【612】 北恵那鉄道15:北恵那鉄道の想い出

北恵那鉄道のシリーズ記事は、廃線跡の記事から4年も中断してしまいましたが、再開します。しばらく木曜日に続けていきたいと思っていますが、ご覧の方の大多数が、この鉄道に対して馴染みはなく、想い出をお持ちの方は数少ないと思います。この鉄道が廃止になったのは1978年ですから、それも当然で、私が国鉄に入って2年目の年でした。できれば、ご自身の鉄道趣味の取り組みと重ねていただいたり、今時の中小私鉄の実態とは違うことを感じていただいたり、あるいは、昭和の私鉄を模型鉄道で再現するときの参考として、ご覧いただけたらうれしく思います。
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なお、言い訳になりますが、私は北恵那鉄道とは関係がない者ですので思い違いもありましょうし、記憶が不確かなところもございますので、ご指摘等ございましたらご教示ください。また、記載内容についての問い合わせなどで、現在も路線バス事業者として存続している北恵那交通株式会社様にご迷惑になるような行為は、固く慎んでいただきますようお願いいたします。

以前の北恵那鉄道関係の記事(1~14)は、画面の下部にある「ブログ内ラベルリスト」内にある「北恵那鉄道」をクリックして記事を抽出できますが、記事を書いてから年月を経ておりますので、廃線跡の状況には変化があると思われますので、ご承知おきください。

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私が中学生のとき、鉄道ファン誌1971年(昭和46年)12月号のREPORT記事に地元北恵那鉄道のことが「北恵那鉄道廃止決定」というタイトルで掲載されました。その記事によって、私はすっかり見なくなって廃車解体されたものと思っていた車両たちが、終点の下付知駅にまだ放置されていることを知りました。カメラを持つようになって間もなかった私は、その記事に刺激され、廃止前にその姿をもう一度見て、撮っておかねばという気持ちで、さっそく電車に乗って下付知駅へ向かいました。幸い北恵那鉄道は、その雑誌記事が出た後、すぐに廃線になることはなく、翌1972年から昼間の運行をバスに転換し、朝晩だけ走る鉄道になってしまいましたが、とりあえずは生き延びたのでした。
その後、私は中津川市内の高校へ進学しました。同級生のうち、約4分の1は北恵那鉄道沿線在住者でした。大雨や大雪の日には、北恵那鉄道での通学者がそろって遅刻ということが何度かあり、それは列車の遅延であったり、崖崩れなどで一時不通になったことが原因でした。
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(中日新聞東濃版1974年7月6日朝刊)

このような状態であっても沿線住民には欠かせない足として親しみがあったのか、居住地区別に東西南北の4軍に分かれて競われる高校の体育祭では、北恵那鉄道沿線在住生徒が中心になって構成される北軍の応援合戦に、毎年のように生徒たちが手造りした電車のハリボテが登場してグラウンドを練り歩いたものでした。そこで歌われるのは「北恵那唱歌」なる鉄道唱歌の替え歌で、「僻地、僻地の下付知~、オンボロ稲荷を通り過ぎ~、田瀬の駅は無視こいて~」と各駅名が下付知から順に歌詞に織り込まれていました。ちなみにこの替え歌は、「替え歌の替え歌」で、本家の北恵那唱歌?は存在します。

私が高校へ入学したときは、中央西線ではD51形蒸気機関車が最後の活躍をしていたころでした。学校からの下校時には国鉄の中津川駅や機関区あたりに寄り道をして、機関車の様子を確認していたのですが、D51が電化によって見られなくなると、北恵那鉄道の中津町駅のほうへも足を向けるようになりました。
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北恵那鉄道の中津町駅は、国鉄との連絡駅ではあるものの、国鉄中津川駅と隣接しているわけではありませんでした。国鉄から北恵那鉄道に乗り換えるためには、いったん国鉄駅の改札から駅前広場に出て、街中を左に右にと何度も曲がりながら歩き、国鉄駅構内のはずれをアンダーパスして駅裏に出るといったコースをたどらなくてはならず、北恵那鉄道の始発駅である中津町駅とは徒歩による乗り換えには6~7分は必要で、両駅は不便な位置関係にありました。

その中津町駅は役場か学校のような木造2階建の駅舎で、駅機能が1階にあり2階は本社になっていました。ここには車両基地も併設され、駅裏には製紙会社の工場が隣接していました。この工場へは国鉄の貨車が乗り入れており、国鉄との貨車の受け渡しも北恵那鉄道の電気機関車又は電車によって連絡線を経由して行われ、構内では入換作業が行われていました。
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しかし本線のほうは、すでに日中の運行は休止となりバスに転換されていた時期でした。夕方の下り始発列車は16時15分発で、この列車は下校する学生たちのための列車でした。このころに全区間2両で運行されたのは、この列車と朝の上り列車の1日1往復だけで、その他の列車はほとんどが単行運転でした。(最終期には、その次の下り列車も途中の美濃福岡まで2両)
2両編成の場合、学生たちは、先頭車に男子が、2両目には女子が、それぞれ分かれて乗車していたという話を聞いたことがありますが、いかにも田舎の電車という気がします。
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このころに、私と行動を共にしていたのは、拙ブログにもコメントをくださる同級生「北恵那デ2様」でした。北恵那鉄道の話のときに「北恵那デ2様」と呼ぶと、話がわからなくなってしまいそうなので、北恵那鉄道の記事本文中では「北さん」とお呼びすることにします。その北さんと、午後の始発を見送り、構内に休んでいる電車の様子をいつも見ていたものです。
私たち2人には、こじんまりとしたこの車両たちを16番の模型で再現したいという思いがありました。模型を作るために車両の図面があれば精巧なものができるだろうと考えた私たちは、車両の図面を見せてもらえないかと駅で尋ねたことがありました。そのときは、学生服を着た高校生たちの単なる趣味のお願いであるのにもかかわらず2階の本社に案内され、ソファに座らされ、お茶まで出てきたのには驚きました。私たちは、それまでも何ヵ所かの国鉄の機関区で、写真を撮るための立ち入り許可をいただくために、事務室を訪ねることがあったのですが、そんな応対をされたことはありませんでした。
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そこでは、主要な形式の竣工図面を、青焼きと呼ばれる湿式コピーで1枚ずつコピーしていただきました。応対してくれたのは、きっと総務関係の方だったのでしょう。車両について細かいことを聞こうとすると、そういうことは車庫のほうでないとわからないということで、車庫の詰所を紹介していただき、そこでは知りたかったことをお聞きすることができ、そのあとも、学校の帰り道に疑問点を聞くために直接車庫のほうへお邪魔するようになりました。ときには車庫の中にも入れてもらい、入庫中の電車に乗せてもらったこともありました。画像は車庫に留置された電車内から見た駅構内です。今では考えられないことです。
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そこで聞いてきたことは、今後のブログ記事の中に織り込んでまいりますが、いただいた図面のコピーは、同じものが、のちにRM MODELS誌の北恵那鉄道関連記事の中で公開され、その内容はそのまま「RM LIBRARY 32 北恵那鉄道」に引き継がれご覧いただくことができますが、現在は電子書籍版しか入手できない状況です。


この1冊で北恵那鉄道の全容がわかり、バイブル的な書籍だと思っています。
なお、ここに収録されているのは竣工図面で、手書きによる、かなりラフなものなので、建具をはじめとするパーツ類や部分的な長さを図面から測りだすことはできません。しかし全長をはじめ、主要部分の長さのほか主要スペックがわかります。この図面によって1両ごとの見えない世界がわかり、この小さい北恵那鉄道の車両たちに愛着がますます湧いてきたものでした。
次週からは、この書籍も参考にしながらその車両たちを形式別にご覧いただこうと思っています。

この記事へのコメント

  • 急行おが1号

    おはようございます。
    私はしなの7号様のブログを拝見するまでは、北恵那鉄道という私鉄の存在自体を知りませんでした。国鉄の路線図は、だいたい頭に入っていて、線名を言われれば、だいたいどの辺の路線かが見当が付くのですが、地方の中小の私鉄までは分かりません。

    私は元々は東京生まれの埼玉育ちなのですが、今は鹿児島に住んでおります。私の家の目の前は、もう廃止になった鹿児島交通南薩線の軌道があったところで、ちょうど家を出たところが踏切だった場所だそうです。

    私が引っ越してきたときには、すでに南薩線はなくなっており、5年くらい前に軌道跡の一部は、田んぼの中を一直線に走る高速道路のような立派な農道になりました。

    廃線跡も年々荒れる一方で、昔の橋脚や電柱が撤去されどこに線路があった場所かも分からなくなりました。

    10年くらい前までは、旧南薩線を走っていた気動車や貨車、機関車などが旧加世田駅跡に保存されていたのですが、隣接するスーパーの改築に伴い、撤去されしまい、今は蒸気機関車が1両だけ風雨にさらされて残っています。

    そんな中、昨年に南薩線開業100年、廃線から30年の記念イベントが有志の手で行われ、行政側もこれを後援したことをきっかけに予算がつくようになり、荒れ放題だった廃線跡を復元する動きが出てきました。保存されている蒸気も塗装を塗りなおして整備されるようになりました。

    南薩線末期は、車両も線路もろくに整備をしてもらえず、ボロボロで揺れに揺れたそうです。そんな中、加世田大水害がとどめを刺し、日ごろロクな保線作業をしていない路線はズタズタに破壊され、鹿児島交通も「これ幸い」とばかりに復旧作業を放棄し、最後は国鉄線との連絡も路線の部分廃止で途絶え、孤児のような状態で最期を迎えたそうです。
    2015年08月13日 09:12
  • しなの7号

    急行おが1号様 おはようございます。
    私は鹿児島とは縁がないのですが、北恵那鉄道がある岐阜県と鹿児島県は歴史的経緯があり姉妹県とされているそうです。その関係で県教職員の交流人事もあって、高校の担任は鹿児島から赴任された方でした。
    というのは余談で、鹿児島交通南薩線にはたいへん興味があって、国鉄キハ07に似た機械式変速のキハ100形と朽ちた放置車両群を見たいと旅程まで決めたのですが、諸事情で行けずじまいになりました。地元の北恵那鉄道というローカル私鉄の魅力に取りつかれたからこそ、鹿児島行を企てたわけです。水害が原因となって、「これ幸い」的に廃線になったローカル線は身近には昭和47年の豪雨で休止~廃止の道をたどった東濃鉄道駄知線というのがありましたが、地元でありながら、乗ることができませんでした。
    鹿児島交通も不本意な最期でしたが、保存車両も残り行政もバックアップしてその面影を残そうとする努力には頭が下がる思いがします。
    北恵那鉄道の車両は保存されたものもありましたが、今はもう残っているという話は聞きません。
    2015年08月13日 09:59
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★ボクも乗ったことがあります。
    たぶん、廃止が決まっていて、
    朝夕だけ運行のときだったと思います。
    付知川沿いの線路くらいしか、思い出せませんが、
    どこの区間だったか、
    汽笛を鳴らしながら徐行をして
    踏切の手前まで来たら、
    かたわらの民家から、
    かっぽう着を着た女性が出てきて、
    遮断機を下ろしていました。
    記憶違いかも知れませんが、
    そんな、風景があった気がします。
    2015年08月13日 11:38
  • NAO

    しなの7号様、こんにちは。
    私が時刻表に慣れ親しみ始めた頃に廃線になった鉄道で、巻末の会社線欄に掲載されていたのは覚えています。
    バスとの混在路線は他にもありましたね。有田鉄道、加悦鉄道もそうだったと思います。
    宮脇俊三氏がこの頃に時刻表おくの細道を執筆されていたら、多分訪れられたのではないでしょうか。
    阿川弘之氏が北杜夫氏と海外の鉄道に乗りに行かれたとき、確か北さんと呼ばれていたような。
    2015年08月13日 12:58
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様 
    その踏切は並松駅近くの踏切です。
    踏切番は踏切そばにあった家の奥さんで、姑さんから引き継いだ2代目の踏切番だったということです。交差する道路は現在の国道257号線ができる前はメイン道路で、しかも線路は急カーブで見通しが悪いところでした。
    日中にその踏切を通ると「警手不在」と書かれた木札が踏切標識に掛けられていました。
    2015年08月13日 14:27
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    日中の列車をバス代行にするというのは、末期的現象ですね。その有田鉄道、加悦鉄道ともに、車両がきちんと保存され、その現役時代を偲べるのに、北恵那鉄道の場合はそうなっていないところが無念です。
    調べてみると宮脇俊三氏の「時刻表二万キロ」は、北恵那鉄道廃止の年。「時刻表おくの細道」の連載開始はその2年後となっていますので、ちょっと時期がずれてしまっていますね。そういえば阿川弘之氏の訃報も最近ありましたなあ。私は「きかんしゃやえもん」の絵本しか読んでいないですので、マンボウ氏との海外行は知らないです。
    2015年08月13日 14:27
  • 急行おが1号

    こんにちは。度々すみません。

    今朝ほどのコメントの続きなのですが、先ほど用事があり加世田に行ったところ、普段は通らないのですが、たまたま鹿児島交通のバス倉庫の前を通ったときに、その倉庫の一角にキハ103を発見しました。
    足回りを錆止め塗装されておりました。車体の方も塗装をしている所でした。
    このキハ103はさよなら運転に使われた車両で、南薩線廃止後は、旧加世田駅で鹿児島交通直営のうどん屋さん「ぽっぽ亭」として使われていたので、座席は撤去されていて、中央に長机にようなテーブルと、椅子が車内に残っていました。私が引っ越してきたときは、すでに営業休止しており、中に入ったことはありません。
    蒸気も2号機、3号機、4号機が綺麗に塗装し直されておりました。
    DLもDD1200だと思いますが、2両(うち1両は加世田バスターミナル横に展示)とも綺麗に塗装されていました。

    3年前に長男の夏休みの宿題に「南薩線の廃線跡を歩く」というテーマで、長男と2人で枕崎から伊集院まで廃線跡をたどって写真を撮ったりしたのですが、そのときの荒れ方や、錆びて朽ちた蒸気機関車と比べると、昨年から市が積極的に保存に関わるようになったことで、大きく様変わりしたようです。

    実は私も昨年の南薩線記念イベントの有志の仲間として誘われ、Nゲージ部門の展示を頼まれたのですが、私の所有車両のほとんどが、昭和45年から55年ころの上野発着の車両ばかりで(一部鶴見線の旧国電などもあるのですが)、鹿児島に縁があるのはKATOの485系くらいで、お断りした経緯があります。旧客を適当につないで、DD51で牽引するとか、キハ58を使う方法もあったのですが、当時の伊集院駅を再現するというミッションだったのでお断りしました。
    2015年08月13日 17:56
  • しなの7号

    急行おが1号様 こんばんは。
    鹿児島交通キハ100形の現況確認していただきありがとうございました。鉄の塊である蒸機は放置状態で荒廃していても復元されるケースを見受けますが、旅客車両は、いったん保存されても、その後の管理によって解体やむなしとなるケースが多いものです。北恵那鉄道の車両にもそういった例がありますが、鹿児島交通の場合は理想的な例と言えましょう。

    私も長男が小学生のころに北恵那鉄道ほかの廃線跡を探訪したことがありますが、伝えるべきところが伝わらなかったようです。

    中小私鉄の模型は自作するしかなかったものですが、近年は鉄道コレクションなど、意外な車種の製品化がありますので、鹿児島交通の車両のプラ製品化も決して夢ではないと思いますよ。
    2015年08月13日 19:37
  • 北恵那デ2

    やっとのことで北恵那鉄道特集が始まりましたね。私にしましては中小私鉄については全くといっていいほど知りません。ただ地元にありました当鉄道についてだけはかなり色々なことまで知ることになりました。しかし廃止から年月が経ちましたので記憶があやふやです。しなの7号さんから記事についてのフォローを依頼されましたが、いやはやこれだけの立派な記事に補足説明も何もできるようなものではありません。そのうちに思いついたら追記させていただきますが。ところで、鹿児島交通の加世田駅跡については雑誌で放置車両の写真を見たことがありますが、北恵那鉄道についても同様に残されたならその後の復元保存も有り得たのかもしれないと思います。ただ末期の車輌はニセスチールであるにしろほとんどが木造車なのでかなり困難なことであったでしょう。ほかに木造車が多かったのに復元保存が実現した頸城鉄道のような例がありますが、あれは奇跡とさえ思えます。保存されて無い物は模型で再現しなければと思いますが、なかなか進みませんね。
    2015年08月13日 21:32
  • しなの7号

    北恵那デ2様 おはようございます。
    今回は、単なる思い出なのですが、これから車両関係のことを書くときはどうぞフォローをお願いします。

    来年になるかもしれませんが、廃線後の車両の様子なども書いていきたいと考えていますので、残っていた個々の車両の様子はその折に書きますね。

    鉄ヲタ的な価値観でしか語れないのでよくわかりませんが、木造家屋の保存復元は例がよくあるのに、鉄道車両の歴史は明治以降で浅いから学術的に認められないのでしょうか。最近の世界遺産登録が産業革命以降の遺産に及んでいることからすると、一般的な価値観としてそうでもないと思うのですが。

    当時は模型で再現しようとしましたが、技術が伴わないので、完成までたどり着けませんでした。そんな北恵那鉄道本体以外の模型番外編もアップしようと思っています。
    2015年08月14日 06:54
  • 急行真田丸

    しなの7号さま、おはようございます。

    いつもブログの更新を楽しみにしております。

    北恵那鉄道は、収集鉄(切符)からしてもとても魅力ある鉄道で、鉄道ショップ大手のK社では、廃札も多く出回っており、一枚100円から200円と手頃な価格です。ただ、コンプリートはまだ、出来ておりません。

    廃線跡を歩いたり、鉄道の痕跡を探すのも好きなので、北恵那鉄道も近々、訪れたいと思います。
    2015年08月14日 07:13
  • しなの7号

    急行真田丸様 おはようございます。
    ご覧いただきましてありがとうございます。
    私は自分が使用した切符とか行った先の切符以外はあまり集めることはしていませんが、北恵那鉄道の切符は、車両部品などとともに廃線後に系列の名鉄百貨店で大量に放出され出回りました。私は買いに行きませんでしたが、実際に買いに行かれた方から、セット販売に入っていたダブり券を何枚かいただきましたので、複数手許に遺してあります。
    こちらも来年になると思いますが、アップする予定でおります。
    私も4年の間には、ほとんど廃線跡には出かけていないので、涼しくなったら、まだ歩いていない遊歩道部分を歩いてみたいと思っています。
    2015年08月14日 07:54
  • やくも3号

    こんにちは。連投すみません。
    北恵那鉄道の模型、写真から図面を起こして作ってみたいですね。金型を作るとレクサスが数台買えるくらいの費用がかかりますので商売でなければできませんが、建物や駅のシリーズのようなペーパーの打ち抜きなら個人の趣味の範囲でなんとかなるかもしれません。
    2015年08月16日 14:03
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    写真から図面を起こす方法がありますか。
    たぶん30年前でしたら、乗り気になったかもしれませんが、どうも模型に限らず、モノに対するこだわりがなくなりはしないまでも、「こだわりもココマデ!」と線を引くようになりましたので、手は出しません(^_^;)夢がなくなったなあ…

    実は、真鍮のキット素材が手元にあるのですが、手つかずで10年以上放置状態です。
    2015年08月16日 14:29
  • やくも3号

    こんばんは。連日連投すみません。
    模型の多くは写真から図面を起こして設計したものです。
    図面が門外不出だったり古いものが焼失していたりで自動車メーカーや鉄道会社からは貸してもらえない場合も多いからです。また、たとえば自動車の場合は、図面をいただいても、そのままスケールダウンすると車高の高いひょろっとしたものが出来てしまいますので、シャコタンにデフォルメしています。おそらく鉄道模型も同様で、正面から走ってくる電車を超望遠レンズで覗いたときのように、やけに腰高で今にも倒れそうな感じに見えてしまうと思います。
     ちくわ前照灯の会社の製品は蒸機に限らず全般的に腰高傾向な気がしますね。

     自分はある海外F1グランプリで撮影した資料写真とほかのグランプリの写真とを風で飛ばして混ぜてしまい、そのまま製品化して、模型誌に『これはいったい何仕様なんだ?』と書かれたことがあります。
    2015年08月18日 21:25
  • しなの7号

    やくも3号様 おはようございます。
    模型化とはそういうものですか。まあ素人でもサスペンション関係は設計図面どおりにすれば腰高になるだろうということは理解できます。
    鉄道模型も、実車との違いを鋭く指摘されそうな世界ですが、エラーだのと食いつかれる製品には、実は模型設計者自身しかわからない理由がかったのかなあと考えてしまいました。
    2015年08月19日 09:08
  • こがね しろがね

    しなの7号さま、こんにちは。

    北恵那鉄道シリーズ復活、ありがとうございます。こちらのブログの存在を知ったきっかけが、この北恵那鉄道でした。私が小学生の頃、秋の夕方に、北恵那鉄道の廃止を伝えるローカルニュースを見ていた父が、『廃止になったのか』と呟いていたことを憶えています。その後に会社名を改め、今では、自動車整備・トラック・タクシー・旅行業・貸切バス・キャンプ場、といった関連事業もなくなり、路線バス事業だけの会社になったことに、時の流れを感じます。見かたを変えれば、鉄道を代替した路線バスを守っていることに敬意を表すべきなのかもしれません。昼間時間帯の列車運休は、SL列車は走るものの、大井川鐵道でも現実のものとなり、今後が心配です。設備の老朽化や災害による不通を理由とした路線廃止の流れが各地で現実化していることには、公共交通の不便な地方在住者として、不安でなりません。
    2015年08月20日 15:00
  • しなの7号

    こがね しろがね様 こんばんは。
    鉄道廃止でバス化、さらにそのバスさえも生き残りが困難になっているのが日本の公共交通機関の現状ですね。たしかに、自分で思うに、近年、路線バスにわざわざ乗ることはあっても、必要に迫られて乗ったことがないのです。近年バスの世話になったなあと思ったのは、中山道踏破のときくらいでしょうか。これとて、「その行程中は一切、自家用車やタクシー等を使わない」という決め事をしていなければ、長野県内でバスを使うことはなかっただろうと思います。それほど使いにくいダイヤだったと言えますし、乗客はといえば、貸切に近い状態でした。
    もはや地方公共団体のコミュニティバスの運行委託で、従属する立場で会社を維持していく以外にないようにも思えます。
    2015年08月20日 19:48
  • 五分刈り文化部

    はじめまして。貴殿の良いサイトに高校の思い出が蘇ります。
    すでに北恵那鉄道は走っていませんでしたが、体育祭の応援歌で、変節を遂げた北恵那唱歌を歌いました。
    曖昧ですが記憶を頼りに・・
    「僻地僻地の下付知、おんぼろ稲荷を通り過ぎ、故障してたら田瀬駅へ、並間を抜けて美濃下野」
    「栗本ビキニの泳ぐ見て、ぼーっとしてたら福岡へ、さみしい関戸を通り過ぎ、次は並松無人駅」
    「たんぼだらけの上苗木、あっかい壁の苗木城、山の田過ぎたら土砂崩れ、恵那峡口はお客なし」
    「長い鉄橋フラフラと、とうとうついたぞ中津川、汚物処理場鼻つまみ、次は終点中津町」
    2019年07月21日 01:08
  • しなの7号

    五分刈り文化部様 はじめまして。
    ご投稿ありがとうございます。北恵那鉄道が廃止された後も体育祭の応援合戦に北恵那唱歌が歌われていたのですか。
    私は体育祭では西軍でしたので、応援合戦で歌ったことはないですし、聞き取れなかった部分も多く、なにぶんにも昔のことなので、歌詞のすべてを知るわけではありません。体育祭バージョン?の全区間をご披露いただいたことに感謝します。しかし時とともに歌詞も少しずつ変化しているようで、口伝えで時とともに歌詞が微妙に変わっていくわらべ歌や子守唄に通じるものが感じられます。
    1998年に北恵那鉄道に関する展示イベントがあった際に、元歌の歌詞が公開されておりまして、その展示によると旧福岡町高山ご出身の大正生まれの方が元歌の作詞者なのだそうです。
    2019年07月21日 15:34

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