【749】 年賀状5: 国鉄時代中期(昭和50年代後期)の年賀状

私は、今年これまで約50年間にわたって保管していた年賀状の大部分を廃棄させていただき、そのすべてを画像ファイル化して保存しました。お送りいただいた方々には申し訳ありませんが、画像はいつでも自分が見られる状態で、少なくとも私の生存中は保存して、そのお気持ちは忘れないようにいたします。撮影に当たって、それまで保管してきたすべての年賀状の1枚ずつに、目を通させていただきましたら、そこに見たのは書いてくださった方のお気持ちと消息のほかにも、自分が生きてきた歴史そのものが見えました。そこで思ったことや気が付いたことを毎週少しずつ綴っております。


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昭和54年 私はやっと列車掛養成課程の試験を受ける気になって、合格した。これで車掌への道が開けたことになる。

名古屋にあった中部鉄道学園で4か月半にわたる教育実習と訓練を受けたあと、列車掛見習として貨物担当車掌区に配属され、そこで正式に列車掛に採用された。この中部鉄道学園での4か月半は全寮制となっていて、25人の同期生が同じ釜の飯を食う環境であった。そのため結束は強く、転勤があって離れ離れになっても年賀状をやり取りしていた人は多かった。


昭和55年に、その同期生からいただいた年賀状。

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「緩急車をよごすべからず!!」

これには身に覚えがある。私が緩急車を汚した話は拙ブログの【275】緩急車とトイレ(後篇)に書いたとおりである。時期的にも、この話を彼にした直後にこの年賀状を書いたのだと思う。


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このときの列車掛同期生には、鉄道ヲタクとまではいかなくても、鉄道が好きで国鉄職員になった者の割合が多かったように思う。列車掛になってからも、休みには連れだって名松線や越美南線に乗りに行ったり、お召列車の撮り鉄に行ったりしている。そんななかの、乗り鉄を愛好された方から昭和56年にいただいた年賀状。

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今ならパソコンで、よりリアルな作品を作ったりするかもしれないが、手書きであることによって、温かい味わいがにじみ出ているように思う。こんな様式のキップをご存じない方もあるだろうから、使いまわしだが、参考に実物のキップ画像を再掲載しておく。
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国鉄は1980年代に入ると、ダイヤ改正のたびに長距離列車の廃止や貨物輸送の縮小が続き、逆に都市近郊の普通列車は増発された。国鉄全体としては減量経営が推し進められ、分割民営化への移行準備期間とも言えたように思う。

1984年(昭和59年)2月に「59.2ダイヤ改正」(ゴーキューニ)があった。このダイヤ改正から、国鉄の貨物輸送の輸送システムが大きく変わった。
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上の年賀状はその1984年にいただいたもの。国鉄は、この年から、毎年ダイヤ改正が続き、そのたびに分割民営化に向けてのお膳立てが整えられていった。



この記事へのコメント

  • NAO

    おはようございます。
    ヨ8000のお話しを読み返して笑ってしまいました、すみません。名古屋駅に限らず、給水ホースでの洗い流しは今なら衛星面でNGかもですね。
    作曲家の岩城宏之氏がお金を工面して東海道特急展望車に乗られ、憧れの展望デッキ手摺りに触れたところ、「ねちゃとする」。洗面所から飛散したものが付着していて落胆されたと何かの週刊誌だったかで読んだ覚えがあるのですが、そんな空気の流れ方なのでしょうか。つばめガール、はとガールや専務車掌さんがにこやかにデッキで手を振る写真を見ているのに.....。あっ、白手袋をしているから問題ないか。でもその手袋のまま接客されてもなあ。
    垂れ流しは他の題材でこんど記事にしてみたいことがあります、ちょうど冬のネタで。
    2016年12月15日 08:45
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    昔の鉄道車両は制輪子が鋳鉄だったので、車体や沿線に鉄粉が飛んで錆び色が付着して汚かったのですが、子供のころはそれとは知らず、しかし垂れ流しのことはよく知っていましたので、あの汚れはみんなウンチだと思っていました(^◇^)
    施設職場はもちろん、車掌なんかも最後部で列車監視中は霧状の糞尿をかぶる仕事。381系しなの号では、洗面所を乗りもの酔いのお客さんにいつも汚されましたので、走行中の清掃もよくやりましたが、きれいにしてから白手袋はめて乗車券特急券拝見! 汚い仕事をして乗務終了後、一刻も早く車掌区の風呂に入りたいと思っても「勤務時間中に入浴をしている」などと世間から叩かれますし、決してかっこいい商売ではありません。
    2016年12月15日 14:59
  • 雷鳥23号

    しなの7号様 こんばんは。
    59.2のダイヤ改正時に着用していた組合ワッペンは「町の中を火薬が走る」というフレーズでした。この改正後に列車掛になった私が配属された車掌区は旅客と貨物のどちらも乗務しており、本線の車窓から毎日のようにかつての職場が見えるのですが、特に貨物行番で停車するときは広大な職場が信号場になりさびれていくのをなんとも言えない気持ちで見ていました。列車掛の同期とは同じ釜の飯に加えて2段ベット3台の6人部屋でした。当然エアコンはなかったのですがやはり中部鉄道学園も似たような環境だったのでしょうか。
    2016年12月15日 22:49
  • 門鉄局

    しなの7号様、おはようございます。(ですね)
    列車掛の研修期間が4か月半とは長いですね。うちの車掌なんかは机上・実務と合わせて2か月です。しかし乗務行路は長く車両形式数は多く、おまけに一歩間違うと危険な職種であることを考えれば、当然のことかもしれませんね。貨物列車は取扱線区・駅は少なく編成は短く車種は単純になり、列車掛や車掌はいなくなってすっかり様変わりしてしまいました。あのころ列車のトイレは垂れ流しが当然でしたが、位置など気にすることなく夏は窓を全開にして上機嫌で乗っていました。昔の実験で赤インクを流し状況を調べたそうで、2・3両目の客車の汚れがひどく橋梁上では車内に侵入してきたそうですが、「そんなもんか」と思った程度で乗車時に意識したことはありませんでした。社会全体がおおらかで不衛生だったので許容されていたのでしょうが、現場の職員さんはたまらなかったと思います。「停車中は使用しないでください」とあってもする人はするでしょうし、車掌がカギでロックする区間や線区もありました。勤務中入浴バッシングで思い出すのが、元国鉄保線区勤務だった先輩が「あの仕事で風呂に入らずに帰れるかい!」と怒っていたのを思い出します。「紙やらナニやら飛んでくんねんぞ!」私も子供の頃一度川遊びをしている時、列車の通過で見上げると何やら生温かい液体が、「今のはひょっとして・・・」ということがありました。
    2016年12月16日 00:30
  • しなの7号

    雷鳥23号様 こんにちは。
    「町の中を火薬が走る」…それ、今も手元にあります。
    車内で乗車券を書いていると、それ、どういう意味?と聞かれたこともありました。
    機能を失ったかつての職場の建物や施設を見ると心が痛みますが、そんなことの連続だったと今になって思います。国鉄退職後の仕事も含め、統廃合は常に繰り返され、自らがやってきた仕事そのものがなくなってゆき、建物や施設もそれに伴って失われていきました。
    中部鉄道学園の寮は4人部屋の3人使用、非冷房でした。
    2016年12月16日 10:49
  • しなの7号

    門鉄局様 こんにちは。
    列車掛の研修期間は車掌業務で3か月、車両検査業務で1.5か月で、ここまでが教育施設。修了試験後に列車掛見習としてそれぞれの配属先車掌区での見習乗務期間が1.5か月、本務試験(面接だけ)後に一人前でしたから、約半年が養成期間でした。
    トイレはないと困るし、あればあったで保守管理するほうは大変ですね。トイレ事情もずいぶん変わったことだと思います。私が子供の頃には汲み取り式のトイレの便槽から畑に撒いているのは普通でしたし、隣に住んでいた女の子はトイレに落ちるといけないので畑でウンチ。「おかあさん、出たよ~」という声が毎日聞こえてきました。学校帰りに子供は農業用水路に向けて立ちションはするし、公衆トイレなどないですから、よく野グソもありました。洗濯機も珍しい時期でしたからその農業用水路では多くの家庭では洗濯をしていましたが、あるとき上流でオムツを洗う人がいてウンチが流れてきたと下流で問題になり、オムツの洗い場を用水の支流のほうに町内で指定したことがありました。今ではそんなことがあった実家があった地区は上下水道完備です。とんだトイレとウンチ談義で失礼しました<(_ _)>
    2016年12月16日 10:50
  • はやたま速玉早玉

    しなの7号様、こんにちは。
    『ウン』が付いていると『運』にも恵まれるみたいですね(笑)
    『ウン』を拭き取らずに敢えて少し残したままパチンコ屋に行けば大勝できるのか、勝率も上がるのか…なんて頭をよぎりましたが、実戦する勇気はありません。
    59.2改正で『はやたま』が無くなり→当時大ショック受けました(。>д<)
    59.10奈良線電化により急行『紀ノ川』廃止→これも落ち込みました(´・ω・`)
    とどめは60.3改正で、山陰本線京都口の旧客が無くなり、これに伴い『山陰』も廃止、京都発の長距離鈍行も福知山止まり…愕然としました(´д`|||)
    私の中では、昭和50年代半ばが鉄道ファンとしての全盛期でした。
    鉄道ファンとしては、旅情が無くなる事が最も痛手とおもいます。一方で、コスト削減する、古いものを新しくする、便利にする、安全性を高める、企業としての方向性は正しいとおもうのですが…
    利用する沿線の方々に『良かった』と感じて頂くのがベストですが、そこに旅情云々を練り込むのは鉄道ファンの『わがまま』なのでしょうか?
    2016年12月16日 15:57
  • しなの7号

    はやたま速玉早玉様 こんにちは。
    子供の頃、路上のウンチを踏んでしまい、母に言ったら「運がついていいことがある」と… 友だちに言ったら、「きたない」と、みんなにいじめられました。悪運しか付かなかったようです(;^ω^)

    続々とファン的視点から魅力ある列車が、ダイヤ改正のたびになくなっていったのも、その時期ですね。ファンの中でも私どもが望む列車とか車両は、人や物を運ぶ道具としては劣るものが多いですが、道具として優れたものにない良さを見出しています。逆に、こういう豪華列車もありますがどうぞと勧められても、それは違うといって利用しないのも「わがまま」でしょうか? 自分は自然に毎日走っているローカル線の列車に紛れ込んで乗っているのが好きな人種ですので。
    2016年12月17日 09:19
  • はやたま速玉早玉

    しなの7号様、こんばんは。再コメント失礼致します。
    私もしなの7号様と同じ人種ですね(笑)地元の方々に紛れてローカル線乗車。
    『単線行き違いのため5分間停車いたします』のアナウンスを聞けば『やったあ~』と心の中で叫び、ホームに降りて雰囲気を愉しみながら『対向列車は何だろう?』って気分ワクワク。
    豪華列車で過ごす時間よりも贅沢な気分ですよ、絶対に(*´∀`)
    鉄道ファンのわがままも、悪くはないですね。
    2016年12月17日 21:03
  • しなの7号

    はやたま速玉早玉様 こんにちは。
    そうですね。
    自分が乗った普通列車が特急に追い越されるのを、負けた~とか悔しいとか思うのではなく、その待ち時間が楽しみになることが、わかる人にはわかる。
    急いで移動する必要がないのに特急料金を払って旅先でコーヒータイムで時間をつぶすというような過ごし方はしたくない。でも、昨今は直通鈍行が極端に減って特急列車しかないのは困る('ω')
    指定席指定日時運転の豪華列車では、自分の旅心はたぶん癒せないです。(そういう豪華列車に乗りたくないわけではなく、1回乗れば十分という意味です。旅はしたいときに思い付きでしたいものですから。)
    2016年12月18日 12:06

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