を堪能したものです。硬券寝台券への未練は断ちがたく、翌年長野電鉄撮影後の上り6号長野名古屋間の硬券を購入して乗車し、停車駅でスユニを気にしながらも、塩尻からは熟睡しました。
その後は「ちくま」が客車になり、夜行の信州往復は20系に数回乗っています。最後に乗った中央線夜行は「スキートレイン焼額山」という臨時急行で、大阪名古屋間は稲沢機関区EF65貨物機、名古屋妙高高原間はユーロ塗装EF6466という、夢のようなリレーで、名古屋長野間は爆睡できました。(郵便車が気にならなかったからでしょう)
しなの7号
長野県と接するところに住んでいますと、もっぱら信州へは自動車利用になり、プライベートで「きそ」「ちくま」の寝台車はもちろん、夜行を利用して信州へ行く機会は一度もありませんでした。
大阪へ行く荷41列車の出勤時刻が6時台でしたので、通常は前夜車掌区に出勤して休養室で寝るのですが、前の日に遊び呆けて、朝の3時半ごろに家を出て上りの802列車(当時はきそ5号)で出勤したことが1度だけありました。出勤時刻の約30分前に着くのでちょうどいいですが、もし遅れたらアウトなので、これはリスクをともなう出勤手段でした。(上の複数のコメントで書いた乗車体験はその時のことです。)
鉄道郵便車保存会 会長
早朝発の荷物車乗務では、前夜泊まりと早朝出勤いずれも認められていたようです。
郵便車の場合、昔はわりと自由で、鉄郵の近隣に住むとか自動車、自転車、始発電車の出勤など人により様々やっていたようですが、私のいた時代は全員が前夜出勤する局泊まりで、全国的にそうだったみたいです。廃止記念の手記、文集には寝過ごし、遅刻欠乗の経験談がいくつか書かれています。早起きして夜行列車、始発電車で間に合うなら家で寝られていいのですが、列車遅延で欠乗!…ではハラハラしますね。昼間でもそういう不安で落ち着かないので、国鉄私鉄を問わず、私は局に1時間ほど早めに来て、周辺で撮り鉄したり、書店で鉄道本を立ち読みしたりしました。
しなの7号
荷41列車乗務の前日は非番日となっていて、勤務時間ではないので出勤の強制はできないながらも、原則的に前日職場に出勤して宿泊することになっていて、大広間に布団が人数分用意されていました。おそらく当直の助役や運用教導係は、新人で家も遠い私のようなものが来ていないと、ちゃんと出勤するだろうか?と、内心ヒヤヒヤしていたのでしょう。そういう他人の気持ちなど考えず、申し訳なかったなあと今になって思うものです。20歳前後のことで、恐いもの知らずだったわけで、のちに周囲の失敗談などを聞くにつけ、早め出勤をするようになりました。運よく?在職中に出勤遅延や欠乗は一度もありませんでしたが、それでも退職までには列車掛や車掌時代には横着をして、あわや欠乗となりかけたことがあり、それはブログにも書いています。