836列車(1978年3月ダイヤ改正前までは長野・松本間の列車番号は2836列車)は長野を11時半過ぎに出ましたから、往路の荷5043列車では夜間で見られなかった篠ノ井線の車窓が眺められました。
今回の画像は、最後の1枚以外は、私がこの列車に最後に乗務した日、1979年(昭和54年)3月31日の撮影です。この10日後に、私は中部鉄道学園に入学し、4か月半にわたって列車掛になるための教育を受けました。
川中島駅
日本三大車窓の一つである姨捨の展望も堪能できました。姨捨はスイッチバック駅としても知られています。もっとも姨捨駅はこのときすでに無人駅になっており荷物の取扱はありませんでしたが、各駅停車の旅客列車でしたから停車したのです。停車しても荷物車の方はまったく仕事がなく、こうして写真を撮っている余裕があったわけです。
拙ブログにお越しいただく方々はご存知の方が多かろうと思いますが、この篠ノ井線には姨捨駅のほかにも、列車の行違いのためにスイッチバック式の信号場が複数あり、当時は「桑ノ原信号場」「姨捨駅」「羽尾信号場」と、3つもスイッチバック停車場が連続しました。
稲荷山駅を発車すると急勾配区間が始まり、まず「桑ノ原信号場」の待避線に突っ込んで下り「しなの5号」と行き違いました。
「しなの5号」と行き違ったあと、いったんバックしてから姨捨に向かい発車すると、今しがた待避した線路を見下ろしながら姨捨駅へ向かって、左へ約90°急カーブを描く線路を辿って登っていきます。
姨捨駅付近まで登って来ると、長野盆地が一望に見渡せます。ここが田毎の月でも知られる姨捨の展望です。
いったん突込線に入った後、すぐホームまでバックして客扱をします。。
この日は長野を先発するはずの急行が遅れていたらしく、ここで道を譲りました。このあと長い冠着トンネルに入る手前に、もう一つ「羽尾信号場」がありましたが、ここは通過でした。篠ノ井を出てから「桑ノ原信号場」「姨捨駅」「羽尾信号場」の3連続スイッチバック区間は、前述のようにやるべき仕事がない区間で、陽気がよければほんとうに旅行気分で雄大な車窓を楽しむことができました。このスイッチバック式停車場のうち、「羽尾信号場」だけは2009年に廃止されましたが、今でも車窓から、その痕跡はなんとかわかりますし、「桑ノ原信号場」と「姨捨駅」のスイッチバックは今も健在です。
篠ノ井線では、「羽尾信号場」を出てから、4つの駅を隔てた先、西条・明科間にも「潮沢信号場」というスイッチバック式の信号場がありました。ここも836列車は通過しましたが、待避線では対向の荷物車併結客車列車が、836列車を待避中でした。この対向列車は825列車で、熱田を早朝に出て中津川まで荷5041列車、中津川から客車3両を併結して荷物主体の客車列車となった列車で、836列車の姉妹列車に相当しました。
その「潮沢信号場」は、西条~明科間のほぼすべてが1988年に新トンネル経由に線路が付け替えられたことによって廃止され、信号場前後の線路ともども廃線となりましたので、今は車窓からその痕跡を見ることができません。
信州は観光地が多く、交通事情は季節波動が顕著です。行楽シーズンには臨時列車が走りますし、道路は渋滞したりしますが、物流も同じで季節波動が多い地域です。全国的に荷物の輸送量が増えるお中元とお歳暮の時期以外に、信州から発送される代表的なものはリンゴです。篠ノ井線沿線でもリンゴ畑が広がっていますので、ふだんはひっそりした小駅でもリンゴ箱をぎっしり載せたリヤカーがホームで各荷物車の停車位置のあたりに何台も止められて、駅員だけでなく、農家の人も積み込み応援に駆け付けていることさえありました。それにさきほど無人駅だと書いた姨捨駅でも、期間限定で臨時に荷扱をしていたこともありました。そういう収穫期だと、荷物車にリンゴ箱を積み込み終わると農家の人が、「何人?」と聞いてきます。「3人!」と答えると、リンゴを3個くださったりすることがありました。この画像は家で最近撮影したのですが、このように形がいびつだったり、キズがついたりして商品にできず自家消費するリンゴだったのでしょうが、これが甘くておいしいのでした。家に持って帰ったこともありましたし、長距離乗務では、持ち歩く鞄に、皆いろんなものを忍ばせています。果物ナイフなども持っている人はよくありましたから、仕事が落ち着くと車内で3人で分けて食べたこともありました。
この記事へのコメント
NAO
もし、荷物車窓から顔を出して撮影されているのを対向EF64の機関士さんが見ておられたらどう思われたのか、すごく気になります。
リンゴのおすそわけ、いいですねえ。信州のリンゴは大好きで、私だったら3人乗務でも「5人!」なんて言ってしまうかもわかりません。(怒)
リンゴで思い出すのは、高校生のとき、雪でダイヤと車販行路が乱れた高山本線急行「のりくら」に乗ったときのことです。弁当が買えずに思案していると、向かいボックス席のグループの女性がリンゴを剥いて煎餅とともに下さったのです。あのリンゴの美味しかったこと。このグループは下呂で降りてゆかれましたが、そのあと飛騨金山で車販女性がずーと前の方の車両に乗って来られ、私の乗る最後尾まで来るうちに売り切れないかと心配したのも束の間、すぐに私の車両へ来て下さいました。1号車に弁当買いたいヤツが乗ってるヨ、なんてレチチさんが言って下さったのかも知れません。でもリンゴを下さったことの気持ちの方が嬉しくて、幕の内弁当の中身は全然覚えていません。本当ゴメンなさい、レチチさん、車販クルーさん。本当に有難うございました、6人グループの皆さん。
しなの7号
車内でのおすそ分けに出会うことは、なくなりましたね。
私も高校生の時に、急行さんべと急行佐渡でおすそ分けいただいた経験があります。どちらも夜行列車でした。最近のグループ客の印象は、先日のやくも号の車内のうるさいオバチャンのイメージが強すぎてしまって(*_*)
車販の弁当を買うという行為も、同様に非常に限られた線区と列車でしかできなくなりました。
やくも3号
これは興味深い楽しい記事ですね。スイッチバック未経験者の自分にも様子が手に取るようにわかります。
西日本では木次線がありますので一度乗ってみたいのですが、なにぶん新見→備後落合が一日3本しかなく(この区間の平均通過人員が8名/日なので仕方ないか)、新見からわずか60km先なのに日帰りできそうになく、今も実現に至っておりません。
しなの7号様はこのお写真を撮られたあと、こんどは退避する側から退避させる側へとなるべく、勉強に励まれたわけですね。
しなの7号
自分も5月の出雲行で、木次線をスケジュールに組み入れられないか検討しようと時刻表のページを開いた瞬間に諦めてしまいました。もはや連絡交通手段としての役割はないに等しいですね。
待避させる列車に乗務できるようになるまで、この後5年かかりましたが、臨時列車では
【398】思い出の乗務列車28:165系臨時急行「きそ52号」名古屋行
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201308article_2.html
のほか、やはり臨時の「しなの51号」でも普通列車をお待ちしてスイッチバックを経験しました。
今の豊肥線みたいにスイッチバックするような特急はそんなにないだろう、臨時列車は楽しいなどとひそかに喜んでいるのは、変態車掌1名様くらいでしょうな(*^^)v
ぱす
しなの7号
鹿児島交通枕崎線と大学設置の関係には思い及びませんでしたが、時期的に国と地方自治体との調整のなかに盛り込まれた可能性もありえますね。鹿屋といえば旧国鉄古江線→大隅線を思い出すわけですが、大隅線として全線開業したのは昭和47年と地交線としては遅い時期の開業です。あえて大隅半島側に国立大学誘致と国鉄新線開業を推進するような政治力的なものがあったのかなとも思いますが、国鉄新線の場合は開業しても、まったく生活に使えないダイヤでしたから大学生も乗る機会がなかったことでしょう。
私も田舎育ちですが、昭和50年代初期の時点で町内約20戸中、自家用車がない家は2戸のみ。私が運転免許を取得して自動車を買ったことによって、それが1戸だけになりました。昭和40年代以降のローカル私鉄が自助努力で再生するには困難なことは北恵那鉄道の廃線でも伝わってきました。
急行おが1号
さて南薩線の件ですが、私個人的には鹿屋体育大学と南薩線の廃止とはまったく無関係だと思います。ましてや鹿児島の東シナ海側と大隅側はまったく無関係、他県のような存在です。
元々、南薩線は地元加世田の鮫島さんという方が「南薩鉄道株式会社」という会社を興したことに始まりました。
その後岩崎産業(三菱グループのひとつ)「現いわさきグループ」が、省線向けに枕木を販売して財をなし、その勢いで半ば強引に南薩鉄道を買収して、鹿児島交通線となりました。
地元の老人は未だに「なんてつ」と言います。
戦中は知覧や万世(加世田)の特攻基地への物資輸送で栄え、戦後は一時期は日置付近から今の鹿児島中央駅まで山岳地帯はトンネル、市街地は地下を通る一直線のルートで、しかも全線複線電化という計画が持ち上がり、世界銀行からの融資もほぼ決まった段階で、何故か計画が立ち消えになりました。
その後はご存じのような状態です。
世の中が車社会になり、鉄道の経営が重荷なってしまい、地元の反対もある中、半ば強引に買収しておいて廃止になるずいぶん前からいわさきから「廃止」という話が度々あったそうです。
地元ではいわさきグループは結構、県や地元自治体ともめごとが多いです。私の周りでもいわさきの強引かつ独善的な経営に憤慨する人も結構います。
そして最後は水害で路線が寸断され、離島のような状態で、踏切事故で破損した車両を修理もせずへこんだままで運転していて、地元でも一応の廃止反対運動がありましたが、盛り上がりに欠けたそうです。利用者は沿線の高校生くらいしかいない、しかもその高校生も原チャリ通学を認める鹿児島県では無理もないことなのかもしれません。
しなの7号
南薩線の歴史をご教示いただきありがとうございました。
地方のローカル鉄道といえども、その鉄道ひとつひとつに、出生から廃線までには多くの逸話がありますね。それは名もない一庶民でも同じことで、その一生には自らの意思では片付けられない運命に左右されてしまうものであることを感じずにはいられません。
私は原付免許を高校時代に取得していましたが、学校で原チャリ通学を認められるケースは稀でした。35年くらい前のことですが、自家用車で国鉄飯田線に撮影に行く途中で、伊那大島駅前に通学用の原チャリがずらりと並び、制服姿の女子高生たちが隊列を組むように原チャリ通学をしているのを見て、異国に紛れ込んがような思いがしたことがありました。公共交通機関が整備されず、平坦地がないような山国の地形とが重なったからだろうと思います。
こがね しろがね
この記事を読んで、かつての旅の情景を思い出すことができ、感謝しています。
一つは初めての姨捨スイッチバック。もう一つは列車内でのお裾分け。姨捨は、亡き種村 直樹さんのイベントで乗ったお座敷列車から眺めました。潮沢信号所にも長めの運転停車をしました。お裾分けでいただいた食べ物は何と毛ガニ。初めて行った北海道旅行で、客車での運行になった急行『天北』の座席利用の寝台車で相席した女性からいただきました。隣り合わせた少年と共に、夢中で食べたのです。雪が残る季節ということもありましたが、景色を眺めるどころではなくなりました。
今にして思うと、追体験できるのは姨捨のスイッチバックだけです。若い時の旅は本当に大切で一生ものだと、しみじみ感じています。読者の中に若い方がどの位みえるのかわかりませんが、若い時の旅をしておくことは、仕事とはいえ、このしなの7号さまの記事のように、ずっと瑞々しく記憶に残ると思います。
しなの7号
姨捨の展望は、長野道開通で、さらに高所にある姨捨SAからも楽しめるようになりました。前は鉄道ならではの眺めでした。スイッチバックまでは道路には真似できないだろうと言ってみても、なにか空しさを感じますね。
毛ガニのお裾分けとは、また豪華ですね。信じられないですが、時を経ると、もう味わうことのできない旅の思い出は、心の無形財産とでも言えましょうか。「できるときに、できる限り、できることを」
急行ちくま
懐かしい列車の登場でうれしく思います。
私が乗車したのはこの836列車ではなく潮沢で交換した825(当時は松本から2825)列車のほうでした。
当時私の町(浜名湖付近)では目の前を旧客は往来していましたが、乗客が乗れないものばかりで(つまりしなの7号さんの業務されていた荷物列車!)、初めての経験が大井川で復活したSL列車という旧客初心者でした。
そんな中、関西、紀勢線の921列車、北陸線の列車と乗りはじめましたが、時刻表を見ていて「こんなところにもまだあったんだ」と驚いたのがこの825列車でした。
始発の中津川は8時前の発車で間に合わず、松本で追いついて乗車、篠ノ井まで2時間という今では考えられないようなダイヤで、4か所のスイッチバックのうち、羽尾以外はすべて停車という素晴らしい?列車でした。
特急や急行にも抜かれてというものでしたが、今回836列車のほうを見ると長野から松本まで2時間かかっても、こちらはダイヤ上は追い越される優等列車はなかったようです。
これもある意味すごい。
当時の旅は篠ノ井からは同様に信越線、高崎線で残っていた326、2326列車で上野まで行き、大垣夜行で帰ってくるというちょうど24時間コースでした。
1日でこれだけ楽しめれば休日の気分転換には最高ですが・・・もうそういう時代は来ないですね。
とはいえ、先日所用で何年かぶりにしなの号で長野を往復しましたが、木曽路の風景は二十数年前と変わらず癒されます。姨捨も高速や新幹線という昔なかったものが風景に交じりますが、見下ろす長野盆地の光景はやはり何とも言えない懐かしさでいっぱいになりました。
しなの7号
当時、長野で旧客に乗り継げることを意識したことはありませんでした。私はどちらかというと、車窓を楽しむタイプですから、足の遅い旧客普通列車は最高ですが、今の電車では普通列車でも速度が速すぎ、休憩時間となる長時間停車もないケースが多いです。このような列車があればいちばんよいのですが、篠ノ井線も211系やE127系では、どうも…といったところで、気分を変えて高速バスにしたこともあります。
ところで、当時この列車の客車はオハフ33とオハ47で、この1往復だけのために長ナノに配置されていた車両でした。このほか長ナノにはお座敷車スロ81系6両と、おそらくその予備としてスロフ62が1両配置されており、5両配置4両使用のオハフが不足すると、この列車にオハフの代走としてスロフ62がハ代用で使用されることが稀にありました。
鉄子おばさん
しなの7号
出雲坂根は一番行き難いスイッチバックですね。並行するおろちループを見るにつけ、木次線ルートは陰陽連絡線としての使命は失われたと思いました。
20年ほど前に立野のスイッチバックで乗った列車では、車掌氏から「スイッチバックをご覧になりたい方は、後ろの運転室までどうぞ」と放送が入り、後部運転室から登る様子を見学できました♪
イノシシ
しなの7号
返信コメント遅れまして申し訳ございませんでした。12系客車は多客期の臨時急行や団体用が主な用途でしたから、あのころは運用がない期間、川中島駅に疎開留置されていたのだと思います。長野運転所の構内が狭かったからでしょう。
JRになってから、川中島駅に一度降りてみたことがあるのですが、新幹線が並行している関係で、新幹線の駅みたいになりましたね。この荷物車に乗っていたころには、新幹線どころか安茂里駅も今井駅もなく、下りで夜遅く川中島まで来ると、次は長野。長い長い初日の乗務がやっと終わりかとホッとした駅でした。
AKI
836列車は1979年に乗りました。長いのに何で客車が3両しかないのかと思いましたが、この記事をみて荷物列車のオマケだったのですね。スイッチバックの写真が素晴らしいです。対向列車が写っていると雰囲気が伝わり懐かしいです。当時カメラを持ち歩いていたのですが、現在のように乱写できる時代でなく貴重な写真だと思います。
私が乗り鉄になったのはDiscover Japanのキャンペーンで、駅スタンプを集めると景品がもらえるのがあり(御朱印に通じる?)、均一周遊券で普通列車を主に利用していました。主要幹線も単線区間が多く、また貨物列車も多かったため、列車交換のため停車すると、駅本屋のホームではほぼ確実にstampをゲットできました。タブレット交換のため、現在のように対向車が停車する前にドアが閉まり発車するという忙しい時代でなく、動き始めてからでも開け放したドアから飛び乗れる時代でした。親切な車掌さんは「次の駅は何両目にスタンプ台があるよ」と教えてくれて話し相手になってくれました。
ボックスシートはこれからの長い道中を共にするという一体感がありました。北陸本線の夜行列車で前に座ったおじさんから「まあ一杯」とカップ酒をもらった私は(その頃は未成年?)いい気分になり爆睡してしまいました。きっとその方は話し相手がほしかったのだろうと思うと、悪かったなと思っています。
昔はよかった的な話になりすみません。
木田 英夫
今回の記事を読んで、東京出張の時によく「大阪しなの」と「あさま」の乗り継ぎで通っていたことを懐かしく思い出しました。松本を出ると、右側が空いていればそちらに席を代わって、最後のトンネルを出てから善光寺平の景色を眺めていました。
1度だけですが、碓氷峠廃止後の出張の時に、189系急行妙高、普通電車、スーパーあずさの乗り継ぎでスイッチバックを体験して見たのですが、この普通電車が大変混んでいて、残念ながらスイッチバックを味わう雰囲気ではありませんでした。
さて、本文中の「1988年の新線切り替え」の件ですが、私が乗った時に、峠の手前側、松本寄りのトンネルが単線なのに複線の大きなトンネルであったことをハッキリと覚えております。正確な場所は思い出せませんが、今ではもう複線化されているのでしょうか。(その時は「この線路のないとこ歩いて抜けたら。」とトンデモナイことを一瞬思ってしまいました。)
今回も、今では見ることのできない381系しなの、EF64の初期形、絶滅危惧種とも言える客車列車等、貴重な写真を公開して頂き、ありがとうございました。木田英夫
しなの7号
この列車に乗られたのが、私がこの列車に乗務した最後の年であったのですね。このころの荷物輸送は、旅客列車との分離が進んだ時期ではありましたが、荷物需要がそれほど多くない線区ゆえに、こういう列車が電車列車に混じって存在したということでしょう。すでにこのころの中央西線・篠ノ井線は電化され、長距離輸送はエル特急、ローカル輸送は細切れ短距離の電車列車に移行していましたが、荷物車は1両ごとに行き先が違う長距離運用だったために、そこに併結された旧客の旅客車は荷物車にお供する長距離運用になったり、主要駅での荷扱のため長時間停車をする例は全国的にあったと思います。そういうなかでの鈍行客車旅は、駅スタンプや入場券の収集、駅前探訪などなど、特急では味わえない楽しみがあふれていました。そういうお楽しみは、今では簡単には体験できなくなり、お互いに昔はよかった的な話になってしまうのはやむを得ないものと思っております。
しなの7号
篠ノ井線のスイッチバックを体験するために普通列車に乗っても、今は2~3両の短い編成、それもロングシート主体となれば、落ち着かない移動に終わってしまいがちですね。それでも全国で列車旅の見どころが少しずつ失われていく中で、善光寺平の展望とスイッチバックが、行き交う車両たちは移ろいながらも、変わらずに列車旅で楽しめるのはありがたいです。善光寺参りをやめてから5年が経ち、篠ノ井線とはご無沙汰していますが、複線用規格のトンネルが続く新線に切り替えられた西条~明科間は、今でも単線運転が続いていると思います。その旧線廃線跡は遊歩道「旧国鉄篠ノ井線廃線敷」になっています。こういうところを歩けるというのも、別の楽しみだと思っています。私は訪れたことがないので、一度歩いてみたいと思っています。