先週、貨車解結通知書の内容と拾い出した編成を照合してみた関西本線290列車は、亀山操を発車したときには
「実現車16 延長現車20.6 換算40.1」
でした。
しかし月曜日の午前中という、いちばん連結車が少ない条件の下であったため、八田到着時まで1車の連結もなくて解放車ばかりで、仕事上ではたいへん楽をする結果となりました。八田到着時にはこのような短い編成になってしまい、ここでもまた1車の解放がありました。
1980年(昭和55年)9月29日
関西本線290列車
亀山操7:16~稲沢12:56
(八田到着時点編成)
DD51 822 (稲一)
ヨ 8507 (金トソ) 延1.0 換1.0―
ワラ 13847 宇 野~八 田 延1.0 換2.0積
ハワム 80745 鵜 殿~白 鳥 延1.2 換2.2積
ワキ 6128 鵜 殿~品 川 延2.0 換4.5積
ワキ 5716 鵜 殿~品 川 延2.0 換4.5積
ワキ 5750 鵜 殿~品 川 延2.0 換4.5積
ワフ 35306 (新ナソ) 延1.0 換1.2―
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実現車7 延長現車10.2 換算19.9
この日唯一の連結車両があった八田駅ですが、ここでの連結車は9車もありました。そのうち3車は次駅の笹島で解放されます。その連結車両の内訳は以下のとおりでした。
1980年(昭和55年)9月29日
関西本線290列車 八田連結車
(連結位置 前ヨ後)
ワム 71216 八田~名古屋 延1.0 換1.0空
ワム 90450 八田~名古屋 延1.0 換1.0空
ワム132729 八田~名古屋 延1.0 換1.0空
ホキ 45785 八田~近江長岡 延1.5 換1.4空
ホキ 45796 八田~近江長岡 延1.5 換1.4空
ホキ 45787 八田~近江長岡 延1.5 換1.4空
ホキ 45795 八田~近江長岡 延1.5 換1.4空
ホキ 45786 八田~近江長岡 延1.5 換1.4空
ホキ 45791 八田~近江長岡 延1.5 換1.4空
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連結車 実現車9 延長現車12.0 換算11.4
連結後の列車 実現車15 延長現車21.2 換算29.3
近江長岡行は、秩父セメントのホキで稲沢まで通し。笹島で解放するのは名古屋行のワム3車です。
ここで、通常ではあり得ない旅客駅である名古屋が行先となっているワム3車の正体は何でしょう。
名古屋発の貨物列車の例を、以前【332】思い出の乗務列車13:新聞輸送貨物列車271列車でアップしましたが、このワムは新聞輸送とも関係ありません。
答えはこちらです。
「じんあい運搬車」とされています。
昔の名古屋駅の様子をご存知の方であればお分かりでしょうが、中央本線ホームの神戸方にいつもワムが止まっていました。そこは駅で出たゴミの集積所で、名古屋駅の舞台裏みたいなところでした。ホームの先端へ行くと、夏場には生ゴミの臭いがしました。終着列車が多い名古屋駅では、大量のゴミ処理手段として、毎日貨物列車で八田駅までゴミを積載して輸送し、その側線からトラックに積み替えて廃棄していたのです。この列車に八田で連結したワム3車は、八田でゴミを取り卸したあと、名古屋へ回送するところだったわけです。あいにく写真が撮ってないのですが、私も国鉄就職前から名古屋駅で「じんあい運搬車」と車体に表示があり名古屋駅常備とされていたワムの存在に気が付いていました。
(模型画像を加工しただけです。)
子供のころ「じんあい」(塵埃)とはどんなものかわかりませんでしたが、その場所からゴミを積むための車両なのだということが伝わってきたものです。乗務しているころにはじんあい運搬用としてワム90000とワム70000が専用指定され使われていましたが、全国でパレット式ワム80000が増備されて旧式のワム90000自体が一気に数を減らしていました。私は昭和50年代半ばの1年半ほどの間に多くの貨物列車に乗務しましたが、乗務列車にワム90000が連結されたケースはこの列車以外には記憶になく、子供のころ当たり前に見ていたワム90000形式自体が珍しい存在になってしまっていたのでした。
八田駅での入換作業は、こんな具合でした。
11:44上り本線到着後、直ちに開始。上り本線使用。
2両上り本線引上げ。
上り1番線へ1両突放
1両持って上り2番線で9両連結
※上り2番線の連結車は口元(手前のほう)
10両持って上り本線引上げ。
上り本線に停車中の本編成に本連結
このあと連結確認の後ブレーキ貫通テストをすると作業終了で、11:58発車
入換通告券の下のほうに、非常に読みにくい字で書いてあります。
解読?すると
レケ
1.0=3サマ
1.4=6ボ通
―――――――
11.4=9
と、されており、わかりやすくすると
連結車
換算1.0=3車 笹島行
換算1.4=ボギー車6車 稲沢まで通し
―――――――――――――――――――
合計 換算11.4 実現車9車
ということになります。
ところで、次の笹島で解放されたワムは、入換用DD13によって構内運転(入換扱)で名古屋駅まで回送されていました。
現在の名古屋駅のゴミ収集はどのような方法によっているのか私が知るところではありませんが、八田へのゴミ輸送は国鉄分割民営化後も、「ゴミ車」と標記されたワム80000を使用して継続されていました。その後関西本線の高架化で八田駅での取り卸し作業が不可能になることから、廃止されています。
実は、この290列車は上位班の受持ち列車で、私がこの列車に乗務するのは、この日が見習乗務以来初めてでした。その行路は稲沢~亀山間の往復とも中間駅で入換作業が連続し、しかも平日だと往復共に重量・延長とも換算は制限ギリギリのことが多いことだけでなく、面倒な仕事が全部付いているような列車だったため、みんなが嫌がる行路でした。
この車掌区では、このように嫌われる行路は、若手の列車掛からベテランの専務兼列車掛まで5つあった班に、各1行路ずつ振り分けられ、年休自粛行路に指定して、なるべくその行路をはずして年休を申し込むように指導されました。これはモラルの問題でしょうが、地域や学校の行事、親戚の法事など、用事ができて休みたいのは日曜日が多いものです。その日が年休自粛行路に当たっていると休みづらいわけですが、休めば代わりに乗務する人は「自粛行路を休んだ奴はだれだ」と調べたりしたくなりますし、休まなければ、国鉄職員が深夜も働いていることを知らない人たちに「国鉄職員はいつも家にいるのに、こういう行事や会合には来ない」みたいに思われるフシがあり困りました。
この日の290列車も上位班の方が日曜日に年休を申し込んだため、予備勤務だった下位班の私が乗ることになったわけですが、乗り出しは日曜日とは言っても夕方の乗り出しでしたし、深夜勤務でもなく翌日月曜日の昼過ぎに上がれるわけで、発送貨物は最小限で解放がほとんどなので、現車制限や換算を気にする必要がほとんどなく、入換作業の手間さえ厭わなければ最もラクなパターンではありました。貨物列車の場合に限って言えば、日~月曜日は直行系や専用貨物列車は一般的に運休列車が多く、片道便乗行路や欠行路になったりしました。解結を繰り返す普通貨物列車は運休こそありませんが、仕事そのものは平日に比べて格段にラクなのが一般的でした。






この記事へのコメント
NAO
想像はつきませんが名古屋駅のゴミって相当な量なのでしょうね。トラックで出していたら間に合わなかったのかもしれません。
以前は近郊列車でも客車、気動車、電車を問わず車内にくず物入れがありましたから、普通列車が到着しても結構なゴミの回収量があったのではと思います。
坂本衛さんは乗務員に担当列車を配分することをカルタ取りと書かれていますが、やはりしなの7号様の乗務範囲でも、"きれいな"行路、"汚ない"行路があったのでしょうか。
しなの7号
中央西線のホーム端に積込施設がありましたから、終着列車からのゴミの量が一番多かったのでしょうね。
私の子供のころには、車内のゴミは座席の下へ捨てるのが普通でした。当時の駅弁の掛け紙の注意書きからも、そんな風習?が読み取れたりします。
カス列車・カス行路はどこでもあるもので、記事本文の車掌区では、大阪のカルタ取りのような弊害を極力減らし平等にすべく、カス行路を事前に各班に割り振った結果ではないでしょうか。しかしいつの世も力関係はあるもので、弱いものがババを掴まされます。乗務割はぜったい平等にはなりません。
かすが5号
国鉄時代から鉄道が好きでしたが、各駅での貨車の解結は知りませんでした。今も残る側線を見ると積み下ろしがされていた画が浮かんできます。
近鉄で通学していた学生時代、八田駅でゴミ車と書かれた1両のワム80000をよく見かけました。
国鉄時代は当たり前のように走っていたものが、だんだん無くなるのはさびしいものです。
しなの7号
あまりにも目立たない普通貨物列車でしたから、各駅の貨物のことをご存知の方は稀だと思いますが、関西本線ではかなり遅くまで旧来の輸送方式が残っていました。DD51が今でも残っていることもすごいです。
急行おが1号
ゴミ専用貨車があるとは知りませんでした。確かに長距離列車では大量のゴミが出ますね。
中学校の頃に大宮から青森まで急行津軽に乗車したことがありますが、終着の青森に着く頃の車内は、タバコの吸い殻、弁当やつまみのカス、そして飲料缶やワンカップの瓶や一升瓶がゴロゴロ転がっていました。上野発の夜行列車はどの列車も普通車は一晩中酒盛り状態だったように記憶しています。
当時は「ゴミの分別」という概念はなく、何でもかんでも「ゴミ」としてひとまとめに捨てられましたが、今は分別が煩くなったので駅のゴミ収集係の人も大変だろうなと思います。
ゴミを専門に運ぶ貨車の清掃係の人も、特に夏場や多客時は大変だったでしょうね。
北恵那デ2
しなの7号
どうしても長距離列車ではゴミは大量になりますね。今でも走行中にゴミ袋を持って巡回して対応しておられる場面を見ますが、夜行列車が多かったころは、さらにゴミの量は多かったのだろうと思います。
乗客のマナーも今とは違ってましたね。終着駅に着くと新聞雑誌の類はたくさん放置され、それはそれで、私たちが回収し拝見させてもらったりもしました(^_^;)
しなの7号
今思うと貨車は、ほんとうに奥が深いものでしたが、写真を撮ったりしませんでしたね。一コマのフィルムを大事にしていて、今のように何でも撮りまくれるような環境になかったのもありましょうが、ワム90000のようにいつでもどこでも見られた形式さえ、まともに撮っていないのですから、環境のせいでなく自分も勢いに流されたのだと思っています。考えてみれば、このワムたちはゴミ専用に指定され長生きできたものの、厳しい末期を過ごしたわけです。私もそういうモノの見方さえできないほど未熟だったということですな。
あの~、お判りだと思いますが、ナンバーも表記もただの画像処理ですからね。
hicky
私も八田駅でこのワム車を見たことがあります。近鉄の高架下の側線でトラックに積み替えていましたね。八田~名古屋の短い区間でも車票は使われていたのでしょうか。加佐登駅で空車の貨車を他の駅へ送るとき車票の裏側に塩浜や四検とか記入してある貨車を見たことがあります。
この行路の往き297列車は時々井田川で停車し、天理臨と行き違いになっていましたね。編成も長く、30両以上の時もありましたね。
朝の290列車は編成が長いと加佐登駅構内にある庄野踏切が長時間閉まるので、編成の一部を切り離して踏切を上げていましたね。
確かに作業が多いとき、余計な仕事が入る行路は休みたくなりますね。しかし理由もなく休むとうわさになり予備回りで休んだ行路が月に何度も当てられたりしましたね。
しなの7号
本文で書いたように乗務したのが1度きりの行路でしたので、297列車で井田川交換列車があったかどうかわかりません。私が乗ったころの53.10ダイヤを見たところ、河曲で臨客8234列車と交換するスジになっていました。
いずれにしても無人駅で対面式ホームです。出発合図は列車掛がやりますので、島式ホームの駅でないと行違い列車を眺めることは困難です。
庄野踏切の件は今月末~来月初めくらいの記事で触れる予定にしています。
用事があって嫌な行路を休まざるを得ない場合、代わりに乗ってくれる人には、その人のロッカーの状差しに、行きつけの喫茶店のコーヒーチケットを1枚、一筆書いた紙片といっしょに入れてきたりしたものです。一人ずつ出勤退勤時間が違うだけでなく乗務に出れば車掌区にはいないという特殊な職場では、その人といつ会えるかわからず、直接お礼やお詫びもできないことが普通にありましたから、意思の疎通は取りにくいものでした。
たまたま会えたとき、冗談で「チケット1枚じゃ足らんなあ」といわれたり。こういうのは乗務員ならではの世界じゃないでしょうか。
ヒデヨシ
ワム90000は私が運輸掛から構内掛になった昭和53年頃はポム1と最期の活躍をしていてハワム280000の増備で急激に淘汰されていった覚えがありますが
むしろワム70000があっという間に消えていった感じです
当時の名駅のホーム外れはじんあい車とかEF58とか荷電が1両で停まっていたりして
不思議だなあと思ったものでした
しなの7号
ワム90000だ!と思ったらポム1だったということはよくありました。ワム70000は、少なくとも私が乗務していた55.10直後までは、いつでも見られたのですが、その後のことは???です。
名古屋駅ホームの神戸方は手小荷物用の台車とか汚いエレベータとかもあって怪しいスポット?でしたね。
門鉄局
当時の貨物列車の運転の実態をこれほどまでに詳細且つわかりやすく解説された書籍・ウエブサイトはないと思います。
改めて敬意を表します。私は生まれてすぐに父親の転勤で福岡市から名古屋市中村区に転居し、小学2年まで過ごしました。学校の遠足等で利用するのが八田駅でしたから懐かしいです。あれだけ身近な存在だった貨車をここ数年ゆっくり見たことがありません。カートレインやピギーバックなど次世代の鉄道輸送と期待されたもののあっという間に消えてしまったのが残念でなりません。
乗務員同士きつい仕業は極力休まないのが仁義ですが、子供の学校行事等でやむを得ない場合もあります。気心の知れてる間柄なら「今度飲みに連れて行けよ」「飯おごれよ」で済みますがそうでない場合は・・・。
しなの7号
一般になじみのない貨車の話にお付き合いいただきありがとうございます。
八田駅は、国鉄在職中には仕事以外で利用する機会はありませんでしたが、転職後に時々でしたが通勤で利用するようになりました。その間に高架化され名古屋寄に移転し今は国鉄時代の面影がありません。同じ中川区内に名古屋貨物ターミナルがあり、現代の貨物輸送を支えています。
乗務員どうし、顔を合わせる機会が少ないようでも、宿泊先で同じ車掌区の乗務員どうし顔を合わせたり、複数乗務したりしますので、そのときの雑談で、いろんな噂話は、当事者が知らないうちに意外と知れ渡ったりしました。
天鉄竜機
機関区のゴミ事情です。亀山・田辺・竜華と勤務しました。亀山は所属の気動車があり、ゴミ満載で入区してきます。気動車交番表に小掃除・大掃除が指定されてました。外注されていて弘済整備が実施。ゴミは焼却炉が有り焼いてました。ビン類は一か所に集め搬出してました。ワン○ップ○関にシリーズのラベルが有り先輩はここで集めてました。田辺は所属車両が無く、竜華は機関車のみで大量のゴミが出る事はありませんでした。なお雑誌類は回収済みで入区してきませんでした。
しなの7号
機関区のゴミ事情のご披露ありがとうございます。
終点駅に着くと、清掃会社の方が竹かごと箒を持って待ち構えていましたが、すぐ入区する車両はそのままで、基地で掃除しましたね。酒のラベル集めをしている私ですが、ワン○ップ○関のラベルの収集対象は表だけで、裏の写真は対象外でした。やっぱり集めてた人がいたんですね。ゴミも宝の山ですね。
雑誌は、終点に着いた時点で、駅員・運転士・車掌・清掃員・旅客の間で競争のように回収(いただき♪)してしまいましたから、入区時点では、皆無だったでしょうね(^○^)
オロネ25
今から30年以上前に初めて軽井沢に家族旅行した際、峠の釜飯の掛け紙に、容器を窓から捨てないようにとの注意書きがありました。子供心に、こんな硬いものを投げ捨てる人がいるはずが無いだろうと驚きましたが、母に聞くと昔は窓から汽車土瓶を投げ捨てる人も普通にいたから、同じなのだろうと言っていました。
母は行儀にうるさい人でしたが、私もゴミを座席の下に捨てて良いと教わりました。終着駅だったらという条件付きだったかも知れません。20年ぐらいの後、東京駅で新幹線の座席下に弁当ガラを捨てて降りようとしたら、当時付き合っていた彼女に叱られましたが。
しなの7号
家にある峠の釜飯の掛け紙を見ましたが、国鉄末期の昭和61年のものでしたので、さすがにそういう注意書きはありませんでした。もう特急中心で固定窓が主流になった時代ですね。手持ちの他の駅弁掛け紙には、車窓外に捨てるなという注意書きが書かれた例はありました。まだ窓が開き、くず物入れが車内になかった時代背景がわかりますね。
昭和55年ころですが、車掌長で「くず物は座席の下には置かないで」と強調した前置きをしてから「出入口付近に用意してございますくず物入れにお運びいただきまして楽しい旅行ができますよう~」と放送される方もありました。ゴミ箱が特急急行列車に完備されたことが周知されていなかったのでしょう。
汽車土瓶は廃線跡から出土?されるみたいですから、窓からモノを投げ捨てる時代があった証左ですね。
鉄子おばさん
TM
貨車、その中でも一般の色々な荷主が使用する有蓋車で、荷主から人気があり、要望が多かった形式とかはあるのでしょうか。
両数が多く製造されたのがワム80000で、また、ワラ1も多く見かけました。ワム80000は側面が全面に開いて積み込みがしやすく、ワラ1は17t積めるので、荷役のしやすさを優先する荷主はワム80000、少しでも多く積みたい荷主はワラ1を希望していたと推測いたしますが、実際はいかがでしたでしょうか。
しなの7号
私が年休自粛行路が指定されていた職場は、貨物時代に約1年半在籍した車掌区だけにありましたが、それとは別に3日行路とか夜出行路(https://shinano7gou.seesaa.net/article/201506article_3.html)は、皆が嫌がりました。その3日間の中日の1日だけ意図的に休むことも避けるように言われました。基本的に2日で完結する仕事ですから、中日だけ休まれたら、前後の1日ずつは無駄な日になってしまうわけです。
しなの7号
貨物列車の乗務員は、荷主さんとの接点はまったくありませんでしたので、ご質問の回答は持ち合わせておりません。普通に考えるとワム80000が容積も大きいし側面が全部扉で、荷役にはこれは一番便利だったでしょうね。
ワム80000は「パワム」または「ハワム」と呼ばれ、パレット荷役用として区別されていました。
これに対し一般のワムは「黒ワム」で、「ワラ」を含めて「ワムワラ」とも呼ばれて、両者は区別することなく使用されていたと思われます。ただし大型のワラとかハワムの直通が許可されていない私鉄は結構あったので、黒ワム限定とされていました。質問の答えにならず、申し訳ありません。
TM
貨物列車の乗務員さんは荷主さんとの接点は全くなかったとのことですね。
また、直通は黒ワム限定の私鉄があったとのこと、当方、ワム80000、ワラ1とも2軸の有蓋車は全国どこの私鉄でも運用可能と思っておりました。
以前は多くの駅に貨物の側線があり、貨物の積み込みを見ることが出来ましたね。貨物ホームで積み込みの際、貨車を少しだけ移動させるのに、フォークリフトの爪を貨車の妻面の連結器の横に当てて、貨車をそっと押して移動しているのを見たことがあります。本当はこのようなことはしてはいけないのでしょうけど、なるほど、こんな方法があるのかと思いました。
しなの7号
フォークリフトでの貨車移動は多くの駅で普通にやっていたんじゃないですかねえ。もちろん小移動だけで、本線にまたがるような入換は、入換動車を使ったり、貨物列車の入換作業のついでに機関車を使用して私ども乗務員の誘導で行いました。