熊本地震で被災された皆様に、お見舞い申し上げます。
今回も多少なりとも熊本に関係することを書いていきます。
先週は、特急「つばめ」について書きました。山陽新幹線岡山開業前の「つばめ」のほかに、もう1本の名古屋と熊本を直行する列車があり、それが急行「阿蘇」でした。
運転されていた時期は、山陽新幹線博多開業時のダイヤ改正時1975年3月まででしたから、名古屋から熊本を結ぶ列車としては、特急「つばめ」より遅くまで残っていたことになります。私が国鉄に就職したのは1976年でしたから、その1年前まで「阿蘇」は名古屋始発として運転されていたことになりますが、そのころの受持ち車掌区は、私が赴任した車掌区でした。「阿蘇」はAB寝台車とグリーン車,普通車を連ねた旧形客車で組成された列車で、数が多かったEF58に混じって少数派だったEF61が牽く列車としても異色だったと思います。
(1974.4.28 米原~醒ヶ井)
就職した直後には、その「阿蘇」に使われたと思われるグリーン車「スロ54」が余剰になったとみえて、蟹江や永和といった名古屋近郊の小駅の中線に留置されている姿を乗務中の車窓から見かけたものです。
高校生のとき、私は冬休みを利用して山陰から九州にかけて蒸気機関車の撮影旅行に出たことがありました。その帰路に黒崎から名古屋まで「阿蘇」のB寝台車(スハネ16)の中段に乗ったのが初めての寝台車体験でした。
高校生の分際で寝台車とは贅沢かもしれませんが、旅程の5泊中2泊を夜行の普通車で過ごしたあとの最終日でしたから、疲れてもいましたし、許されると思ったのです。
B寝台の中段はたいへん狭く、車内放送を録音するためのラジカセ以外の荷物を、通路の天井裏のようなところに押し込んで寝ましたが、大切なカメラと撮影したフィルムが入ったリュックが盗まれないか心配でした。
この時の録音を改めて聞くと、その時代がいろんな面で今とは違っていることに気付かされます。
Youtubeに音声をアップしたので、ぜひお聴きください。場面は名古屋到着時車内放送で4分20秒ほどあります。(映像はありません。このブログ記事に使用したのと同じ静止画像を使用しています。また、説明文もこの記事の内容を流用しています。)
このときの車掌長氏の放送には聴きどころがいくつかあります。
まず、放送すべきことを必ず2度ずつ繰り返して、聞き逃しや聞き間違いがないように努めていることがわかります。
「特別…失礼しました。急行阿蘇号をご利用~」というi言い間違いも、すでに特急が増えてきた時代だからこその言い間違いかと思われます。このあと、名古屋からの乗換列車案内では決して「特急」とは言わず「特別急行しなの5号 長野行」「特別急行くろしお5号 天王寺行」というように「特別急行」と言っているのも、まだ特急に格があったころだなと感じます。録音の2分35秒付近で、通過駅のホームで鳴るベルの音が2度入りますが、枇杷島駅を通過中の場面だと思われます。自動放送もない時代、このような小駅でも国鉄末期までは通過列車も含めて列車監視が行われ、当務駅長が列車通過の警告ベルを手動で鳴らしていた証です。
この放送での極め付け部分は、自動ドアではない旧形客車であるが故、「名古屋到着までデッキに出ないよう、デッキに立つ場合はデッキの扉は閉めるように」という注意喚起の車内放送で、これが繰り返し放送されます。
画像は当時の名古屋鉄道管理局発行のポケット時刻表からの転載です。
他の列車と違い、急行「阿蘇」だけが入区に都合がよい新幹線寄りの11番線(関西下り本線)に到着することが判ります。東海道本線を上って11番線に入る列車は、東海道下り本線だけでなく、稲沢方面から中央西線方面に向かう貨物線なども横断して、まるで蛇がくねるように、何本もの線路を渡りながら11番線に入ってくるわけです。そのため車体が何度も左右に大きく揺れるので、デッキでドアを開けっぱなしで立っていると振り落とされる危険があったのです。
最近の名古屋駅では東海道本線の上り列車は、終着列車であっても1~4番線に入ることがほとんどです。列車密度が高くなったため、東海道下り本線を横断すると下り列車のダイヤに支障が出てしまうからなのでしょう。
放送冒頭にあるように、この日は時刻変更して到着時刻が繰り下げられていました。実際に11番線までガタゴトと線路を渡っていく前に、下り列車の通過を待つための名古屋駅の場内信号機の停止信号による長い機外停車があって録音時間が長くなりました。その結果ハイケンスのオルゴールが終わった時点でいったん録音をカットしてしまいましたので、オルゴールが終わった直後(3分40秒)からは、場面が名古屋駅の11番線ホームに停車する直前に飛びます。
ここでも、「よく止まってからお降りください」が繰り返されます。
名古屋駅に据え付けられた熊本行き下り阿蘇号。
手前はスロ54 中央はオロネ10 奥はスハネ16です。
上の画像は、録音した当日の撮影ではなく、さらに前の1971年5月5日、名古屋駅に据え付けられた下り熊本行発車前の画像です。中学生になってカメラを自分で持つようになり、初めて父といっしょに飯田線に行った帰路に撮影したものです。
そして下の画像は、さらに時代が遡り、私が小学生のころ(1967~1968年頃)の名古屋駅ホームで撮影された急行阿蘇編成の車両ナンバー部分です。初めて見た2人掛け回転クロスの2等車スハフ43、1等寝台(Bクラス)のオロネ10でした。小学生ではカメラは持てず、この画像は同行の父に撮ってもらった3枚の写真を1枚にまとめたものです。その父が亡くなって、今日でちょうど3年になります。
廃止を伝える新聞記事
(昭和50年3月9日 中日新聞朝刊の転載画像)
この列車の廃止後、「阿蘇」の名称は、新大阪始発熊本行14系座席夜行急行にコンバートされました。
私にとって、阿蘇号はこの録音をしたときが最初で最後の乗車になりましたが、国鉄分割民営化後、JR九州の豊肥本線に、JR四国から購入したキハ185系による「特急あそ」が登場し、一度だけ乗ったことがあります。まさに阿蘇山のお膝元を走るようになったわけですが、特急とは言っても、国鉄時代の「急行阿蘇」とは格付から言ったら、足元にも及ばないように思います。
ところで、アップした録音での放送の主はどなただったのか、実はわかっていません。就職直後に赴任した車掌区の大先輩であったことに違いないはずですが、400人からの大所帯の職場で、18歳で就職したばかりの荷物車作業員にとって、客扱の車掌長氏は雲の上の人であって、仕事の接点もありませんでしたから、その当時、確認する術はありませんでした。
この記事へのコメント
旧客ファン
ヒデヨシ
名古屋始発時代の阿蘇は中学生の頃
二度乗車しました。
名古屋駅の改札内で阿蘇用待合室があり
そこで待機でした。
二度とも座席でしたのでオール座席だと思っていました。
家族でボックス席に4人座り小倉まで
15時間くらい?
当然拷問のような旅で自分や弟は椅子の下の床に新聞紙を引いて寝ていました。
後年関西始発になった14系に国鉄入社後から愛用するようになりました。
NAO
仰っていたオロネ10、スロ54の写真、有難うございます。編成表を見て納得しました。基本編成が共通運用でしたか、「天草」牽引EF58を見に行ったとき、見送りのグリーン車からホームをあんまり長く歩いた覚えがなかったのですが、連結位置で納得です。
今回の記事も読みどころ満載ですね。九州を旅行したとき、帰りの京都までの新幹線指定券を新飯塚で買ったところ、同一金額帯の小倉→新大阪D型常備券の着駅をボールペンで抹消し、京都のゴム印を捺されてちょっとがっかりだったのです。そのあと降りた後藤寺の出札窓口を覗いてみると、着駅新大阪も京都も常備券が備えられていて、二重に悔しかった駅でした(少笑)。
ちなみにこの時代、客車Bネも下段は別料金だったのですか。上中段と印刷されているので最初は電Bネ券かと思いました。
車内放送も今となっては聴きどころ満載、詳しい各線乗り換え案内も久しぶりに聴きました。あれを耳にするたびに車掌長さんになりたいなあと思ったものです。
そういえばエル特急乱発時代になっても、地元駅では「次の特別急行雷鳥○号にご乗車のお客様は黄色い吊り下げ札1番から12番の下で~」なんて放送をよく聴きましたが、食堂車も連結したフル編成単体だけで見ればまさしく特別な急行だったかもしれません。もっとも私のような人間が乗ること自体、大衆特急とは思いますが。
しなの7号
昭和49年ころは、おっしゃるとおり東海道筋対九州の客車急行は、阿蘇と高千穂・桜島の二本でした。時刻表をひも解きますと、対九州以外の列車では、草津なら「銀河」2往復と「きたぐに」もあって、名古屋以東なら「紀伊」が銀河のうちの1本に併結されていたころです。EF61牽引の荷物列車には乗務する機会がありましたが、荷扱ですと仕事上で車両の外に出ることは湯の補給くらいしかなく、乗務中に機関車を眺めることができませんでした。その後の列車掛時代には西浜松に乗務で行くと、隣接する浜松機関区に、その折り返しで休んでいるEF61を見ることはありました。
しなの7号
旧形客車の旅をしたいと今でこそ懐かしく思うものですが、そういえば昔の名古屋駅には、待合室は改札内外にあり、決められた時刻にならないとホームには入れてもらえませんでした。夜行列車に乗るため、コンコースの決められた場所に早くから並んで新聞紙を敷いて座り込んだり、あの時代は今のような快適な旅にはほど遠かったと思います。今は高速快適で、移動手段としては格段の進歩ですね。
しなの7号
掲載の切符でお気付きかもしれませんが、単なる「丸職」でなく「急行券丸職」のゴム印は、急行券部分だけ「職員割引で料金不要」の意味だと思われます。寝台券には一般職員の割引はありませんでした。
また、この当時にはB寝台に2段式はありませんでした。調べてみましたら2段式の24系25形が営業開始したのは、その翌年で、その時から別に客車2段Bネ料金(上下段とも電車寝台下段と同額の1600円)が新たに設定されています。
食堂車と2両のグリーン車を連結した長編成の雷鳥などは「特別急行」の名に恥じない列車だったですね。供食サービス付で特別車両を楽しむ特別列車は今でもあるわけで、需要もあるようですが、それはどんなに豪華でも速達化を目的とする「特別な急行」にはなり得ないですね。個人的には「特急」の呼称は定期の「急行」が消滅した今はもちろん、その運転線区の定期優等列車が全部特急化された時点で旅客案内上不適切だったと思います。
「特急」のように、かつて「特別」であったことが日常になったことが生活の中に無数にあることを、物心ついてから半世紀以上たった今、感じます。あのころ不可能か特別だったことが日常になっているから、もう特別扱いできません。私はプライベートだけでなく仕事でも乗客として特急列車に乗ってこられたNAO様とは違って、特急とは縁のない暮らしですが、この急行阿蘇があったころを顧みて、特急にひょいと乗ろうと思えば乗れる今を生きていられることに感謝しなければならないでしょう。
門鉄局
急行「阿蘇」懐かしいですね。私は14系に置き換えられた晩年しか知りませんが、以前は食堂車こそないもののAB寝台車にグリーン車も連結した格調高い編成だったのですね。
黒崎から乗車ということは筑豊本線の蒸気撮影の後ということでしょうか?狭い10系B寝台車でしたが、冷房があるだけ夏場は快適でした。かつては特急・急行、夜行・昼行と好みで選ぶことができましたが、現在はすっかり整理されて選択の余地がないことに不便さを感じます。良くも悪くも国民の足を標榜していた「国鉄」と採算と合理性第一の「一民間企業」の差でしょうか。
車内放送聞かせていただきました。ベテラン車掌長による落ち着いた車内放送に信頼と旅情を感じたものでした。目を閉じると車内のニスの香りやスハ43系のウイングばね台車の心地よい振動まで蘇ってくるようです。
しなの7号
このころの旧形客車で「格調高い編成」の頂点は「銀河」でしょう。「阿蘇」は格こそ落ちますが、座席車を併結して庶民的な客を含む広い客層に対応する列車だったのですね。一つの列車で、ハ・ハザ・ロザ・ハネ・ロネと選択できるというのも、今では考えられないことです。
お見込みのとおりで前回「【700】700回めを迎えました」の記事にアップした二島駅のD60を撮影をしたあと、折尾経由で黒崎まで来て乗車しました。
列車に乗ると、今でも車内放送には耳を傾けてしまいますが、自動放送が増えただけでなく、肉声放送でもマニュアルどおりの画一化された放送内容が増えて、没個性的になってしまい、この録音のような語り口の車内放送には出会うことがなくなりました。
alfee
急行 阿蘇・・・懐かしくて。
1965年くらいだったか、家族で九州旅行の時博多から名古屋まで普通車に乗車しました。小学生とはいえ座席が狭かった記憶が鮮明です。 往きは初めて乗った大阪からの急行寝台 ひのくに 記憶は強烈です。
その後学生時代を富山で過ごし、学生の身分でほとんどが急行のりくら号でした。 富山へ戻るときの高山過ぎてからの車内は閑散としており下りのキハ58は夏以外は暖房も効かずとても寒かったです。
富山から名古屋へは一度だけキロ20系だったか、昔の1等車の普通車扱いに乗りましたが記憶が曖昧です。 車両の真ん中にディーゼルの排気があって太い柱みたいになってた記憶が残ってます。
たまに特急ひだ号に乗りましたが殆ど覚えてません。 富山-名古屋間4時間20分だったので多少高価でもしらさぎ号を利用しました。 好きだったのは折り返しに名古屋から金星になるしらさぎ3号でした。 アイボリーにブルーのラインがまだ485系全盛の頃には新鮮でした・・・。
懐かしすぎます。
しなの7号様の他のブログも拝読させていただきます。
木田 英夫
今回も懐かしさでいっぱいです。あまり記事とは関係ありませんが。
1.名古屋到着時の車内放送での「くろしお天王寺行き」のところ、以前一度コメントしました「はやたま」の座席車での乗り通しのことをまた懐かしく思い出しました。
2.高校生であったしなの7号様の寝台券に◯職の印。これは家族パスのことでしょうか。高校時代の修学旅行、振子特急しなの号の初乗りだったのですが、その説明会の時に「家族パスのある人は出して下さい?。」のようなこと、言われていたことをうっすら覚えています。確か3割(or5割)引きでしょうか。
話しは変わりますが、この急行阿蘇の大阪駅の発着時刻は何時頃だったのでしょうか。おそらく早朝深夜だったと思いますが、ひょっとしたら西ノ宮〜芦屋間で見かけていたかも…しれません。
いつもありがとうございます。木田英夫
しなの7号
名古屋始発の九州行の列車があったなんて、今から思うと信じられないくらいですね。寝台車やグリーン車が連結された編成が入出庫まで名古屋駅に留置されているのを幾度か見たことがあります。乗る機会はこのとき1度しかなかったですが、その数か月前にも旅先の熊本駅で始発前の編成に遭遇し、遠隔の地で「名古屋行」のサボを見たときの印象は強く残っています。
高山本線での「昔の1等車の普通車扱い」のお話は、キロ25格下げのキハ26-400番台のことだと思います。念のため雑誌の配置表によれば美濃太田に複数配置されていたことを確認できました。中央にあった排気管は目立ちましたね。
下り「のりくら」の高山以北で暖房が効かない件は
【543】 キハ58系の暖房調節~武豊線920D~925D
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201412article_7.html
の後段で、ちょっと触れています。
1エンジンのキハ28より2エンジン車キハ58に乗ると暖房がよく効きました。
「金星」間合いの「しらさぎ」の件は、
【783】撮り鉄12か月…1974年4月「北陸本線鳩原ループ」
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201704article_1.html
【1442】一枚の画像から:その17「581・583系しらさぎ」
https://shinano7gou.seesaa.net/article/488760728.html
に画像がありますので、よろしければご覧ください。
しなの7号
昔の乗換案内放送からは、長距離列車のネットワークを偲ぶことができますね。名古屋から紀勢本線を走破して天王寺に至る列車に代表されるように、1つの列車が終点までにその使命を変えながら運転されていたことにも興味を惹かれます。
マル職は職員やその家族を対象とした割引証(のちの割引券)による割引乗車券類を指します。乗車証(いわゆる無料パス)とは別物です。どちらも安月給だった国鉄職員の賃金の一部みたいに捉えられていたのですが、さすがに大赤字に加え国鉄叩きがあって縮小されました。
名古屋発着時代の阿蘇号の時刻ですが、1973年10月号によれば
下り、大阪発22時13分 上り、大阪着6時43分
基本編成は京都発着の天草号と共通運用だったようですから、関西の方は天草号のほうに馴染みがあるかもしれません。天草号は
下り、大阪発20時44分 上り、大阪着7時48分
でした。
木田 英夫
やはり名古屋と九州を結ぶ夜行列車、大阪発着は早朝深夜。残念ですが見に行ける時間ではありませんね。
今大阪駅で見ることのできる夜行列車は、上りのサンライズエクスプレス1本のみ(下りは通過)で、夜行列車自体が絶滅危惧種といった感じです。長距離列車のネットワークがなくなって、いつかこのウェブログでも見た「新幹線と都市の通勤列車だけになる」事態になるとしたら、少し寂しい気がします。木田英夫
しなの7号
夜行列車が駅に発着するとき、日中のプラットホームとは空気がガラッと変わるような印象があったものです。今では鉄道の使命は変わり、空港・新幹線・バスターミナルが主役になって、旅立つ情景も様変わり。「津軽海峡冬景色」・「なごり雪」など昭和の名曲には夜行列車が登場するのですが、その情景がわかる年代も限られていくのでしょうか。
alfee
詳細な説明ありがとうございます。
キハ26-400番台の車両に間違いないです。ただ、シートのモケットがエンジだったか? ブルーだったか?記憶が曖昧です。 富山時代の同級生の鉄道マニアに車両の話をしたところ1-3等車時代の2等車両だと教えられました。
彼は蒸機の撮り鉄でたしか「きよすくじら」名でブログをやってたと思います。
【783】 【1442】拝見しました・・・ただただ懐かしいです。
私も撮り鉄の末席でしたが、最近は撮るものに興味がわかずご無沙汰です。 トワイライトエクスプレスのEF81、500系以降ご無沙汰です。
最近の車両は綺麗で格好良すぎで胸に来るものを感じません。
名鉄乗車時に窓に向かっての神宮前から中日球場前の並走区間でみたEH10に引かれた何十両もの貨物列車を数えていた頃が私の鉄道興味の出発点のように思います。
しなの7号
美濃太田に配置されていたキハ26-400番台には乗ったことがないのでシートモケットが何色だったか私もわかりません。単なる想像ですが、当面はエンジ色のまま運用され、汚れた時点で次の検査入場時にブルーに張り替えたり、600番台に再改造してロングシート化されたのでしょうかね? リクライニングしない回転式クロスシートと言えば「阿蘇」の指定席車スハフ43も同じでした。特急以外での2人掛け普通車(2等級制の2等車)には乗り得感がありましたね。
名鉄の列車から見たEH10が原点でいらっしゃいましたか。金山で撮影したEH10の画像がありました。
【1157】あの年の5月28日《1975年・2005年》
https://shinano7gou.seesaa.net/article/202004article_28.html
【1218】あの年の7月28日《1974年・1975年・1996年》
https://shinano7gou.seesaa.net/article/202006article_29.html
今の私も撮りたい列車や乗りたい列車がなくなってしまいました。自分の原点は非電化時代の中央西線で、そのころの列車は不便で汚い車両を連ねていましたが、自分には今の列車にはない味があったと思っています。
元九州人
当時はたしか「阿蘇」はスハ43系旧型客車の座席車のみの長大編成で寝台車は併結されてなかったように覚えていたのですが、勘違いだったのでしょうか?また後年14系座席車に替えられて「特急のようだ」と密かに喜んでいたのを思い出します。
ちなみに現在は信州在住ですが、うちには父が門司鉄道病院で働いていた関係で、昭和46,7年ごろのSL廃止時に放出されたSLプレートや様々な小物があります。その中には旧型客車の「博多ー名古屋」と書いた行先札があります。裏には「博多ー広島」と。昔は博多発の名古屋や広島行きの旧客普通列車があったのでしょうかね。
しなの7号
ご投稿ありがとうございました。
運転区間が名古屋~熊本間だったころの「阿蘇」は旧客編成でA・B寝台車が最後まで連結されておりました。新幹線博多開業の50.3ダイヤ改正(1975年3月)から運転区間が新大阪(大阪)~熊本に短縮されるとともに14系座席車になり寝台車不連結になったと承知しています。
この記事のいちばん上に編成表の画像がありますが、それをご覧いただくと12号車と13号車が「博多ー名古屋」となっています。お手持ちの行先標は、その阿蘇号の博多折り返し車両用という気もいたしますが、裏の「博多ー広島」の列車に心当たりがなく、私にはわかりません。
元九州人
早速の返答ありがとうございます。そうかそうか、自分が単身熊本に行ったのがたしか1975年なので、大阪止まりになってからの急行「阿蘇」だったのですね、私の馴染みの急行「阿蘇」は。
それまでの「阿蘇」に使われていたのでしょう、この客車サボは。当時は旧客の山陽本線直通長距離普通列車も存在していたように思うので「博多ー広島」にも使われていたのでしょうね。
どちらにしろ当時の門鉄局放出品なので、これを観ながら、あの無数の廃車SLが放置してあった、広大で寂しげな門司機関区周辺ヤードを思い出しています。
元九州人
しなの7号
鳥栖の広大なヤード上に使われなくなったオロネ10が長い間放置されていたということですので、ちょっと手元の雑誌で調べてみました。
その結果、その車両は工事用宿泊車として転用改造されたオヤ10 3のように思われます。当該車両は1974.12.11にオロネ10 35から改造され鳥栖区に配置。1987.2.6に門司区で廃車されているとのことです。その種車となったオロネ10 35は1961.9.12に熊本に新製配置され、オヤ10に改造直前の配置は長崎区。新製時点で「阿蘇」用だったかもと思い、手元の1961年10月号復刻時刻表をあたってみますと「阿蘇」の1等寝台車はその時点ではCクラス(オロネ10はBクラス)であり、大阪~熊本間に新設された「ひのくに」がBクラス1等寝台車になっていますので、「ひのくに」用として熊本に新製配置されたものと推定します。その6年後の42.10ダイヤ改正時の資料が別の雑誌に載っており、「阿蘇」(「天草」と共通運用)用オロネ10は名古屋区に5両配置。熊本のオロネ10は「ひのくに」用で4両配置とありました。
お手持ちの行先標は門鉄局放出品とのことですから、名古屋発着時代の「阿蘇」客車が名古屋区持ちなら変だと思われるかもしれませんが、博多~名古屋間の付属編成は竹下区持ちだったようですから不自然ではありません。
50年前はSL終焉期。のちに長距離列車は続々と廃止され今は新幹線時代。駅や沿線に半世紀前の風景を見つけるのも難しくなるくらいに時が過ぎましたね。
元九州人
私がぼやいた言葉の調査、ありがとうございます。そうそうそう、オヤ10と表記されていたように思い出しました、茶色の車体で。そういえば、相当以前の鉄道ファンだかピクトアルだかジャーナルだったか、雑誌に紹介されていたようにも記憶を思いおこしました。
オロネ10 35の生涯、詳細に調べていただいてありがとうございます。1974年から87年とは、自分が中学高校時代7年間(留年込みw)セッセと北九州熊本通い続けた期間、ずっと留置されていたわけですね、どおりで鮮明に記憶に残っているわけだ。
しかし、客車急行「ひのくに」とは今回初めて聞きました、後の特急「明星」の前進列車だったようですね、自分の出生前後の列車だったようですが、短命な夜行客車急行だったのでしょうか。お聞きしたいのは1等寝台車にBクラとCクラスがあったということ。オロネ10に二種類あったということなのでしょうか?その設備の違いとは?
また、うちの例の「博多ー名古屋」の行先札のことなのですが、今更ですが自分ちょっとこれが旧客の札なのか疑問に思えてきました。旧客の札だと上面に引っ掛け用の穴が開いているはずですよね?うちのは横に竪穴が開いているのです。なので、できれば写真撮ってお見せしたいのですが、ここには画像掲載できませんよね・・・
しなの7号
私のコメントが大雑把で誤解を招いたようですので、補足します。
二等級時代の一等寝台車(ロネ)には設備によって(形式によって)A~CとA個室とに分類されていました。オロネ10はBクラスでしたので、「阿蘇」が名古屋発着になった1961年10月時刻表でCと記載されていたということから、その時点ではオロネ10ではない格下の一等寝台車が使用されていたということになります。Cクラスのロネは主に戦前製の非冷房車でしたから廃車が進んで、1967年の42.10ダイヤ改正時点の「阿蘇」ではBクラスのオロネ10に置き換わっていたという経過になります。
ロネの区分についてはWikipedia「A寝台」に書いてあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E5%AF%9D%E5%8F%B0
「博多ー名古屋」の行先標ですが、電車用でしたら急行「玄海」のものではないでしょうか。拙ブログでは
【965】 中央西線を走った車両20 :475系電車と72系電車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201903article_2.html
他で書いていますが、その「玄海」は名古屋~博多間の昼行電車急行で、新幹線岡山開業時の1972年3月のダイヤ改正で名古屋~岡山間が廃止されました。そこで、新幹線岡山開業前年1971年3月号時刻表を見ると、広島~博多間に電車急行「はやとも」がありますので、お手持ちの行先標は「玄海」・「はやとも」用という可能性が高いと思います。
元九州人
それから、うちの行先札が475系のものだということは納得しました。何の車両のものだろう?赤ん坊の頃に載ってる写真がある181系「しおじ」か??なんか???・・・調べもせずに博多ー名古屋などどういう列車が走っていたのだろうと、思いを巡らせていたのですが、475系昼行急行がまさか名古屋まで走って行っていたとは!交流は九州内だけなのに、今思うとなんとも面白い運用ですね。調べてみると山陽線大阪方面行くのも「つくし」とか「はやとも」とかいろいろあったようですね。電車区は南福岡だったのでしょうか。475系は私にとって例の小倉―熊本間をセッセと往復していた当時、急行「ぎんなん」「かいもん」に使われていた、思い出深い車両です。
しなの7号
私も一等C寝台など、古い復刻版時刻表や旧客の参考図書の写真等での知識でしかなく、実車を知るわけではないのですが、列車の歴史変遷をたどることはたのしいと思っています。
そこで、本文掲載時刻の前々年1971年3月号時刻表をひも解いてみると、
急行「阿蘇」 熊本17:15-名古屋9:54
急行「阿蘇」 名古屋19:15-熊本11:56
急行「玄海」 博多7:19-名古屋19:43
急行「玄海」 名古屋9:55-博多22:21
急行「はやとも」博多11:05-広島15:46
急行「はやとも」広島17:08-博多21:43
となっていました。
九州~名古屋間の列車というのも今では想像がつきませんが、このほか、このころ特急「つばめ」も熊本~名古屋間の列車でした。名古屋で見られた475系は「玄海」が南福岡の車両で、北陸から来る急行「兼六」が金沢の車両でした。両者ともヘッドマークが取り付けられ、ビュフェも連結された列車でした。
今と比べれば時間がかかり不便この上ない交通事情ではありましたが、在来線の急行列車で九州までの車窓を楽しむ旅はできなくなってしまいました。
元九州人
かつての九州名古屋間の長距離急行の紹介、ありがとうございます。名古屋では九州の475系と北陸の475系が顔合わせることがあったんですね。現代では考えられない面白いシーンですね。475系のビュッフェなんて、僕は見たことも利用したこともないです。
かつての国鉄型車両では、同じ形式でも地方や管理局が違えば、何か微妙に匂いが違うというか雰囲気が違いましたよね。自分は初めて九州から上京した頃、常磐線の423系や415系に違和感を感じたものでした。全国各地に展開していた旧客やキハ20,52,58などは、各地方でそれぞれ香りも雰囲気も違って、それを楽しむのもいいものでした。当時は塗装などは画一的でしたけど、でも、その微妙な違いを楽しむのも鉄道の魅力というか。やはり日本国有鉄道が懐かしい・・・(笑)
しなの7号
そうでした。国鉄時代は同じ形式同じ系列でも所属局や区、担当する車両工場によって仕様が違ったり、仕様は変わらないにしても内外装ともにどこか雰囲気が違うことを感じ取れました。客車列車など使用線区が電化区間中心だと機関車のパンタの擦り粉で茶っぽく汚れ、非電化区間だと排煙の煤で黒っぽかったです。トンネル区間が多い線区だと気動車も含め、さらに黒っぽかったように思います。
名古屋で見た九州と北陸の475系は、ヘッドマークの形がまったく違っていたので一目瞭然でした。
元九州人
私のくだらない感傷に付き合っていただいてありがとうございます。歳のせいかどうも昔の思い出ばかりがこみ上げてきまして・・・
幼少期に一時期国鉄環境で育ったもので、国鉄の雰囲気判る方とはどうしても話したくなってしまうのです。
信州に越してきてからもこちらで大宮出身の元国鉄職員の方と知り合いましたが、そこの奥様と話していた時にたまたま「物資部」という単語を口にしたら「まあ、懐かしい!」と叫ばれ笑ったことがありました。
幼稚園から小学校低学年、門司に居た頃は国鉄団地の中に住んでいたのですが、アパート横に小学校、隣が鉄道学園で、真ん中に「物資部」という建物があって、自分が生まれて初めて知ったスーパーマーケットが「ぶっしぶ」でした。
幼かったから強烈に覚えているのでしょうね、まったく関係ないこと、失礼しました。
しなの7号
物資部・・・懐かしいですねえ。私も利用したことがあります。
以下の記事で、少しですが物資部のことに触れています。
【397】 亡父の最後の帰郷
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201308article_1.html
【1044】あの年の2月5日《2005年》
https://shinano7gou.seesaa.net/article/202001article_5.html
元九州人
ありがとうございます。ちなみに「物資部」って単語、ググってみるとかなり多く検出されるんですね。旧世代の国鉄時代を思い起こさせる良き語句なんでしょうか(笑)
今日、海を観たいと国道8号を走っていると、たまたま名立-谷浜間でクハ455-701と並走しました。あのツートーンカラー、やはり懐かしかったです。
しなの7号
それだけ「物資部」が生活の中にあった人が多かったということでしょうか。つまりは国鉄という組織が大きいものだったということなのでしょう。
国鉄形交直流急行電車、もう10年以上は見たことも乗ったこともなく懐かしく思います。今も走っていることがスゴイですね。地元を走っていたころに母が「あずき色の電車」と言っていたことを思い出します。