【703】 熊本機関区からの返信ハガキと鉄道郵便

熊本地震で被災された皆様に、お見舞い申し上げます。
今回も多少なりとも熊本に関係することを書いていきます。

これまでの熊本関係の記事のなかで、熊本駅でC11が牽引する特急「あかつき」回送列車の写真を撮って、そのあと高森線へ行ってC12が牽く混合列車の録音をして写真を撮ったのは、1973年の夏休みでした。そして山陰と北九州へ蒸機の撮影に行った帰路に急行「阿蘇」に乗ったのは、同じ年の冬休みでした。

ここまで熱心に蒸機を求めて出歩いていたのは、国鉄の蒸機が最終期にあったからにほかなりません。
しかし、そういうなりゆきで行くと、次の年の春休みには、当然のように北海道に行こうとの声が級友からかかりました。当時の北海道へは、もちろん青函連絡船に乗って行く時代です。北海道ともなれば日程は10日を越えるでしょうし、前年の九州行きでも心身ともに疲れた経験もあって、長い旅程を完遂する自信がなかったことも事実でした。そもそも私の嗜好は、一般にもてはやされる大型蒸機より、C12やC56が働く地方ローカル線や、小型のECやDCが働く中小私鉄のほうに傾いていたので、北海道より行きたいところはあったのでした。私は、北海道行きを断り、夏にまともに撮影できなかった阿蘇をバックに走る高森線のC12の撮影にもう一度単独で行ってみたいと思っていたのでした。
しかし、当時は全国の国鉄線から次々と蒸機が姿を消しつつあった時期でした。私は、蒸機の撮影に行くときは、臨時列車の有無や、その時刻を撮影地最寄り駅であらかじめ聞いたりするなどして現地へ向かうことはよくありましたが、「遠路はるばる九州へ行ったらDLだったorz」ということでは困ります。鉄道雑誌からの情報が唯一の情報源でしたが、高森線のDL化は時間の問題というようなことが書かれている時期でした。ここは直接機関区に聞いてみるのが一番と、春休みが来る前にC12の所属区である熊本機関区に返信用ハガキを同封した手紙を出して尋ねてみました。

画像は2000年に熊本へ行ったとき、まだ残っていた旧熊本機関区の給水塔
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今さら言うまでもありませんが、鉄道の現業機関にそのような照会をすることは、決してしないでください。これは今から40年以上前のことです。そのころは、機関区によってはアポなしで機関区に見学を申し込んでも、自由に見学させてくれた時代でした。
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上の画像は、蒸機終焉が近かったころの亀山機関区柘植支区構内の様子です。

そして下の画像はそのころ私が木曽福島機関区に見学に行ったとき、渡された注意書きです。
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「機関車にのぼらない」というようなことが書いてありますが、車両展示のイベント会場などでは、自由に車両に乗り込んだりのぼったり、遊具のように接している子供たちを幾度となく見ました。黙認されたのか、警備や監視を積極的にやっていなかったのか、あるいはその両方だったのかもしれませんが、そういう時代だったのです。下は鉄道100年記念で一般公開された神領電車区での画像です。
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その後、蒸気機関車がなくなって10年近くも経って私が国鉄で車掌をやっている頃でさえ、車掌区で臨時列車の時刻や編成などが細かく書かれた内部資料を、高校生らしき一般人に閲覧させていたことを幾度も目撃しています。いつも同じ顔ぶれの高校生が車掌区に出入りし、熱心に時刻などを書き写していたのですが、分割民営化が迫ってきたころから、ぱったりと見なくなりましたから、そのころから厳しく部外者をシャットアウトするようになったものと思いました。

話がそれてしまいましたが、熊本機関区からはきちんと返信が届きました。
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高校生には、内容はともかく返信が来たこと自体がうれしかったのですが、このハガキは、文面に書かれたこと以外にも楽しませてくれることがありました。返信ハガキに捺された消印にご注目です。
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「門司鹿児島間 西回 上一・門・熊」
とあります。このハガキは郵便車内で消印を押されています。
鉄道郵便についてはまったく知らない私ですが、
「西回」は、東側の日豊本線に対して鹿児島本線経由
「上一」は上り1便でしょうか。郵便車を連結した荷物列車は複数ありましたから「上二」とかもあったのでしょう。
「門・熊」は「門司~熊本」間でしょうから、熊本で郵便車乗務員が交代したと考えられます。
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上の画像は、このハガキが届く前年末に撮影した鹿児島本線の上り荷物列車です。2両目(機関車を除く)に青い郵便車(オユ11?)が連結されています。このように全国の国鉄幹線には郵便車が運用されていました。私の地元中央西線にも国鉄末期まで郵便車は、夜行急行1往復と、荷物専用列車を含む普通列車2往復に連結されていました。下の画像は中央西線の普通列車で、機関車の直後にオユ10形郵便車が見えます。
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郵便車の乗務員は、国鉄職員ではなく郵政省職員でした。主な鉄道拠点に「鉄道郵便局」があり、そこの職員が郵便車に乗務していました。その実態を私は知りませんが、鉄道郵便の廃止とともに鉄道郵便局は廃局になったのでしょう。しかし、今からわずか9年前の2007年9月に米原へ行ったとき、駅からさほど離れていない場所にこんな廃屋が残っていました。
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「大阪鉄道郵便局米原支局」と読めます。その書体も各地の郵便局で見るものです。今はもうないと思いますが、撮影翌月には日本郵政グループ発足式が行われています。

「郵便車にはポストがあるんだぞ。そこに入れればちゃんと手紙は届く」と昔、父が言っていました。そんなポスト見たことないぞと思ったのですが、古い郵便車の形式図や画像を見ると、一部の形式ではウインドシル下の腰部に「郵便差入口」という郵便ポストの投入口があったことがわかります。
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(画像はオハユニ61のもの。)
旅先の鉄道弘済会売店(KIOSK)でハガキを買って郵便車から投函…そういうことをしてみたかったものです。

子供のころ、駅へ汽車を見に行くと、郵便車が連結されている列車に合わせて地元郵便局員が駅前ポストの郵便物回収に来て、そのあと、その郵便局員が駅ホームで郵便車の乗務員と郵袋の授受をしているのを、よく見ていました。駅前のポストの郵便物回収時刻は、郵便車連結列車に連動していたのでした。そういうことから考えて、この熊本機関区からの返信ハガキは、駅前の郵便局から投函された可能性が高いと私は思っています。

ところで、せっかく熊本機関区から返信をいただいたのですが、結果として私は春休みに高森線には行けませんでした。単独行であったことと、直前に風邪気味であったことから、母から旅先で熱が出て寝込んだら困るから日延べするよう説得されて、買ってあった乗車券類を払い戻しました。払戻す切符が、例によって職員家族割引だったこともあって、窓口氏は、非常にめんどくさそうにされていましたし、私は非常にいけない行為をしたように思いましたが、その方は私の同級生のお父さんで、私のことも知っていたはずでした。怒られはしないかと恐る恐るお願いしました。

今思うと、風邪気味だったといっても、時期的に見れば、ただの花粉症だったのではないかとも思えます。アレルギー性鼻炎とか花粉症とかが一般に知られるようになったのは、それよりも後でした。
返信ハガキは庶務助役あたりが、全国から次々と舞い込む照会の手紙に対して返事を毎日書いていたのかなあとも想像でき、お手数をおかけして申し訳なく思います。書いてくれた方は、定年近い助役氏であったとすれば、現在ご存命なら90歳台後半のはずです。この場を借りてお礼とお詫びを申し上げます。
ありがとうございました。そして申し訳ございませんでした。<(_ _)>
せめてこのハガキは大切に保管しておこうと思っています。

この記事へのコメント

  • NAO

    私が今の会社に就職したころ、ハガキや封書で商品購入の申し込みをしていただく方も居られました。入金されるのも現金書留だったり.....。
    このころは熊本だけでなく、各地の機関区で手紙の問い合わせがあったのではないでしょうか。機関区の方がホームで直接郵便車ポストに投函されたかもしれませんね。
    そういえば加悦鉄道に乗りに行ったとき、国鉄接続の丹後山田を出発、次の駅では早速郵袋か降ろされ、駅前待機の郵便自動車に積み込まれていましたが、たった一駅だけの私鉄郵便輸送、利権の問題だったのかもわかりません。
    大らかな時代はもうやって来ないのでしょうか。
    2016年07月11日 08:53
  • しなの7号

    NAO様
    郵便車があった時代、手軽で一般的な通信手段は郵便しかなかったですね。電話は長距離だと高額になりました。撮影旅行のときに10円玉をいっぱい用意して公衆電話ボックスで旅館予約をしたものです。

    本文でわかりにくかったと思いますが、オユ10やオユ11といった「新しい」郵便車には差入口が元からないみたいです。私は例示したオハユニ61のような「古い」郵便車そのものを見た記憶はあっても、その郵便差入口の現物を見た記憶がなく、当時はそういう取り扱いは廃止され埋められていたようにも思います。そのため郵便車に直接投函することは不可能だったと思われ、私の推察は本文に書いたとおりであります。

    加悦鉄道のような私鉄の郵便輸送と田舎の小さい集配特定局。なにか訳がありそうと、想像を巡らしてしまいますね。
    2016年07月11日 10:12
  • ヒデヨシ

    しなの7号様おはようございます
    昔は機関区の方も余程のことがない限り気にしてなかったですね。
    今のように管理責任が厳しく問われなかったのもあると思います。
    郵便車の消印はレアですね
    私も青函連絡船内で投函したのがあります
    この消印も珍しいですよ
    郵便車の側面の投函口、写真で見たことがあります
    ホームで投函できたんですね

    いつもしなの7号様の貴重な資料を楽しんでいます。
    お礼と言ってはなんですが
    しなの7号様がお持ちでないと思われるもの
    以前AGUIに投稿したものです
    一次入社試験案内書
    http://www.agui.net/imglog/agui/img-box/img20081031141856.jpg

    二次入社試験案内書
    http://www.agui.net/imglog/agui/img-box/img20081031142443.jpg
    2016年07月11日 10:39
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんにちは。
    今の風潮では、事業者側も簡単に敷地内に入れたくないのはたいへんよくわかります。(´・ω・`)
    青函連絡船内も郵便扱がありましたか。このとき北海道行を断った級友からは稚内駅のDJスタンプを押した稚内局消印のハガキが送られてきました。
    郵便差入口のある郵便車の画像をいくつか確認をしましたが、撮影されたのはこれより古いみたいです。

    貴重な資料画像ありがとうございます。実は私の手元にも両方あります。いずれブログ記事に使用するつもりですが、私のは1年前の日付で、1次は地元の高校、2次は同じで鉄道病院が会場でした。様式は同じです。
    2016年07月11日 11:29
  • 天鉄竜機

    しなの7号様
    記憶の風化でしょうか?あれだけ旧型客車と荷物車・郵便車を牽引していたのに。あまり多くのことを覚えていませんね。鉄道郵便廃止で百済駅構内の鉄郵詰所が廃止されたのを覚えています。竜華機関区は本線の中にあり職員通路からでないと入れませんでした。上り側ですと私の組合事務所の前を通ります。見学は機関区当直に行くように案内してました。例のはがきは当直の兼務助役(組合員)あたりが構内助役に運用確認後記載したのでは。私もそうでしたが、多少の誇りを持っていたので「機関車が好き」と言われると断りきれなかったんでしょう。鉄道先進国のように【保存鉄道】をボランティアで運営したいですね。もう体力は限界ですが。高速・効率ね~。
    2016年07月11日 15:09
  • 門鉄局

    しなの7号様、こんにちは。
    私は幼過ぎぼんやりした記憶しかないので、諸先輩方の蒸気時代のお話には憧れます。昭和45年の鹿児島電化以降、熊本機関区では入換用C11と高森線用C12が残るのみだったのですね。そう言えば「はやぶさ」の熊本回転車をDD16が引き上げてる映像を見たことがありますが、DE10でないのはC12亡き後の高森線用でしょうか?C12は天寿を全うしたと言えますが、DD16は多数が10年も経たないうちに失業してしまった悲運の機関車でしたね。
     荷物車・郵便車もマニ50・スユ15・クモユ143等新造車が昭和50年代もバンバン投入され、未来は明るいように思いました。わずか5年以内で廃車になったものもあり、急転直下のように見える撤退の決定がいつどのような経緯でなされたのか未だに疑問です。個人的な見解ですが、郵便・荷物輸送からの撤退が現在の夜行列車廃止の流れを作ったものと思っています。高速バスの隆盛を見る限り夜行需要が消滅したとは考えにくく、JR各社に人手と経費掛かる夜行列車を育てる気がなくなったということでしょう。いっそ高速貨物列車に寝台車を連結した「新混合列車」の運転を夢見ていますが、これは実現しそうにはないですね。
    2016年07月11日 15:11
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★ボクが最初にいた四日市駅でも、
    たしか、郵便の鉄道輸送がありました。
    はっきりとした時間は、覚えていませんが、
    確か、午後です。
    そして、当時、ホームにポストがあり、
    郵袋を運搬してきた係の人が、
    そのポストを開けていた風景を、思い出しました。
    2016年07月11日 19:24
  • しなの7号様、こんばんは。
    まさに昭和の時代ですね。私は機関区や運転所の見学や立入りはしたことがありませんが、昭和54年3月のDF50さよなら運転で亀山駅から機関区を眺めたのと(カメラは持っていませんでした。)小学生の頃、伊勢市駅の近鉄のホームで看板の隙間から伊勢運転区に留置されている気動車を眺めるのが好きでした。そういえば一度、伊勢運転区の構内で気動車の仕立て作業があり、ずーっと見ていたかったのに、乗るべき近鉄電車が入ってきて、母親に「いつまで見とんの!乗り遅れるに。」と言われ、後ろ髪を引かれる思いで電車に乗り込んだ次第でした?
    後年、一時伊勢市に住んでいたのですが、その頃はJR東海の車両ばかりの中に(僅かにキハ40もあり)JR西日本所有の団体運用となったキハ181が留置されていた時は、いつもの日替わり弁当の中に伊勢エビか特上松阪牛のステーキが入っているくらいの感動がありました。
    2016年07月11日 19:46
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは
    あぅあぅ
    お持ちでしたか
    さすがです
    実はこの後に勤務地への出勤要請の葉書が来ましたが、それは紛失してしまいました。
    昭和50年代初めは郵便車がまだ全盛期の頃で国鉄小荷物も貨物、旅客は赤字でしたが頑張っている状態でしたが
    例の宅配便の発明で一気に消滅した感があります。
    Q太郎がマスコットになった頃からかな?
    持ち込むのも大変ですが手カギ用のヒモを付けないといけないとか制限も多かった気がします。
    2016年07月11日 20:30
  • しなの7号

    天鉄竜機様 
    私の場合、特に50歳過ぎの記憶の風化には著しいものがあり、怪しい記憶は記録や資料による裏付けで安心する場面が増えています。そのほか、たとえば百済にしても、乗務列車にはスユニが連結されていたのに、鉄道郵便の乗務員の詰所や宿泊場所がどこで、どんな乗務行路だったのか、知っていることが何一つありません。
    竜華機関区にはお邪魔したことがありませんが、ちょうどこのハガキの時期にはEF52が終焉期だったと記憶します。国鉄末期でもEF5866とか人気のELが配属されていたので、見学希望者は多かったでしょうね。自分が職業で携わっている車両に愛着を持って訪ねて来られれば、管理者には内緒でも見せてあげたい気持ちになるのは自然だと思うのですが、それが許されない時代になりました。保存鉄道、大いに結構で知識と経験を活用して充実した老後を送れそうです。ただし、「この国のすべての年金生活者を含む国民が死ぬまで安心して生活できるような社会保障制度があるならば」という条件がないと自分の老後が心配で現状では私にはできません(;^ω^)
    2016年07月11日 21:11
  • しなの7号

    門鉄局様 こんばんは。
    SLブームがあり、蒸機の活躍を記録し、また記憶し礼賛する人は多いですが、その後を受け継ぐため誕生し、わずかな期間で職を失った車両たちは、SLファンに嫌われたばかりか短期間で知られずに引退したケースが案外多いですね。すべて国鉄を分割民営化しやすいように切り落としていった結果と言っては言いすぎでしょうか。夜行列車の廃止論は国鉄時代にもありましたが、ここへきて現実になってしまいました。「いちおうお約束は果たしました。もう時効ですよ」とJRから言われている思いです。
    鉄道貨物へのモーダルシフトはほとんど進んでいないように思いますが、国家主導の交通政策の一環として法的整備をして、貨物と旅客との混合一体輸送やカートレインなども含めて、運行エリアが分割されていない貨物列車にこそできる輸送手段を実現させ、鉄道輸送全体の活性化をさせていただたらいいのですけどね。
    2016年07月11日 21:12
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様
    そういえば、壁掛け型の郵便ポストがあったような。
    今でも東京駅とかには、ホームではないものの改札内に郵便ポストがあるらしいです。
    2016年07月11日 21:13
  • しなの7号

    天様 こんばんは
    亀山機関区の場合はSL末期には関係者以外立入禁止になってしまい、実際に亀山に行ってみると鉄道公安職員が見張っていました。そうさせる理由が鉄道ファン側にあったのでしょう。伊勢運転区(→伊勢車両区)は駅ホームから眺められる基地でしたので、昨年JR東海のキハ40・48の乗り納めに行ったときに転線入換の姿を眺めました。ここも今年3月末で廃止されてしまい、車両の配置はなくなったとのこと。当面、跡地は夜間滞泊の場として利用されるとのことですが、すでに施設の撤去は始まっているらしいです。近年は西日本からの団臨も来なくなりましたし、他社の車両が留置されることなど今となっては信じがたい光景ですね。
    2016年07月11日 21:13
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんばんは。
    勤務地への出頭通知もあります。私の場合は直前に現場からも電話連絡がありました。庶務助役から、「名古屋駅の西口の改札で待っているから○時の列車に乗って来てください」と。
    ヤマト運輸のオフィシャルサイトによると、昭和51年に「小口貨物の特急宅配システム『宅急便』を開始」とあり、これは私が国鉄に就職した年に当たります。その年から年末の繁忙期を3回経験しましたが、鉄道荷物が減っていくことはわかりました。荷物をずいぶん雑に扱ったものですから、今ならクレーム続出のように思います(´・ω・`)
    >Q太郎がマスコット
    私、それは知りませんでした。
    2016年07月11日 21:14
  • 鉄子おばさん

    お疲れ様です。今回も古きよき時代を想わせる記事ならびにお写真をUPしてくださりありがとうございます。今もなお機関区等がアポなし見学OKであれば私の血が騒ぎまくるでしょう。今は一般公開する事はあるものの怪我人でも出れば新聞沙汰になるので主催する側は大変ですね。社員さんが繰り返し注意をしても日本語がわからないわけではないのに聞く耳持たない人も多いから困りものです。SLではありませんが6年前に後藤総合車両所の一般公開に行った時は「大人の社会科見学」の名に恥じないよう皆さんマナーを守って見学されていました。貴重な返信ハガキいつまでも大切になさってください。
    2016年07月12日 12:36
  • しなの7号

    鉄子おばさん様 こんにちは。
    ふと思ったのですが、今は無料工場見学を常時やっている食品会社とか、結構ありますね。ガラス張りの見学コースが工場に造ってあって、おみやげまである。企業としてはイメージアップにつながるでしょうから、鉄道でも車両工場や基地に常設見学コースを設定してほしいなと思うのですが。多少の見学料金くらいは構わないので、実現しないかなあと。
    2016年07月12日 13:28
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    多くのページを読みながら、またも鉄道郵便を濃く伝えていただいたページを見つけました。熊本からのはがきに押された消印のご見解はそのとおり間違いありません。九州の鉄道郵便局は熊本だけ本局があり、他の拠点駅にあった鉄道郵便局はすべて分局だったのは意外です。熊本駅構内のポストに投函されたため、鉄道郵便局が回収して上り乗務員に託されたと思われます。実は、門司鹿児島西回り便による普通郵便物への消印は、この1年後に廃止しましたので、鉄郵印収集家ですらあまり所蔵していないとか。と申しますのは、昭和50年3月に「門司鹿児島西回特例輸送」が実施され、車内での封書はがき1通ごとの区分(速達を除く)を廃止したためです。東海道山陽線荷物列車の東京門司便は昭和47年3月に施行していたため、同線と郵便車が直通する鹿児島本線も合わせたようです。すっどあと、昭和58年の時刻表では、上り一号は荷2032列車(熊本)になっていますので、当時もそれに近い時刻の荷物列車か旅客列車だったかもしれません。なお、当時すでに福岡大阪間の封書、はがきは航空輸送だったので、この車中で航空郵袋に詰めて博多駅で降ろされ、伊丹空港まで空輸後に、大阪駅で東門上り便に積まれたと推定しています。
    2020年04月25日 14:09
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    素人の怪しい鉄道郵便の記事へのご検証ありがとうございました。
    門司鹿児島西回り便による普通郵便物への消印が、この1年後に廃止されていたのですか。荷物列車が鹿児島や熊本から汐留まで通し運用でしたから、そういう取扱は当然なのでしょうね。
    「昭和58年の時刻表では、上り一号は荷2032列車」とのことなので、時刻表を見ますと熊本発は15時過ぎですね。それではということで、昭和48年10月号時刻表を紐解きますと、熊本始発15時47分汐留行の荷40列車が比較的近い時刻です。前後には客車列車もありますから断定はできませんが、午後の列車ということであれば、徹夜明けで午前中に勤務を終えた機関区の助役氏が、雑用とともにこういう返信を書いてから、家に帰るついでに駅のポストに投函してくださったのかなあと想像しました。
    福岡大阪間航空輸送という経路はまったく想像もできませんでした。ご教示ありがとうございました。
    2020年04月25日 20:26
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    熊本15時台に荷40列車があるのなら、おそらくそれに連結と思われます。鹿児島~熊本間は普通列車連結で、熊本で連結替えしたと推定しています。徹夜明けの助役さんが書いてくれた…と思うと暖かみを感じますね。ちなみに特例輸送は当初は東京鹿児島間しか実施せず、57・11改正以降に大阪青森線などで順次取り入れ、その後あっという間に61・10で鉄郵廃止となりました。中央線EF64客車列車のオユ10は名古屋駅何時ころ発車でしょうか。これも昭和58年の時刻表では「名古屋長野下り一号」は名古屋5:44発の荷2041列車、「名古屋松本下り」は13:38発の荷2043列車となっています。
    2020年04月25日 22:09
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    昭和48年10月号時刻表によると、鹿児島発6:23~熊本行12:50着の128列車というのがあります。午前中に鹿児島又は西鹿児島を出る鹿児島本線の上り客車列車はほかにありませんから、荷40列車の郵便車が鹿児島~熊本間の普通列車からの継承ということであれば、この列車かなと思います。

    中央西線のオユ10の画像は昭和50年8月の撮影で、朝7時台中津川始発の長野行825列車です。(松本から2825列車)
    この列車の実態は朝5時台に名古屋を発車する荷5041列車に中津川で客車3両を後部に増結した客車列車でした。57.11ダイヤ改正で、客荷分離され全区間荷物専用列車(荷5041列車)になりました。
    55.10改正~57.11直前まで、荷5041列車の始発駅熱田から名古屋までの一駅だけを車掌として乗務していたことがあります。郵便車は名古屋から増結する運用で、名古屋発時刻は5:48でした。
    いただいたコメントに昭和58年の時刻表で荷2041列車・荷2043列車とありますが、それぞれ荷5041列車・荷5043列車が正当だと思われます。名鉄局では、中央西線の荷物列車の列車番号に5000番台を使用しておりました。
    2020年04月26日 20:02
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    門鹿西上り一号は128列車~荷40列車と推定したいところです。熊本駅で2時間余りの留置時間がありますが、乗務員は熊本で交替したので、郵便物を車中に残し施錠するなど措置したと思われます。
    中央本線荷物列車の番号を誤記しており、荷5041列車・荷5043列車が正当で失礼しました。825列車に客車がわずか3両とは、荷物郵便主体のようで、函館本線でそういう列車に乗ったことがあります。名古屋発がこんな早朝ですと、乗務員が名古屋鉄郵なら前夜出勤で仮眠しなければなりませんが、名古屋長野線は担当が長野鉄郵だったので、前日の名長上り便で到着して宿泊したものと思われますが、まあ4時起きですね。
    このたびは米原分局の廃庁舎もご紹介いただいております。不覚にも米原では郵便車で数多く受渡をしながら、庁舎3階裏側からホームに延びる連絡通路側しか見ておらず、正面側を見たのは廃止後でした。当会ホームページでも、紹介しています。
    鉄道郵便局跡地ハイキング 大阪鉄道郵便局米原分局
     http://oyu10.web.fc2.com/beibun.html
    廃止後も長らく原型をとどめていましたが、よくぞご訪問いただき、御礼申し上げます。
    2020年04月26日 22:18
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    中央西線で客荷分離されたのは全線電化時の昭和48年7月からで、それまでの825列車は名古屋発長野行きの普通列車でした。この列車は通学にも利用していたことがあり、それ以前からこの列車にはオユ10が運用され、客車は5両、荷物車は2両だったと記憶します。全線電化時に他の普通列車は電車化されたのですが、荷物車主体のこの客車列車と対になる列車だけが中津川~長野間で客車列車のまま1往復残りました。荷5041列車は荷物車乗務員も長野局持ちでした。

    鉄道郵便局跡地ハイキングは、以前に拝見しており存じています。私も国鉄時代に米原には仕事で何度も行っていながら、出勤する車掌区が新幹線側にあったということもあって、国鉄時代に大阪鉄道郵便局米原分局の建物には気が付いていませんでした。国鉄の施設にしても夜間と早朝しか出入りしない出先の乗務員宿泊所などは、日のある時間帯に建物正面から眺めることがなく、あとで日中に見たときにこんなところだったかと思うことがありました。
    2020年04月27日 20:25
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    中央西線を普通電車乗り継ぎで旅したこともありますが、825列車が名古屋発だったころに乗れていれば夢のようです。同線の荷物車乗務は列車により車掌区が違っていたようですが、鉄道郵便局の乗務は、ほぼ線区ごとに受持局が決まっていました。例外もあり、東京新潟線は列車により(電車か、急行天の川かで)違っていました。鉄道郵便局跡地ページをご覧いただき、ありがとうございます。貴ブログにある、車掌区、宿泊所探訪と通じるところがあるかと思われます。鉄道雑誌では駅舎、扇形車庫には目が向けられますが、他の施設、建造物は記録が少なく、そこで働き、身を置いた者ならではの取材、記録が自由にできる媒体として、ブログ、ホームページの出番ではないかと感じるところです。米原車掌区ですが、8号線、近江鉄道側にかつて立派な駅舎があったので、そちらにあるかと思い込んでいましたが、新幹線側だったのですね。米原分局は、駐在、区分業務の職員が多いながらも、乗務員は米原貴生川線(近江鉄道)のほか、大阪青森線乗務もあり、米原⇒大阪⇒敦賀⇒米原という三角乗務行路で、私とも同じ車内でいっしょに作業しました。荷物列車でも、編成内の車両ごとで乗務する車掌区が違うことは多くあったでしょうし、同じ車内で他の車掌区の方と乗務したこともあったのではないでしょうか。
    2020年04月27日 23:09
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    もともと荷物車の乗務員は、複数の車掌区で同一線区を受け持ち、列車ごとに担当車掌区が違うことがあったようです。1970年代に荷物専用列車化が推進されると一列車に扱車が複数ある状態となり「車両ごとに担当車掌区が異なる」状況でした。そういう場合でも他の車掌区と一緒に作業することはありませんでした。これが53.10あたりで一列車に扱車が複数あっても「一列車一車掌区担当」の原則が打ち出されました。この場合には同一車掌区の他車両へ任意で応援に行き来することはありましたが、国鉄末期になると一列車に扱車1両+パレット車編成になっていきました。

    鉄道郵便局や車掌区の施設は一般の方々には縁がないので記録されたとすれば、列車追跡的なルポくらいでしょうかね。実際、自分の乗務範囲で思い出してみると、駅本屋内に車掌区や乗務員の宿泊場所が同居する例は少なかったです。
    2020年04月28日 20:18
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    荷物車に関する各ページを拝読して気づくのは、連結される複数の荷物車は通り抜けられるということです。郵便車では東海道線荷物列車のように扱い車と護送車の2両以上が連結されても、隣とは貫通幌はもとより、貫通扉も閉鎖し、災害等避難という特別な理由がない限りは車内移動してはならなかったものでした。それぞれの車両は別個の輸送便で、便長の指揮下で乗務員が執務していました。荷物車では次第に列車ごとに車掌区が統一されていったということですね。
    乗務員宿泊所について、郵政では国鉄敷地内はほとんどなく、市街地に建設するか民家等の借用でした。国鉄、JRの乗務員は、駅舎内に駅員が仮眠する寝室があるなら、乗務員寝室も隣接して割り当てられているものと思い込んでいました。しかし、駅構内ながらも駅舎とは別の宿泊所らしき建物から始発列車乗務員が出てくるのをよく見ましたし、ブログを拝読して駅外に宿泊した場所の方が多かったことを知りました。
    郵便車側面のポストについても触れます。これは諸外国の車両は早くから設置されていたのですが、わが国は戦後GHQの通信指導により鉄道郵便局にも様々な指示が行われた中で設置が進みました。全室の扱い車ばかりかと思っていたのですが、オハユニ61にもあったとは目からウロコです。しかし、廃止された時期が文献をあさってもわからずじまいです。少なくとも昭和32年から製造されたオユ10以降、10系郵便車には設置されていないようで、戦後しばらくのオユ、マユ各形式では設置が原則だったようです。スユ42に乗務したとき、押印台の奥をのぞくと、ポスト入口のふたとバネが見えましたが、外から見ると跡形なく埋められていました。やはり、投函すると押印台に落ちる仕組みのようで、そのときの便長から聞いた話では、投函する人が郵便車の進行方向宛の郵便物を入れてくれる分にはいいのだが、逆方向のものを入れられると、少量のブツを次駅で逆送したり面倒なものだったようです。(入れる人は考えていないみたい) また発車する郵便車を追いかけて投函しようとする人が駅員に制止されるなど危険な面もあり、業務合理化と安全面で廃止につながったそうです。
    2020年04月28日 23:26
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    荷物車にしても郵便車と同じで、執務中に担当車両を離れて他の車両へ行き来してはいけないのですが、積載範囲が各車異なるので、荷物の量や作業が集中する駅が車両によって違ってくることがあり、同じ車掌区であればこそ、勝手に幌をつないで、乗務掛が忙しい他車両の応援に行くのが現場の便宜的な慣習でした。もちろん責任者であり貴重品なども扱うニレチは留守番でした。

    掲載したオハユニ61の形式図は、誠文堂新光社刊客車貨車ガイドブック(昭和42年3月第3版)に掲載されていたものです。その説明文には、「昭和27・30・31年製があり、27年製と30年以降製とは郵便室の構造が異なり、窓配置が違う」とあります。その全面改訂版となる客車貨車ガイドブック(昭和49年4月第2版)には昭和30年以降製の形式図が掲載され、郵便室内の区分作業スペースと郵袋スペースの配置が、昭和27年製とは前後逆になっていて、図面に郵便差入れ口の表現がありません。同じ61系であるオハユ61についても、両ガイドブックをあたってみましたところ、両ガイドブックともに掲載された形式図に郵便差入口の表現がありませんでした。説明文ではオハユ61は昭和30年製とされており、昭和27年にはまだなかったようです。
    以上のことから、郵便車の郵便差入れ口がGHQの指導で設置されたとのことでしたら、サンフランシスコ講和条約が発効した昭和27年までに製造された車両にしか設置されず、それ以降は速やかに廃止されたと考えることができるのではないでしょうか。
    (掲載された図面が製造時のものでなく、後年になって郵便差入れ口を閉鎖された後のものかもしれないので、断定はしません。)
    2020年04月29日 20:52
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    荷物車の幌をつなげるのは国鉄マンならではです。さすがに鉄郵職員にできる人はいないでしょう。他の車両へ作業応援に行く目的であるなら、国鉄部内では大目に見ていたところでしょうか。
    オハユニ61は小浜線に撮影に行きながら、間近に見ることがなく、横川鉄道文化むらの保存車両で初めて車内に立ち入りました。客室、郵便室、荷物室の順でしたが、製造途中で荷物室が真ん中に変更されたことは知っていましたが、郵便室の室内構造まで変更されていたというのは、現場の意見が反映されたのかもしれません。ポスト廃止時期については、条約との関係までは考えるに至りませんでしたが、考察する上で大いに参考とさせていただきます。鉄郵OBでポストの話をしていて聞いた話、ポストの受け口は雨水が入らないようにフタがあり、内側からバネで押しているので、差し入れの際に強く押し込まないとなかなか入りにくく、はがき1枚を突っ込んだ人がバネの抵抗(?)を受け、はがきを線路に落としてしまったとか。これも列車が発車してから駅員さんが線路に降りて拾ってくれたそうで、国鉄にもお手数をかけていたようです。
    このたびは、駅前ポストの取集めについて書かれておりますが、まさにそのとおりで、郵便車に郵袋を渡すために出駅した受渡員がポストの鍵を携帯し、先にポストを開けて回収した郵便物を選別して、これから受渡する乗務員の輸送方向にある郵便物は送致証ともどもひもでくくり、乗務員に手渡すと車内で消印、区分されるわけです。担当した受渡員はホームページで説明しています。
    鉄郵塾 受渡員 http://oyu10.web.fc2.com/cyuuzaiin.html
    鉄郵がある大阪駅などの規模ならホームや構内にもポストがあり、郵便車の発着も多いのでダイヤに関係なく、駐在員が一日に何度も取集めして、簡易区分棚で方向別に分け、鉄道で運ばれない方向の郵便物は中央局に引き継ぎます。郵便車の便数が少ない駅では、取集め時刻は郵便車受渡直前になっており、郵袋受渡のついでに手渡します。当該列車と反対方向や、市内宛てのものは局に持ち帰ることとなります。小規模の駅での選別は、風で飛ばされるのを避けるためホーム上では極力行わず、運んできた車両の運転席、待合室のベンチや小荷物受付台を使い、ローカルな駅では、えてして駅員さんと親しいので、事務室の机を借りて選別していると、駅員さんがお茶を出してくれるというのが、当たり前の風景でした。
    2020年04月29日 22:01
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    隣接車両への移動するときには渡り板だけをセットして、幌をつながずに渡ったことも多かったと記憶します。また、幌をつないだまま降車時に外し忘れた例があったらしく、該当行路の出発点呼時に「幌をつないだら必ず元に戻しておくように」と言われたことがありました。解放するときに支障があって駅から車掌区に苦情があったのでしょう。「幌をつなぐな」と言わなかったのは、黙認するが元通りにしておけということでしょう。

    駅前ポストと郵便車との受け渡しについての解説ありがとうございました。「鉄郵塾 受渡員」も拝見しました。記事に書いた子供のころの記憶とつながります。上下とも約1時間に1本あった旅客列車のうち、郵便車が連結されている列車は上下2往復だけでした。集配郵便局は駅からわずか数百メートル離れていただけでしたが、その列車の到着前には赤い郵便局の軽自動車が来ました。局員の方は郵便ポストの中身を出し、郵袋を持って改札口から駅の事務室に入っていかれ、列車到着に合わせてホームに出ておられました。
    列車が行ってしまい、郵便局の軽自動車も出て行ったあと、日によっては荷物車から卸されたヒヨコが入った箱が改札口近くや、時には駅の正面にも積み上げられ、うるさいくらいの鳴き声がしていたこともあったと記憶しています。当時は同級生の家でも食肉用ブロイラーの飼育をしている農家は多かったようでした。その駅舎は今のところ健在ですが、リニア中央新幹線関連の工事で近い将来に新しい駅に生まれ変わります。
    2020年04月30日 20:36
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様
    貫通幌は重いですね。オユ102565の車体修復が行われる前に外してサビや穴あき補修をしようと着脱を試みたのですが、固着して一部しか外れず、あまりの重さに、外せば元に戻す自信がなく、あきらめました。修復工事では、業者から「幌の修復は困難。不要なら撤去する」と打診され、原型を崩さない…という保存車両の掟に反して、悩んだ末で撤去を求めました。両端ともツルツルの何もなしで戻って来たのはさびしかったですが、将来にわたり他車両と連結することがないとの判断と、付けたままだと屋外保存の宿命で、すぐ劣化するので個人レベルでは保守する限界を感じました。
    ご記憶の駅の風景で、軽四郵便車で到着した受渡員の様子を自分なりに想像しました。降ろされたヒヨコがブロイラー飼育され、地元養鶏業と荷物輸送がかかわっていたことにも気づかされました。郵便車に乗ると荷物車のヒヨコを目撃しましたが、なぜあんなのを運び、誰が受け取ってどうするのか、想像できませんでした。(養鶏場は育てた鶏が玉子を生み、玉子を出荷しなければヒヨコが生まれるからヒヨコを購入する必要がないとか考えていました)
    2020年05月01日 01:21
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    貫通幌の枠って、すごく重いですね。客車は両側からバネで吊ってくれているので、つなぐときは楽でしたが、車体から外すとなると、ユニック車でもないと無理でしょう。バネが吊ってある部分のどこかが腐食すれば再起不能ですし、腐食したまま展示中に万一落下すると事故の元なので、オユ10では致し方ないと思います。

    昭和時代の鉄道は、いまより生活に密着していましたね。子供の目で見た郵便やヒヨコがいる駅の風景でも、社会勉強になったと思います。教科書に書いてあることを覚えるだけが勉強ではなくて、遊びの中で学んだことは多かったし、大人になってから年を経るにつれて得られたさまざまな知識と経験によって物の見方考え方は変わり、その積み重ねこそが勉強なのだと思いますね。
    2020年05月01日 20:41

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