荷5043列車で長野に着いた私たち3人(荷扱専務車掌又は荷扱車掌長1人と車掌補又は乗務掛2人)は、長野乗務員宿泊所で泊まり、翌日は午前11時半過ぎに発車する2836列車に連結されている荷物車(名荷24マニ)への乗務でした。長野車掌区への出勤時刻は発車前約1時間前くらいでしたから、早起きする必要はなく、かといってそんな時刻より早く目は覚めます。前夜、3人で寝酒を飲みながら、、朝飯はどこで食べるかなど、発車までの過ごし方を決めておきました。年明け最初の長野乗務だったりすると、初詣に善光寺でも行くか!ということもあり、少し早く起きて3人でぶらぶら歩いて出かけたこともありました。
駅周辺の喫茶店でモーニングコーヒーのあと、8時間以上の乗務に備えて、3人でスーパーへ弁当とお茶菓子の買い出しに出かけるのがふつうでしたが、昼と夜の2食分が必要でした。冷房のない車両ですから夏場は衛生上問題もありましたから、夕食は中津川でレチ弁(レチ弁については【260】レチ弁をご参照ください。)を事前予約することもありました。
こうして11時前に入線している列車に乗り込み作業開始となりました。その列車は往路の荷物列車とは違い、途中の中津川までは客車も連結された列車でした。
<1976年5月当時>(50.3ダイヤ改正ダイヤ)
長 野~松 本 2836列車
松 本~中津川 836列車
中津川~名古屋 荷5044列車
(EF64)
オ ユ 長郵20 長野~名古屋
マ ニ 長荷21 長野~名古屋(熱田)
(ワキ名荷251 長野~名古屋)
マ ニ 名荷24 長野~名古屋
マ ニ 名荷22 (上沼垂)長野~名古屋
オハフ 長21 長野~中津川
オ ハ 長21 長野~中津川
オハフ 長21 長野~中津川
※塩尻~名古屋間 逆編成
「ワキ」は往路の荷5043列車同様、当初は運用休止となっていました。
その後、北長野荷物基地開業により事実上の始発駅は北長野になり、長野まで荷5836列車を名乗る列車でしたが、北長野~長野間は、私どもが乗務する「名荷24マニ」は締切扱いでしたから、乗務開始駅は長野からのままでした。
上は「封印紙」です。
荷物室内に入る扉3か所(マニ50は2か所)の鍵穴に貼り付けられていました。乗務員は客車鍵で解錠開封します。画像には客車鍵を鍵穴に挿入したため穴が開いて破れているのがわかります。乗務するとき、このように破れた状態であれば、誰かが荷物室内に侵入した可能性がありますので、盗難被害に遭っている恐れがあります。その場合は「封印異常」という荷物事故になります。
列車(荷物車)は、終着駅のほうも、1977年3月には名古屋から荷物基地がある熱田に延長されました。こちらも当初は名古屋~熱田間が締切扱いでしたが、のちに1978年10月(53.10)からは、終点の熱田までの通し乗務に変わりました。また、このダイヤ改正から、松本で列車番号が変わらなくなり、長野から中津川まで836列車に統一されました。運転時間帯や運用が変わったわけでもなく、理由は不明です。
私どもの乗務車両「名荷24マニ」の乗務員室。画像の人物は、就職したときにマンツーマンで仕事を教えていただいた方で、私が最後にこの列車に乗務した日の撮影です。
撮影の日から約3年前、この行路の見習乗務のとき、姨捨で、この方から「若い衆!これがリンゴの花だぞ」と教えていただいてから来年で40年です。そのときすでにお孫さんがおられ、私の父より年上でしたから、今はご健在でおられるかどうか…
今さらではありますが、お礼を言いたい気持ちです。
この名荷24の積載方は単純明快で、
「荷物 ただし小野以遠着を除く」
というものでした。中央東線方面以外は積載範囲内着中継荷物であればすべて積むことができるわけです。すぐ後ろに連結されている名荷22マニも同じ積載方になっていましたが、私どもの車両には往路の荷5043列車のときのように、事業用の通袋の輸送指定がされていました。そして、往路同様に、昭和53年10月のダイヤ改正以後に中津川から先の小駅発着荷物がトラック代行輸送に切り替えられると、積載方も「美乃坂本~土岐市間着中継荷物は中津川中継」「高蔵寺~勝川間着荷物は多治見中継」と変わり、中津川を出ると名古屋までの中間駅では、多治見を除き、郵便車だけのための停車になり、荷扱はしなくなりました。
(日本交通公社版1978年4月号時刻表を加工のうえでの引用画像。この画像は、時刻が判読できる程度に元画像を大きくしました。)
この列車には、私どものほか、長野の専務車掌(客扱)が乗務したほか、他の2両のマニのほうには、長荷21に松本から松本車掌区、名荷22に長野から長野車掌区の荷扱乗務員が、それぞれ2~3人ずつ乗務しました。各車の荷物積載方も似たようなもので、中央東線方面の荷物は除かれていました。こういう体系ですと、せいぜい数個程度の発送荷物しかないような小駅では、定期便として必ず授受する必要がある事業用の通袋の輸送車両に指定された私どもの車両に荷物が「ついでに」積み込まれる結果となります。こうなると同じ列車で3両に別々の車掌区の乗務員が乗っていますから、車両ごとの仕事量の多少について不平不満が出てくるものです。
画像はこの列車のものではありませんが、列車に載せる1個だけの荷物と、右に事業用の通袋が見えています。
松本・塩尻といった大駅ではどうかというと、荷物の絶対量が多いですから基本的には各車に分散して積んでくれます。駅側は、荷物を積んだ何台もの台車を、あらかじめ各荷物車の停止位置付近に分散させておき、それぞれの荷物車に続々と積み込みます。しかし荷物が積み終わったと思っていると、別の荷物車の停車位置に置いてあった山積み荷物の台車を、こちらに向かって押してくる駅員の姿が見えたりします。駅員が、その車両の乗務員に満載だから他車に積んでくれと断られたのです。
「もう一杯行くで!」
「え~っ、もう満載だで後ろか前へ頼むわ」
「前の車でも満載だって言われたわ。まだ積めるずら?」
駅としては滞荷にはしたくないので、何としても積み込んでしまおうとしますし、乗務員にはタライ回しにされて頭に来ているのがわかります。
このようなケースは、他列車でもよくあり、「○○車掌区は仕事せん奴ばかりやな」と、内輪でブツブツ言ったりしたものですが、まちがいなく同じようなことを相互に言っていたのでしょう。以前紹介した東海道本線の荷41列車や関西本線224列車のケースでは、同じ列車に同じ車掌区の担当車両2両ありましたから、時には応援に駆け付けるなどお互いに協力したものですが、相手が他の車掌区だとそんなものでした。
実は昭和50年代前半の荷物列車では、ダイヤ改正のたびに各線区の荷物列車で「1列車1車掌区」の乗務体制が推進されてきました。しかし、その理由は作業上臨機応変な対応を可能にするためではありませんでした。そのころの国鉄当局は、荷物車車内業務は将来的に業託化し、それも「1列車1組」だけの乗務体制にすることにして、その他の車両は締切化とパレット輸送で対応しようとしていました。そういう前提から察するに、業託化で車掌区単位の人員整理がしやすかったのだろうと私は思っています。業託化は私が車掌になってから実施されたことなので、その時期と実態は正確にはわかりませんが、名古屋鉄道管理局では1982年あたりから始まったものと思います。そのころから車掌区へは国鉄の制服でない人が出勤印を押しに現れるようになり、車掌のほうは業託乗務員の乗務確認の業務が増えました。
この列車でも、私どもは冬場に灯油ストーブと魔法瓶を持ち歩きましたが、長野鉄道管理局の荷扱乗務員たちは灯油ストーブではなく練炭コンロとヤカンを持っていました。それも冬だけではありませんでしたから、おそらく車内で冬場に暖を取る目的だけでなく、食事や水分補給のための湯を沸かす目的もあったのでしょう。私が車掌になった後、SLが引退して10年以上も経っていた時期だったのに、勝川駅の跨線橋下や上下線間のバラスト上に灰が捨てられ放置されているのを、いつも通勤や乗務の列車から目にしました。それは、この列車の荷扱乗務員たちが最後の停車駅である勝川停車中に、捨てていったものであることを知っていました。そんなことを知っている人はいないだろうと思いますし、勝川駅は、高架駅になりましたから、もちろん今はそんな痕跡はありません。走る列車もすっかり変わってしまい、その思い出を共有する人もなく、私ひとりの思い出にすぎません。
この記事へのコメント
NAO
ひとつの列車に3箇所の車掌区乗務ですか。荷物のたらい廻しって、笑ってはいけませんが、クックックとなりました。
客扱いはカレチさん乗務だったのですか。客車列車は長距離運用が多いからなのか、確か普通列車でも乗客専務腕章の方をよく見ました。一度、鉄道ジャーナルだったっか根室本線の旧客列車でレチチさん2人乗務の列車追跡記事を読んだことがあります
しなの7号
荷物列車では繁忙期には駅のホームでは台車が右往左往して列車が遅延することがよくありました。
普通列車でも長距離乗務ですと普通車掌の乗務エリア外に及びますから、専務車掌班の行路に組み入れられていました。
鉄子おばさん
しなの7号
レチ弁どころか、構内営業の弁当業者さんが、非常に少なくなってしまい、ターミナル駅以外、駅弁は絶滅するのではないかと思うほど供食事情は変わりましたね。
キンキンに冷えたビールが飲めないから、アイスクリームなのでしょうか?
制服で買い物…国鉄末期にはけっこう周りに気を使いました。
鉄道郵便車保存会 会長
コメントほ【606】からこちらに移らせていただきます。
荷5043列車乗務の折り返しとのことで、長野の折り返し時間もゆとりがあるようです。郵便車ですが、別ページで紹介した名古屋長野線上り時刻表
http://oyu10.web.fc2.com/jikoku-meinagaue.jpg
に名長上り1号があります。ここではずっと後の時代で、北長野~長野間荷5844列車、長野~名古屋間荷5044列車となっていますが、時刻がほぼ2836~836~荷5044列車と似ていますから、後年に長野~中津川間が荷物列車化されたことで、本稿で示された編成の「長郵20」が当時の名長上り1号なのでしょう。当時すでに中津川多治見間の中間駅が郵便停車だったようで、郵便車だけは59・2で廃止されるまで、時刻表のように沿線各局と受渡をしていたようです。特に岐阜県坂下以西は郵便局の当日最終窓口締めとポスト回収が入り込む「かっさらい便」となり、繁忙を極めたと推察します。その点でもオユ10全室車を充てるのに適切な列車ではなかったかと思われます。時間帯ゆえ、各駅の小荷物も多めに積まれたのではないでしょうか。
しなの7号
2836~836~荷5044列車では、以前に関西本線の224列車のところで書いた弥冨の金魚のような終点間近の大量積込がある駅もありませんでした。塩尻を過ぎれば主要幹線が分岐しているわけでもないので多くの停車駅から少量ずつ積まれて名古屋に近づいていくうちに、気がついたらけっこうな量の荷物になっていたという印象で、時間に追われたり、積載スペースを予め確保するための算段をするようなことはありませんでした。
53.10で中津川以西の中間駅が代行化されてからは、中津川を出ると荷扱する駅は多治見だけ(いわゆる郵便停車となる土岐市までの荷物は中津川卸しで、高蔵寺より先の通過駅着の荷物は多治見卸し)でしたから、多治見駅で積み込まれた分を、熱田中継を方向別に仕訳けてしまえば、事実上仕事は終わりでした。
荷5041・荷5044列車の一部区間に併結されていた旧形客車が荷物車と分離され電車化されたのは57.11ダイヤ改正でした。
鉄道郵便車保存会 会長
やはり郵便物と小荷物では車内の盛り上がり方に多少の違いがあるようです。
もし、中津川~多治見間の郵便受渡停車がなく、沿線各郵便局で夕刻締めした郵便物を中津川局、多治見局に集約して列車に積み込むならばこのダイヤでは間に合わず、もう2時間ほど遅く運転してもらわないといけなかったことから、荷5044列車の各駅受渡が適していたことになります。
それにしても、岐阜県の坂下駅で、坂下局と長野県山口局が受渡とあり、ちょっとびっくりです。全国各地で1つの駅に2局3局が来て受渡するのはいくつもありましたが、県境をまたいだ駅で受渡したとは…。地理的に坂下駅が近かったからと思われますが珍しいケースでした。59・2で名長便が廃止された後は自動車化され、坂下局は中津川局から、山口局は木曽福島局から中継されました。
しなの7号
53.10では、郵便輸送と荷物輸送の間で輸送方式の乖離が目立ってきたように思いますが、その背景には国鉄の赤字がありましたので、人件費削減を優先し急速に合理化が進められていった結果かと思います。53.10はその手始めであり、私が荷物車の乗務から離れた時期は、その過渡期だったことになります。
坂下駅は木曽川右岸にあり岐阜県(当時は恵那郡坂下町)に所在しますが、木曽川の対岸は当時長野県木曽郡山口村でした。生活圏が岐阜県中心だった山口村は、のちに岐阜県中津川市に越県編入され、坂下駅がある坂下町も岐阜県中津川市に合併した結果、現在は両者とも中津川市であることは以前にコメントで書いたと思いますが、山口村が岐阜県へ編入された時に郵便番号も変わっているようですね。
鉄道郵便車保存会 会長
郵便輸送では、小規模局を自動車代行化して拠点局で鉄道便受渡に変えても人件費の大きな削減にはならなかったと思われます。やはり59・2の扱い便廃止と郵便線路の多数廃止が決定的でした。
山口村、山口局の推移を調べました。岐阜県に編入され、郵便番号は坂下局と同一になり、つまり坂下局集配区域内になったようですね。
さて、荷5044列車の荷物車3両とも小野以遠中央東線宛て荷物が除かれていたというのはちょっと意外ですが、先の名古屋長野上り便時刻表から推測すると、2836列車に先行する432Mにクモユニ車があり、これがそのまま塩尻から新宿に直通していたので、小荷物も小野以遠はこれに積載されたと思われます。名長上一号には小野以遠を絶対積むなとまでは指示されなくても、塩尻で夜行の442M(東塩上三号)に積み替えとなったでしょう。
しなの7号
中央東線の荷物車運用は存じませんが、乗務していたころ長野駅に横須賀色のクモユニ82やクモニ83が停まっていましたので、長野(北長野)から旅客電車列車併結で直通運用されていたと思われ、荷物輸送は西線直通荷物列車とは分離されていたのでしょう。東線も荷物専用列車化がされていれば、松本か塩尻で荷物列車の分割併合があったのかもしれませんね。
鉄道郵便車保存会 会長
東線のヌシであったクモユニ82・800台の改造が1966年とあり、クモニ83・800台ともども客車の荷物郵便輸送を電車化しています。郵便車(東塩便)は3往復で、うち2往復が電車併結のまま長野に直通していました。これらはクモニ+クモユニのペアで、荷物車は1両半あり、しかも、新宿甲府間にもクモニ併結列車が複数あったので(郵便車時刻表に託送便を明記)、1列車あたりの荷物車は少ないながら、電車の高頻度輸送で需要に応じていたようです。そのため、客車併結から荷物列車化された西線とは違った輸送形態となり、最後まで電車のまま続けられたのではないでしょうか。
しなの7号
篠ノ井線松本以北が電化されたのは、中央西線の全線電化(=客荷分離)と同じ1973年です。中央東線~篠ノ井線松本電化から約10年も後になる1975年(50.3)まで中央東線にも客車運用が残っており、おそらく松本以北に直通する荷物車はその客車列車に併結されていたものと思われます。篠ノ井線が全線電化されたあとも中央東線では客荷分離されることなく、50.3の中央東線普通列車の完全電車化まで、電車列車併結の荷電と客車列車併結のマニが併用されていたのでしょう。
郵便については知るところではありませんが、Wikipediaによると、クモユニ82の800番台に続いて1974年改造の0番台(82000~82005)は、篠ノ井線電化による増備車とありました。ところが前述のように篠ノ井線松本以北の電化は、その改造前年の1973年でしたから、50.3ダイヤ改正による中央東線~篠ノ井線の電車化対応車両だったのではないかと推定します。
鉄道郵便車保存会 会長
50・3以前の時刻表が手元になく、東線のクモユニが早くから長野直通だったかのような記述となりました。篠ノ井線電化以降の状況であることを付け加えさせていただきます。
50・3までの東線客車列車併結マニが電化により荷電の長野直通に置き換わったことで、長野対東線の荷物輸送は継続され、長野対中央線の荷物車は、西線、東線それぞれの方向に限定した積載方になっていたものと理解します。そこから考えますと、50・3以前も東線の客車列車に郵便車はあり、塩尻長野間を直通させていたのではないかと推定しています。
本年も連日のブログお疲れさまでした。そして、いろいろとご教示いただき、ありがとうございました。よい新年をお迎え下さい。
しなの7号
いきなりNゲージ模型の話になりますが、KATO「10-1320 スハ32系中央本線普通列車7両セット」なる商品があり、説明書の実車紹介文には「昭和45年(1970)頃における新宿発23:55の客車による普通列車~(以下略)」とあります。セット内容は、長野方からマヌ34・オハフ33・スハ32(2両)・スハフ32、・スユニ61・マニ60となっていまして、松本電化後の蒸気暖房時代を再現しています。模型のスユニとマニの車体には運用番の表現はありませんが所属表記が「長ナノ」と印刷されています。これが50.3でクモユニとクモニに置き換えられたということでしょう。
毎日のブログ更新は終了しましたが、今後も国鉄時代の荷物輸送や貨物輸送の復習をして記憶の発掘をするだけでなく、知らなかった事実も解明していきたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
鉄道郵便車保存会 会長
本年もよろしくお願いいたします。
中央本線普通列車7両セットですが、暖房車が付くとは味わいがありますね。牽引機は何だったのでしょうか。荷物車1両半、郵便車半室は、電車化でも同じ輸送量だったのでしょうが、このスジ(東塩下り三号)はこの区間の繁忙便だったようです。
しなの7号
松本電化のとき、東線の客車列車の牽引機はEF13でしたから冬季に暖房車が必要ですね。
そのとき東線の一部電車化にあたって、在来形式のクモユニ74ではなく郵便室の割合が大きいクモユニ82が新形式で起こされたことでも、東線の郵便輸送量が多かったことが想像できます。クモユニ82に仕事で関わったことはありませんが、800番台の郵便室は区分室が広く荷重4トン(スユニ61の荷重を維持)に対し荷物室はわずか2トン積(クハユニ56でも荷物は3トン)で荷扱乗務員室もありません。トイレの位置は郵袋室と区分室の間にあって荷物室側で使用できない位置関係にありますし、この小さい荷物室の使い勝手はどうだったのかと???
鉄道郵便車保存会 会長
クモユニ82・800台は、郵便車研究の面からは珍車の部類に入り、一見してクモユのような外観、構造でありながら、車端のわずかな荷物室があるために国鉄所有の合造車となったもので、旧型国電の足回りに新製車体を載せたがゆえ、新性能車、郵政省所有で冷房付きのクモユ141等とは違った存在となったものです。荷物室と言っても、片開き扉と車端側のわずかなもので、全室郵便車だとここは乗務員開閉郵袋といくらかの締切郵袋を積み降ろし、保管をする場所で、小荷物室を積載して立入禁止になると、乗務員郵袋も反対側の郵袋室から積み降ろし、区分作業室にバケツリレーしなければならず、不便なことこの上なしといったところです。
当会がホームページに公開している東京松本線(以前は東京塩尻線)時刻表(58・3改正)では、クモユニ82・800台が使用されているのは424M(東塩上り一号)~439M(東塩下り二号)と判断できます。理由は車室面積が「1.0」となっているからで、0番台が追加製作されて以降はこの仕業に充当され、他の2往復(長野直通)は面積が「0.5」となっているので、0番台が充当されていたものと思われます。この時点では、800台の荷物室も郵政が借り受けて全室郵便車として使用していたと考えられます。
なお、乗務員OBの証言では、これよりも前の時期、この2トン荷物室に国鉄が小荷物を積載していたため郵便室として使用できなかった列車もあったそうで、その際は積載後に施錠され、荷物乗務員はいなかったそうですから、締切便となっていたようです。仮に乗務員が乗っていたなら、運転室以外に居場所はなく、ガラス扉の仕切りだけで郵便車乗務員が作業する区分室とがお互いまる見えで、どんな光景となったものでしょうか。
しなの7号
なるほど。クモユニ82が0番台と800番台とで区分して運用されたという発想はありませんでした。800番台が単に低屋根車というだけでなく、車内のレイアウトが0番台とはかなり違うので変だと思っていましたが、西線では長ナノのスユニ61とスユニ60が共通に運用されていましたし、クモユニ82の0番台にしてもPS23形パンタだから共通運用だという先入観がありました。
それと今さらながらクモユニ82の800番台の荷物室を郵袋室に変更すると車内レイアウトがクモユ141と同形式のように酷似していることにも気が付きました。
クモユニ82の800番台の荷物室は郵便荷物が共用できるスペースと考えるべきで、やはり荷物室としての用途は補助的で締切輸送程度しか使えなかったんでしょうね。ご教示ありがとうございました。
鉄道郵便車保存会 会長
郵便車乗務員にとって荷物郵便合造車というのは郵便室が半分というのが常識であり、どうしてこうも奇妙な車両があったのか、理解できずにいます。
さて、文中で郵便車乗りには信じられないのが、駅員が小荷物の積込み予定車両を変更して他の車両に持っていくということです。満載なので仕方なく他の車両に…といったところでしょうが、郵便車では起こり得なかったことです。
と申しますのが、山陽本線荷物列車の多くで扱い車と護送車を連結していましたが、各駅の郵便局が、各車両に積込む郵袋は決めており、郵袋と共に交付する送致証には個数はもとより郵袋宛先まで正確に記載されていました。年末の大阪や岡山などでは現実に満載で積込み困難という事態はありましたが、書面どおりの郵袋が積まれる以上、物理的に車内に入るのなら受け入れなければならず、便長が駐在に「もう入らんがな」と言うも「まだ積めるずら」と言われる間もなく郵袋を押し込まれることは日常茶飯事だったものです。車両ごとだけでなく、各車のドアごとに横付ける郵袋台車は厳密に決まっており、締切郵袋積載位置をみだりに変えられないからですが、護送車では臨機応変というか、片方の郵袋室がパンクしたときは反対の郵袋室で受け入れたことはあります。ですから、他の郵便車の郵袋を持ってこられる心配はなかったものの、車内の限度を超えそうな台車山積みの郵袋は恐ろしくもありました。駅ごと、列車ごとの積込み郵袋限度数を示す「定数」があり、年末繁忙期では多めに設定されており、「計算してあるから車内に入るはず」という、当局が机上で決めた数字は現実では通用せず、休憩室や車掌室に押し込んでその場を乗り切りました。
しなの7号
関西本線荷44~224列車のコメント欄で、荷物車では生花と新巻鮭の例で個数による制限は通用しないことを書きました。中央西線の上り列車は特に季節波動による荷物数の増減が著しいだけでなく、種類も季節ごとに変わり、生花のようにかさばる急送品の割合が一時的に集中し、300個も積めばすぐに満載になってしまうような時期もありました。この列車のように複数扱車があり両者の積載方指定が共通する場合、駅では荷物台車単位で按分積載をしてくれますが、片方の荷物車が満載になれば積めなかった分は当然もう一方に追加分として積み込まれ、受授証は個数欄を訂正して交付されることになります。満載で積み込めなかった荷物は駅で台車ごと滞留させることになったのでしょうが、郵便は駅に大量に持ちこんでも列車に積み込めなければ駅から局へ持ち帰らざるを得ませんから、積載可能な量を郵袋の数を定数として予め管理しておくことは必要だったのだろうと部外者には思えますが如何でしょう。
鉄道郵便車保存会 会長
やはり小荷物で積込み個数を増減させると「受授証個数欄訂正」が付きまとうのですね。
郵袋でもやむを得ない原因(例えば車室パンクの積載不能)などあれば、そうせざるを得ませんが、私の経験上は、かろうじて飲み込み、車中で格闘して事なきを得ました。
仮に積込みを減らせた場合に送致証はどうなるのか質問したことがありますが、駅の停車時間内の訂正は不可能なので、便長は所定の記載で受け取って郵袋を処理し、駅の鉄道郵便局又は沿線局が積めずに残した郵袋の個数と宛先局を確認すると、どこ宛てを何個積んだかが後刻に判明するので送致証を作り直し、当該乗務員の所属鉄道郵便局に電話で明細を速報すると共に、作り直し送致証を送付し、受けた鉄道郵便局は便長が提出した送達証の固まりと総個数受払表を精査して車中で受払が一致したことを確認して問題解決としたそうです。
中央西線小荷物に季節波動があったように、特に東門便(東海道山陽線荷物列車)では各地で季節ものの小包(果物やそうめん)が発生したので、定数の設定では、平素の郵袋数調査結果に季節の動向を加味していました。数字管理上では駅間ごとの在車郵袋数を予測して乗務員の過度な負担とならないよう計画して定数を設けるのですが、繁忙期にこれを上乗せする根拠は昨年の実績によるところが多く、机上と実際が食い違うと車室パンクを引き起こしました。そのため、乗務員から随時の過度積載区間の報告を受け、定数の削減、自動車代行便、コンテナ締切便へのシフト、はたまた駅小荷物積載指定に当たる、駅(局)別の積載方面限定の指示を細かく出すことで対応していました。
しなの7号
荷物車では貴重品、列車指定荷物、報道用原稿など一部の特殊な荷物以外は1個ずつ切符の番号と受授証とを照合することはなく個数管理でしたから、追加があれば停車中に相互の受授証の個数を訂正するだけでした。
中元歳暮の時期に荷物量が激増するのは誰が見てもわかると思いますが、夏が過ぎてもブドウや梨、生花、その後もリンゴ・みかんと、年末まで荷物は多かったという印象を持ちます。春は転勤の布団袋。そのあと中元時期までは目立ったピークはなかったように記憶します。