身近な鉄道であった中央西線では瑞浪電化時点で、(稲沢~)名古屋~多治見間がD51に代わってEF60 が就役し、約2年後の中津川電化の時点でEF60がEF64に置き換えられました。
16番の模型では、まだEF64が製品化されていませんでしたので、EF64と同じ貫通形電機ということで妥協して買ったのが、見たこともなかったEF65 1000番台でした。
これはデパート店頭でキットの在庫がなく、完成品として購入しましたが、メーカー完成品ではなくお店で組んだもののようでした。中学~高校生になって、模型の構造をひととおり理解できるようになってくると、スケールモデルの塗装済キットを組むようになり、自由形完成品はあまり買わなくなっていました。
組み立てて、それを走れる状態に完成させることに自信が持てるようになって、その過程をが楽しむようになったわけです。
そのあと、比較的安いスケールモデルということで買ったのが、つぼみ堂から発売されていたED17の塗装済キットでした。
実車は飯田線で見たことがありました。カツミ以外のキットを手掛けたのはこの車両が初めてでした。台車枠が3点支持構造でなく固定された台車枠は上下の遊びがなく、線路の状態によっては2軸ある車輪の片側一つの車輪がレールから浮き上がって集電状態が不安定になり、ときには脱線しました。台車と車体の接触によるショートも起き、走行状態を見ながらショートする箇所を探しては、車体裏側にセロテープを貼ったり、塗料を盛ったり、車体やパーツに手を加えて安定した走行をするように工夫することも覚えていきました。
ところで、当時の東海道筋でブルートレイン牽引機だったのは特急色のEF65 500で、牽引される20系客車ともども見たこともない夢の世界でした。模型でも夢であることは同じで、20系客車を買うことはできませんでしたから、EF64の代わりに買った特急色EF65 1000は、その夢の世界を少しは具現化させてくれました。そして、すでに持っていたカツミの「あさかぜスタイル自由形客車」(ナハニ・ナハ・ナハフ)の3両編成を連結すると、その艶があるオモチャっぽい塗装で中途半端なショーティボディはEF65 1000の高級感のある艶消し塗装の車体とはまったくマッチングしないのでした。
当時の東海道筋は非貫通のEF60やEF65が主役でしたから、その次は非貫通タイプのELの模型がほしくなりました。ところが当時のカツミからはEF65には1000番台以外のバリエーションはなく、非貫通直流F形機として製品化されていたのはEF60だけで、これもカタログによれば特急色と茶色の2種類だけで、一般色は遅れての発売でした。
画像は当時のカツミ模型店カタログからの転載画像です。
すでに実車の一般形EF60は茶色から青色に塗り替えられていた時期だったので、茶色はまったく欲しくありませんでした。中学生にもなると親と一緒に出歩くことをしなくなりましたから、小遣いが貯まると、母が名古屋のデパートに行くときに、模型売場へも寄って買い物をしてくるよう頼みました。貯めた小遣いと「第一希望はEF60特急色。第二希望はEF60青一般色(このころ製品化されていたか不明)どちらもキットでよいが、なければ完成品」と書いた紙を渡して、口頭で「茶色のは、あってもいらんから」と念を押しておきました。しかるに母が買ってきたのは何と茶色のキットでした。
母は何もなくてはかわいそうと思ったのでしょう。「茶色しかなかったけど、EF60だし、見たら落ち着きのあるいい色だから買った」とのこと。全財産を無駄にしたようで、このときはかなりのショックを受けました。母は、どうしても服飾の色使いや合わせ方で模型を見るようでした。この事件は今思えば、子供らしい感覚だと思います。
つまりそれは自分の責任であって、気を利かした母の心情もわからずに責めたりしたことは反省すべきことでした。親であっても、「一般人」には趣味の世界のことはわからないことだから、自分で動かなければだめだ、人にものを頼むようではだめだと思うようになりました。ちなみに、私はNゲージでK社の茶色のEF60を持っています。特別企画の限定品だったのですが、わざわざ買ったもので、気に入っているというのが、なんともお恥ずかしいです。
母が買ってきてくれた16番のEF60は、気が乗らずに組み立てたからというわけでもないのでしょうが、すでに手慣れた作業だったはずなのに、走りはイマイチでした。これはギアの調整が下手だっただけでしょう。このころはまだ縦型モーター2基の時代で、完成品だけに両軸の1モーターが採用され始めたばかりだったように思います。調整は下手でしたが、台車と車体、または車輪と台車が接触してショートすることがないカツミ製の走行安定性の良さは、他社製品と比較するようになって実感したことです。
************************
中央西線では全線電化までの間、電化区間でもELに混じって一部列車の牽引にはDD51が併用されていました。鉄道模型社から出ていたDD51は、当時走っていた地元の機関車そのものでもあったので、中学生の時に、これもお年玉他の有り金をはたいて買ったものでした。小遣いのほとんどが鉄道模型に消えていました。店頭には、このほかに青で塗装パターンも国鉄色とはまったく違った不思議な塗装のもあったように記憶しますが、いまだにそれが何者なのか不思議に思えてなりません。時は、実車にユーロ色やJR貨物の水色や青色が登場する一昔前でした。さすがにこれは売れなかったとみえて、長く店頭に残っていました。
凸型の車体形状からも想像がつきますが、中央キャブ部分に大型両軸モーターを装備して、今のNゲージみたいに両方の動台車の密閉式ギアボックスを介してで車輪を駆動させる方式でした。このDD51は台車と車体が干渉してショートしがちで、モーターには問題がなかったものの集電の影響で安定した走りが得られにくいことがありました。
一方で、カツミ製のプレスによる表現の車体に慣れている目には、エッチングによる細かいディティール表現と、DL特有の3色の塗り分けの実感的な車体は素晴らしいと思ったものです。
これは店頭で完成品を買ったのですが、大きめの箱にはキットと書かれ、ヘッドライトにはテールライトの赤い樹脂パーツが嵌め込まれて赤目玉になっていたことから、実車をご存じないお店の方が組み立てたものに間違いないと思われました。
この模型を買って少ししてから、エンドウから車体が一体ダイキャスト製のDD51が発売されましたが、店頭で見ると、エッチングとは正反対でボッテリしたディテールは異様な感じに思えました。たぶん走行性能はエンドウ製のほうがよかったのでしょう。
今、こうして振り返ると、昭和の時代、多くの中小の製造業が個々の業者それぞれに培った技術を生かして個性ある製品を世に送りだしていたことを、模型の世界で知ったことになります。同じ16.5㎜・1/80の基準の中で、メーカーごとにその手法やポリシーが異なっていたことが伝わってきます。そういう視点から古い模型たちを見ることに面白さを感じます。今回ご紹介した模型たちも、現在はすべて私の手を離れていますが、昭和の模型界の生き証人たちは、そういうことに理解あるコレクターの方のもとで、部品取りの役目などでかまわないので利用してもらえているとしたら、それはありがたいことです。
この記事へのコメント
NAO
覚えています、カツミのF級電機。我が家では国鉄の特急列車は遥か彼方の存在で、実際に国鉄、JRの特急には両親と乗ったことは無かったのです。ですからEF65の1000番台に「さくら」のヘッドマークを付けて20系客室を引く同社の宣伝写真を見ても何の違和感も感じませんでした。あれ?っと思うようになったのはブルトレブーム以降でした。
母親思いですね。私だったら茶色塗装を見たとたん、喚き、鳴き、叫び、怒りといったことになったでしょう。ただ、今だったら運用の都合で茶色EF60がヘッドマークを付けて20系を牽引した写真を見たことがあるので、100万歩ぐらいは譲るかとは思いますが。
友人がDD51を持っていたので走らせてもらうと、スケールオーバーぐらいのスピードを出さないとテールランプ点灯が認識出来ないような照度だったのを覚えています。この家庭は転勤族で、カワイの木製土床線路を持っておられたのですが、関西ではなかなか手に入らなくて、レイアウト拡大に苦労していました。
しなの7号
EF65の1000牽引の20系さくらですか。RJ誌にも、EF65 1000+旧客の模型写真が載った広告wがありました。私がEF64の代用のような感覚でEF65の1000を買ったり、模型メーカーがそういう広告を掲載したら、今なら「おかしい!」と皆に指摘されるのが普通ですが、そこは世の中がユルい時代。モノは充実していなくても、当時は皆が「あるものだけで楽しむ」ことが上手だったのだと改めて思います。
茶色のEF60の件は、「今思えば」そう思えるのであって、その時は私も難しい年頃でいたし、私だけでなく母もまた後味の悪い思いをしていたことは、しばらく先になってわかりました。(後日の記事で書きます。)
うちのDD51はテールライトが非点灯でした。転勤族の方が来られるような街でもなし、鉄道模型がわかる人は皆無の田舎では、隠れ鉄模少年でした。列車通学で街の高校に通うようになって初めて、鉄模の話ができる北恵那デ2様たちに出会いました。
C五八三六五です。お久しぶりです。
名古屋市の中村区にありましたH模型店で、鉄道模型社改めキャブ社か、ホーワのDD五十一と、ずいぶん悩んだのを思い出しました。
懐かしい話題をありがとうございました。
しなの7号
結果的にエンドウ製を選ばれたのでしょうか。エンドウ製品が発売された時期は中央西線のD51終焉期と重なると思われ、私の場合は写真撮影を始めた後なので、模型にかけるお金がなかったころにあたります(;´Д`)
松本吉之著「鉄道模型考古学」によると、鉄道模型社のDD51はキャブ→ホーワと発売元が引き継がれたとありますが、金属製Nゲージのナハ10系も、同じパターンで発売元が変わっていったのを鉄道雑誌の広告で見たことを記憶しています。Nゲージの車種が少ない時期、気になっていたのですが、1両も買えずじまいでした。
早通団地
私の鉄道模型の始まりはグリーンマックスの車両キットで、クモユニ82でした。小学校5年生で、とても16番ゲージなんて買えませんでした。
その後、6年生の時に初めて完成品セットを買いました。TOMIXのファーストセット1で、楕円形のレールとパワーユニット、Cタイプディーゼル機関車と貨車2両。そしてヨ8000が入ってました。
中学2年でTOMIXのEF65 1100と関水金属のクモニ143MとTを購入して走らせてました。その他、やはりTOMIXの訳あり415系4両を模型店から無償で譲ってもらい、レールやホームも購入しました。
EF65 1100は適当なナンバーを貼りましたが、それ以外は特に何か色挿しすることもなく、時おり同級生と運転会をする程度でした。
写真もほとんど撮ることもせず、辛うじて2~3枚残ってる程度です(^。^;)
社会人になって模型を復活しましたが、今でも模型は少ししか増やせていませんが、それで満足してます。
しなの7号
冬が近づいていることを感じさせるこの頃です。子供のころ、冬の夕暮れ時は、雪まみれになったキハ58DC赤倉号が、名古屋に向って走っていく時刻でした。
Nゲージで、グリーンマックスから電車キットが発売されるようになったころは、すでに16番は精密高級高額化したあとでしたね。しかしコメントを拝見して、模型との付き合い方は、相通じるものを感じました。
私の小学生時代は、Nゲージで製品化されていた電車は103系だけ、気動車はキハ20系だけという時代でした。グリーンマックスの前身MAXから61系客車のボディキットが出たのは高校生になってからで、電車シリーズが展開されたのは、私が模型から離れていった国鉄就職後でした。「私の鉄道模型遍歴」では、当面、古い16番製品について書いたら終わりますが、いずれ機会があれば、中高生時代に少しだけ買ったこれらNゲージのことにも触れたいと思います。
北恵那デ2
しなの7号
私は田舎住まいでしたが、母の実家が名古屋市内だったので、小学生のころ栄のデパートの模型売場の存在を知ってしまったのがいけませんでした(^^;)
16番の機関車1台の値段で、NのEF65 500と発売中の20系客車全形式6種を買って、さらにEF70を買ってもお釣りがくるというのは安易な考えですが魅力でした。それから16番はキット製作や自作。Nは編成モノと分けて考えるようになりました。
(参考) 昭和47年5月発行 カツミ模型店価格表より
16番・カツミEF70=11,000円
N・関水EF70・EF65=各3,000円・20系客車1両各700円
16番の2軸のEB電機や貨車と違って、ボギー車だと曲線半径の通過に制限があったり、絶縁の問題にも困っていたのも事実です。そういえば北恵那デ2様はプラ板を利用してカプラーの台車マウント化改造をして、問題を解決されていましたね。
北恵那デ2
しなの7号
鉄道模型はその規格に適した遊び方がありますね。
車両本体にこだわると、大型になればなるほど、実物のメカの再現が容易になるわけですが、走らせるスペースどころか展示や保管場所にも困り、小型にするとその逆ですから、妥協点を自分でどこにするかというのがポイントで、低いハードルにすると私の場合はNしか無理でした。
自分の鉄道以外の知識などたかが知れていますが、酒蔵巡りとか旧街道歩きとかの鉄道以外の趣味は、当然レイアウトに盛り込むことになります。どれも奥が深い趣味なので完璧には程遠く、ただの自己満足でやってます(^^;)
接着力の耐久性には接着剤によって差があるみたいですね。あと車両本体やパーツのダイキャストの劣化。そりゃあ半世紀近くだから仕方がないかもしれませんが、その点ブラスにハンダは丈夫ですね。
ヒデヨシ
エンドウのダイキャスト製DD51は知ってます
どこの模型屋さんでも置いてあったような・・・
確かにゴツくて窓の部分に素材の厚みが出ていました
でも、欲しかったです。
Nでも製品化されていたのは500番台のみ
実車の1000番台は確か黒磯までの東北本線だったと記憶しています
後年のような下枠交差のタイプではなかったですね
サードパーティーから前面扉の改造パーツが出ていて当時は工作力なかった私も買おうか迷っていました
しなの7号
エンドウは後にNゲージでもDD51を製品化しましたが、16番のDD51の質感は、それとはまったく違い強烈でしたね。
NゲージでEF65の1000番台が各社から発売されたのは、東海道山陽筋でブルトレを牽くようになって、ブルトレブーム全盛だったころだったでしょうか。それまでは、500番台がスターでしたから、東北・上越に新製配備されたころはマイナーな機関車だったかと思います。 それにこのKTM「1000番台」は1次車で、正面に庇がない新製時点のスタイルで模型化されていましたので、物足らない印象を受けます。
Nゲージでは、製品化されていない形式や番台区分の車種に改造するためのパーツやコンバージョンキットがたくさんありましたが、多くはそういう車種もプラ製品化され、改造パーツも必要なくなってきましたね。そうなるとせっかく改造しても廃棄。キハ20系バス窓がまだプラ製品化されませんが、あれもキハ20の側板を交換するコンバージョンキットで作ったことがありました。しかしとても見れない出来になってしまいましたorz
門鉄局
16番には手が出なかった私でも鉄道誌で広告を見ていたので懐かしいですね。カツミの電機シリーズはテールライトが下過ぎるのか特急色だと目立ってしまい違和感がありました。EF60500番台のヘッドマークの大きさも今となっては微笑ましいです。ブルートレインブーム当初の人気は
EF65500P形で貫通形の1000番台は「あけぼの」のみで地味な印象でしたが、東京区が一斉に置き換えられると一躍スターに躍り出ましたね。重連運用もなく積雪地でもないブルトレ牽引機に1000番台とは疑問でしたが、車種単一化という大人の事情は理解出来ませんでした。以前書いたと思いますが、「貨物用みたいでかっこ悪くなったなあ」というのが当時の印象でした。
エンドウの金属製Nゲージは高価でやはり手が出ませんでしたが、私鉄車両などメジャーなメーカーからは永久に発売されそうにない車種選択と美しい塗装が魅力的でした。
現在これらの形式がことごとく製品化されていることには隔世の感がありますが、反面昔のプレイモデルのような「何を改造して何を作る」的な楽しみがなくなったようで残念な気もします。(老眼が進んだ私にはもう無理ですが)
しなの7号
中学生になってから鉄道雑誌を買うようになると、カツミ・天賞堂などの雑誌広告が唯一の新製品情報になりました。大きなヘッドマークはYOKOSYAのだったと思います。ELのスケールモデルに手が出ない小学生時代には、そのヘッドマークセットだけを買って眺めていたものですが、EF65 1000に取り付けてみるまでもなく、オーバースケールっぽいのはカツミの広告やカタログ写真で子供なりに感じていました。
ブルトレブームはEF65PFをスターに押し上げましたね。私が国鉄就職後の出来事で、模型から離れていた時期でした。しかし鉄道模型を扱う店が市内に1軒しかなかった街にあったスーパーの玩具売場でNゲージを扱うようになり、これには驚きましたが、ブームの終わりとともに撤退し、そういうものかと思ったことです。エンドウ製のNゲージ金属製品群は、私が国鉄退職後にNゲージ復帰したときには市場から姿を消し、すでにKATOからDD51プラ製品が出ていました。自分の世代ですと、工作の楽しみは16番に求めてきましたので、Nゲージでは小さすぎて、はじめは手を加えたり改造することには、抵抗がありました。ほかの方々からの返信コメントにも書きましたが、いずれ機会があれば、古いNゲージについての記事も書いてみようかとも考えています。(毎度のことですが、いつのことかわかりません(^^))
すぎたま
お母様に頼んで買ってきたもらうというエピソードは、ほほえましくも思えますが、私も同じような「人頼み」でエラい目に遭ったことがあります。
高校時代近くのケンカしてしまった模型店に、宮沢のED77が在庫しており、どうしても欲しかったのですが、ケンカしている手前、自分が行くわけにも行かず、友人に頼んだのです。友人は間違いなく買ってきてはくれましたが、そのまま駅近くのファストフード店に入ったんですね。そうしたらその友人が喫煙し、なんと目の前は交番(笑)。当然ながら友人と私、もう一人の同行者の友人まで交番で2時間説教…。友人も「間違えないように」と思ってそれなりに緊張したんでしょう。それで緊張がほぐれてつい…ということなのだと思えます。もちろん高校生の喫煙はいけないことですが、その直接原因を作ったのは私ですから、「やはり再度ケンカになってでも、自分で行かなくてはダメだ」と反省したものです。今時はネットで…というのが多いので、そういうハプニングも含めた「人間同士の直接のやりとり」が少なくなって、ある意味ではつまらなくなったと思うところです。
ところで、東京-下関のブルトレ運用ですが、台検での入場機があると、下関機関区のEF65が東京機関区の運用を代走しておりました。下関にはEF65 1000も配置がありましたので、たまにではありますが、EF65 1000けん引東海道20系が実現していたようです。EF65 1017がけん引する「さくら」(だったと思う)の写真を、鉄道趣味誌で見た記憶があります。
つぼみ堂のED17は、私も床板全面にカッティングシートを貼り、床板に動輪がぶつかってもショートしないようにするなど、苦労しました。木製床板に交換したものもあります。
つぼみのEF65 1000も、当初売られた物は正面窓上のひさしがありませんね。
しなの7号
ご覧いただきありがとうございました。
なかなかうまく走行してくれない模型をいじくりまわしたり、模型を入手するときの出来事、欲しい模型がなくて探しまくったことなど、懐かしく思い出されるものですね。
東海道本線からも遠く、まともな模型店も近くになく、ファストフード店といえば、スーパーのテナントだった寿がきやラーメンくらいしかないところに住んでいた田舎の子には、鉄道模型もホンモノのブルートレインも、見る機会さえなかなかなくて、鉄道模型を含めた鉄道趣味を持つ友人も、中学時代まではほとんど身近にはいませんでした。しかたなく母に頼んだりすることになります。名古屋まで出るには2時間も列車に乗っていかなければならなかったのです。
EF65 1000は1次車だけが、新製時に窓上と前照灯上の庇はなかったようですね。実車には、じきに庇が付いて、私は取付改造後しか見たことがないので、どうも模型には違和感がありました。東海・山陽路でEF65 1000を初めて見たのは高校生のときで、岡山始発の14系臨時「しおじ」だったと記憶します。それが下関の機関車だったのでしょう。新幹線博多開業前のことです。
車掌時代に喫煙する高校生(特定の学校)は多かったです。彼らは少し窓を開けていて、車内巡回に行くと窓からタバコを捨ててしまいます。
「なんか煙たくないか?」
「そんなことないです」
現行犯で、タバコとライター取り上げたこともありましたが、あとでその始末に困りました。車掌区を通じて学校に、車内での喫煙が多いので監視と教育をするよう申し入れもしていたようです。