先週アップした記事【648】思い出の乗務列車53:関西本線加佐登行275列車をご覧になったhicky様から、以下のようなコメントを頂戴しました。
「加佐登275列車は、河曲で私の通学していた922列車と行き違いになっていました。この時点で加佐登7:39着でしたが、この列車の編成が長いと922列車で下車した旅客が改札の外に出られず、駅の外で待っていた三重交通のバスが発車してしまい、バスに乗れず、通学している学生は学校までダッシュが繰り返されていました。
苦情があったのか、後に河曲-南四日市の複線区間ですれ違いに変更されました。
~後略~」
※河曲駅の前後は現在に至るまで単線区間ですので、「河曲-南四日市の複線区間」と書いておられるのは「河原田-南四日市の複線区間」の誤記だと思います。
私は直接そういう苦情に出会ったわけでもなく、特に現場で話題になった記憶もありませんでしたので、ふ~ん…そんなことがあったのかと思いました。
すでに私が乗務していた昭和50年代に河曲(「かわの」と読みます)は無人駅でしたが、行き違い可能な上下本線があり、ポイント切り替えは隣の加佐登駅でRC(リモートコントロール)制御されていました。駅舎は掘立小屋というには大きすぎるし農業用倉庫というには小さすぎるような、がらんどうの素っ気ない木造駅舎でした。国鉄末期にその駅舎は取り壊され、その代わりに車掌車ヨ5000の車体を利用した待合室が設けられました。
その車体も、今は撤去されています。
国鉄伊勢線(現伊勢鉄道伊勢線)が開通して、その伊勢線の鈴鹿市中心部に近い場所に「鈴鹿」駅が開業するまでは「河曲」駅が「鈴鹿」駅を名乗っていたのですが、跨線橋もない田んぼの中の小駅で、さらに昔は「木田」という名の信号場だったそうです。そのころの逸話を、機関士だった長谷川宗雄さんが月刊誌「蒸気機関車」にも連載された「動輪の響き」の中に収録されている「通票のこと」という短編に書かれています。内容は、夜間の列車で「木田」信号場を通過するとき、一緒に乗務していた機関助士が通票を信号場の受器にかけ損ね、やむを得ず放り投げたら、投げた通票は水が張られた田んぼに入ってしまい、信号場の職員が田んぼの冷たい水の中を裸足で入って通票の大捜しをしたというところです。
著者の長谷川氏は私が列車掛の養成課程で中部鉄道学園に入学した前年に、そこの教官を最後に定年退職された方なので面識はないのですが、この書(絶版)を読むにつけ、国鉄の全盛期を勤められた乗務員のステータスは、私が勤務した昭和50年代とは大きな違いがあったと感じます。
さて、その河曲駅は、もともとが単線区間の行き違いをするための信号場だったところに旅客用に必要な長さの旅客列車7両弱の長さの短い相対式ホームを設置しただけの駅で跨線橋もありませんでした。
(画像は当該列車ではなく荷物列車です。)
上り(名古屋方面)行のホームへ出入りするには上下本線を下り方(亀山方面)ホーム先端にある構内踏切で横断しなければなりませんでした。ここに、長い下り貨物列車 貨275列車が進入すれば、構内踏切を塞いでしまい、上り列車から降りた乗客は、貨275列車が発車するまで待たなければならないわけです。
そこで、私は国鉄時代の列車ダイヤを紐解いてみました。
昭和53年10月2日ダイヤ改正時点で、貨275列車は7時前に終点の加佐登駅に着いてしまっていますから、7時台の客922列車との接点はありません。そしてその次の昭和55年10月1日ダイヤ改正時点から私が乗務するようになりました。下はその昭和55年10月1日ダイヤ改正時の列車ダイヤです。
下り貨275列車
河曲7時29分着・31分30秒発
上り客922列車
河曲7時30分30秒着・31分発
まさに、hicky様からのコメントにあるのは、このときのことでありましょう。
時間の流れを追っていきますと、
河曲には貨275列車が先着して構内踏切を塞いだ状態で停車しています。
そこへ客922列車が入ってきて30秒停車の後、名古屋に向けて発車していきます。
貨275列車の発車時刻は客922列車が発車した後の30秒後です。たかが30秒でも、構内踏切はホームの亀山方先端にありますから、加速が遅く長い貨物列車の最後部が行き過ぎるまではかなり時間がかかってしまい、その間にバスが発車してしまったということなのでしょう。
ところで、後に複線区間でのすれ違いに変更されたとhicky様がコメント末尾に書いておられる部分が、列車ダイヤから読み取れませんでした。この昭和55年10月1日ダイヤ改正の次のダイヤ改正は、昭和57年5月17日であって、そのダイヤ改正は、関西本線亀山電化のときなので、客922列車はなくなっているのです。
実はこの間に私は貨物担当区から旅客担当区へ転勤していますので、客922列車にも乗務したことがあります。
【65】乗務した車両:旧型客車(2)の記事でアップした客922列車の編成は、ダイヤ改正後約1年が経過した昭和56年9月22日のものです。しかしこの時点で私は高校生たちが焦る姿を見たはずですし、苦情を受ける側になりますが、そんな記憶はありません。
と、いうことは、その時点で問題は解決されていたことになります。
私は次に昭和55年10月1日ダイヤ改正以降の乗務日誌をめくり、貨275列車に乗務した日の記録を確認していきました。
乗務したのは昭和55年10月9日、11月8日、11月22日と、ここまでは何もそれらしい記述はありませんでしたが、その次の12月6日のところに、次のような記録がありました。
下り貨275列車
11月25日から当分の間 南四日市・加佐登間時刻変更
南四日市7時05分30秒着・33分30秒発
河原田 (通過)7時40分
河 曲 (通過)7時44分
加佐登 7時50分 到着
という、時刻変更があった事実にたどりつきました。
「当分の間」という言い回しは、無期限の時刻変更。すなわち事実上のダイヤ修正という性質のものでしょう。
このことと、hicky様からのコメントを総合すると、
「昭和55年10月1日ダイヤ改正で、下り貨275列車の時刻が7時台になって、上り客922列車と河曲駅ですれ違うダイヤになったが、下り貨275列車はいつも長編成のため構内踏切を塞いでしまうことになる。利用者または学校側からの改善要求があり、次回のダイヤ改正まで待てない緊急性が認められたので、ダイヤ改正翌月の11月25日以降、下り貨275列車の南四日市から先の時刻を繰り下げて対応した。」
ということが読めてきます。
私ども乗務員は、時刻変更の理由までは知らされることはありませんでしたので、hicky様からのコメントで、初めて長期にわたった時刻変更の理由がわかったというわけです。






この記事へのコメント
NAO
これは実際に利用された乗客目線の立場でしかわからないことですね。全国探せばこのような利用者側、輸送機関側双方で紐解く詳細な事柄は一杯ありそうな気がします。
これとは別のケースですが、中学卒業直後に土讃本線御免駅下りホーム(本屋側)で急行「あしずり」を待っていたとき、駅員さんがしきりに改札口待合室側を気にされているのです。なぜかと思っていると、線路はさんだ反対側上りホームに特急「南風」が先着、その後「あしずり」が入線するのですが、列車自体で改札前にある地平の線路横断通路が塞がれてしまい、発車時刻直前だと「南風」に乗れなくなるのです。もちろん「南風」下車客は2本の列車が発車しないことには改札へ向かうことも出来ないわけですが、あのような構造の駅は探せば他にもあったと思います。
ただ、旅客列車同士ならお互い様、かもしれませんが、線路を塞ぐのが貨物列車となると.....、利用者、乗務員の立場になったことがないので私からこれ以上のコメントのしようが.....。(微笑)(こんな週刊誌がありましたね)
天鉄竜機
常にある時刻変更ありましたね。工事に伴う徐行信号。当分の間なんて言葉懐かしいな~。今の時期なら「○日以降準備でき次第支給」。
吹操~百済コンテナ列車。通勤通学時間は気を使いました。吹操~蛇草までは高架線ですが以降地上に。百済1信で関西上り本線を逆走します。関西線が遅れると停止信号でコキ18両の長大列車が何ヵ所も踏切を塞ぎます。学校横の踏切もあり、停止するのが嫌でした。止まったら今度は貨車に上ってないか、潜ってないか心配でした。長音汽笛吹鳴ののち引出、平野区とは言え大阪市内です。今は大阪ひがし線となり高架され、新線を設けて本線逆走も解消されています。
しなの7号
「時刻表が無言で表現している内容は広く深い」とは宮脇俊三さんの言葉ですが、無言のうちに鉄道は計り知れぬ多くの、そして複雑な事情のうえに走っているわけで、この例はほんのごく一部ですね。
御免駅のような例は、私が小学校低学年のころには最寄駅が上下列車用島式ホーム対駅舎の構内踏切でしたので、駅舎側の上り線に列車が入るときはギリギリの時刻に駅に来ていたら、ホームには行けませんでした。救済策は木製のハシゴを上り列車の客車デッキに架けて対応しました。無人駅でなく旧形客車だからできたことです。
しなの7号
「○日以降準備でき次第」最初は馴染めない文言でしたが、「その日になりゃ支給されるもんだ」と聞いてその日を楽しみに待ってました。その日は早い明けの人も帰らず近くの喫茶店で渡される時刻まで待つ人で満員。休みの人も出てくるのでの車掌区は人であふれました。ちょうど今頃の時期ですね。なつかしい思い出です。(何のことか他の方にはわからなかったと思いますが、ボーナス支給日の光景でした。)
「~されたい」も、学校では「しなさい」「せよ」だったので違和感がありました。
今は起動時に汽笛を吹鳴しないけれど、そのような心配はないのでしょうか。コンテナ列車は特にホームに面した線から発車するときも気になりましたが。
ヒデヨシ
同じことを運行側目線、利用者目線と興味深いですね
今やかなりのローカル線でも構内踏切は無くなってきていますね
私も山陰本線のとある駅、急行に乗っていて下車した乗客が急行自身によって構内踏切を塞がれて対向列車待ちの急行発車待ちと言うのを見たことがあります
当然スジ屋さんも考えているのでしょうから短い時間なのでしょうが待つ身には長いですね
構内踏切はそれを挟んで上下ホームの前よりに作られていて短い編成では問題ないでしょうが当時の山陰本線など普通でも10両とかありましたから大変だったでしょう
こがね しろがね
お話を読み、民営化前後に高山線の昼の上り普通列車の時刻が早まり、高校生の下校に間に合わなくなって、当時は登校日だった土曜日だけ休み時間を削って終業を早めていたことを思い出しました。しなの7号さまも乗務された臨時急行『ユーロのりくら』のスジの影響です。ユーロライナーが運用に入る前は14系座席車の急行『奥飛騨』で、リクライニングしない80系特急よりも有り難みがある列車でした。私の所以上に高山駅から離れた高校では調整しても間に合わず、ひと月くらいして、結局は登校日の土曜日のみ、交換駅を変更して急行の高山到着を遅らせることになりました。地域で話題になり、新聞記事にもなりましたが、ひねくれた高校生だった私は『民営化でサービス向上を目指すなら、最大の利用者である高校生の利便を悪くするようなスジの設定がおかしい』と、組合活動に熱心な社会科教諭に訴えた憶えがあります。悪い予想は当たり、民営化後の時刻設定は、登校に間に合いさえすればいいだけのものになっています。当時はバブル経済と温泉ブームが重なって、土曜日午後の列車乗継の奥飛騨温泉郷へのバスの乗客数や増便は目を見張るものがありました。鉄道の運行側としては、需要増への対応と車両の有効活用で通学生よりも優先したい顧客だったのでしょう。バスの方も空いた貸切車両や管理職を総動員での輸送でしたが、システムの違いを強く感じました。
なはっ子
しなの7号
自分は田舎育ちなので、跨線橋があるのは大きな駅だけという感覚でした。気動車は短編成だったので、その手前に停止位置を設けていました。客車はデッキに梯子をかけ、貨物列車では通路分割していたのも見ました。もちろんホームで長く足止めを食ったこともあります。ダイヤが乱れると駅員は大変そうでした。
しなの7号
やっぱり、どこでも学校と鉄道とは密接に結びついていますね。
特に近年はローカル線に乗りに行くと、ほとんど全員が高校生というケースが多いです。先日の肥薩線でも同じで、私が乗った車両には隼人発時点で大勢の高校生と大人が2人。途中で高校生が全員降りたら残ったのは大人2人だけで、その2人はいずれも鉄旅の者(うち1人は自分です)でした。つまり通学専用列車。そういう列車が走る単線区間に、無理をして割り込んでくる観光客相手の臨時急行は、本来のお得意様をないがしろにした列車というわけですね。たしかに単線区間ではかなり無理に設定した臨時列車はよく見かけます。
しなの7号
特殊な体質…ですか。たしかに役所的なところですから、表現が硬いし、用語も列車の運転に関することは、間違えないよう、あえて言い回しを変えたりしますね。
【258】ふたばん とうばん あめりかん
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201203article_6.html
abesan11
しなの7号
ありがとうございます。
35年も前のことも探ろうと思えば探れるものだと思い、記事にさせていただきました。
やくも3号
おそらく学校側も、国鉄とバス会社の両方に相談されていたことでしょう。
素人考えでは『バスがあと2~3分待ってくれれば解決するのに』と思ったりするのですが、若いころに某大手私鉄でダイヤ等の申請担当をしていた父に聞いてみますと、『バス停を1メートル移動するだけでも申請書を何十枚も書き、省庁へ何回も足を運び、それから認可まで何か月も待たされたものだったから、バスの時刻は簡単には変えられないよ。』ということでした。
しなの7号
バスの時刻変更もありうるというのか、おっしゃるように一番手っ取り早そうな気がしますが、それも難しいのですね。勉強になりました。
そうなると、貨物列車の時刻を変更するのが、人的影響がなく、表向きのダイヤはそのままに、緊急性もあることだし、毎日時刻を変更して問題解決という結果になったのでしょう。
客車列車ではめったにしない「時刻を繰り上げる変更」も貨物列車ではやりますが、この275列車の場合は、本文に付けたダイヤ画像でわかるように2つ前の南四日市で客車に抜かれるし、その間の僅少時間内には入換作業もするので、繰り上げることは不可能のようです。
門鉄局
いつの間にか消えてしまった物の一つに構内踏切がありますね。ローカル線では当たり前の施設でしたが、駅の無人化が進むと利用者が線路を横断するのは危険極まりなく、消えていったのもやむを得ないことだと思います。昔は今と違って長編成の列車が多く、構内踏切どころか一般道にかかる踏切でも当然のように列車が塞いでいました。構内配線と列車ダイヤの関係、バスとの連絡の問題など外部から見ているだけでは分からないことがたくさんあると知り、奥の深さを痛感しています。以前書いていらっしゃったように、急行の間合い運用の列車だとグリーン車が普通車扱いで開放される場合が多く、当たるとすごく得した気分で嬉しかったものです。
天
昨日、コメントを投稿したのですが、無線LANの調子が良くなくて本日再投稿します。
この様な事が昭和53年頃の紀勢本線高茶屋駅で同じようにありました。
当時の高茶屋駅には跨線橋はなくて、ホームの切り欠きに階段があり、線路を渡る「横断通路」があって下り列車に乗る乗客はそれを渡って下りホームに上がりました。
昭和53年10月以前のことだと思いますが、昼の12時か13時頃この駅でDF50牽引列車同士の交換がありました。
しなの7号様が見られたような「ハシゴ」をかけて先着した下り新宮行きの乗客を連絡横断通路付近で降車と乗車を行うのですが、上りの亀山行きが到着すると当然下り列車には乗車出来ません。そこで駅員氏が助役も含め3名ほどで上下線の客車のドアに板を渡し即席の「連絡通路」を作るのです。
それを見ていた中学1年の私はある意味感動しました。37年も昔のことなのに鮮明に覚えています。そしてマニやナハも含め混成旧型客車編成でドア同士をピタリと合わせて停車したDF50の亀山機関区の機関士の凄技を見て「俺も国鉄の機関士(運転士)に絶対なる!」と固く心に誓った中坊の私でした。(でも、その決意は5年後の新規採用停止により木っ端微塵となりましたが。)
線路を渡る連絡通路のホームの壁面には黄色のペンキでこう書いてありました。
👈左右確認👉
しなの7号
駅のホームを結ぶ構内踏切が廃止され跨線橋になったのは、駅の無人化とセットでした。駅の無人化はCTC化による運転要員の廃止と深くかかわっています。
しかし、ローカル線では今でも遮断機と警報機を付けた状態であちこちで見かけます。件の河曲駅はじめ関西本線の複数の駅では、跨線橋は設けられていません。
跨線橋があるのに、まったく利用されず降車客がホーム先端部の線路をぞろぞろ横断する駅も某ローカル線で見たことがあります。
無言の時刻表からは、読み取れないことが多いですが、そこに隠れたものを読み取ることが「時刻表を読む」というのでしょう。現地へ行くとその回答やヒントがわかることもあるわけですから、乗り鉄で居眠りしていたり、特急で通過してしまったら発見できませんね。
しなの7号
国鉄時代でさえ昭和50年代に名古屋辺りの東海道・中央両線で忘れさられたモノが現役で残っていたのが、関西・紀勢本線でした。
昭和40年代初め、自分の実家最寄駅は島式ホームでしたので、橋渡しまではありませんでした。異常時の新幹線みたいですね。
ホーム壁面のペイント、職員横断用の通路だと、
👈左右指差確認👉
になりますが、職員用通路もかなり廃止されました。当然のことですが、部内でも安全通路が見直され、極力線路の横断をさせないようになっているのが外部の者からもわかります。
hicky
35年前のかすかな記憶をきちんと調べて返答していただき、ありがとうございます。河原田ー南四日市間の複線区間でした。訂正ありがとうございました。
私たち四日市方面に行く学生は、この光景を当時流行していた横浜銀蝿の歌のようで笑っていましたが、たかが一本の貨物列車の時刻変更に関心を持ってくれたしなの7号さんと閲覧していただいた方々に感謝します。
当時の国鉄に入社し、、駅勤務の頃ダイヤ改正した後、色々な作業のやり方が変わり、運転事故や労働災害が発生しやすいので気を付けるように言われましたね。
59.2、60.3と合理化中心のダイヤ改正が進み、駅の要員も減らされ、ダイヤ改正後、色々な作業が集中し、旅客の利便や列車ダイヤに、影響する可能性がある場合、駅側が管理局などに一部の列車を時刻変更してほしい、接続を改善してほしいと要望したことはありますね。
しなの7号
ちょっと、気になったので調べかけたら、一つの記事が出来上がってしまいました。思いがけぬエピソードのご提供ありがとうございました。
横浜銀蝿そのままですね~
電車を飛び降り、改札抜けたら学校までは猛ダッシュですね。電車ではないけど、客車だから飛び降りは可能、というか、7両の922、最後尾のドアはホームにかからなかったような?…そうなるといやでも飛び降りですね。
ダイヤ改正直後は乗務員側からも、新たな問題点が浮かび上がることがよくありましたが、軽微なことは「現状どおりとされたい」で片づけられました。