以前、【260】レチ弁で、乗務するときに車掌が食べる弁当について書きました。そういう弁当は、地理的な問題や乗務する列車のダイヤの都合上、駅や機関区、車掌区などにある職員食堂や駅周辺の一般の食堂をを利用できない場合に限って利用できました。ローカル列車で2~3時間で折り返すような車掌にはその必要はあまりありません。しかしあえて駅弁を買って食べたいと思うことは、私の場合にはありました。(ふつうの車掌ではそんな人はいないでしょうが)
また、乗務の折り返しで駅弁を買って、家に帰って食べた話も【570】駅弁食べ比べ ~1987年3月国鉄最末期~で、しましたが、今回は、乗務の折り返しで、わざわざ駅弁を買って食べたときの話です。
昭和60年3月に国鉄ではダイヤ改正があり、それからほぼ毎月1度ずつ東海道本線の米原駅に19時前に着く下り普通列車に乗るようになりました。米原到着後、折り返しの乗務列車まで1時間以上あって、その時間帯が夕食タイムでした。米原は東海道本線と北陸本線とが交わる交通の要衝で、駅をはじめとする鉄道施設は大きいのですが、街自体の規模は小さかったこともあって、夕食は駅の待合室に接した食堂で済ませるのが普通でした。私はというと、この行路では米原で駅弁を買って乗務員乗継詰所で食べることがよくありました。このころ駅弁は600~800円が相場のようで、食堂で食べるよりも量が少なく割高だったと思いますが、乗務範囲の駅弁をなるべく多く食べて掛紙を集めたいと思っていました。当時でも駅弁は高級化と他社との差別化を意識したのか個性的なパッケージが用いられるようになってきて、ボール紙製の箱に入ったりしたものも増えつつありましたが、私が集めたかった掛紙は、昔ながらの十字に紐で縛られた薄い紙のものでした。こういうスタイルの幕の内弁当を好んで買い、掛紙は家に持って帰り保存していたのでした。
米原駅「井筒屋」さんの幕の内タイプの駅弁「近江の味」当時800円。
その行路に乗務した時に買ったものです。
そのダイヤ改正から約1年経った昭和61年3月、この行路で米原に着くと、私が乗務してきた普通列車の10分ほどあとに着くしらさぎ11号の到着を待っている車内販売員さんがホーム上にいることに気が付きました。
(この画像は国鉄分割民営化後の撮影)
その販売員さんが持っている駅弁の掛紙は米原駅でいつも見るものとは違いましたので、私はその車内販売員さんから車内でなくホームでその弁当を買って、その日の夕食にしました。
幕の内タイプの弁当で800円。車内販売員さんは敦賀駅の弁当屋さんでした。おそらく敦賀から上りの特急に乗車して米原まで来て、折り返し敦賀に戻っていくところだったのでしょう。私は敦賀まで行く乗務行路はなかったので、米原駅で敦賀駅の駅弁を買えたことで得をしたような気になり、私の駅弁掛紙のコレクションが増える結果となりました。
季節は移り、その年の6月、またこの行路で米原に着くと、敦賀の弁当屋さんの姿を見かけました。何気なく持っておられる弁当の掛紙を見ると、3月に買った弁当とは色が違うのに気が付きました。新バージョンに変わったのだなと思い、またその日の夕食を敦賀駅の駅弁にすることにして、その駅弁を買いました。
掛紙を家に持ち帰り、3月に買った駅弁の掛紙と見比べると、色だけでなく柄も違っていました。3月のはピンクに桜の花模様でしたが、6月のは青に千鳥模様。
ここで想像がつきますね。
季節によってで掛紙を変えているんじゃないか?
こうなると秋冬がどうなるのか、この行路で米原に行くときのお楽しみとなるわけです。
そしてその年10月、その行路に乗った時に気にして見ると、予想どおり秋バージョンに変わっていました。ブラウンに紅葉柄です。
では、冬は…ということになりますが、この年11月には、分割民営化を前提にした国鉄最後のダイヤ改正があって、乗務行路が見事に一新されただけでなく、下位の普通車掌行路に乗せられたりして、これまでのように毎月1回ずつ決まった時刻に米原へ行くことがなくなってしまいました。たまに米原に行く行路があっても、そこに敦賀の弁当屋さんがいないことには冬バージョンの駅弁を入手することができません。どうしても入手したいなら、プライベートで敦賀まで行けばいいのですが、そこまでして入手したいわけでもないので、まあどうでもいいやと思っていたのですが、年が明けて退職まであと2か月あまりになった昭和62年の1月、東海道本線下り列車で米原に19時30分に着いて、20時40分に大垣に折り返す行路に乗りました。米原で1時間強の時間があり、やや遅い食事タイムでもあります。しかしいつもの特急しらさぎ11号は出ていった直後ですので、同じように買うわけにはいきませんでした。そこで時刻表を見ると、そのあとに米原始発19時49分発特急加越13号があり、この列車に車内販売があれば、なんとかなるかもしれないと考えました。このころ、北陸本線の米原口の特急列車では、列車によって敦賀、福井、金沢駅の駅弁業者さんが、駅弁の車内販売を分担していたと思われます。この列車の車内販売が敦賀の弁当屋さんの担当列車であれば、冬バージョンの駅弁を入手することができるわけです。
私は、その加越号の車掌だと間違われないように腕章を外して特急加越13号が停まっているホームに出向いて、車内販売員さんを探しますと、おられました! ワゴンに弁当満載です。幕の内一つお願いできますか?というと、出てきたのが敦賀の冬バージョンだったのでした。
もし、その日の北陸線の車内で駅弁を食べるつもりで、あいにく売り切れだったお客様がおられましたら、私のせいです。ごめんなさい…
「角鹿弁当」と書いて「つぬがべんとう」
掛け紙に書かれた説明書きによりますと、「敦賀」は古来より二つの書き方があり、「角鹿」は日本書紀に書かれ、「敦賀」は正倉院に残る越前国税帳に記されているということだそうです。
国鉄最後の年にこんなことをしていたわけですが、この時点では転職先はもう内定していました。
以前【783】撮り鉄12か月…1974年4月「北陸本線鳩原ループ」で高校生時代に敦賀に行ったことを書きましたが、敦賀に行ったのはその時が最初で、その時買ったのは「元祖鯛鮨」でした。
300円とは安いですが、国鉄最後の年の時刻表の欄外に書いてある敦賀駅の鯛鮨は1000円と700円の2種類があることになっています。13年間の間に2倍以上の値上げですが、国鉄時代は物価も急上昇だったことがわかります。同期間にハガキ料金・国鉄最低運賃は、ともに約4倍になっています。今月から郵便料金が改訂されましたが、平成の時代に入ってから約30年経っているのに、それほど公共料金に大きく変動はなく安定しいます。ちなみに時刻表2016年4月号によれば、鯛鮨は1030円、角鹿弁当は930円とされています。弁当の内容に変化はあるとは思いますが、鉄道運賃や郵便料金の変遷と比較するのも一興でしょう。
国鉄時代は値上げが続き、民営化されたあとJRは消費税がらみの値上げを除けば、30年間ほとんど運賃は上げていませんが、別にJRがエライわけではなく、そういう時代背景があるわけです。
この記事へのコメント
電話番
民営化後だいぶ経って、敦賀駅で買った駅弁で「磯のつぬが」という駅弁なら食べた事があるのですが、そういう字を書くとは初めて知りました。
思えば車内販売員も時代と共に乗務する列車が減ってきて以前ほど見かけることがありませんが、自分の住んでるエリア以外の車内販売員がホームにいたりすると、それはそれで当時は旅情を感じましたね…
鉄子おばさん
★乗り物酔いした元車掌
国鉄の庁舎内に食堂があったことは、覚えてますが、
駅の南側?の片隅にあった食堂は、
良く、立ち寄りました。
貴殿の記事を見て、
そのころの風景が、よみがえってきました。
はやたま速玉早玉
『角鹿』と書いて『つぬが(敦賀)』、これは読めません。予備知識ゼロでいきなり目の前に出てきたら『鹿だけに奈良のお弁当?でも何故海に浮かぶ小舟が描かれているの?』っておもいます。四季に応じて風景柄を変更されているのが良い、これは全種類見たくなりますね。
駅弁と言えば、ですが…
昭和50年代後半、小学生の早玉少年は、山陰本線亀岡、園部両駅で販売されていた『鮎寿司』の美味しさに感動しました。しかし現在、両駅ともに駅弁は販売されておりません。
平成2年、高校生の早玉君は、初めて新宮を訪れ駅弁『さんま寿司』を発見。『えっ?さんまのお寿司?さんまは塩焼きしか知らんぞ。一体どんな味なんやろ?』と購入したところ、あまりの美味しさに腰抜かし、すっかりハマってしまいました。南紀地方ではさんま寿司を販売しているお店が多数あり、以来、南紀訪問の度に『さんま寿司』は必ず購入、食しております。しかし新宮駅も駅弁販売は終了…(´д`|||)
大食いの高校生早玉君は、急行たかやまの車内販売で『飛騨の栗こわい』『美濃太田の釜めし』を立て続けに購入『美味い美味い!』と頂きました。
現在中年の早玉おっさんは、温泉旅で特急利用時に駅弁車内販売が行われていない点、主要駅のホームから駅弁の売り子さんが姿を消した点に関して『風情がなくなったなぁ』と寂しい思いをしております。
LUPIN
季節ごとに変わる掛け紙は、趣きがありますね。
車内販売の弁当をホームで入手できるのですね。
これまたびっくりしました。
「エキゾチックジャパン」懐かしいです。
JR荷物
「角鹿弁当」の掛紙見覚えがあるなと思いコレクションを
探したら、冬バージョンがありました。
一緒に「角鹿すし」という掛紙も出てきました。
最近掛紙の駅弁が少なくなりましたね。
しなの7号
たかが駅弁のネーミングですが、学ぶことが多いですね。本文には書きませんでしたが、夏ヴァージョンを買った翌月の同じ行路では、またホーム上の車販さんから、「鯛の舞」を買いました。
松本駅改札内の駅弁販売店舗で「しなの号に車内販売はありません」と掲示されるようになって、それがいつも目に入り寂しく思いますが、乗車時間が短縮し、供食事情が便利になった見返りということでしょうか。(ただし私が乗るのは普通列車)
しなの7号
夜勤明けの朝食は一般人の夕食に相当しますね。しかし、一般の勤め人にはわからないことでしょう。私はクルマで生鮮食品のまとめ買いにいくときクーラーバッグを持っていくのですが。先日「魚釣りですか?」とご近所さんに言われました。「買い物です」「?」
便利なのですが、普通はそういう人はいないと思うので、理解されないのは当然です。
しなの7号
米原は、61.11で名鉄局⇒大鉄局に移管されて出勤箇所も乗泊の場所も変わってしまい、外に出ることがなくなりました。
しなの7号
自分の住んでいる都市名の由来くらいは知っているかもしれないですが、案外周辺の地名や駅名の歴史など知らないのが普通ですね。
私が鮎寿司と言えば岐阜駅です。ローカルラジオ局のCMで、駅売りでの生録っぽい立ち売りの「鮎寿司に弁当~」の声が聴けました。今は業者さんが廃業し、岐阜駅では名古屋駅の駅弁が販売されているそうですから鮎寿司は売られていないと思います。
さんま寿司は、紀州へ行くと“駅弁ではない”さんま寿司がスーパーでも買えましたので、自動車で行ったときにも買っていました。安価で変わったものを求めて行く地方スーパ―巡りはけっこう楽しいです。昨日もなぜか海がない長野県のスーパーで「ソイ」と「イサキ」の握り寿司発見。6貫で各298円(税抜)
美濃太田の松茸釜飯は今でも健在ですね。近くにある貴重な?生き残り駅弁なので、ひさしぶりに食べてみようかと思っております。
しなの7号
他にも季節によって掛紙を変える業者さんはあると思いますが、そういう配慮こそが個人的に好きです。頑なに古いデザインをそのまま使い続けられている掛紙も。
窓が開かない特急が増えて駅弁販売がホームの立ち売りから車内販売に移行したことで、裏技的にその駅以外の別の駅とか車内で駅弁が入手できるようになったと言えますね。駅弁掛紙に印刷された国鉄やJRのキャンペーンロゴも時代がわかっていいなと思います。
しなの7号
同じ掛紙お持ちの方がいらっしゃましたか♪ このほか、この時期に米原駅ホームで買った敦賀の駅弁では、ほかに鯛鮨の高級版?「鯛の舞」があります(高かった(^^;))が「箱」でした。乗務折り返しでは、本来の米原駅「井筒屋」さんの弁当も、ほかに牛肉弁当とか買っています。個人的な嗜好でいうと素朴感あふれる薄紙の掛紙が駅弁には似つかわしく思います。中身も同様で、求めやすい価格の駅弁は絶滅状態で、素朴な駅弁の代名詞である森のいかめしでも、ずいぶん高価でスーパーの駅弁フェアに出てきますね。
はやたま速玉早玉
『駅弁ではない』さんま寿司、頂いた事がありました。会社のオッサンの車で日帰り温泉旅の際、尾鷲で立ち寄ったお店で販売されていました。オッサンは初めてさんま寿司を見たらしく、私が手にしたさんま寿司を興味深く覗き込んで来るので『これめっちゃ美味いんすよ!』と薦めるとオッサンも購入してました。『うわ、めっちゃ美味いなぁ』とオッサン感動、2人で『美味い美味い』と頂くさんま寿司はより一層美味しい、でした。ちなみに年明け、湯ノ口温泉訪問時、帰路、阿田和駅近くのお店にて『駅弁ではない』さんま寿司購入しました。
実は急行たかやまの車内販売で購入した『松茸釜めし』の器、大切に保存しています。高校時代の良き想い出です。
駅弁は『単なるお弁当』であってほしくないです。包み紙を見て、蓋あけて中身を見て『遠くに来たんやなぁ』『俺は旅してるんやなぁ』と物思いに更け、その土地の美味いモノに舌鼓。旅の一頁を彩る存在であってほしいですね。
あ、個人的には、プラスその土地の旨いお酒があれば最高(*≧з≦)
NAO
鉄道の要衝には駅弁がつきものだったのですが、それもだんだんと減ってしまいましたね。私も営業になって米原で乗り継ぐことが増えたものの接続時間が短く、言い換えると便利になり、途中下車出来る乗車券でも改札から出ることは滅多にありませんでした。
昭和のいつ頃だったか忘れましたが、国鉄ダイヤ素案会議?を取り上げたニュース番組がありました。畳の広間にスジ屋さんたちが集まり、そのうちの一人にインタビューされていたのですが、名鉄局と思しき方が「大阪さん(大鉄局)お願いしまして、米原での接続時間が良くなりました」。
敦賀の駅弁の記憶ですが、クルマで両親を冬の小浜に連れてゆくときに立ち寄ったのですが、旨いものは何か無いのかと訊かれ、敦賀のは1回しか食べた経験がないのに「駅弁!」と言ったところ、ではそうしようということになり、私が3種類買って来たうちのひとつがどうも角鹿弁当冬バージョン掛け紙だった記憶です。駅弁を食べる環境としては首を傾げるような、駅前商店街路上パーキングに停めて3種類を回し食べしたのですが、両親には好評でした。ああよかった。
しなの7号
紀伊長島に行ったとき、地元ス―パーでは、さんま寿司以外にもアジの姿寿司もあって、一緒に行ったオッサンたちと分け合って食べたことがあります。地元スーパ―には必ず立ち寄り、酒売り場とともにチェックするのが旅の定番になっています。さんま寿司は近年になって、地元スーパーの店頭でも見かけるようになりました。
旅をしている実感を味わえることも、駅弁と地酒の重要な存在意義ですね。美濃太田の松茸釜飯は諸事情により、今は基本プラ容器らしいです。ゴミ処理の問題とかもあるようで、昔の風情はなくなりつつありますね。
しなの7号
乗り継ぎが便利になり、乗車時間自体が短縮されて、駅弁と出会える機会が減りました。そもそも駅弁は駅で買うものであって特急の車内販売で駅弁を買うこと自体が不自然なのかもしれません。米原あたりの乗換では、私は1本接続列車を落とすことが多く、〇和堂へ立ち寄ったりしてから、次の列車の窓側席を確保します。
自動車で出かける場合は、車室内を飲食の場にすることが私の場合は定番です。一昨日も昼はスーパーで「ソイ」と「イサキ」の握り寿司を買って駐車場の隅で食べたばかりです。それに対して鉄道旅行での供食事情は悪くなるばかりで、さらに車内飲食までとやかく言われるようになって肩身が狭いです。
門鉄局
角鹿でつぬがとは難しいですね。日本語の奥深さを感じます。平成の大合併で歴史と無関係な複合名や平仮名の自治体が増えたのを嘆かわしく思っています。以前職場の同僚が筑豊本線の駅名を「なおがた・かつらがわ・はらだ」と読むので「全部違う、のおがた・けいせん・はるだ」だと教えると「そんなん読めるか、バカ九州人め!」とキレられてしまいました。
駅弁は私も好きですがすっかり高騰してしまい乗務間合の食事には贅沢品になってしまいました。かつての神戸牛・松阪牛・近江牛の駅弁もブランド牛の認証が厳しくなり内容は同じでも名乗れなくなったそうです。はやたま様が書かれていた亀岡駅弁ですが、昭和55年ごろDD51牽引の旧形客車で到着すると弁当屋さんがいない、ホームの助役さんに聞くと「改札出て突き当りを…」というので「やめときます」と言うと「行ってこいよ、列車待たしといてやる」発車ベルは私たちが戻るまで鳴ったままでした。
私は鉄道旅行の醍醐味は車内飲食だと思っていますがやりにくくなる一方ですね。東北地方に投入された701系の鉄道雑誌の記事で幹部が「ロングシート化による車内飲食の抑制と清掃の簡素化」と言ってるのを読んで、乗客のことは何も考えてないんだと悲しい気持ちになりました。
しなの7号
平成の大合併で、市町村名がわからなくなっただけでなく、新しい市町と駅名との関連もわからなくなり、先年全国道路地図を買いました。これで少しずつ学習しなくてはなりませんが、合成されたり、かなを使ったり、その中心地ではないのに旧国名を使った身分不相応な市名などなどありますね…。「原」を「はる」と読む地名は九州に多いようですが理由はあるようですし、そもそも地名は歴史が刻まれた無形遺産ですから、安易に変えるべきものではないですね。
国鉄時代でも乗務の合間に駅ソバは食べても、値が張る駅弁を買う人は稀だったと思います。この記事のころにはホカ弁が進出してきていました。
フリー乗車券を使った普通列車の一人旅は、ふらりと自由に安価に楽しめる趣味でしたが、車内飲食できる列車が限られ、車内での居心地もよくないので個人的には鉄道離れが進行中です。(その代り過去の鉄道に思いが傾いています。)鉄道会社側にすればロングシートはいいことづくめでしょうが、ちゃんと一人前にカネ使って特急に乗るのがホントの客だろうと鉄道会社に言われているような仕打ちをうけています。
亀岡のお話は、心温まりますね。これぞ昭和の鉄道であり、同時に昭和の日本人にふつうにあった心配りだったのですが、多くの方は忘れてしまっているのか…、おそらくお若い方々は知るすべもないし、悪い国鉄のことだけが延々と語り継がれてしまっているようで、やりきれない思いがします。
はやたま速玉早玉
門鉄局様の亀岡での出来事、これこそ昭和の良きお話ですね。拝見させて頂き胸が熱くなり、嬉しくもなりました。決して数値化されない、理論理屈でも表せない、人間味といえば良いのでしょうか?今の時代に欠けているモノがそこには存在しています。
もし今、駅員さんが同様の行動をとると…上からはこっぴどく怒られ、乗客からも怒鳴られ、本部にクレームの電話が入り、インターネット上では駅員さんの悪口三昧、といった所でしょう。
昭和の鉄道の良さは、国鉄デザイン、旧客など味わい深い車両だけではありません。そこに携わる方々の人間性、とりわけ温かみ、これこそが真髄ではないでしょうか、私はそのようにおもいます。
しなの7号
おっしゃるとおりだと思います。昭和の時代に褒められたことが、私どもの生活を取り巻く環境の変化で、価値観までも変わり悪しきこととして諫められることはあるものです。もちろん改善され進歩したことは数限りなくあるわけですが、性格上数値に残らない無形の文化や伝統で失われたものもまた多いですね。そういうことはただ過去の郷愁の一言で片付けるには大きすぎるように感じます。ただ人の人間性や温かさは本質的に変わってはいないはずで、それを許さない社会のもとに置かれているだけでしょう。
鉄道郵便車保存会会長
駅弁の掛け紙コレクションから、このページを拝読しました。私も駅弁とのお付き合いは45年ほどあり、列車撮影旅行の楽しみでもありますが、昔から食事は財布と相談すると駅そばやキヨスクの菓子パンとなりがちで「駅弁は高い」の観念に支配されていました。
いま書籍やネットの撮影地ガイドでは「○○のところにコンビニあり」と、飲食物調達方法に触れていますが、昭和40~50年代の雑誌撮影ガイドには、田舎駅の売店、駅そば情報が付記され、今はキヨスクがなくて当たり前のようなほうぼうの小駅でも買えたものです。また、大型時刻表の欄外には駅弁発売駅、商品名、価格が書かれていました。
そんな中で、切符やスタンプ収集をしていた私ですから、駅弁の掛け紙は絶好のコレクションで、立ち寄った駅で土地の名産を使った駅弁を買い求めたものです。ご指摘のように、いつからか紙箱のパッケージが増え、保管は段ボール箱の中で整列させていますが、掛け紙はクリアファイルで整理できます。掛け紙のものはたいてい薄い木材の弁当箱で、ふたもカンナで削ったかのような薄い木?のものが多くありました。
このたびは米原駅のお話で、待合室に接した食堂を使ったとありますが、これは旧駅舎(東口)内の食堂ではないでしょうか。昭和50年前後は米原の乗り換え時間に駅前に出ても飲食店が見つからず、何度か構内食堂に入りました。大阪鉄道管理局主要駅では食堂車の「みかど」が運営する食堂が点在していたので、米原駅も「みかど」運営ではなかったかと思われます。(少なくとも雰囲気はみかど食堂的でした) それもいつしか廃止され、駅弁「井筒屋」のホーム駅そばを食べたり、のちには西口駅舎ができて「平和堂」で軽食を探すなど食事事情は変化しています。
しなの7号
私も駅弁との関わりは撮り鉄旅をした高校生のころに遡ります。おっしゃるように高校生には駅弁には手が出ず、駅そばや菓子パンで食いつなぐことも多かったですが、だからこそ?駅弁を買えば掛け紙は旅の思い出として家に持ち帰っていました。当時は紐掛けしてある駅弁が多数派でしたが、ボール紙製の箱入りが多くなってくると、家に持ち帰る道中も嵩張るし、持ち帰ってから家での整理に困るようになり避けるようになりました。掛け紙の保管方法は私も同じような方法を採っています。
撮影ガイドの例で明らかなように、旅の道中での駅弁の存在感は薄れつつありますね。コンビニの台頭は決定的でしたが、こうなるまでの数十年、駅弁業界には逆風ばかりが吹いた印象を持ちます。
ところで、折箱に使われる薄く加工した木材のことを「経木」といいます。国鉄から転職した先での関わりで偶然知りました。
18きっぷを使った旅で関西方面から帰るとき、米原で乗継列車を1本落として、その待ち時間に平和堂で食糧調達をするのは、私の定番になっていました。そういう旅人は多いと思います。最近、リニューアルして食品だけの小規模スーパーに衣替えしたみたいですね。米原駅旧駅舎(東口)内の食堂の営業主体がどこだったか記憶にありません。
鉄道郵便車保存会会長
米原駅食堂は、洋食が似合うような、神戸駅みかど食堂と同じ雰囲気でした。ちなみに今、「米原駅前・食堂」で検索すると、再開発の東側ではなく、西口から徒歩圏内に何店かあり、駅弁の井筒屋本社内のレストランでは新幹線を見ながら食事できるようで、いつかまた訪ねたいところです。
経木について調べると、ご飯から出る水分を適度に吸収して、紙やプラスチックの駅弁容器にありがちな内部の水滴が少なくなり、駅弁に適していることがわかります。ふたをめくると裏側にご飯粒がいくつもくっ付き、割り箸でそれを削ぎ落としたものです。(駅弁あるある?)
さて、今回のテーマである乗務先の駅弁です。郵便車の乗務でも当然探すつもりでしたが、滞在先の事務室では食堂で3食が保証されているため(給与から天引き)、どうして買おうかと思案した結果、外出可能時間に駅で購入して、どこかで食べることにしました。事務室に持ち帰るのを見られると、「食事はあるのに」とか「食堂で食べたくないのか」とか言われそうで、特に乗務員のために早朝から食事を出してくれる職員の方には申し訳ない気持ちもありました。
乗務先の糸崎駅では「たこめし」狙いです。早速キヨスクに行くと売り切れており、三原では多く売っていると言うので、自転車で三原駅に出向いて購入し、呉線添いの海岸でいただきました。以前に可部線や瀬野八に行く道中に購入して食べたときはイイダコが姿のまま2匹入っていたはずでしたが、マダコの切り身になっており、それでもうまかったです。今も三原駅の有名駅弁ですが、元々は糸崎駅の駅弁で、新幹線開業で三原に移ったのかもしれません。
しなの7号
おっしゃるように経木だと水滴は付かないですね。ふたの裏側にくっついたご飯粒を割り箸で突っつくこともすっかりご無沙汰です。
乗務員時代に米原で食事タイムにかかったことは意外と少なくて、この本文のとおり60.3ダイヤ改正後からのわずかの期間だけでした。また、私の乗務員生活では前に書いた定期購入のレチ弁以外には、拘束時間中(出先と車内)の食事が用意されていることはありませんでした。荷扱の乗務掛や特急の専務車掌のように複数乗務の行路では、食事もたいてい皆で一緒に行きましたから、一人だけ駅弁に・・・しにくかったです。普通列車や貨物列車は一人乗務が多いし自由だろうと思えば、出先には駅弁のないようなローカル駅が多くありましたし、行路によっては別の行路で出先に先に着いた同僚が待っていてくれたり、逆にこちらが待っていて、一緒に食べに出かけることがありましたから、乗務先で駅弁を買って食べる機会は、案外少なかったです。
長い年月を経て駅弁がなくなった駅は多いですが、販売継続している駅でも、販売業者さんが変更になったり近隣駅の業者さんの掛け持ち?営業となったりした例は多いようですね。
鉄道郵便車保存会会長
車掌さんと郵便車乗務員に食事事情の違いはありますが、いずれにしても駅弁に触れる機会は少なかったようです。
それにしても、駅弁販売駅も業者数も昔に比べると少なくなりました。近隣駅の掛け持ちと言えば、私の居住地に近い神戸、明石がそうです。元々明石駅で地元仕出し屋が販売していたのですが撤退し、新幹線が停まる西明石駅で神戸駅「淡路屋」が販売を初め、西明石独自のものとして「ひっぱりだこ飯」というタコつぼ容器の弁当が開発され、タコつぼのデザインを色々変えて飽きがこないようにしています。西明石のみならず、新大阪、東京などの駅弁ショップにも提供しており、元祖神戸駅「肉めし」の会社が近畿あちこちの食材で多彩な駅弁を製造し、ついには「JR貨物コンテナ弁当」を大ヒットさせており、きょうのニュースでは、東京駅弁ショップに「ひっぱりだこ飯」(兵庫県警パトカータコつぼ)が山積みされているようで、「どこの駅弁屋ですか?」の声が聞こえそうです。(私は応援していますけど) 逆に言えば駅弁ショップに全国の駅弁が届くのは、デパートがよくやる「駅弁まつり」の様相で、高額でも駅弁人気は根強く、これが現代の駅弁事情と言えましょうか。
しなの7号
駅弁が旅先の特定の駅でしか買えなかった半世紀前とはまったく様相が変わりましたね。それだけ国鉄時代のように鉄道駅だけでの販売では生き残れないほど鉄道での需要が減ったこと、そして業者さんの経営努力、さらに新幹線や高速道路網の発達で広範囲での販売が可能になったことによって現在に至ったのだと思います。
一つの食材に特化してパッケージも凝った特殊弁当が特定の駅でなくても買えるようになって、旅をしなくても旅の気分になれることは大いに結構なことですし、そうでもしないと駅弁自体が消え去ってしまうかもしれないとさえ思っています。
以下、個人的な思いなので、聞き流していただいてよいのですが、そこに行かなくても買えてしまう状況は、駅弁と呼んでいいのかと思うことがありますし、それは私が集めていた地酒ラベル同様に、その地へ行かずとも通販で入手でき賞味できるのは便利な反面、入手したときの感動は薄れてしまい、掛け紙の収集意欲が低下しまくりです。
鉄道郵便車保存会会長
おっしゃることは私も同感です。基本的に駅弁は駅ごとのオリジナル商品であり、「○○駅構内営業」を付記した製造会社名が掛け紙(箱)に印刷されているから、駅外の弁当と区別でき、その駅に行かなければ買えず、駅を訪ねて買えた買えないの喜怒哀楽があったものです。
今は全国共通の「駅弁マーク」があれば駅弁としてどこでも売られるものとなり、前回例に挙げた「神戸駅の駅弁屋が西明石駅弁を東京駅で売る」ことが当たり前になっています。もちろん最寄り駅の販売だけでは生き残れない現実は理解しており、駅弁が廃れることを思えば、現代にマッチした営業方針に駅弁ファンが付き合っていくことがいいのかもしれません。
さて、敦賀駅弁の話です。しなの7号さんが米原駅で折り返す北陸特急の車内販売員から買い求めた「角鹿弁当」について、私はよく知っていたのですが、買ったことはなかったです。荷物車乗務のページでコメントしましたように、私は大阪敦賀間で郵便車に乗務したので、敦賀駅乗降のとき駅弁店を横目に通って品定めもしていましたが、「塩荘」さんの定番「元祖鯛鮨」のほうに引かれてしまい、「角鹿弁当」は幕の内弁当だからでしょうか、鯛鮨のとなりに置かれていても脇役に思えました。今回、季節ごとに掛け紙のデザインが変わっていたことを知ったのですが、年がら年中、店の前を通り、弁当を横目で見ながら全く気づかなかったのは不覚で、どの駅でも幕の内弁当に無関心だったからでしょう。購入したのは「元祖鯛鮨」のほうで、これも糸崎といっしょで、事務室で堂々と食べられないので海岸に持っていき、敦賀湾を見ながら食したもので、半島を隔てた隣の若狭湾で獲れる小鯛を使っており、よその鯛鮨、鯛めしとは違った味わいでした。
しなの7号
地味な幕の内より「元祖鯛鮨」のような特殊弁当に目が行ってしまうのは自然ですし、駅弁業者さんとしても人目を引ける特殊弁当はエリア外のイベント会場などにも出荷ができますから、主力商品として売り込むことになるでしょう。それでは幕の内弁当は脇役かと言えばそうでもなく、本来の駅売りで万人向けの定番商品となっていて、国鉄時代には団体列車積込用としても大量需要があったと思います。幕の内弁当であっても、その土地の名物食材が使われることもありますので、駅ごとの幕の内弁当の違いを楽しむのも一興です。
出先で駅弁を堂々と食べられなかったとのことで、私も全体的には同じようなものでしたが、行路上、食事に困る場面もありました。上りの最終「しなの」号乗務のときは、私に限らず車内販売の駅弁を買う車掌が結構あったので、そのときばかりは気兼ねなく私も駅弁を買い、仕事に余裕があれば乗務員室で、あわただしいときは、折り返す回送列車で神領電車区に着くまで我慢して、乗務員宿泊所の休憩室で遅い夕食として食べることができました。
鉄道郵便車保存会会長
確かに幕の内を「脇役」呼ばわりは、多くおられる幕の内ファンにも業者さんにも失礼でしょう。そうさせたのが、学生当時読んだ鉄道旅行誌の駅弁記事です。ここでは「アンチ幕の内」を自称する執筆者が散見され、「同じカネを使うなら、どの駅でも同じような幕の内を買うのはもったいなく、駅周辺の特徴的な食材を使う駅弁を買うべし」という論理で、駅ごとの幕の内の個性、特徴には言及せず、どこの幕の内も同一視される傾向でした。それが読者にも波及したもので、その影響から、幕の内以外のご当地駅弁にこだわりが強くなり、「○○めし」「××寿司」とかいうネーミングの駅弁を好んで購入しました。駅弁のニーズにも当時からその傾向があり、デパート「駅弁まつり」に幕の内がほとんど見あたらず、土地ごとの食材を押し出した弁当こそが主力商品なのでしょう。近年は幕の内にも関心があり、駅ごとの特色ある各地の幕の内が、逆に駅弁ショップ、デパートでは出回らないため、発売元の駅で探す楽しみがあります。
団体列車積込に関しては、鉄道や旅行業者が駅弁手配を行う際に「観光券タリフ」という冊子に記載の業者に電話などして申し込み、観光券を発行して添乗員が携行し、弁当積込駅で弁当と観光券を引き換えますが、このあたりは運輸業に対する普通・周遊船車券と同じ仕組みです。実は私の勤務先で慰安旅行の幹事をした際にJR駅に乗車券類のほか、下車駅の駅弁を手配してもらったとき「タリフには幕の内しか記載がない」と言われましたので幕の内を申込み、旅先の駅で業者から観光券と引き換えに弁当を受取りました。後日タリフを見せてもらうと、手配弁当は、ほとんどの駅弁業者が幕の内しか取り扱っていなかったようです。(現在JR西日本は駅扱い旅行業を廃止しており、駅には観光券は存在しません) 実際、業者にしてみれば、個人客が電話で注文するならまだしも、旅行者から「団体列車1000人で、幕の内458個、カニめし227個、サバ寿司51個、あとは…」などと注文されると頭をかきむしりたくなるでしょう。幕の内は団体旅行に供給するときなど、万人受けし、大量、迅速に提供する意味でも大きな存在であることを、あらためて気づかされます。
しなの7号
若いころには、旅行雑誌やテレビなどで特殊弁当のことを知れば、旅先ではもちろん、駅弁大会の類で買うことはありました。しかし味覚音痴ですので、珍しい弁当を食べられたことに満足しつつも、リピーターにはなり得ませんでした。
おそらく駅弁も新商品が出ては消えていくということが繰り返されていると思われますが、私は流行や見かけに左右される一時的な人気商品よりトラディショナルな商品に興味を惹かれます。そういう偏った者の嗜好(&志向)として、普遍的な幕の内弁当は好みに合うのかなと自己分析します。
別に特殊弁当にばかり陽が当たっていることがおかしいなどと思いませんし、それが駅弁業界にとってはいいのだろうと思っています。幕の内派というのは自分の志向というだけのことですので。。。
団体列車用の駅弁に直接かかわったことはないのですが、団体列車乗務の際には弁当積込のためのドア開扉駅が指定されます。たいてい幕の内弁当が積み込まれているようでしたし、お客様が降車したあとの食べガラからも、それはわかりますので、幕の内の団体需要が大きいのだろうという想像ができたのですが、やはり団体用は幕の内が定番で選択肢は限られたのですね。仕出し弁当でもそうですが、ある食材に特化すると、食べられない方が必ず出てしまうので、団体さんには幕の内が無難ですね。
鉄道郵便車保存会会長
駅弁は特別な素材も幕の内もそれぞれに楽しみがあり、どちらを志向するにも、今後の新作を楽しみにしたいものです。私は幕の内への無関心ゆえ、敦賀駅では鯛鮨の隣りに並ぶ「角鹿弁当」を見たとき、鹿肉の角煮でも入っていれば…と一瞬期待しましたが、陳列された中身の見本から普通の幕の内弁当と思って買うのをスルーしましたが、こんど敦賀に行くなら買ってみたい気持ちになっています。今回拝読するまで、「角鹿」が「敦賀」を意味することさえ知らず、もし当時買っていたなら「このカドシカ弁当下さい」と言ったかもしれません。その「塩荘」さんも駅販売のみならずオンラインショップや、市内へのワンコイン弁当宅配など積極策に出ており、元祖鯛鮨、角鹿弁当など定番商品もしっかり続いているようです。金沢から延伸する新幹線が到達して乗り換え駅になれば、同社には追い風が吹くことと思われますし、新幹線開通記念弁当の出現を期待します。
しなの7号
もちろん私も角鹿の由来など駅弁掛け紙の説明書きを読むまで知りませんでした。
内容が幕の内タイプの駅弁でも、単に「幕の内弁当」というのではなく、「角鹿弁当」や、この記事にある米原駅の「近江の味」のように、その駅弁業者さん独自のネーミングになっている例は多いようです。他駅との差別化を図っているのかもしれませんが、見本を見たうえで購入できるとも限らないので、特殊弁当だと思い込んで買った客がフタを開けて「なんだ、ただの幕の内じゃないか」と落胆されることもあろうかとも思います。
北陸新幹線延伸で、敦賀は大きなビジネスチャンス到来となるでしょうから、塩荘さんも駅弁業界をリードする存在になって、ヒット商品を出現させてほしいですね。
木田 英夫
角鹿弁当、グランドスラム達成おめでとうございます。穏やかな風景の、見ていても心和む掛紙ですね。掛紙の右側に書かれている「水島」というのはこの絵の舞台となった所の地名でしょうか。
また記事とは直接関係しませんが、角鹿の反対で「鹿角」、かのつのさんという苗字があります。阪神公団在職中に「木田君、鹿角と書いてこれ読めるか」と言われたことを覚えています。ひょっとしたら敦賀或いは北陸方面とゆかりがあるのかもしれません。
この記事に登場する車内販売も、今日では絶滅危惧種かもしれません。大阪駅では時々「特急サンダーバード号には車内販売はございません」との注意喚起の放送がなされます。最初に聞いた時は食堂車はだいぶ前からないよと思ったのですが、車内販売とわかった時は本当に驚きました。
いつもありがとうございます。木田英夫
しなの7号
水島は敦賀湾にある島ですね。行ったことがないのでイメージが湧きませんが、駅弁の掛け紙を見て行きたくなる方もあるでしょうから、掛け紙は敦賀の広告媒体という効果もあると言えますでしょう。
「鹿角」と聞くと、花輪線の「鹿角花輪」(かづのはなわ)駅を連想してしまいますので、「かづの」と読んでしまい、とても「かのつの」とは読めませんでした。
しなの号の車内販売も、廃止されてから10年近く経つと思います。昔の常識は今の非常識ということだらけですね。
木田 英夫
しなの号の車内販売もすでに廃止されているとの事。東京出張の時によく利用していた大阪直通のしなの号のことをまた思い出しました。
行きは名古屋発が11時、昼食は車内販売のお弁当。夕食は東京駅で食べて宿に向かうのがお決まりのコースでした。
帰りは上野発が確か10時か11時頃の特急あさま号。横川で峠の釜飯を買って長野までの車内でお昼。問題は夕食でした。
車内販売は名古屋(or中津川?)で終了。名古屋駅での停車時間は長野行きと違ってほんの僅かの時間で直ぐに出発。うっかりしていると大阪までじっと我慢…。
車内放送でもよく「車内販売は名古屋(or中津川?)迄です。」と案内されていました。
お弁当や車内販売とは全く関係しませんが、大阪直通のしなの号の東海道区間、特に大阪への帰り道はいつも空いていました。今から思えば、夜行急行「ちくま」に使う車両の回送?だったようにも思えます。勝手な想像ですみません。
夜行急行「ちくま」にも思い出があるのですが、話がドンドン脱線してしまいますので、この辺りで失礼します。
水島の件、情報ありがとうございます。あの掛紙の、四季折々の穏やかな風景画を改めて眺めておりますと、本当に一度行って見たいと思います。
何時もありがとうございます。木田英夫
しなの7号
みなさん一人一人が駅弁にまつわる思い出をお持ちですね。在来線の特急を乗り継いで、それぞれの列車で駅弁を味わったというのも過去の語り草になっていきます。新幹線並行区間を直通する在来線特急に乗った乗客が、料金を余計に払ってでも早く目的地に着きたいという気持ちになるのも普通(私は普通じゃないです(´艸`*))でしょうし、在来線特急ならではの使命(たとえば「大阪しなの」で新幹線のない岐阜市対京都大阪の直通需要など)が薄れれば、新幹線並行区間を直通する在来線特急の存在意義は薄れていくのでしょう。
木田 英夫
連続で失礼します。今回も本文記事と直接関係しませんが、コメント中の「新幹線敦賀延伸」の文字が大変気になりました。
つい先日金沢まで伸びたのにもう敦賀???。陸上競技に例えれば後続ランナーがすぐ後ろに迫っていた…。といった感じです。
開業後はしらさぎ号やサンダーバード号はどうなるのでしょうか。おそらく敦賀〜金沢間は廃止されるのでしょうから、
1.大阪、名古屋〜敦賀間をこれまで通りに走る。
2.車両はそのまま活かして、最寄りの新幹線の駅である米原と敦賀を結ぶ新幹線リレー号として運転。(東北、上越新幹線開業当初の新幹線リレー号のイメージ)
3.特急は廃止して米原及び湖西線経由で京都、大阪を結ぶ新快速の大増発。
などなど
そして、サンダーバードやしらさぎの電車はおそらく敦賀から先の交流電化区間へ乗り入れることはなくなるでしょうから、交流機器の撤去、北越急行線での160キロ走行対応機器の撤去など、くろしおやこうのとりの直流電車と同じになるのかなとも考えてしまいます。
雷鳥とサンダーバード。私は雷鳥のネームの方が好きなのですが、サンダーバードのネームもいざなくなるとしたら、少し寂しい気持ちになります。
サンダーバードの新車がデビューした時の「パパ。金沢が近くなりました。」のキャッチフレーズは最高でした。
何時もありがとうございます。木田英夫
しなの7号
私は新幹線の延伸開業などずいぶん先のことだと思っていましたが、これだけ時の流れが速く感じられるのは年を取った証拠なのでしょう🚄~~~
開業時には接続する在来線のダイヤも大きく変わるのでしょうけれど、アタマの中は485系雷鳥しらさぎのままの昭和の鉄道員にはJR世代の列車とか車両の知識もなく、今後のことはさっぱりわかりません💦