駅名の五十音順に「あ」から「わ」まで1駅ずつ、その駅の思い出や、そこに写っている車両などについてのコメントもひと言付け加えながらアップしています。不鮮明な画像もありますし、五十音のすべてを網羅することはできませんでしたので、あらかじめご承知おきください。なお、すでに廃止された駅や改称された駅も含み、表題部分は「駅名・読み・社名と線名・県名」の順となっています。
今回は「か」~「こ」までです。
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「か」…亀山 かめやま JR東海(国鉄) 関西本線 三重県
駅舎とキハ181: 2009.9.21撮影
紀勢本線全通50周年を記念して亀山駅でイベントが開催されたときの画像です。
JR西日本のキハ181系6両編成をJR東海が借り受ける形で亀山駅に展示公開されていました。
D51 882蒸機:1973.3.28撮影
はじめて行った亀山。たまたま帰りがけに出くわした下り臨時列車でした。煤けてはいましたが、月と鹿のデザイン装飾されたデフの機関車に遭えて満足でした。帰路に乗った関西本線の旧形客車列車で、非常制動を初めて体験したのもこの日でした。
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「き」…貴生川 きぶかわ 信楽高原鐡道(国鉄)信楽線 滋賀県
駅名標:2003.9.21撮影(近江鉄道全線踏破途中に立ち寄り撮影)
C58 312蒸機:1973.8.24撮影
国鉄信楽線の貨物列車で、貴生川と現「紫香楽宮跡」との間で撮影していますが、国鉄時代には紫香楽宮跡駅はなく、貴生川の次は雲井でした。急勾配が続く中、短い編成なのにC58は非常に苦しそうに牛歩のごとく近付き、目前を通り過ぎて林間に列車の姿が隠れたあとも、いつまでもブラストが聞こえていたことが印象に残ります。
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「く」…百済 くだら 国鉄 関西本線 大阪府
駅舎:1993.9.18撮影
手小荷物ホーム:撮影年月日不明(1977~8年頃)
百済駅は貨物駅でしたので、旅客営業はありませんでした。現在は百済貨物ターミナル駅と改称されJR貨物の管轄になっています。私は1976~1978年のあいだ、関西本線の荷物専用列車でこの駅まで乗務していました。駅舎の画像は、それから十数年後に撮影したものですが、その時点で構内はまったく変わっており、手小荷物ホームがどこにあったのかさえ特定できませんでした。
人物は管理人本人ですが、いかにも荷物車作業員らしく接客業務はとてもできそうもない態度と服装です。これでも、この服装は整っている方で、、作業中には前掛けをして軍手をした手には手鉤を持った姿で鉄格子のある車内で働いていると囚人かと思われても、決して不思議ではありませんでした。制服の上下の色が違って見えるのは、夏服の上着と冬ズボンを組み合わせているためでしょう。この仕事に就いている時期にネクタイを着用することはまったくありませんでした。
荷物車内はがら空きのようですからたぶん閑散期で、発車前に早々と荷物の整理が終わってしまってヒマだったのでしょう。3人チームでの仕事でしたので、この画像だけはカメラ持参で同乗した方に撮っていただきました。自分で撮影した画像ではないのでネガがなく、撮影年さえ特定できず撮影日不明です。
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「け」…桂川 けいせん JR九州 筑豊本線 福岡県
上下とも2002.12.29撮影
桂川~原田間を初乗りしたとき撮影した画像です。この前々年の秋にこの区間の乗車を企てましたが、行ってみると前夜の大雨の影響?とかで不通となっていて乗り残す結果となったいわくつきの区間でした。閑散区間で運行本数は少なく、乗った列車はキハ125の単行でしたが、蒸機時代に有名だった冷水峠を越えるので、そのつもりで車窓に集中していると、鉄道雑誌で見覚えのある雰囲気が伝わってきました。なお、キハ125の画像は桂川駅で撮影したものではなく、桂川から乗った列車が終点原田に着いた直後に撮影したものです。
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「こ」…琴平 ことひら JR四国 土讃線 香川県
(下は琴電琴平 高松琴平電気鉄道 琴平線 香川県)
上下とも2003.12.28撮影
前年に四国の旧国鉄線を踏破していたので、このときは高松琴平電気鉄道琴平線に乗車する目的で、本州からJR線に乗ってJRの琴平駅に降りました。(上側の駅舎)
至近距離に高松琴平電気鉄道の琴電琴平駅がありますから、乗り換えは便利です。しかし、金毘羅参りをせず、駅から駅へ乗り換える乗客は限られるでしょう。
いまだに私は金毘羅参りをしたことがありませんし、東武日光駅とJR日光駅の間も同じような乗継をしており、日光東照宮には行ったことがありません。
この日の帰路は高松から大阪まで鳴門~明石海峡大橋経由の高速バスを試しています。
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今回はここまでです。
次週は7月第一週なので「乗り鉄12か月」が入ります。2週間後に「さ」~「そ」までをアップします。
この記事へのコメント
ヒデヨシ
またまた楽しい企画、楽しみにしています。
今回は関西線系が多いですね
その中心駅亀山
亀山は私が九州から名古屋に越してきて
高校生のころ初めての乗り鉄行動でした
客車で亀山までゆき駅前の食堂で食事
そのまま急行かすがでとんぼ返りした駅です。
その後国鉄に入って紀勢本線や亀山機関区を録りに行きましたので馴染み深い駅です。
非電化の大駅で非常に好きな駅でした。
信楽線踏破で貴生川駅は利用しました
百済駅は当然未訪問です
桂川
普通の人はけいせんなんて読みませんね
原田も九州独特の読み方はるだです
鹿児島本線荒尾または大牟田からふるさとの後藤寺まで
○西鉄大牟田〜西鉄福岡〜(急行バス)後藤寺ターミナル
○荒尾〜原田〜飯塚〜後藤寺
篠栗線全線開通後
○荒尾〜博多〜飯塚〜後藤寺
こんなルートで利用していました
今や桂川原田間は寂れたローカル線ですね
飯塚〜桂川〜博多がメインになってます。
しなの7号
亀山駅前の食堂、私も蒸機撮影の時に入ったことがあります。亀山駅周辺は国鉄時代の雰囲気を残していますが、再開発事業で議論が交わされているらしいです。特急紀伊のスハネフのエンジン音どころかDD51の姿さえなく、汽笛も聞けません。駅そのものは広大な敷地で長いホームなのに短編成のローカル列車が来るばかりで、侘しさを感じます。
今の筑豊本線の桂川~原田間には「原田線」の愛称があるそうで、完全に運転系統が分離されていますが、SL健在のころ雑誌で冷水峠の名を知った私には、寝台特急・急行やDC80系特急が走った幹線のイメージがそのままです。乗車した時も、冷水トンネルを出てから、ああ、ここがよく雑誌に出ていた場所だとわかりました。しかし閑散としたダイヤの時刻表を見るとさみしさを感じます。何十年も生きていると、知らなくてもいいことが記憶に残ったりしていますので、初めて乗った線区にも新鮮さとは別の想いがよぎります。
NAO
亀山は降りたことがなく、夜に車で駅前の喫茶店に寄ったことがあるぐらいで、お店ではブルドック(キハ81がではありません)が出迎えてくれました。
貴生川はK型マルスをただ一度だけ見れた駅で、指定券を発行してもらったら券種までカタカナなのは私鉄風(私鉄でもそんな端末があるのか知りませんが)に思えました。
百済はレチ弁のおかずが少なくて途中下車?して総菜屋さんに行かれていた行路でしたかね。
桂川は筑豊本線を原田側から往復乗りつぶしで折り返した駅で、絆創膏を買おうと思って改札を出たら薬局が2軒並んでいて旅行中の運の大半を使ってしまったような印象の駅です。琴平はその数少ない客種になりました。坪尻の長いトンネルを抜けてきた普通列車で暗くなってから降り立ったとき、なんと明るい街かと思いながら琴電に乗り換えました。
しなの7号
各駅での思い出が違うのはもちろんですが、印象や目の付けどころも微妙に違うものですね。もっとも行った時代が違うのがその大きな要因になりますし、行程や目的によっても変わってきます。
hmd
しなの7号
「国鉄味」から言えば亀山駅は濃いですね。東海道の宿場町としてのほうが一般には知られているのかもしれませんが、全国組織の国鉄であっても、この亀山駅が名古屋・天王寺両鉄道管理局の境界でした。そのため国鉄が分割される前から運転系統をはじめ車両や施設、運転取扱の規定に至るまでここを境に変わり、鉄道の要衝の街としての思いが深い地でした。
東海~近畿間の移動を兼ねて、あえて東海道本線や近鉄でなく、本線とは名ばかりの関西本線を利用するときに接する非電化区間のローカルな車窓は、私も大好きです。しかし名阪間でJR鉄道会社が分断されたことで、この区間は国鉄時代以上に営業活性化に向けての努力がされなくなったとしか思えず、直通列車もなくなりました。hmd様がブログに書かれているように、地域密着の第三セクター鉄道に見られる沿線住民のマイレール意識も、相手がJRだからか醸成されにくいように思えます。
挙げていただいた浜田駅の例のように、国鉄のローカル列車では、駅の改札、ホーム要員、車掌の連携で列車を運行し、きめ細かいサービスと安全確認が行われていましたね。機械によるバックアップは格段に進化したとはいっても、運転士一人の重責と、異常時に物理的に1人でできることが限られることを思うと、「駆け込み乗車はおやめください」の一言で乗客側の横着や設備上の落とし穴は埋まらないように思います。
しなの7号
拙ブログ該当記事へのトラックバックありがとうございました。新作記事も拝見いたしました。もはや見る機会が極めて稀になった車掌車は、鉄道ファンでもご存じない方も多かろうと思われます。ぜひとも久留里線に今も見られる国鉄遺産のほか、失われた車掌車廃車体利用の待合室が、現役車両だった時代をご覧いただけたらと思っています。関西本線の亀山から3つ名古屋方にある河曲駅にもこうした待合室はありましたが、やはり現在は解体撤去されています。
【650】河曲駅と275列車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201512article_4.html
門鉄局
亀山駅、懐かしいですね。昭和53年当時は機関区も蒸気時代のままで、広い構内が鉄道の要衝の貫禄を示していました。
DF50の大きなエンジン音を思い出します。D51882号機は偶然実家の近くに保存されていて何度か見に行ったことがあります。月と鹿のマークも健在でお寺の境内で大切にされています。関西本線の亀山~加茂間と同様、筑豊本線の桂川~原田間はすっかりローカル化してしまいました。かつては80系特急「かもめ」やブルートレイン「あかつき」が走り、昭和40年代は冷水峠越えの蒸気が人気を集めたそうですが現在は見る影もありません。急行「天草」に至ってはD60の後部補機まで付いた豪華編成、直方・飯塚のかつての繁栄が偲ばれます。現在の静かな両市からは想像できないですが。
先日友人が写真を送ってきたので、「けいせんか、九州に行ったんだな」と思っていると駅名標にブルーのライン、かつらがわでした。JR化後駅の新設・改称が多く桂川の他にも島本が出来神足は長岡京に改称、私の古い頭ではどうもぴんときません。
しなの7号
先日は失礼いたしました
亀山駅で見たD51882、まだ再会を果たしておりません。初めて見た現役の装飾デフ付機関車でしたので、けっこう思い入れもあって、以前M社製のNゲージ模型を発売と同時に買ったのですが、どうもバランスが変で手放しました。そのうちに実車の保存車に会いに行きたいです。そのときには「かつらがわ」にも降りてみましょうか。両桂川駅は以前ブログ記事にした「似て非なる駅あれこれ」にも採用できますね。私も国鉄就職時に東京~大阪間はお経読みで駅順を覚えさせられましたので、「ニシオージムコーマチコータリヤマザキタカツキ」が今も自然に口から出てきてしまって、それ以後にできた新駅は国鉄時代にできた駅でも詰まりますし、JR以後に開業した駅など、「あ~、そんな駅いつできたの?」という感覚で飛ばしても気が付かない状態です。
関西本線の亀山~加茂間と筑豊本線の桂川~原田間の現状はよく似ていますね。盲腸線でもなくつながっているのに、通過連絡できることが忘れられてしまっているようです。「伊予灘ものがたり」が走る「愛ある伊予灘線」のような活用策は無理でしょうか?
はやたま速玉早玉
この企画、コンサートを思わせますね。『どんな駅(曲)が選ばれるんだろ?』と楽しみに待つ、中には『オオ~?これが登場⁉』とマイナーな駅(曲)が出てくる意外性。まるでライブ会場に居るみたいです。
亀山駅は乗り換えで数回訪問してます。しかし全てJR化後であり、国鉄時代の旧客、キハ58急行がやってくる亀山駅は未体験に終わりました。当時は鉄道好きだが行動力がずば抜けて欠如していた子供でした…勿論自由に使えるお金、時間も僅かでしたが、それでも親に無理言ってでもあちこち行くべきだったなぁ、と後悔しております。
貴生川駅は数回通過、また信楽高原鐵道乗り換えで一度利用しました。信楽線の貨物列車は『たぬき』を運んでいるのでしょうか?
百済駅、冒頭で述べました『意外性の駅』がこれです。乗務経験されたしなの7号様ならではの選出、マニ60の佇まいが良いですね。なんとなく判る髪型に年代を感じます。
桂川(けいせん)駅は利用経験ありませんが桂川(かつらがわ)の方は嫌でも利用しなければいけません。これが無ければ勤務先にスムーズに行けません…
琴平駅も利用した事がありません、と言うか四国の鉄道は100%未乗で、四国は車利用ばかりです。4月に会社のオッサンと祖谷温泉訪問の際、往路、昼食で讃岐うどんを琴平近辺で頂きました。
しなの7号
コンサートに見立てていただき、ありがとうございます。持ち歌ならぬ撮影した駅が限られるものですから、地域的バラツキがあり、有名無名取り混ぜ、時代的にも新旧混合で進めます。「欠」がどのあたりに出るのかも予想してください( ^ω^ )
亀山駅は分岐駅なので、みなさんお馴染みみたいですね。ここは旧客やキハ58が似合う駅ですし、分割併合、切り離し、増結、機関車付け替え、列車の進行方向が逆になったり、車両基地の存在など鉄道特有の楽しみが満載の駅でした。
信楽線は陶器製品の輸送はもちろんあったと思いますが、この撮影をしたころにはタキやタムといったタンク車がよく連結されていて、これで窯で製品を焼くための重油輸送をしていたと聞いたことがあります。
百済の画像は、言ってみれば小僧時代で、経を読むのでなく駅順を棒暗記したころです。
桂川の例のように同姓同名別人は間違いのもとですから、国鉄時代には旧国名を付けたり区別する努力が見られたものですが、その必要性が薄らいできたことに、国鉄が分割され鉄道の使命も変わったことを感じます。
私は逆に四島中で四国だけ温泉入湯経験がありません。要するに鉄道に乗る以外の目的で四国に渡ったことがないのです。今年になってJR四国の「バースデイきっぷ」の実質的な値上げがあったのが、さらに四国を遠ざけそうです(*´ω`)