今泉のことは【52】宮脇俊三と今泉駅・・・終戦の日で、アップしたことでありますが、あれから5年も経ちました。同じ話になりましたが、この日になると今泉の描写は必ず甦ることなのでご容赦ください。
その「時刻表昭和史」のあとがき(増補版では本編13章の後のあとがき)で、宮脇俊三氏は「時刻表昭和史」を書いた動機について次のように書いています。
「 駅々に貼られた旅客誘致のポスター、ホームに上れば各種の駅弁が装いをこらして積んである。冷房のきいた車内、切符を持たずに乗っても愛想よく車内補充券を発行してくれる車掌。
そのたびに私は思い出さずにはいられない。不要不急の旅行はやめよう、遊山旅行は敵だ等々のポスター、代用食の芋弁当を奪い合う乗客、車内は超満員でトイレにも行けず、座席の間にしゃがみこむ女性、そして憲兵のように威張っていた車掌。
汽車に乗っていて、ときどき私は、今は夢で、目が覚めると、あの時代に逆戻りするのではないかと思うことさえある。二度とめぐり合いたくない時代である。それゆえに絶対に忘れてはならないと思う。
そんな思いを抱きつづけていたので本書を書きはじめた。」(以下略)
(赤部分は「時刻表昭和史」からの引用です。)
あとがきは、この著書が出版された1980年(昭和55年)に書かれています。もちろん国鉄時代で、私は列車掛だったころに当たり貨物列車に乗っていました。このころはストライキが行われていた末期のころで、私もその年の春に参加しています。その時代にして宮脇俊三氏に、戦後ここまで変わったと思わせる国鉄があったのです。その7年後には国鉄は分割民営化され、現在の鉄道があるわけですが、あとがきに書かれたときからさらに35年経った今、日本の鉄道は、またそのころと変わってきており、信じられないほど所要時間は短縮され快適になった部分があると思えば、廃止された線区は数え切れない数に及んでいるのもまた事実です。先日、JR北海道から留萌本線の留萌~増毛間が廃止されることが発表されました。枝葉部分は確実に整理されていきつつあるのが日本の鉄道の現実です。鉄道を取り巻く環境が大きく変わったなかで、鉄道もそのニーズに合わせた経営にシフトしていくのは営利企業として当然のことですが、たとえ姿かたちは変わっていっても、戦中戦後の鉄道に戻るようなことはあってはなりません。そして今、努力せずして平和であることがあたりまえと考えられがちな世で育った私たちは、多くの犠牲を伴った上で今の平和があり、だからこそ楽しい鉄道旅ができるのだと意識することはありません。ここまでたどりつくため力を注いできた多くの先人たちと、犠牲になった人々に感謝するとともに、平和が永遠に続くよう努力をするのはもちろんのこと、一人一人が何も努力しなければ平和はいともたやすく崩壊することも知るべきだと思います。
この記事へのコメント
北恵那デ2
しなの7号
時刻表昭和史では、米坂線でそのあと宮脇氏が乗った坂町行は、途中のトンネル内で力尽き、破れた窓から煙が入り、窒息するかと思うほどむせたと書かれていました。今の観光SL列車とは本質的に違いはないものの、粗悪な石炭と戦地へ召集された乗務員や整備員の代わりの稚拙な労働力で、運転技術も補修もままならないなかでの運転には、想像を絶する苦労があったことでしょう。そういう時代の鉄道とその背景は、知っておくべきだと思うわけです。
ところで鉄道会社にしてみれば、好んで鉄道に乗られ、さらに指定席券やグリーン券を奮発されるお客様こそ大切にされるべきです。私の場合は用もないのに乗りに出かけるのですから歓迎されるべきですが、ディスカウント企画乗車券とか、金券ショップで買った回数券ばかりを使う常習者ですから、不正こそしないものの好まれない乗客でしょう。この前も盆休み中発売されている1日フリー乗車券を使って愛知環状鉄道へ乗ってきました。1往復+αを乗った後、終点高蔵寺で降りずにさらに折り返して岡崎までもう1往復してきましたが、乗客も少なかったですから車掌さんに「変人一名ご乗車」と思われたに違いありません。
やくも3号
東京までゆっくり行くならまだしも、京都までならすぐ15分後に来るやくもの方が岡山には早く着きますし(途中でやくもにも快速にも抜かれる鈍速)、新幹線乗継割引もあるのに、わざわざキャンセル待ちして乗るとは、「変人一名ご乗車」改め「変態一名ご乗車」と駅員さんは思われたことでしょう。
しなの7号
私は盆には帰るべきところがなくなりまして、自宅で迎え火を焚く方になってしまいましたので、出かけることはありませんでしたが、この時期にはマニアックな列車が運転されますね。快速にまで抜かれる特急とは、まあ一般には許せない事実ですが、案外、こういう列車にはまともな客の方が少なくて、それを楽しんでいる方は多いのかもしれません。幹線系は列車密度が高く便利になって、臨時列車を割り込ませるダイヤ作成者の仕事の成果を確かめながら、ふだん乗れない車両に長く乗っていられるのは至福の時間ですね。
急行おが1号
>平和が永遠に続くよう努力をするのはもちろんのこと、一人一人が何も努力しなければ平和はいともたやすく崩壊することも知るべきだと思います。
しなの7号様の思いは私もまったく同感です。
私事で恐縮なのですが、カトリックのクリスチャン一家の私は、8月15日は「終戦の日」と同時に「鹿児島祇園の洲にフランシスコ・ザビエルが上陸し日本にキリスト教が伝わった日」と「聖母の被昇天」という聖母マリアのお祝いをする日ということで、鹿児島教区本部のザビエル教会で、大きなイベントが毎年あり、それに参加して先の戦争への反省と、これからの平和を祈りに家族そろって行くことにしています。
そのイベントでは「宗教の垣根を超えて平和を祈る」ということで、仏教のお寺の方々も参加され、一緒にカトリックのミサに参加してくれます。
平和とは相手のことを理解すること、そして武力ではなく対話することから始まるのだと、毎年このイベントに出席する度に思います。
私が今まで、鉄道に乗り日本全国を旅を出来たのも、鉄道模型を収集したり、作ったりして楽しむことが出来るのも、娘と鉄道模型で遊んだり、乗り鉄が出来るのも、日本人が戦後に誓った「平和」への思いがあるからこそ、楽しむことが出来るのだと思います。
先の大戦で犠牲になられた全ての方々に、哀悼の念を表すとともに、二度と争いごとに加担しないという誓いをし、時代のニーズによって大きく変化する鉄道を、しっかり見届けて若い世代にこれからの鉄道のあり方について伝えてゆくことが、昭和の時代を生きた「鉄ヲタ」にとって大切な事だろうと思います。
外国では、一度廃れた鉄道の利点が見直されているそうです。日本もいつの日か、新幹線ばかりでなく、在来線やローカル線が脚光を浴びる日が来るかもしれないですね。
しなの7号
どの宗教でも、考え方や崇拝する対象は違っていても平和を祈ることは同じですよね。日ごろの生活の中でも、小さい争いと憤りがいくらでもあるものですが、おっしゃるように「平和とは相手のことを理解すること、そして武力ではなく対話すること」から始めることが大切ですね。
SLの復活運転を見に来たおばあさんが漏らした感想は「出征兵士を想い出す」とおっしゃっていたのをテレビで観ました。そのとき鉄ヲタ視線でしか見ていなかった自分に気が付きました。時代とともにそのモノに対する思いや価値観は変わっていくものでしょうから、鉄道にとってプラスに働く新しい価値観がこの国に芽生えることを期待しましょう。
NAO
「時は止まっていたが汽車は走っていた」のです、あの日も鉄道員さんたちの苦労によって。
そういった方々が支えて下さってきた線路が捲られてゆくのは本当の平和なのかという思いもありますが、時代の流れを変えることも困難で、今の現実のなかで求めることの出来得る平和を少しでも大きなものにしてゆかなければと思います。
次回拙ブログ内容はたまたまですが、留萌駅で食べる駅弁についてです。
しなの7号
時代の流れは大都市中心に考えて便利になっていきますが、時代の流れに乗れない者は不便な生活になっていきます。大きな流れを止めたり変えたりすることは困難でしょうが、一部の者の都合によって、多くの犠牲の上に築いたものを捻じ曲げられたり破壊されていくことは避けたいものです。
私にとって、4人ボックス占領・窓解放・車内飲食の三大車内アソビ?を一般の定期列車で最後に同時開催!できたのが米坂線でした。それができたのも、利用者が減ったからとも言えますから複雑な気持ちですね。
鉄子おばさん
しなの7号
積極的に、乗ってください!と言っても、どうやって乗れというのかと突込みが入るようなダイヤ。沿線人口の減少。
「お帰りなさい三江線」の看板が、地元の総意であり国民の総意であることを信じたいものです。
ローカル線の乗り鉄はほんとうに楽しく、日ごろの現実とのギャップこそが魅力だと思いますし、平和である証です。心の片隅では、これを民営企業が維持していくことが正しい道なのかという疑問と、どこかの母親のように、つまずいて転倒して骨折したら、もう寝たきりで先が見えなくなる。それはまちがいなくいつか近い将来に来るという覚悟の思いに通じます。
天鉄竜機
この期間テレビで戦中の記録フィルムがよく写ります。
空母艦載機の機銃掃射のガンカメラ映像。鉄道(列車)を狙っているのもあります。大阪では8月14日に京橋駅に1トン爆弾が直撃し数百人のお客さんが犠牲になりました。もう少し早く終わっていたら命は続いたのに。逆に考えると城東線・片町線どちらも電化線ですが動いていたんです。若い時に職場の先輩にもっと戦時下の国鉄の話を聞いておけば良かった。8月が来るたびに反省するとともに、戦争で鉄路が犠牲にならない事を願います。
鉄子おばさん
しなの7号
終戦前日には大阪以外の各地でも空襲を受けていますね。機銃掃射の話は「時刻表昭和史」の中では、乗った客車に1センチくらいの穴が斜めにあいていて、真上の穴は暗いけれど向こうのほうの穴からは光が差し込んでいた旨の記述がありました。
車掌区でも、進駐軍専用列車に乗務していたという車掌補(荷扱)の方がおられましたので、どんな仕事をしていたのか、その内容をお聞きしておけばよかったと後悔しています。
しなの7号
鉄道は人と物の輸送手段であるわけですが、それを効率的に乗りこなしたり、その真逆に遠回りをしたりと、楽しみに変えてしまえるのが、鉄道ヲタクですね。その楽しみ方もさまざまで、みなさんのコメントやブログを拝見していると、それぞれ、乗り方にこだわりをお持ちで、個性が発揮されているなと感じます。そんなアソビができることに感謝しています。