【834】 思い出の乗務列車64:中央西線489系 回3M…そして京都鉄博

私は、特急「しらさぎ」に本務で乗務したことはなく、専務車掌になったときに名古屋~富山~(回送)~東富山間で1往復の見習乗務をしただけでした。「しらさぎ」の行路は、専務車掌でも上位組でないと交番(乗務ローテーション)に組み入れられず、最下位組の私が乗務する特急はいつも「しなの」でした。

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1986年5月1日 2M しらさぎ2号 尾張一宮(後方から最後尾を撮影)


しかし、意外なことはあるもので、1986年11月1日に、短区間の回送列車ではありましたが489系電車に乗務する機会が訪れました。

その列車とは、前夜に名古屋に着いて神領電車区で滞泊した「しらさぎ」編成を、名古屋まで回送する列車で、乗務区間は中央西線の春日井~名古屋間、運転時分にしてわずか24分でしたが、いろんな意味でめったにないチャンスでありました。

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国鉄時代の神領電車区(1985年5月16日)

しなの編成に交じって、夜間には2本の「しらさぎ」編成が滞泊し、翌日の1号・3号として出区していきました。

画像中央が「しらさぎ」編成


乗務した1986年11月1日は、翌年4月からの国鉄分割民営化に先行して行われた国鉄最後のダイヤ改正初日でした。この日から列車ダイヤはもちろんのこと、乗務の基準や勤務時間などが民営化後の新基準に切り替わりました。私は前日の10月31日に出勤して、ダイヤ改正前の中央西線を何往復かして神領泊まり。通常ですと翌日も中央西線のローカル列車で行ったり来たりして乗務終了という行路でしたが、この日だけダイヤ改正に伴う移り変わりの変行路が組まれ、神領で朝起きてから乗務する列車ががらりと変わっていたのです。

ダイヤ改正初日は、普通列車のほか神領電車区に入区する普通列車編成の回送列車に乗った後、神領電車区から出区してくる489系しらさぎ編成を春日井から名古屋まで回送する「回3M」の乗務でその日の行路が終わりになりました。

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神領電車区から、ゆっくりした速度で春日井駅のホームがない中線に入ってきたのはボンネット編成でした。

乗継詰所があるホーム上からいったん線路に降りて、後部標識灯の点灯を確認してから後部クハの乗務員室扉を開けて乗り込み、運転室に備え付けてある乗務員無線機で、運転士と通話テスト。続いてそのまま無線機で運転関係について変更事項有無等を照合確認します。ここまで業務的には他の回送列車とは何ら変わりません。

まだ新体制への移行期で、この日も春日井駅の中線では上り本線のホーム上屋の軒から吊り下がっている中線出発反応標識点灯確認後、当務駅長の緑色旗による出発指示合図を待って、ブザーによる出発合図を車掌が行う従前のままの方式でした。

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回送列車ですが、これから特急として客扱営業をするわけですから、接客関係機器類に異常がないか確認する必要がありました。発車したらまず字幕操作盤で「特急しらさぎ 富山」を掲出させ、1両ごとに照明器具の点灯状況、車内温度、便所と洗面所の出水状況、字幕の状態など整備状況を確認しながら先頭の車両まで車内点検をしますので、乗務員室でのんびり構えているわけではありません。

下は当日の編成記録です。記録した車両番号は旅客列車引継書に書き込んで、車掌長が名古屋から乗務するサロ乗務員室の事務机の上に置いてきます。

このころは、もうグリーン車は1両だけに減車され、食堂車も抜かれたシンプルな編成になっていました。


1986年11月1日

中央本線 回3M

1 クハ489-501 金サワ

2 モハ488-5  金サワ

3 モハ489-5  金サワ

4 サロ489-1010 金サワ

5 モハ488-1  金サワ

6 モハ489-1  金サワ

7 モハ488-3  金サワ

8 モハ489-3  金サワ

9 クハ489-1  金サワ

(金67) 


さきほど「いろんな意味でめったにないチャンス」と書きましたが、この編成を眺めると、トップナンバー車が3両も入っていたことも(どうでもいいことですが)幸運だと思いました。

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名古屋駅到着ホームは5番線(東海道下り1番線)。中央西線を上ってきた列車が5番線に入るには中央西線の上り線のほかに東海道下り線も横切らなければなりません。別に回送列車が偉いわけではないものの、2つの本線をいったん止めた状態で横断して5番ホームに到着です。「停止位置オーライ」ホームで待つ先輩専務車掌の目の前で車掌スイッチを「開」にして、「異常なし」の引継ぎをしてあっけない乗務は終わりました。

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実は、このダイヤ改正日から、一定の要件(列車無線等による連絡網の整備・複線区間で列車防護無線を装備・EB装置を装備)を満たした回送列車等の車掌乗務が省略されました。名古屋地区の特急電車編成のうち、金沢運転所の9両編成を使う「しらさぎ」関連の2往復の回送列車だけが一部の要件をまだ満たしていなかったらしく、ダイヤ改正後も車掌乗務が残されていたのです。その関係で、この日からは「しなの」入出区関連の回送列車は車掌乗務が全廃されワンマン運転に変更されていました。一方、車掌区ではこれまでダイヤ改正のたびに特急・急行が減少し、逆に普通列車の増発が続いた結果、この日から車掌長・専務車掌が7組体制から4組に定員減になり、その代わり普通車掌の組が増えました。私のような最下位班かつ国労組合員が定員減になった専務車掌行路に乗れるはずもなく、私は職名は専務車掌の身分のまま普通車掌班に指定され、この翌日、つまり11月2日から、普通列車ばかりに乗務することとなり、回送も含めて特急に乗る機会は失われたのでした。それでもそういう仕打ちは約1ヵ月間だけで、また12月に入って人事異動があり組別指定が変更されたのでした。再就職先が内定した私は専務車掌の最下位組に復帰(このときも当然入れ替わりに本来の乗務員としての仕事を外された人があるのです。)しましたが、最下位組には回送を含む489系の行路はありませんでしたから、まさにこの11月1日の489系乗務は、ラストチャンスになったと私は思っています。


ご承知のように、私が本務で乗務した489系唯一の列車に連結された最後部車両クハ489-1は京都鉄道博物館に展示保存されています。この車両には昨年の夏、30年ぶりに再会してきました。

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今回掲載した画像は、特記した画像と時刻表以外は、京都鉄道博物館で撮影しました。画像の連絡用ブザーや車掌スイッチは、30年も経つのだから自分があのとき触れたものとは取り換えられているかもしれませんが…。

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この位置で春日井駅で助役の緑色旗を確認し、列車を出発合図のブザーを押し、名古屋駅で車掌スイッチを取り扱ったはずです…。 私はかなり長い時間、この展示車両を眺めていました。私の脳裏をよぎるのは、今ここに書いたように、この車両に乗務したころ自分が置かれていた状況はもちろん、内外とも大きく揺れていた国鉄の状況でした。その間に、この車両を見るために切れ間がないほど多くの人々が集まって、ある人は一緒に来た人々と記念写真を撮り合い、この車両について知っていることを語リ合っている人などもあって、クハ489-1は人気者でした。皆が楽しそうにされ、そしてまた別の展示物に向かって去っていく、そんな光景をずっと眺めていました。

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博物館の説明板には、正しくもよけいなことは書かれてはいませんが、クハ481-1に命が宿っていたとしたら、書かれていたこと以外に来場者に話したいことは山ほどあったのではなかろうかと思います。






この記事へのコメント

  • NAO

    しなの7号様、おはようございます。
    一度だけ乗務の車両と30年ぶりの再会ですか。ボンネット特急は人気者のようで、先日まで京都駅構内の京都鉄道博物館宣伝電照表示にクハ489正面写真が配されていました。
    489系第一陣落成グループは当初向日町に配置されましたから、里帰りに近いかもしれませんね。4両だけだった、スカートにタイフォン取付がクハ489一期生を物語っています。
    種村氏の「金星」から「しらさぎ」変身の列車追跡ルポで、夜行乗務明けの乗客専務さんが神領へ回送するあいだも、車内に不具合がないか見て廻るのが大変そうだと書かれていましたねえ。
    一度家族旅行で富山に向かうとき、「サンダーバード」車販の弁当が売り切れ、2分停車の金沢で弁当を買って倶利伽羅峠を越えながら食べたとき、確か「しらさぎ」線路下見乗務の金沢-高岡間で食堂車でお昼を取られていたのを思い出しました。
    2017年12月11日 08:51
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    30年ぶりと書きましたが、しらさぎ、白山、雷鳥、加越などで489系の撮影を幾度かしておりますので、実はそのときクハ489-1には遭遇しているかもしれませんが、特定ができませんので…。
    京都鉄道博物館で500系新幹線、クハ581とともに並ぶクハ489-1は一般受けする車両と言えると思います。相棒だった小松のクハ489-501にも、来年整備が完了したら会いに行きたいと思っています。「しらさぎ」の線路見習乗務で乗ったのも3号で、このときからさらに2年半ほど遡った時期でした。そのとき食堂車で食べたのはテイクアウト用のような使い捨てスチロール容器で出された牛丼でした。
    2017年12月11日 10:43
  • つだ・なおき

    こんばんは。
    「しらさぎ」に乗車したのは一度だけでした。
    会社の鉄友と富山へ撮影旅行したときです。
    素直に「雷鳥」で帰ればよいものを、ちょいと色気を出して乗ってみたんですが・・食堂車はまだ連結してましたが、もう末期の頃でメニューも少なく、料理(何を食べたか失念)は発泡スチロールの皿で出され、ナイフとフォークはプラ製でした。落ちるところまで落ちたなあ・・と思いました。
    と思いました。
    2017年12月11日 18:45
  • しなの7号

    つだ・なおき様 こんばんは。
    59.2のダイヤ改正で残った12両のしらさぎ編成は、60.3のダイヤ改正まで持ちこたえることなく途中で9両に減車され、食堂車が抜かれグリーン車が1両になりました。60.3のダイヤ改正まで持たなかったのは、国鉄の列車を短編成化して列車を増発することになり、中間車に運転室取付などの改造工事をするためと聞いています。末期のわびしい姿であったにしても、食堂車自体があった昭和の文化?に触れることができたのは得難い経験だと思います。
    2017年12月11日 20:31
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは
    一言!ボンネットは良いねえ

    貫通扉付きもまあ良いです
    高校生のころボンネットしらさぎを見たとき古臭いなあと思ったのは内緒。
    2017年12月17日 20:50
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんにちは。
    「ボンネットは良いねえ」には同意。

    高校生のころ、「松本→名古屋・名古屋→松本」と1往復の昼行臨時しなの号が設定され、松本始発終着だったことと、定期列車より異常に時間のかかるダイヤでしたから、これは、あずさ用181系ボンネット編成の「しなの」に違いないと勝手に思って見に行ったのは内緒です。
    2017年12月18日 06:16

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