長野へは、就職当初の約3年間の荷扱時代と退職間際の3年間に、1か月に1回くらいの割合で乗務していました。
長野では、善光寺以外に行くべきところもなかったし、時間もありましたので、喫茶店にはよく行きました。
善光寺への表参道に当たる中央通沿いにある喫茶店「山と渓谷」
私は山屋ではないけれど、このネーミングは同名の雑誌からきているなと、そのロゴでわかります。マッチ箱にある「長崎屋」はとうの昔になくなりましたが、「山と渓谷」のほうは今でも営業しています。
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ホテルニューナガノ。このホテル自体は今も健在ですが、現在1階には喫茶コーナーの類はないようで、別の飲食店が営業しています。
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タイムは長野駅正面にあったビルの2階にあった喫茶店です。ビルは今でもありますが、喫茶店はありません。
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レオンは旧長野車掌区の目の前にあった喫茶店でした。
長野では1998年に冬季オリンピックが開催され、それに合わせるように新幹線も開通しました。その際に駅とその周辺も大きく変わりました。長野車掌区が入っていたビルは取り壊されてホテルが建設されました。「レオン」はどうなったのか。その後のことを私は知りません。
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下の「胡桃」も現況は?です。
荷物列車で長野へ来ていたころ、ここのマッチ箱は曜日ごとに色が変わるようになりました。たぶんモーニングサービスの時間帯だけではなかったかと思います。曜日別にコンプリート収集しようとしていたのですが、その途中で私は列車掛になって長野へは来なくなりました。中途半端に収集は終了となっていたのですが、別の車掌区に所属していた父が列車掛から荷扱専務車掌になって、入れ替わりのように荷物列車で常に長野へ乗務するようになりました。家で見覚えのあるデザインのマッチ箱がありましたので、父が所属した車掌区でも、胡桃は行きつけの喫茶店だったことがわかりました。そこでマッチ箱をもらってくるよう頼んでおいた結果、月~金曜日まで集まりましたが、土曜と日曜だけは収集できませんでした。土・休日は定休日とも考えにくいですのでモーニングサービスがなかったものかもしれませんが、そのあたりは不明です。
私は長野には親戚があるわけでもなく接点はなかったのですが、仕事で長野へ来るようになってから信州ファンになりました。
長野で折返しで暇があると、喫茶店のほかH書店の郷土出版物のコーナーにはよく行きましたが、そのH書店も今では駅前通りからなくなってしまいました。
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70年前の今日、1945年8月6日、午前8時15分、アメリカ陸軍航空軍第509混成部隊のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」から、Mk-1核爆弾「リトルボーイ」が広島に投下されました。
犠牲となられた方々に哀悼の意を表します。そして、そのどん底のにあったこの国の復興を支え、日本経済の成長に寄与すべく鉄道輸送に一生をささげた戦後の国鉄の諸先輩たちに感謝します。
この記事へのコメント
鉄子おばさん
しなの7号
喫茶店の屋号にも、オーナーさんには思い入れがあるのでしょう。客の方にも気になる屋号というものがある方も多いかもしれません。
マッチ自体が、時代遅れの道具になり果てましたが、貨物列車乗務のときはもちろんのこと、先週アップした寒冷地の荷物列車乗務の時にはストーブ点火のための必需品でした。
私は喉が弱いので早くに禁煙しましたが、飲み屋へ行った後や、法事の後に線香の煙でゲホゲホになります(*_*)
やくも3号
終戦の玉音放送が流れているときでもダイヤに従って列車が運行されていたことや、8月8日にはもう広島電鉄が動いていたことを聞くと、つらい状況になってもそれを真摯に受けとめ、自暴自棄にならず立ち上がろうと努力する日本人の『底力』を感じます。
自分が生まれた時には新幹線や高速道路はすでに当たり前のようにありましたので、経済の成長を実感したことはないのですが、景気の悪化や地震などの天災に見舞われた現代人においても「耐え難きを耐える」力は受け継がれていることでしょう。
ところで、『山と渓谷』で思うことですが、私の中では「昔の若者は山に登る」というイメージがあります。両親の学生時代の写真を見ると、みなタオルを首にかけ、山頂のモニュメントで肩を組んで楽しそうに写っているからです。
近未来では「昔の若者は車やバイクに乗る」とか「昔の若者はスマホやゲームをする」と言われるのでしょうか。
NAO
私も信州は好きですね。良い人と接することが多く、観光、乗り鉄で当たり外れがないように思います。
種村直樹氏の鉄道旅行術で列車待ちで1時間あれば駅との行き帰りで20分、20分、残り20分はコーヒーを飲んだりする時間に充てると書かれていたのを読んで以来、私も喫茶店にかなり立ち寄りました。またそんな内容のブログ記事を書いてみたいと思います。
しなの7号
日本人の『底力』を感じることはよくあります。
ただし、大きな犠牲を伴い「耐え難きを耐えた」ことも喉元通れば忘れてしまうことが多いことも、また事実ではないかと思います。世代が変わり、大切なところが伝わらずおざなりになってしまい、同じ悲劇が繰り返されたことは、明治・昭和の2回も大津波を経験した三陸にも言えるとも思いますし、原発廃炉までの道のりがあまりに遠い現実に目をそらすように、地震国に原発再稼働を推し進めるのも、私には信じられない感覚です。
うちの両親の若いときの話には、山どころか名古屋市内での度重なる空襲と戦後の食糧難の話しか出てきませんでしたので、世代が違うのかな?と思いました。しかし、宮脇俊三さんはうちの父母より年上なのに、戦前から山に登ったりされていましたから、そういうわけではなく、単にうちの両親は「学生」という身分になったことがなく挺身隊とか学徒動員に明け暮れていただけのスキマ世代だったと思われます。
私の場合、151系ECと20系PCが絵本にあり、東海道新幹線は夢の超特急という時代で、自動車を買ったころには中央自動車道が少しずつ延長開通しつつある時期で、給料も確実にアップしていきましたので、経済の成長を実感していました。ちょっとのことで、感覚が変わるものですね。
国鉄のことも忘れ去られていくのは必定ですが、少しでもここで伝えられたらと思っていますが、難しいです。
しなの7号
信州は中京圏から距離的に近いのに、昔は中京圏ににない雰囲気が漂っていました。山国の街や村の多くは山や峠で隔てられ、その境界がはっきりわかるところが多いのも好きです。相互に交通が不便なだけに、自給自足的なところがあって、例えば地元のみを販路とする中小地酒メーカーも多く生き残ってきました。また関東圏の匂いも感じましたが、現在は必ずしもそうとも言いきれません。
ちなみに私の乗り鉄1人旅では喫茶店でのコーヒータイムはあり得ず、酒屋かスーパー巡りになります。
北恵那デ2
しなの7号
変な収集癖はバレていることは承知しています(^_^;)
それでも収集物のうち嵩張るものはいろいろ廃棄しましたから、かなり減りました。マッチ箱を集める方はよくあったと思いますが、デザインのほか、ネーミング、フォントなどに時代を感じるものです。
駅前によくある「軽食喫茶○○」というドアを開けた途端たばこ臭い喫茶店も最近は減りつつありますね。郊外に大手スーパーが増えたみたいに、喫茶店も同じ傾向にあるみたいです。私は食事の際に箸袋も持ち帰るようにしているのですが、最近は割り箸がなくなりつつあり、箸袋もないことがありますので、お店の屋号とか何を食べたか誰と行ったかなどすぐ忘れてしまいます。箸袋に日付と同行者の名前をメモっておくと、記憶力が悪い私でもあとで箸袋をみて、いろいろ思い出すことができるのです。