今では信じられない話ですが、私が列車掛として貨物列車に乗務していた55.10ダイヤ改正前後には、稲沢発で関西本線加佐登行の貨物列車が1往復設定されていました。亀山操(天王寺鉄道管理局)まで行けばよさそうなものですが、名古屋鉄道管理局管内の関西本線発着の貨車需要がそれだけあったのでしょう。
私が乗務していたのは55.10以後の下り275列車で、稲沢を早朝4時54分に発車しました。
(画像は国鉄時代の関西本線弥富~長島間を行く下り貨物列車ですが、当該列車ではありません。)
<貨車輸送方(稲沢)>
1 ヨ
2 加佐登行
3 南四日市行
4 四日市行(含む塩浜行)(現車15両以内)
5 富田行
6 ヨ
(貨車輸送方の記載方法では、「後部から順に記載」することになっていますので、この場合は1が後部緩急車で6が前部緩急車になります。)
基本的に解放が多い列車でしたが、「5 富田行」を切り離したあとに、富田駅では三岐鉄道東藤原から発送される加佐登行セメント車を連結しましたので、富田から先は 「5 加佐登行セメント積車」に入れ替わりました。また四日市からは、検査上がりの貨車が「2」又は「3」の位置に連結されることがありました。
機関車は稲沢第一機関区のDD51。画像に鉛筆で「亀キ」と書き込んであるのは、亀山機関区の機関士だということで、もし事故が起こった場合の連絡先を特定するために、私が書き込んだものです。
画像の一番上中央部分にも鉛筆で書き込みがあり、「稲バス4:12」と書かれています。稲沢駅は広大な操車場でしたから、乗務員宿泊所や車掌区がある総合ビルから、始発列車の乗務開始場所(出発線)や終着列車の乗務終了場所(到着線)までは、かなりの距離がありました。そのため列車の時刻に合わせて総合庁舎から業務用のバスが運行されていました。書き込みはそのバスの総合庁舎発車時刻を書き込んだものです。
出発線でバスから降りて、緩急車に携帯品を置いてから尾灯の点灯。
先頭まで順次貨車の検査をしながら駅詰所へ行って、貨車解結通知書を2部受け取り。
ここでは必要に応じて、中間駅には電話で入込予報をします。
機関車が連結されたら貨車解結通知書を1部機関士に交付して、変更事項の有無を確認。変更事項の種類はは多岐にわたりますが、時刻変更、着発線変更、運転線路変更などです。変更事項があれば、その内容も確認します。機関士は機関区から、列車掛は車掌区もしくは貨車区から、それぞれ変更事項が伝えられているべきですが、それが伝わっていなかったり、その内容が違っていたりすることがないかどうか、ここでチェックします。
そのあとは、貨車の反対側の検査を後ろに向かって順次しながら最後部へ行きます。ここで無線機の通話試験とブレーキ試験。
というのが、いつもの発車前の仕事の流れでした。
この列車では、富田と四日市の入換作業は駅側で操車担当が行いましたが、南四日市と終点の加佐登の2駅では列車掛が入換作業を担当しました。
この列車の編成例をご覧ください。
1980年(昭和55年)11月8日
関西本線275列車
稲沢4:54~加佐登7:39
(四日市発時点編成)
DD51 822 (稲一)
ヨ 6275 (仙ナチ)
ホキ 15772 東藤原~加佐登
ホキ 25755 東藤原~加佐登
ホキ 27768 東藤原~加佐登
ワキ 6136 小 川~南四日市
タキ 35506 水江町~南四日市
ハワム188116 白 鳥~南四日市
ハワム283741 白 鳥~南四日市
ハワム181298 白 鳥~南四日市
ハワム280415 白 鳥~南四日市
ハワム282710 白 鳥~南四日市
ワキ 5375 八戸貨物~南四日市
タキ 26106※ 北 沼~南四日市
タキ 23812 北 沼~南四日市
アコタキ 1150 岳南富士岡~南四日市
アタム 8004 岳南富士岡~南四日市
コタキ 7907 高 萩~南四日市
オトキ 27768 四日市~加佐登
ワラ 6660 白 鳥~加佐登
オトキ 29337 稲 沢~加佐登
オトキ 27242 稲 沢~加佐登
オトキ 28192 稲 沢~加佐登
オトキ 28399 稲 沢~加佐登
オトキ 25205 稲 沢~加佐登
オホキ 12905 知 多~加佐登
ワフ 35306 (新ナソ)
――――――――――――――――――――――――――――――
実現車26 延長現車41.5 換算62.2
(※編成中のタキ26106というナンバーは存在しないと思われるので、誤記だと思われます。)
南四日市発着のタンク車には特殊な形式が混じりました。乗務したときには形式別の相違点などまったく意識せずにいたので、銀色の純アルミ車がいたなとかいう記憶しかありません。純アルミタンク体の「ア」が冠されるタンク車がこの編成にも2両含まれています。
強度の関係で「連結注意」と車体に書かれていましたが、突放禁止ではなく、仕事上はふつうに扱っていました。連結の場合も、特別この純アルミ車があるからといって特別注意を払えというようなことはありませんでした。
ここに示した編成表は四日市発時点の状態ですが、この日は稲沢からの富田行車両が1車もありませんでした。しかし、その富田では加佐登行セメント積ホキ3車が連結されています。
稲沢発車時点の貨車解結通知書はこんな具合です。
貨車解結通知書を見ますと、富田連結車のうちの一部が鉛筆で消されています。
詳細はすでに忘却のかなたですが、おそらく稲沢から富田駅に予報の電話を入れたところ、四日市行空車ボギー6車(状況から察すると検査入場車と思われる。)を連結中止にしたと言われたのでしょう。中止した理由は、これを連結すると四日市の収車制限42両を超えてしまうからだと考えられます。これらを連結しなくても、解結通知書によれば、四日市到着時点での延長現車は39.5になっていて余裕がわずかしかありません。このへんは列車掛にとっては重要なチェックポイントでした。
四日市では加佐登行の空車オトキ1車を連結しています。これは検査上がりの車両かと思われます。連結位置は南四日市行の後となっており、前のほうにも加佐登行のセメント積ホキが連結されているのですから、前緩ヨの直後に連結しても別に問題なさそうに思われましょうが、そういうわけにはいきません。貨車輸送方では、前寄りに連結された富田連結の加佐登行は「5 加佐登行セメント積車」とされていますから、セメント積でない一般の加佐登行は「3 南四日市行」の後の「2 加佐登行」の位置に連結しなければならないのです。
ところで、後部緩ワフの直前にオホキが連結されていますが、これは飼料用のホキ2200形式ですので、セメント積ホキには該当していません。
南四日市で入換作業をする列車は、どの列車も下り1番線を使い、引き上げも本線でなく引上げ線を使用して連結解放作業を行いました。本線を支障せずに入換作業が可能なのでありがたい設備で、加佐登駅のように構内整理も依頼されることはありませんでした。しかしその引上げ線の長さには限りがあります。ここでの引上げの現車制限は26両以内とされていました。(延長現車による数値)
上で編成例を示した日の編成表で、南四日市駅での引上げ車の延長現車を計算すると、先頭から、
ヨ ×1=1.0×1=1.0
ホキ×3=1.5×3=4.5(ここまで加佐登行)
ワキ×1=2.0×1=2.0
タキ×1=2.0×1=2.0
ハワム×5=1.2×5=6.0
ワキ×1=2.0×1=2.0
タキ×2=2.0×2=4.0
アコタキ×1=1.5×1=1.5
アタム ×1=1.0×1=1.0
コタキ ×1=1.5×1=1.5 (南四日市引上げの最後尾)
――――――――――――――――――――――――――――――
実現車17 延長現車25.5
こうなりますので、26両の制限まで0.5両(距離にして4m)しか余裕がないのがわかります。列車掛はこのへんも貨車解結通知書でチェックしていました。オーバーすると1回の引上げ突放では終わらなくなってしまい、南四日市の停車時間(11分30秒)をオーバーすれば、列車の遅延にもつながります。
この列車では南四日市駅行の解放車が必ず連結されており、入換作業を列車掛が担当しました。南四日市駅は今でも貨物の取扱をしている駅です。ここの入換作業については改めて来週アップしますので今回は省かせていただき、終点の加佐登へ話を進めます。
南四日市を出ると終点加佐登でしたが、加佐登到着後には60分間の入換作業時間が組み入れられていました。実際にはそんなに長時間の入換作業にはなりませんでした。列車終点ですから編成を分解する作業がありましたから、南四日市のように一回突放して終わりというようなことはありませんでした。
画像は上に示した編成表の日、加佐登駅での入換通告券です。構内整理らしい作業はありません。内容を見てまいりましょう。
到着時の編成は
機関車+ヨ+ホキ+ホキ+ホキ+オトキ+ワラ+オトキ+オトキ+オトキ+オトキ+オトキ+オホキ+ワフで計13車。到着線は下り1番線です。
① 後部緩ワフを切り離し、12車を「引上1番線」へ向けて引上げるが、その途中「下り1番線」で後6車を切り落とし、前6車を引上1番線に引上げる。
② 下り3番線に6両全部突放(ヨ+ホキ+ホキ+ホキ+オトキ+ワラ)
③ 単機で、下り1番線で切り落としてきた6両に連結
④ 6両を引上1番線に引き上げる。(オトキ+オトキ+オトキ+オトキ+オトキ+オホキ)
引上げた車両の最後尾オホキを下り3番線に突放
⑤ 残り5両のオトキを下り2番線へ押し込み、口元に留置してある車両に連結し、さらに奥へ押し込む。
⑥ 単機で引上1番線へ引上げ、下り1番線に戻って終わり。(残したワフはそのまま)
機関車は、この入換作業終了後は単行機関車列車として亀山へ向かいましたが、単行機関車列車は車掌(列車掛)省略とされていましたから、列車掛は、名古屋方面行きの列車で所属区へ便乗で戻る行路でした。
対になる加佐登始発の稲沢行貨物列車も設定されていました。こちらは午後加佐登を発車しましたが、担当区が違っていたので、乗ることはありませんでした。たぶん貨車区が乗務していたのだろうと思います。








この記事へのコメント
NAO
タンク車と言えば中学生のときにA社製のアルミナタンカーのバラキットを買ったものの、台枠に各種手摺をハンダ付けするだけで挫折した経験があります。
貨車の特殊標記符号に「オ」や「ア」もあったのですか。「コ」「ハ」「ロ」は知っていますが。
松本清張氏の点と線で4分間の空白で「あさかぜ」に乗るところを目撃された仲居さんは「おとき」さんでしたね。関係無いですか。
しなの7号
「車掌の早飯」という言葉がありますが、車掌は折り返しや、乗務中のわずかな時間で食事をします。できなければとんでもない時間の食事になります。結果として胃腸病が職業病とも言われていました。
加佐登には喫茶店もありませんでした。朝飯を食べたかったら、前日にパンでも仕入れておいて乗務中に食べるしか方法はありませんでした。
「ア」は本文に書いたとおりですが、「オ」は、説明を要します。どうでもいいことですが、興味がおありでしたら、
【579】貨物列車の現車制限と換算両数
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201504article_8.html
で、アップした「貨車延長換算早見表」の画像とその下の本文をご参照くだされば、オホキとオトキの「オ」の意味が全く違うことがご理解いただけると思います。
「おとき」さんは従来の「とき」さんより体重?が軽く、その分荷物をたくさん持てたということです???。
しげぞう@
また宜しくお願い致します_(._.)_
しなの7号
拙い表現でわかりにくかったと思いますが、貨物列車の車掌業務ならではの仕事内容をご理解いただきましてありがとうございました。
ちなみに、入換通告券画像には引上可能両数22(延長)と書かれていますが、この日は、編成表から延長換算を計算していただくとわかりますが、入込21.5で、別に2回に分けて引上げなくてもギリギリ1回で引上げ可能です。
しかし、終着のこの列車に限っては、時間はたっぷりありますし、いつも無理せずに編成後半を到着した下り1番線に残して引上げを2回に分けて作業を行っていました。
★乗り物酔いした元車掌
一昼夜交代の、
最後の作業列車でした。
天
私、鉄道ファンというにはいささかカビが生えており、まして、鉄ヲタではありませんので、しなの7号様はじめ、諸兄方々に恥をしのんでご質問します。「突放」ってどのような状態なのですか?今でも、JR貨物のタンク車やコンテナ車などの側面に表記されていますが、私的は機関車が貨車を推進又はけん引してきて途中から連結解放を行い、貨車が単独走行して目的列車に連結されることだと思っていましたが誤りでしょうか?ご教示願います。
あと、当時の名鉄局管内の路線を天鉄局管内の亀山機関区の機関士が運転していたのですね。高校生の頃、津駅で特急「南紀」の運転士が交代していた記憶があるのですが、このブログを拝見して.???「びっくりぽん」だす。
601H
ヒデヨシ
この日の275レ関西線でもかなりの長大編成ではないのでしょうか?
南四日市は貨物取り扱いが多そうな駅のわりに引き上げ線は随分シビアなのですね
連結注意のタム8000
たしかマイクロのは常備駅がミスっているとかなんとか・・・
連結注意と言えば刈谷では武豊線から来る弾薬等車票(ダイナマイト)くらいでしょうか、控え車数両を挟んだ火薬積み車の後ろに発送貨車を連結するので引き上げが生じるためです
あと東海道本線の本線横断を迅速にするため片開き転轍器の組合せではなくK字鉄鎖付きのダイアモンドクロスでした
しなの7号
フツーの勤め人には朝の通勤時間。駅では最後の作業。シャバとは違う時の流れ。
しなの7号
私のような者が説明するより、Wikipedia「入換(鉄道)」を検索されたほうがよいでしょう。
そのなかに「入換の方法」という項目があり、特殊な入換の方法として突放入換が説明されています。それにしても今の時代では突放は「特殊」ですが、国鉄時代の貨車の場合、突放することを「蹴る」と言って、ごく普通に見られた作業でしたが、時の流れとはそういうものかと思い知らされます。
枝線のような線区を除けば、複数の運転職場での受持線区が重複するのは普通だと思います。万一事故などで分断されても、両方から相互に対応できますし、個人的には合理的と思えます。
しなの7号
第一次オイルショック前(自分が中学生時代)には、3Kの代表格である国鉄など就職希望者は少なく、駅には自衛隊とともに国鉄職員募集の掲示がよく貼られていました。就職した時点での職場では、就職先がいくらでもある大都市在住者の比率が低かったように思えましたし、JRが人気企業になるなんて考えもつかなかったです。それが昭和50年代には少しずつ変わっていき、ついに末期には採用停止の時代を迎えました。今は介護職員不足と言われますが、10年スパンで見ると就職事情は思わぬ方向に行くのかもと思ったりもします。
要するに5年早く生まれるか遅く生まれるかで、自分の人生はまるっきりかわってしまうものじゃあないでしょうか?
しなの7号
東海道と関西両本線の落差といいますか、格の違いを感じられることでしょう。本線自体も引上げ線も収容両数は少ないです。
それと関西下りだと、DD51の定数が普貨Bで稲沢~笹島は換算100、加佐登まで95、亀山まで90と少なくなっていくので、列車によっては重量換算の方も超えないように注意を要しました。
マイクロのタム8000、全く気が付いていなかったのですが、四日市駅常備と印刷されていますね(゜o゜)
火薬積車の扱いは、必ず試験に出るくらい重要でした。火薬積車は連結できる列車と連結両数に制限があり、介在車と呼ばれる控え車(原則空車)も必要でしたが、そう言われれば突放入換も禁止でしたね。
刈谷駅上り方にある件の転てつ器?だったかを、時刻変更までして大がかりな交換工事があった日に、東海道本線の乗務に当たったことがあります。工事がかなり遅れたのか、変更された時刻を過ぎても発車できずしっかり遅れた記憶ががあります(^_^;)
門鉄局
貨物列車の話いつも興味深く拝見しています。平坦線に思える関西線の名古屋ー亀山間で重量換算が違っていたのも驚きです。
いつ生まれるかは本人の意志ではどうにも出来ない問題ですね。私はよく「あと10年早く生まれていれば」と思っていましたが、最近になって鉄道に興味のある若い人や息子に「国鉄時代を知ってるなんて羨ましい」と言われるようになって、考えを改めるようになりました。憧れた国鉄職員にはなれませんでしたが、あの鉄道にどっぷり浸った時代があったからこそ今の自分があると前向きに考えようと思います。
しなの7号
名古屋ー亀山間では、DD51牽引の客車列車にも乗務していましたが、加佐登での定数は変わりませんでした。貨物列車は機関車にとってギリギリの数字で管理されていたのでしょうね。
必ずしもご賛同が得られないかもしれませんが、「今の時代の日本の国に生まれて生活している私どもは、宝くじの1等に当たったような確率の幸せ者だと思わなくてはいけない」とは近年思うことです。今の世の中、周りはいろんな問題だらけで不満も言い出せばきりがないのですが、この国の過去と周囲の国々を見るにつけ、両親&ご先祖様に感謝します。
天
「突放」Wikipediaで検索しました。よく分かりました。例えは全く違うかも知れませんが、私がスーパーでショッピングカートを使ったあとしていることとよく似ています。
空のカートを置き場に連なっているカート目がけて「ガシャーン」当然途中から手は離しています。これをするたび、昔、映画か何かで見た貨物だけが自走していき、他の貨物に連結されるシーンを思い出すのですが、あれですね。ありがとうございました。
hicky
加佐登275列車は、河曲で私の通学していた922列車と行き違いになっていました。この時点で加佐登7:39着でしたが、この列車の編成が長いと922列車で下車した旅客が改札の外に出られず、駅の外で待っていた三重交通のバスが発車してしまい、バスに乗れず、通学している学生は学校までダッシュが繰り返されていました。
苦情があったのか、後に河曲ー南四日市の複線区間ですれ違いに変更されました。
いつも見ていた関西線の名古屋口の貨物列車がこんなに制約の多い線区だとは知りませんでしたね。
南四日市には青い入換動車があり、私の高校の同級生の父親がこの会社で運転をしていました。この駅は会社専用線で一般貨物は扱っていなかったと思います。民間会社の色々なタンク車が出入りしていました。
発送 LPガス、ラッテクス、過酸化水素
到着 濃硫酸、希硝酸、メタノール、アンモニア、味の素、アルコール
などがあったと思います。
この駅が近づくと、合成ゴムのきつい臭いがして、夏は窓を開けると鼻が痛いぐらいの時がありました。
ヒデヨシ
天様
突放入換を何故やるかというと最大の理由は作業時間の短縮です
たとえば3回の突放をせずにその都度各線に機関車が入って貨車の留置後引き上げなどやると3倍どころか5倍も6倍もかかります
また高い貨物ホームがある線は基本突放禁止線ですね
しなの7号
「貨車に関する記事は楽しく拝見しております。車種もそうですが発駅・着駅も興味深いですね。車扱いの貨車は趣味的に見ても面白いものでした。」
という内容でした。
国鉄の貨物関係は1980年前後の1年半足らずしか関わっていないですが、今から思うと特に関西本線では前時代的な輸送だったと思います。全国ネットでしたから、発着駅も様々ですが、いつも言いますが品名積空別を記録しなかったことが悔やまれます。
しなの7号
1回突放ですと、まさにスーパーのカートですが、大きな駅や構内整理ですと2回3回と続ける場合もありました。ヒデヨシ様からも天様あてに突放についてのコメントをいただいていますので、ご参照ください。
しなの7号
河曲でそんなことがありましたか。
この件については、ちょっと時刻を調べて改めて記事とします。その際に、今回いただいたコメントを引用させていただきますので、ご了承願います。
南四日市で扱う貨物は縮小されていますが、今でも入換動車がいて昔の面影がよく残っている駅だと思います。乗務員にとってはどこの会社がどのような貨物を扱っていたのかまったく関係がないので知りませんでした。臭いもしましたね。
しなの7号
フォローありがとうございました。
加佐登駅は上り2番線・上り3番線と日本コンクリート専用線が突放禁止線でした。突放でなくても機関車に添乗して誘導するときは、DLの場合はデッキがあるのでいいですが、東海道や中央西線でELを誘導するときはホーム側に添乗した場合ちょっと怖いです。
天
しなの7号
本日、午前中にスーパーのカートで突放作業をやってきました。
TM
乗務されていて、「これは明らかに積み過ぎだ」と思われることはなかったでしょうか。
容積から積載重量が決まっているタンク車では不可能ですが、有蓋車ではかなりの量を積むことが可能ですね。
聞いたところによると、2軸車の板バネが過積載で逆に反ってしまっているものもあったとか。
実際はいかがでしたか。
しなの7号
目視で過積を判断するには板バネの逆反りか、連結器の食い違いで確認するくらいしかないと思います。ほかには車軸の直上にあるブレーキ装置と車軸との間隔が異常に狭いとかの判断基準もあるようですが、一般的に私のような車掌区出身の列車掛では判断が付かないだろうと思います。構造関係は貨車区出身の列車掛が断然強いです。
乗務検査では、バネ装置の状態や連結状態も検査事項に含まれますので、ここでチェックします。そのような例に当たったことはありませんが、貨物輸送全盛期には貨車が不足してそんなこともあったやに聞きます。
TM
列車掛も、車掌区出身と、貨車区出身の方がおられたのですね。貨車区出身の方は日常、検査をしている経験が存分に生かされますね。
管理人さんが乗務された時は、バネ装置や連結器の状態から明らかな過積載等はなかったとのこと。確か連結器は連結状態で高さが何センチ以上かの差があれば走行不可とされると聞いたことがあります。
昔、側線のホームにワラ1形式がポツンと1両だけ止まっていて、そこへ男の人一人で重たいセメント袋を1個ずつ積載しているのを見たことがあります。手積みで大変な仕事をよくやるなと感心しました。
しなの7号
列車掛とは、車掌と検査掛を統合した国鉄の合理化による産物で、それまで貨車区の検査掛が行っていた貨物列車の始発時と途中駅での足回りを始めとする点検や故障時の応急修理を乗務員である車掌に行わせるという職種でしたので、列車掛は、車掌区だけでなく貨車区にも配置されていました。
【426】父の遺品 ~国鉄職員であった証し~
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201310article_11.html
↑上の記事に少し書きましたが、もともと車掌区配属で貨物列車にも乗務すべき車掌は検査業務の教育を受けました。
逆に貨車区で検査業務を行っていた者は、車掌業務の教育を受けて列車乗務員になったのです。
これは一般的な話ですが、昭和40年代に転換教育で列車掛になった方では、貨車区の列車掛は車掌業務は不得意で、車掌区の列車掛は検査業務が不得意でした。私のような昭和50年代に養成された者でも、職場の管理者にしても車掌区には検査畑の人がいませんし、貨車区には車掌畑の人はいませんでしたから、そういう伝統?みたいなものはありました。
当時の記録を見ると
自動連結器の中心高さはレール面から835~890㎜(ヨ8000除く)
同一車両の前後の連結器中心高さの差は空車時30㎜未満(ワフ・セフ例外あり)
と、書いてありましたが、記憶の上ではサッパリ忘れていますね(^_^;)
田端車掌区レカ
では小名浜臨港鉄道からの解結があります。しかし、時に始発がまだ準備の武蔵野操からいわき貨物まで運転する場合が
あったり、水戸始発で泉まで親子で運転、これはこれで楽しい、模型のような列車が天下の常磐線を走り、泉から増結しいわき貨物まで運転したりしました。カモレとして2駅を運転するだけで乗務のため東京から福島県まで行っていました。(しょっちゅうではありませんでしたが)。折り返しは
ライナーで隅田川駅着ですが休前日はウヤ、湯本駅から(もりおか2号)で上野まで便乗で帰区(前部運転台便乗もあり)急行らしい走りっぷりでした。
しなの7号
【492】思い出の乗務列車41:岡多線の貨物列車と東海道本線1771列車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201406article_3.html
にあった岡多線岡崎~北野桝塚の1往復を思い出しました。すべて高架の近代的な路線にEF65にヨメサンだけを引き連れたケースです。
岡崎まで便乗で、半日岡多線と付き合い、戻ってくる行路でした。
貨物ではないですが、伊勢線の車掌行路でわずか45分間伊勢線で津~四日市まで片道乗務するため、朝、名古屋から三重県の津まで亀山経由で便乗(伊勢線に列車がない)して、伊勢線片道1本乗務後、四日市から名古屋へ便乗で16時前に戻る行路がありました。もちろん他の行路とセットでした。
帰路の便乗と言えば、
【533】国鉄伊勢線5:仕事の終わりは特急列車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201411article_6.html
のキハ82南紀の便乗です。
ところが変わっても、似たような事情だったことがわかりますね。
岳鉄沿線
富士市には岳南鉄道が走っており2013年3月まで貨物扱い
をしていました。今回の管理人様の乗務された275列車に
岳南富士岡発の貨車が連結されていたを知りお便りさせて
いただきました。
しなの7号
岳南鉄道に乗りに行ったことがあります。貨物臭がする私鉄ですね。自分が乗務した貨物列車では、比奈駅発の貨車にも出会っています。
岳鉄沿線
しなの7号
引込線の総距離のほうが上回るほど貨物主体だったわけですね。国鉄~JR貨物の一方的な都合で貨物の連絡運輸が継続できなくなって、貨物輸送を廃止。その結果、鉄道自体が廃止されたり、少ない旅客輸送に頼らざるを得なくなった中小私鉄は多いと思います。大手のしわ寄せをもろに受けるのは、いつも中小企業です。