先々週から、稲沢発関西本線加佐登行貨物列車275列車のお話をしてきました。
この列車では、途中の南四日市で列車掛による入換作業がありました。この駅で入換をする列車は上下列車を問わず下り1番線に着発し、その作業は下り側にある側線を使用して行いました。
※以下の画像は国鉄当時の撮影ではなく、すべて近年撮影したものですのでご承知おきください。
画像は四日市側から見た構内です。正面は下り本線ですが、275列車はこのように左側の下り1番線に進入して停車しました。
南四日市駅本屋。貨物駅っぽい感じがします。国鉄時代から変わった様子はありません。
プラットホーム。写っている列車は上り本線に入った名古屋行で、後側から撮影しています。画面奥が名古屋方です。
下の画像で、この右側(下り本線側)を見てみましょう。
手前の電車線が張られている線路が下り本線。その右の線路は275列車が入線した下り1番線。入換動車が止まっているのが下り3番線と下り4番線です。
次に、上の画像を撮影した同じ位置から、180度振り返って反対側(亀山方)を向いてみましょう。
ホームの亀山方先端はスロープになっていて、旅客用の構内踏切がが上り本線と側線を横断して駅本屋改札口へ続いています。スロープの左は下り本線。以下左へ下り1、2番線~と続きます。下り1番線を画面奥のほうに真っ直ぐ向かっていくと下り引上線へとつながっています。
前述のように、入換作業をする貨物列車は、上下列車とも下り1番線に入り下り側の側線を使って連結解放をしましたから、跨線橋がなくても上り線側にある駅本屋へ渡る構内踏切を支障しないので、長編成列車の場合でも通路分割作業は必要ありません。また、上下方向に下り1番線から伸びる引上線があるので、列車ダイヤに支障することなく下り側の側線を使って入換作業ができました。ただし、上下方向ともに一般道が横断する踏切があって、入換作業中は開かずの踏切になりました。
画像を撮影した時点で、南四日市駅は貨物の取扱が継続されており、その配線は一部を除いて、国鉄時代からさほど変わっていないように思われました。
275列車も下り1番線から下り引上線を使用して解放車を引き上げたうえで、1回突放するという単純な入換作業を行いました。列車自体が加佐登止りでもあったので連結はなく解放作業だけに限定されていました。
275列車の場合は、いつも南四日市解放車数が多いだけでなく、その前部に、途中の富田で連結した加佐登行セメント積車を連結していたので、引上げの「現車制限26両以内」(約208m)に余裕がない場合がよくありました。
入換通告券の画像でも、引上げ時の実現車16車・延長現車23両(カッコ書きされている。)となっていて3両(8X3=24m)分しか余裕がありません。
入換の手順を簡単に記しますと次のようになります。
駅から入換通告券を2枚もらい、その内容を見ながら作業順序と方法を打ち合わせ。
続いて機関士にそのうち1枚の入換通告券を渡し、作業順序と方法を通告。
この後、入換が開始されますが、列車掛が乗務員無線機を使用して進行します。
駅の運転係(信号担当)に所在線から目的線(下り1番線→下り引上線)へ進路を要求。
進路構成した旨を駅の運転係(信号担当)が伝えてくるので、入換標識で進路構成されたことを確認。
駅の構内掛が引上げ車両最後尾を切り離したか確認。
機関車の前部に添乗して下り引上げ線を亀山方へ引き上げ誘導。
(場合によっては地上で誘導)
添乗した場合は突放すべき線との分岐器付近で飛び降り、引上げ車両の最後尾がその分岐部分を越えたところで機関車を停止させる。
このとき、この駅のように引上げ線の有効長に制限があり、その距離がギリギリという場面では、機関士ともども慎重になりました。
このあとは下り側の側線に解放車を1回突放(蹴ると言った)することになります。
また駅の運転係(信号担当)に進路について通告し、入換標識で進路構成されたことを確認するまでの手順を引上げ時と同様に行う。
加佐登行車両と南四日市行車両の連結部を、駅の構内掛が連結器切り離しできたかを確認。
突放車両に駅構内係が添乗しているかどうか確認。
機関士に1回突放することを通告。
その応答を汽笛(短急汽笛1声)で確認して、こんどは列車の進行方向と反対側へ誘導。
ある程度のスピードになったら、機関士に対して停止合図を出す。
この例では12車を突放しています。解放車内訳はハワム主体でした。
1980年(昭和55年)10月9日
関西本線275列車のうち南四日市駅解放車内訳
ハワム285120 恵那~南四日市
ハワム 84430 恵那~南四日市
ハワム180802 恵那~南四日市
ハワム 86629 稲沢~南四日市
ハワム180010 稲沢~南四日市
ハワム187722 大垣~南四日市
ハワム282689 大垣~南四日市
ハワム 81113 大垣~南四日市
ハワム286435 大垣~南四日市
ハワム281265 大垣~南四日市
オタサ 5503 笠寺~南四日市
オタキ 25060 笠寺~南四日市
全部で12車(延長現車17両=約136m)の南四日市解放車が惰力で下り4番線に向けて入っていき、機関車と加佐登行の貨車はそのまま下り引上げ線に残った状態で停止します。突放車両のブレーキ扱いは駅の構内係の仕事で、側ブレーキや手ブレーキを操作して停車させます。
ところが私のように列車掛になるまで駅の構内作業の経験がなかった列車掛だと、これだけ長い編成を突放するとき、機関車を停めるタイミングがわかりません。添乗している構内係に、そのタイミングを合図してくれるようあらかじめ伝えておいて、その合図を参考にして機関士へ無線機で停止合図を出すなど、安全確実を旨に駅の協力を求めながら作業をしましたが、この列車で一度だけ失敗がありました。突放した長編成の車両が、目的線へ入る手前で止まってしまったのでした。もう少し加速させてから停止合図を出すべきだったのです。こういう場合、停まってしまった貨車にもう一度機関車を連結させ、再び突放(または押し込み)しなくてはなりません。限られた時間内で作業を終えないと列車が遅れる可能性もありますし、なにより機関士も駅の人も、「下手糞な誘導だなあ、面倒だなあ」といい顔はしませんが、やむをえません。
この駅構内下り方にあった踏切は「六呂見踏切」という自動踏切で、上の画像はその踏切上で撮影しています。
その、突放車が途中停止してしまえば、踏切はただでさえ入換中のために長時間ふさがっているのに、さらにその時間が延びるだけでなく、踏切待ちの人たちにも、この失態を見られてしまうこととなりました。しかも時刻は朝の通勤時間帯ときていますから最悪で、踏切開通待ちの自動車の列は延びていくことになります。
これは昼下がりに撮影したその六呂見踏切ですが、そこそこ交通量はあるようです。
こういう作業の感覚は研修期間中にいくら勉強しても、現場でやってみなければ身につかないことです。ちなみに、この駅では引上線は突放する方向に対して2‰の下り勾配が付いていましたが、駅構内は水平で勾配がありませんでした。そういう知識はあったとしても、停止させるタイミングは勾配のほかにも、風向風力、車両の積空や軸受の構造、機関士の加速のさせ方、ブレーキ扱いのため添乗する構内係の人数など様々な要因で変わってくるのでしょうから、何度もその駅で、いろんな条件下でやってみなければ会得できません。なによりも経験というわけですが、私は慣れてきたころに貨物列車の乗務から離れてしまうことになりました。
さて、突放したら連結がないこの列車の場合は、残留車両に本連結する作業だけが残っています。
また駅の運転係(信号担当)に進路について通告し、入換標識で進路構成されたことを確認するまでの手順を引上げ時と同様に行う。
機関士に連結することを通告。
その応答を汽笛(短急汽笛2声)で確認。
引上げ車両最後部(ホキ)に添乗して再び進行方向と反対側へ誘導。
本連結したら、構内係がホースをつなぎ完全に連結がされていることを確認。
残留車までブレーキ管が貫通しているか確認のため、ブレーキテストを実施。
(機関車のブレーキ弁を機関士に操作してもらい、残留車のブレーキが緩解するか確認。)
残留車の制輪子を足で蹴飛ばして、制輪子が車輪から離れてブラブラの状態になっていれば、OK。
機関士にブレーキテスト終了を伝える。
その応答を汽笛(短急汽笛1声)で確認・
これで入換作業は終了となりました。
突放のタイミングと飛び乗り飛び降りには、まったく今では自信がなくダメだと思いますが、現在では突放入換がほとんどないと思われますので、南四日市あたりでの連結解放くらいなら、無線機での入換作業の無線交信や誘導くらいは、今でもスラスラと手順どおりにやれる自信は持っています。列車掛の養成課程では、机上訓練のほか、保線用モーターカーとトロッコを使っての入換模擬訓練を何度もやって、試験勉強もして得た知識や技能ではありますが、まったく用無しになってしまったのも惜しい気がしますが、そういうものなのでしょう。
そういうことは、模型運転のときには、よりリアルな作業展開が期待できますって、何の意味もないですね(*_*)
※ほんとうは、無線機の交信内容をそのままご披露しながら進めると、リアルで作業手順がよくわかろうというものですが、「交信内容を漏らす」と電波法に触れる恐れもありますし、なにより現在もほぼ同様の交信内容で作業が進行しているでしょうから、拙ブログで詳細を公開したことによって知識を悪用され、その運転に支障をきたすようなことがあるといけませんので、あえて詳細なやりとりや、その内容は省略したりボカして書きましたことをご了承ください。以上のような趣旨から、ご質問等にはお答えできないこともございますのでご承知おきください。
<予告>
年内の国鉄乗務話は、今回で終わりです。このあと年内は、この1年を振り返りつつ、先週から始めた「あの場所は今…2015年」の続きをアップする予定です。年始以後は国鉄乗務話をしばらくお休みすることにして、鉄道に関係ない話もアップしたいと思います。それから、「いずれ記事としてアップします」とコメント中で公言しておきながら手つかずのままにしている鉄道話も放置したままですので、全部とは参りませんが、少しずつでもアップしていこうと思っていますのでよろしくお願いします。











この記事へのコメント
NAO
ご自信で運転しないのに蹴りの強弱を感じ取るっていうのは本当に難しそうですね。
しかし、踏切上で停車してしまった場合、一般の人から見て失敗、成功の区別がつくのですかね。私なら言われなければ単に何かしらの事情で停まったとしか思わなかったと思います。毎日長時間待っている人たちからすれば判断出来てしまうものなのでしょうか。
しなの7号
機関士さんの加速具合は、連結両数によって、そしてたぶん人によっても違いますし、一番怖いのは過走ですね。
この列車は1回突放本連結で終わるパターンに決まっていましたから、朝の通勤で毎日同じ時間帯に通る人は、意外にその内容を知っていたようにも思えます。
再就職先の会社でも、通勤時の踏切の通過に関しては、河曲の高校生よろしく、みんなの最大の関心事でした。帰宅時に自動車通勤者は名鉄の踏切が「→急行、←急行、→普通」で長時間ふさがる時間帯をみんなが分単位で把握していました。(その時間帯から大渋滞が始まる)
宮脇俊三さんが清水港線に乗る時は、塞がれた構内踏切で通勤者の方が「もうじき開きますよ」と悠然とされていたように。
NAO
私もそれを読んでから清水港線に行きましたから、貨物列車が停まっていても堂々と構えてやろう、じきに踏切が開くのは知ってるヨ、のような振る舞いをしようと思ったのですが、あいにく?その時間帯には貨物列車は居ませんでした。残念?
しなの7号
清水駅を利用したのは平成19年に一度きりです。亡義父はJR東海の「さわやかウォーキング」の常連で、その日も清水に行きたいと言うのですが、認知症と診断れたあとでしたので、家内と二人で義父を引率?して草薙~清水を3人で雨の中を歩いてきました。乗務員時代には清水港線のホームがあったのは見ているのですが、そのときは義父が一人で勝手にスタスタ歩いて行ってしまうので、清水港線跡は観察できず、駅構内踏切など清水港線時代の痕跡の有無さえもわからずじまいでした。
門鉄局
貨物列車の運転は機関士と列車掛・駅職員との極めて緊密な連携作業だったのですね。しかも基本的にお互い知らない者どうしで、新人には精神的にもきついものがあったのではないかと推察します。当然出来るのが当たり前という厳しい人がいたり、研修時代に遭遇しなかった事例に一人でいきなり対処しなければならなかったり、慣れるまでは仕事が終了するとクタクタだったのではないでしょうか?
南四日市では今でも貨物取扱をしているのですね。入換動車が2両停まっているのが見えますが、塗装から民間会社の車両のようですね。JR貨物の機関車は切り離すだけであとの入換作業は一切委託なのか、どんな作業内容なのか気になります。国鉄時代は本線を牽引してきた機関車がそのまま入換作業を行う他、オレンジ色の国鉄の専門入換車が配置してある駅や日通やその他の業者が行う例などあり動車の形態も様々で楽しかったです。
天
いきなり本文とは脱線しますが、「六呂見踏切」嫌いでした。私、この四日市でバス運転手をしていました。件の踏切は回送路に指定されていて通行してもよいのですが、貨物の入替が始まるといつ開くのか分からず、始発停留所へ遅れやしないかヤキモキして入替作業を待った経験から、あまり通行しなかったです。
四日市は工業都市だけあって、関西線以外にも塩浜行きの線路や築港への引き込み線があって、タンク車やセメント貨物などが留置されていました。
しなの7号
乗務員とは変わった仕事で、基本的には一人。複数乗務の場合以外は他の職場と関わることの方が多い仕事です。しかし管理者の目は届きにくいので、慣れれば気楽でしたが、今はそうでもないようです。
現在の鉄道会社さんの仕事の内容は、私が知るところではありません。先週も甲種輸送の様子を見てきましたが、どこまでがJR貨物の仕事で、どこまでが旅客会社の仕事で、どこまで荷主の責任が及ぶのか、さっぱりわかりませんでした。その入換作業は楽しく拝見させていただきました。
しなの7号
踏切利用者側の方からのコメントありがとうございます。
南四日市では、列車からの切り離しや連結以外にも専用線への出入りなどで貨車の移動があったでしょうから、踏切がいったん閉まるといつ開くのかわからず不安な踏切ですね。四日市市内の鉄道は今でも貨物輸送が残っていてDD51ともども国鉄時代の面影を色濃く残す光景が見られ、見どころは多いですね。
ヒデヨシ
南四日市駅、今もこの感じなんですね
良いです
惚れ惚れするロケーションです
お話の構内のヤードでは速度不足で途中で貨車が止まることもよくありました
1~2両なら何とか接触限界標をクリアするところまで手押しで持っていけますが多いとまず無理です
勤務駅は僅かに片勾配で上り方のヤードは車止めに向かって登りなので尚更
また、操車担当(この記事では列車掛)の腕ではどうしようもない場合もあります
つまり入換機関士の腕が下手くそ
全く加速しないので突放も1回ずつしかできなく仕事にならないなど
関係ないですが古い人の話ではDEになる前はC58だったそうでDLの加速はSLと雲泥の差で当初は怖かったそうです
しなの7号
いや、ほんとに手押ししたくなります。この275列車の終点加佐登駅では 駅構内群線の勾配が0.7‰、下り引上げ線方3‰、いずれも湊町方に登っていたので、そんな失敗はありませんでした。見た目にはわからないほどの勾配でも、ずいぶん影響するものですね。駅によっては車両逸走の場合の手順なんかも書いてありました。そういえば、無人運転で下り勾配区間をDCが運行されたことがある某JR線も、末端区間が無事復旧して3月のダイヤ改正から全線復旧するそうです。めでたしめでたし
過去記事からの引用ですが、SL時代の列車掛(私の父)が生前、言っていたこと。
「蒸機の突放入換は、青旗振って機関車が動き出してボッボッボッと3回(ブラストが)聞こえたへんで赤旗出して止めりゃあ、たいてい按配よういっとったけど、電機はいつ止めてええかわからんし、加速がええもんで怖い。」
ELはまたDLと違って音が静かで手加減が難しそうです。
hicky
この編成の後部2両、オタサとオタキはLPガスタンク車と思いますが、突放OKだったのでしょうか?
私たちが高校生で列車通学していた時、貨物の入換をしている構内係を見て俺たちもやろうぜと言って、旧型客車のドアを内側に向けて両手で手すりを握り、アゲハ蝶のサナギのようにデッキにつかまり、電柱に気をつけろよと言いながら乗っていました。
国鉄に入り構内を歩いているとちょっと押してくれと言われ突放した貨車が途中で止まってしまい、何人かで手押ししながら動かしました。この作業は非常に危険で貨車から落ちたりして足などを負傷し、営業係になったり管理局へ転勤された方もおられました。民営化後はJR線ではやらなくなったと思いますが、10年ぐらい前、東藤原駅でやっているのを見てまだ残っていたんだと驚きましたが、それが最後でしたね。
しなの7号
LPガスのオタサとオタキは「連結注意」の表示があったと思いますが、突放に制限はなかったかと。
「連結注意」表示がある車両の突放は、あらかじめ構内係を乗り込ませ、留置車両の手前で停止させればOK。
突放禁止車両とは何かというと、旅客が乗車している車両、火薬類を積載している車両、突放禁止標記のある車両。
突放車両に添乗してブレーキを扱う作業はとても危険で、稲沢で明けても暮れても雨でも雪でも、常にその作業をやっている者たちは、はやく抜け出したい一心で一生懸命勉強され、たとえば列車掛など試験を受けて脱出したと聞きます。仕事がうまくできないと先輩にどやされ、貨車の陰で泣いていた…そんな話も聞いています。
別冊宝島59「国鉄に生きてきた」の中で、元機関士の向坂唯雄氏によって、連結手(→構内係)が足を轢かれた事故が生々しく描かれています。(のちに、向坂氏自らの著書「機関士走り続けて一万四千日」にも引用収録)
ヒデヨシ
ほぼ関係ない話ですが
ちなみに私は突放作業大好きです
もちろんカッポレ(構内掛制動担当)なりたては飛び乗りが怖かったですが慣れてくると楽しくってしょうがなかったです
10両以上の貨車だと速度により何両もブレーキを掛けたり緩めたり片側しかブレーキのない黒貨車は連結器の上を渡り操作してカチャリと連結させるのは気分爽快w
飛び乗りは猛ダッシュの時もありました
一番嫌なのは手摺がヘンテコなチキかな
飛び乗り時によく膝を側面でぶつけました
嫌いな担当は切り方担当
着駅によりどこで切っていいのやら?
間違えて再度連結にはいり、当然のごとく操車担当にバカヤローと怒られます
しなの7号
たぶん、いつもコメントをいただく方で、入換作業を日常的にご経験され、それを語っていただけるのはヒデヨシ様しかないと思っていました。危険な仕事も「楽しくってしょうがない」場面を再現していただきありがとうございます。
こういう表現は失礼だとは思いますが、まるで猿が木から木へ飛び移るように、車両から車両へ身軽な動作で飛び乗りブレーキを操り飛び降り…という一連の作業をを見るにつけ、運動神経がよくないとぜったいにできない仕事だろうと思って見ていました。チキのП形の手摺では姿勢が不自然で見るからにブレーキ扱いは危なそう…
自分は空気ホース一つ切るのに一苦労するようなヤツなんで(+_+)
貨車区の実車研修で構内経験者の同期生のようには、とてもできませんでした。
門鉄局
貨物列車の入換作業を実際経験された方達のお話を拝見するのは実に楽しく参考になります。子供の頃突放された貨車に飛び乗りブレーキをかける構内掛の方を軽業師のように羨望の目で見ていたものでした。私のように運動神経が鈍い者には到底無理だと思いながら。
私も旧客のデッキにぶら下がったり飛び乗り降りしたり、今となってはずいぶん危険な行為をしていました。あえてしなくてもいい閑散時にする私達は完全に遊びのつもりでしたが、ラッシュ時に構造上車内に入りにくくせざるを得ない通勤客は気の毒でした。福知山線大阪口や山陰線京都口は近年まで・・・、失礼しましたもう30年以上前ですね。
向坂唯雄さんの2冊、私も所有しています。機関士さん自ら仕事について語られた本は珍しく出版と同時に買い求めました。戦前から戦後、蒸気からディーゼルへ、組合活動の変貌など現場目線の記録は貴重です。10年以上前と思いますが「鉄道フアン」誌に随想を連載されていたと思いますが、お元気なのでしょうか?
しなの7号
危険なことは、おもしろい。スリル満点で高いリスクと成功の喜び。これは、いつの世にもあるものでしょうね。
危険なものは無くすのが最善ですから、私たちの体験談も昔話になりました。今はバーチャル体験がいろいろできるようになったから、子供たちは身体の危険を冒さずにスリルを求めて遊べるんですね。
向坂唯雄さんのことは、私も近況を存じていません。
国鉄100面相
30年以上も前のことですが、「突放」は懐かしい言葉ですね。
突放では、ほぼ飛乗り飛降りしていました。特に嫌だった突放は重いもの(重量品のタンク車15両超や、長い(延長換算50両超)ものでした。仕訳線の有効長が52~55両ぐらいだから、止め切れないと進行側の転てつ器を割り込み、早く止めると後ろの仕訳用のポイントを支障するからです。
操車場に入ってくる基本の車両は貨車ですが、実際はお客さんが乗車していない色々な種類の車両が入ってきました。忙しいという理屈をつけて突放禁止車両も空車貨車2~3両を連結させて一緒に突放していました(操車掛によりますが)。
さすがに検測車、操重車、重連の機関車(ムド)、戦車を載せた貨車等は突放していませんでしたね。
突放禁止ではないですが、蜜蜂を載せた貨車(ツム 通風車)もいい気持ちじゃなかったです。列車が到着した衝撃で蜂が飛び回っていました。また、冬は数㎝の雪が突放を止めってしまうのに逆にブレーキは雪で効きにくくなり、1m以上の積雪で線間は無くなるので、降雪期の入換は難しかったですね。
しなの7号
就職時から乗務員だった私は、駅での勤務経験が全くありませんでした。構内係の作業は見たり聞いたりして知る以外にありませんでしたので、ご苦労話をアップしていただきありがとうございました。列車掛の同期生のなかには稲沢のハンプを含め、構内経験者は多くいましたから、伊吹颪に乗って雪が積もったときのことは聞いたことがあるのですが、雪国の操車場では毎日が危険な作業環境だったでしょうね。突放禁止車を介在させて突放して他の車両のブレーキで停める技も彼らに聞いた記憶があります。
コンビナート隣接駅出身者からは、タンク車は中の液体が前後に波打って、その波が前に来るたび押される感じを突放時に体感しながらブレーキ扱いしたとも聞いています。
私が貨物列車に乗っていた頃、すでにツムはほぼ全滅状態で、稲沢にあった独身寮の前に当時偶然停車しているツムを非常に珍しい思いで撮影したことがありました。
国鉄100面相
雪の辛さは形容のしようが無いですね。
・吹雪で視界が悪くなる。
・列車や入換の音が聞こえない。
・飛乗り飛降り時に滑りやすい(手も足も)
・エアホースに雪の塊が接着凍結しているのでホースが切れない
(→連結器にぶつけて氷塊を壊してホースを切る)。
※他にもたくさんありますが省略
「ツムは、ほぼ全滅状態だった」ということですが列車掛をしたのは昭和50年代後半でしょうか。私の記憶で珍しいのは「ピンブレーキが装着された貨車」でした。10才ぐらい年上の操車担当でも見たことが無いとのことだったのでラッキィでした。他には「木製の客車(手ブレーキが縦型)」は2回あたりましたが、手ブレーキのある位置から外が見えないことと手ブレーキが縦についていて回しにくいのでブレーキ扱いは難儀でした。
しなの7号
中央西線上りや、米原から乗務する東海道本線上りの北陸本線からの継承列車には、冬場には雪まみれの貨車があり、その作業上の苦労が偲ばれました。構内の仕事は国鉄の仕事としては珍しくもなかったと思うのですが、意外なくらい実態が語られることがありません。「ピンブレーキ」と言われてもわからない方が多いと思いますが、側ブレーキのロックをピン挿入によって行う方式ですね。列車掛をしていた昭和55年前後には、さすがに仕事で見たことがないです。三重県の貨物鉄道博物館の保存車両に見ることができます。
客車は手ブレーキが縦型ハンドルなのが大多数ですが、オハ61系は貨車のように水平ハンドルの車両がよくあり、乗務員室では場所を占領して始末が悪かったですが、作業する側からすれば縦型は回しにくいんですね。まあ、突放することを前提としているとは思えませんからやむを得ないわけですが。
田端車掌区レカ
)に対し突放禁止の通達と内規の見直しが局長名で出されました。やむを得ないという条項を入れたいと上申しましたが却下、入換えはすべて押し込み入換えとなりました。(他局は不明、)
しなの7号
さすが、貨物輸送シェアが高かったころの構内作業はキツそうですね。タンク車のドップンドップンと押し寄せる波の話は上の方でも書きましたが、異径胴のタンク坊主タキ9900やタキ9800を、その形状からハラボテタンクと言って、あれはブレーキが効かんと構内出身者が言ってました。私は構内経験がないものですから、そんな話を聞きながら作業してました。
入機での引っ張り出しも豪快ですね。殉職に至ることはなくても、ヒヤッとしたことは何度もおありでしょうね。ハインリッヒの法則覚えておられますか?
1:29:300というやつです。列車掛の面接試験で訊かれるから覚えとけと言われ、37年経った今でも覚えてます。