6月は旅行向きの時期ではないけれど、昼の時間が長いことと、夏休み前なので交通機関の混雑が比較的少ない。乗ることを目的とするならば条件としてはいいし、冬場のように、風邪やインフルエンザで自身の体調によって予定をキャンセルしなくてはならなくなる可能性が少ない。個人的に言えば、年度が変わって仕事が軌道に乗ってさえいれば、5月の連休と夏休みの間に当たるので、ちょっと休みたくなる時期でもある。
2004年は、旧国鉄線踏破の乗り鉄のほうも、JR線は北海道の一部が未乗で残すだけになっていて、あとは各地に散在する過去の乗車年月日が不明な区間に再度乗車したり、旧国鉄から転換された未乗の第三セクター鉄道に乗りに行っていたころであった。
この旅で乗るべき旧国鉄線(国鉄時代の未成線を含む)は、阿武隈急行線(福島~丸森~槻木間)と、山形鉄道フラワー長井線(赤湯~荒砥間)だったが、せっかく東北まで行くのだから、ほかに寄り道する線区があったのだが、それは後で書く。
今、掲げた乗るべき2線区は第三セクター鉄道であり、JR線区でないから運賃は別払いとなる。そこで往路と帰路の経路を変えて無理やり一筆書きの乗車券にして、第三セクター鉄道などのはみだし部分を現地で別払いすることにした。
高蔵寺5:20―100M 213系EC―名古屋5:47
名古屋6:20―ひかり290号 700系EC―東京8:16
できる限り列車内では座って移動時間を楽しむためと、経費節約のため、私の乗り鉄旅の出発はたいてい早い。楽をしたいと思えば、ちょっと名古屋の乗り換えがきわどいが、後続の「のぞみ」に乗れば東京で追いつけるので、1時間近く遅く家を出てもよいが、このころの私の定番列車は名古屋始発のこの「ひかり」であった。
東京8:36―Maxやまびこ105号 E4系EC―福島10:14
福島10:38―阿武隈急行線―槻木12:00
一周の片道乗車券を買っているが、経由は東北本線経由になっていて、阿武隈急行線では使えないから、別に阿武隈急行線の切符を買って、一周の片道乗車券のうち福島・槻木間は権利放棄とする。阿武隈急行線のうち、福島・丸森間は日本鉄道建設公団の建設線で旧国鉄線ではないが、丸森・槻木間が旧国鉄丸森線の転換路線である。私の場合は、国鉄線としては未開通で第三セクター鉄道として開通した区間も含めて乗車することにしている。この阿武隈急行線の延長開業区間に乗って、私は通勤で当時利用していた愛知環状鉄道とよく似た印象を持った。
槻木12:11―577M 701系EC―仙台12:37
仙台12:40―535M 701系EC―石越14:01
一周の片道乗車券の経路は、仙台から仙山線で山形方面に向かうことになるのだが、寄り道をした。仙台からは片道乗車券の経路を外れ、さらに東北本線で北上して、寄り道先の「くりはら田園鉄道線」へ行った。
この鉄道は旧国鉄とはまったく関係がない第三セクター鉄道であったが、せっかく宮城県まで来たので、ついでに乗っておこうと思ったのと、名古屋鉄道から転入した私が好きな2軸のレールバスKD10形気動車が見たかったことによる。
「くりはら田園鉄道線」までの道中は、なかなか乗車する機会がない東北本線在来線区間なので車窓を楽しみたいのだが、JR東日本の交流区間の定番になった701系に乗り継いでいく東北本線は快適ではない。ただ701系のように熱線吸収ガラスを使用してカーテンがない車両は、私に言わせれば大変よい。今どきの広い面積の窓を装備した車両でも横引きカーテンがあっては、せっかくの車窓を愛でる旅にはそぐわない。
石越14:12―くりはら田園鉄道―細倉マインパーク前14:56
電車をやめて気動車に変わった異色の経歴を持つ「くりはら田園鉄道線」は、旧国鉄の第三セクター鉄道に乗り心地は似ている。そして見たかったKD10形気動車は若柳の車両基地に留置してあったので、車内から眺めることができた。このKD10形気動車自体が、名古屋鉄道の末端線区が電車から気動車化されたときに導入された車両である。下の画像ではパンタグラフがあるように見えるが、背後に廃車留置してある電車のもの。
終点の細倉マインパーク前には凸型電機と木造ワフが保存されていたので、大急ぎで写真を撮り折り返すが、石越まで行かずに途中駅の沢辺で下車して、東北新幹線のくりこま高原駅までバスに乗った。
細倉マインパーク前15:04―くりはら田園鉄道―沢辺15:32
沢辺15:40―宮交栗原シャトルバス―くりこま高原15:55?
くりこま高原16:14―Maxやまびこ62号 E4系EC―仙台16:41
それまでE1系やE4系に乗るときは、いつも車窓を優先して2階席に座ってきたが、この旅が終われば東北・上越新幹線に乗って出かけることもなくなるだろうとの思いから、Maxやまびこでは、あえて1階席に座った。さすがに低い。
仙台16:50―3843M 快速仙山13号 719系EC―山形17:53△
仙台に戻り、ここから一周の片道乗車券の経路に戻って、仙山線の211系顔の交流車719系の快速で山形に向かう。
日暮れとともに山形でこの日の乗り鉄は終了した。朝は早いが日が暮れれば鉄道は単なる移動以外には乗らない。わずかな「飲料」と食糧を仕入れて直ちにビジネスホテルに収まるのが私の乗り鉄旅。
山形7:14―1420M 701系EC―赤湯7:44
明くる日は赤湯まで奥羽本線(山形線)で移動してから、旧国鉄長井線から転換された第三セクター山形鉄道フラワー長井線(赤湯~荒砥)に乗る。またここでも一周の片道乗車券の経路から外れて赤湯~米沢間は権利放棄となって、別払いとなる。
赤湯7:48―山形鉄道―荒砥8:42
山形鉄道フラワー長井線は単純な盲腸線でなく、途中の今泉で米坂線と接続している。終点の荒砥まで乗ってから同じ線を赤湯まで戻る必要はないので、米坂線に乗り換えるために、今泉で降りた。
荒砥8:48―山形鉄道―今泉9:18
昨日と今日乗るべき未乗の旧国鉄線に2線区とも乗り終えたので、この時点で東北地方に乗れる状態で残っている旧国鉄線は完乗になった。もう帰るだけであるが、この旅の本来の目的に勝るとも劣らないほどに興味をそそることが2つあった。1つは宮脇俊三さんが昭和20年8月15日に玉音放送を聞いたという今泉駅前に立ってみて、どのようなところだったのか見ること。もう1つは、米坂線に残る旧美濃太田機関区所属のキハ52に乗ることであった。
私が乗るべき米坂線下り坂町方面の列車は接続がないが、逆の上り米沢行は6分待ちの好接続である。その列車で終点の米沢まで行けば、米沢駅には旧美濃太田機関区所属のキハ52が留置されているかもしれない。
今泉で6分の接続待ちの間に、閑散とした今泉駅前に出てみた。
思っていたよりさみしく小さい駅前広場であった。
今泉9:24―1124D キハ52形DC―米沢10:00
片道乗車券とは反対方向になるので、また別払いで米沢まで乗車券を買った。今泉で乗車した米沢行列車はキハ47+キハ52であったが、キハ52は旧美濃太田機関区所属の車両ではなかった。米坂線に残る旧美濃太田機関区所属の車両のナンバーは120・121・122・123・137の5両で、いずれも国鉄明知線が第三セクター明知鉄道に移管された後に飯山線で使用されたあと(一部はその前に小海線を経由)してここへ流れ着いている。
米沢10:31―3121D 快速べにばな1号 キハ52形DC―坂町12:23
米沢では、目的としていた旧美濃太田機関区所属のキハ52のうちキハ52 120と137が留置されていた。そして、キハ52 137のほうに乗車することができた。高校時代の通学の帰路に幾度となく乗っただけでなく、明知線のC12やDD16の撮影に行ったときには、当たり前のように走っていた車両で、国鉄一般色時代と首都圏色時代を知っている。
新潟色をまとい、エンジンは換装されて、室内も手が加えられてはいるが、国鉄時代の面影は十分に残っていた。兄弟で1番違いのキハ52 136には、この10年前に熊本で出会っていて、【693】 鉄旅1994年7月「787系つばめ・熊本のキハ52・豊肥本線」で書いたが、その翌年に廃車されていたから、これが旧美濃太田機関区所属のキハ52との最後の別れになるだろうという思いで、がら空きの車内では窓を開放して、米沢で買ったカップ酒を飲みながら弁当を食し、坂町までの2時間近くを過ごした。
坂町12:35―936M 115系EC―新潟13:31
これで、乗るべき線区と乗るべき車両には乗ったので、一周する乗車券ではここからが、帰路にあたる。この時間に新潟県に居る者がその日のうちに愛知県に帰るにあたっては、慌てて新幹線を使わずとも在来線を乗り継いで行けば十分であった。
新潟14:18―3372M 快速くびき野2号 485系EC―直江津16:19
快速で485系に乗れてしまうところが、国鉄が遠い過去のものになったことを感じるわけだが、この快速の停車駅は特急並であったので、乗り得な列車であった。新井行であったから終点まで乗ってもいいのだが、次に乗る長野行普通列車が直江津始発であるから、新井まで行かず直江津で下車した。
直江津16:40―356M 115系EC―長野18:17
6月の夕暮れは遅いから、まだまだ車窓を楽しめる時間帯である。妙高山が見える方の4人ボックスの窓側を確保するために、始発の直江津から乗車した。途中、黒姫駅で583系電車に出会った。団体列車だと思うが、外観はかなりくたびれて、先頭車の側字幕が「急行津軽 青森」の表示になっていた。
長野19:31―1026M しなの26号 383系EC―中津川21:34
このとき、定期のしなの号から381系は引退していた。暗くなってしまえば車窓の楽しみはないが、左側に席を取って姨捨の夜景くらいは見ておきたい。
中津川21:43―3716M 313系EC―高蔵寺22:33
特急が停まらない高蔵寺まで行くのに、中津川で乗り換えても次の停車駅多治見で乗り換えても、同じ3716Mに乗り換える結果となって、家に帰れる時刻は変わらない。しかし特急料金は中津川で降りた方が安いので、こういう乗り継ぎになる。
313系は見慣れた電車であるが、名古屋方面から帰ってくるのとは違って静かでガラ空きのラストランナーは旅の終わりにふさわしく、名古屋からの列車でなく名古屋行で帰ってくる行程が私は好きである。
この記事へのコメント
NAO
名鉄のレールバスといい、キハ52といい、中部地方出身車両には縁がある地域とは知りませんでした。
映画 日本のいちばん長い日を観たことがありますが、一部の陸軍兵によって玉音放送を阻止しようとクーデターがあったのですが、もしそうなっていたら宮脇氏は今泉で待ちぼうけ状態のなられたのかもしれません。列車は時刻表どおりに走っていた、の記述は変わらなかったと思いますが。
ところで最近の乗車券の経由ですが、しっかり線名が記載され、主要分岐駅の次の駅或いは途中の主要駅が印字されているのは見かけなくなりましたね。以前は原ノ町、弘前、三鷹、中野、本庄、熊谷、彦根、西大路なんて記載がありましたが、線名の方がわかりやすい感じがします。
しなの7号
クーデターと言えば、複数の宮脇作品に小学生時代の二・ニ六事件の記述が出てきますが、その日がご命日になるとは思いませんでした。そのためご命日を忘れたことがありません。上京して井上勝の墓とともに墓参に行きたいと思っています。
国鉄時代、しなの号の上り列車で「神領経由」と印字された硬券や手書きされた特補をよく見ましたが、なぜに快速も止まらず知名度が低い小駅を経由駅名に選んだものか?という話を車掌どうしでしたことがあります。電車区があるくらいだから国鉄職員には主要駅に見えたんでないの?という結論に落ち着きましたが、理由はわかりません。券面の経由駅名や線区名はわかりやすい表示をするべきですね。
NAO
井上勝氏はずっと鉄道を見続けたい気持ちでもとから東海寺を選ばれていたようで、骨の半分は線路に撒いてくれと言われたようですが実際にはどうされたのかはわかりません。
しなの7号
「終着駅は始発駅」の碑が見たいです。
自分のお寺は、父親と同じ共同墓地に入るのであれば、鉄分0のところになります。戒名も考えておかないと…○○信士なら「信濃(しなの)」の「信」が入るから多少はいいのか?
奇人変人鉄人七号信士
門鉄局
1泊2日でもなかなかの大旅行ですね。
私は高校入学の決まった昭和59年3月に当時のみなみ東北ワイド周遊券でこの地区を旅行しました。あれから33年の時が流れ、地方交通線どころか幹線まで細切れになり夜行列車も周遊券もなくなり、関西からはすっかり行きにくくなってしまいました。「時刻表昭和史」の米坂線の項は感動的ですね。数ある著書の中でご本人もお気に入りだったようですが、「安い文庫版にしても売れない」と嘆いておられたのを思い出します。淡々としたいつもの宮脇節ながら、平和への想いが痛切に伝わってくる名著だと思います。戦後70年以上が過ぎ戦争体験者による証言は重みを増してくると思いますが、最近の一部の議員の発言や法案には戦前回帰や美化を思わせる時があり危険に感じます。前にも書きましたが今年は国鉄民営化30年という節目の年ながら、経営者側のJR賛美の報道ばかりで労働組合側や元職員側に立った報道が皆無だったのは遺憾でした。新幹線や大都市近郊が整備されたのに対し、分割による全国ネットワークの破壊や貨物輸送の衰退は気になるところで非常に一部に特化されてしまったように感じます。しなの7号様にはこれからも「国鉄改革の真実」を伝えて頂きたいと思います。
しなの7号
私が乗り鉄旅を始めてから、周遊券が周遊きっぷに移行し、さらにそれも廃止されるなど利用しにくくなってしまいました。代わりに東北地方の乗車には、JR東日本の「ウイークエンドフリーきっぷ」ができて、これは何度か使いました。しかし切符の有効期間の制限だけでなく仕事がありましたので、1~2泊が限度になり、たいへん慌ただしい行程ばかりしてきました。
戦前戦中の鉄道を柱にして見た日本を後世に伝える名著「時刻表昭和史」が、思ったほど売れなかったことを比較に出して私が言うのも、おこがましいことこの上ないですが、国鉄分割民営化を扱ったブログ記事より、国鉄形車両の画像をアップしただけで薄っぺらな記事をアップした方が、閲覧数カウンターは確実に上がります。でも単なる写真ブログにはしたくないので、国鉄現場の乗務員として見た世界を織り込めればとは常々思っています。がんばりますが、私の力ではまったく伝わらなかったり、真に伝えたいところをはぐらかされたりして、ご理解いただけるところまで至っていないのが現状です。今さらですが、私の言わんとするところにご理解を賜りありがとうございます。
戦中の報道管制では国民が知るべきことを知らされませんでしたが、おっしゃるように、まさに国鉄分割民営化されたときも、30年を経た検証もろくにされず伝わらずで、歴史や今起こっている事実を捻じ曲げられたり隠されたりすることが多すぎると感じるこの頃です。
風旅記
ご旅行の記事、楽しく拝見致しました。興味深い行程ですし、既になき宮城県の第三セクター鉄道を偲ぶ気持ちになりました。
米坂線のキハ52形、懐かしいです。この形式には、米坂線の他に山田線や岩泉線、大糸線で乗りましたが、手を掛ければ長く維持できるのだと実感させてくれるような車両でした。その後の数年でことごとく置き換えられ、新しい世代の気動車が活躍するようになりましたが、風景に馴染む国鉄時代の車両で旅できたことは、一つの自慢になっています。
列車に乗って、ただ乗って、あちらへ、こちらへ、そんな車窓と駅前の風景を楽しむ行動が、「ここが名所だ」、「ここが観光地だ」と言われて動くよりも好きで、今も鉄道の旅を至上の楽しみとしています。日本の各地の風土を感じ取りながら過ごす時間、こうして拝見しているだけでも楽しくなります。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
しなの7号
一昔前の旅にお付き合いいただきありがとうございました。今となっては乗れない鉄道、乗れない車両が続出ですが、さらにこれから10年、20年後、各地のローカル鉄道はまた大きく変わっていくのでしょうね。
キハ52は、私も旅先の各地で乗りましたが、長寿だったのは2エンジンと両運転台という装備も幸いしたのだと思います。乗っても撮ってもキハ52は日本の鉄道風景に一番溶け込んでいる車両だという思いは同じです。最近はこうして鉄道で出かけることがほとんどなくなってしまいましたが、初めて降り立つ駅へのワクワク感はいつでも持っていますし、旅した記憶は無形の財産ですね。