【867】 52年前の家族旅行を辿ってみる

私は子供のころに宿泊を伴う家族旅行に連れて行ってもらったことがあまりなく、記憶にあるのはほとんど日帰りで出かけたことばかりである。そんな家族であったが、小学3年生に進級する直前の春休みに、名古屋市内に住んでいた母方の祖母を伴って家族で善光寺参りに出かけ、戸倉上山田温泉で一泊したことがあった。日付は手元にある帰路の乗車券で特定できる。偶然ではあるが、その日付は、この記事をアップした4月2日になっている。
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1966年4月1日に出発し、翌日に帰ってきたことになる。

こちらは今年使った乗車券。
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今から52年前、中央西線の名古屋発朝一番の長野行普通列車に私ども家族が美乃坂本から乗り、大曽根から一人でその列車に乗ってきた祖母と合流したから、手元にある1965年10月改正の名古屋鉄道管理局のポケット版時刻表からその列車の時刻は特定できた。


825列車

名古屋5:20発 大曽根5:41発 美乃坂本7:44発 長野13:38着

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当時の列車本数の少なさは、今からは想像できない。中央西線は全線が未電化で、瑞浪電化の直前であった。手元の時刻表はボロボロになっていて表紙が半分欠落しているが、たぶん父がそのときに持って行ったからではないかと思う。その表紙の残った部分には「九州へその日に着きます」の文字が印刷されていて、名古屋始発の特急「つばめ」熊本行と急行「はやとも」博多行が誕生したころだったことがわかる。

   便行?・・・「便利」の誤植か

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このように列車本数が少ないながらも、時刻表からは、まだ国鉄に活力があって長距離輸送の分野で君臨していたことがうかがえる。私が国鉄に就職したころには、赤字問題やストライキなどで世間の批判を浴びていたし、3K職場の安い給料の一部と捉えられていた乗車証は、就職してから数年後にことごとく廃止されていったが、父が国鉄職員で現役だったこの時代は福利厚生が充実していたと思う。勤続年数など一定の要件を満たしていれば、家族にも年間10日間の無料乗車証が発行されていたから、このときも、その家族乗車証を使用したはずである。ただ、私ども家族と別居していた祖母はその対象にならないので、ふつうに乗車券が必要で、上の「戸倉から長野行」の乗車券は祖母が使用したものであって、祖母は事前に名古屋・長野間の往復乗車券を購入していたのだろう。帰路の信越本線からそのまま篠ノ井線に乗り継げば、この乗車券は手元に残るので、私がもらったという経緯になる。


この825列車は、その後も私が高校生になるまで、つまり中央西線全線電化完成(1973年7月改正)まで、同じ列車番号・同じ運転時間帯・同じ運転区間で残ったので、高校進学直後のわずか3か月ではあったが、通学列車として利用した。その中央西線全線電化完成時には、中央西線のほとんどの普通列車が電車化されたが、荷物郵便輸送の必要性から中津川・長野間に1往復だけ客車列車のまま残され、その下り列車は、この時間帯とほぼ同じであった。

下の画像は、その列車であるが、客車が3両に減車され、逆に荷物車が増えて、荷物車中心の組成に変わった。

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長野への道中、木曽谷に入ると、そこからは長野鉄道管理局管内であって、初めて見る山間の小駅が続き、放送設備がない小さな駅でも、ホームに直立した駅員は、到着時に自駅名を、そして発車時には「次は〇〇~」の要領で大声で連呼していたのが新鮮であった。


父は、その列車に乗っている間、車窓から見える見どころを私たちに説明してくれた。森林鉄道の線路や寝覚の床があり、当時は塩尻で列車の進行方向が変わり、折り返して戻っていくような不思議な感覚を味わった。その先に姨捨のスイッチバックもあったことも記憶にある。


その列車は、塩尻からディーゼル機関車が牽いていた。そのことも父が気が付いて教えてくれた。ディーゼルカーはいつも見ていたが、ディーゼル機関車というものは、それまで私は見たことがなく、地元の中央西線では蒸気機関車が当たり前の時代であった。乗った車両は塩尻まで前寄りの車両だったから、進行方向が変わった塩尻から先では後寄りになっていた。走行中に窓を開けてカーブしたとき、たぶん客車が5両くらい連結された先の先頭に、赤っぽい車体の機関車が見え、蒸気機関車ではないことだけはわかったが、遠すぎてその形もわからないので、しかと確認したいと思った。走行中に一番前の客車まで行って機関車を見て来ると私が言うと、危ないから行ってはいけないと同行の大人3人全員に止められた。自動ドアでもない出入台をいくつも通って行かなければならないので、横揺れした時に振り落とされるといけないからという理由はわかるが、祖母もいることだし止められれば従わざるを得なかった。その機関車の形式は今もってわからないが、時期的に見てDF50ではなく長野に配置されて間もないDD51の非重連タイプだったような気がする。


このとき父が撮った長野駅
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現在の長野駅
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長野に着いてからバスに乗って善光寺へ行った。

その車中からデパートのような大型ビル店舗が見えた。デパートには鉄道模型売場があるというのを知った直後だった私は、善光寺に行ってから、そこへ行きたいと言った。善光寺からの帰路に長野駅まで戻るバスに乗る時に、母がバスの運転手だか車掌だったか忘れたが「デパートのあるところで降ろしてください」と言って、みんなでその前の停留所で降りたが、おもちゃ売場に鉄道模型はなくがっかりした。のちに国鉄に就職してから、乗務で長野へ行ったとき、そのとき乗務したメンバーで善光寺に参拝したことがあって、歩いていく途中に、その大型ビル店舗が「ダイエー」であることがわかった。デパートというよりスーパーだから、16番の鉄道模型などなくて当然だったと、そのとき思った。その商業ビルは今でもあるが、ダイエーが撤退してからずいぶん年月が流れた。


さて、そのあと長野からは信越本線で戸倉まで行ったはずだが、どんな列車に乗ったのか記憶にない。宿泊した旅館は国鉄の協定旅館で屋号も覚えている。ほかに国鉄共済組合直営の安い保養所もあったはずだが、父としては母方の祖母へのもてなしの意味もあって、少しはまともな旅館を選んだのだろう。子供にはそういうことはどうでもよく、近くにあった「ねずみや」という旅館の屋号のほうが気になっていた。鼠がいる旅館かなあと思った。当時は鼠など珍しくもなく、家には普通にいたし、今は暗渠になったが、そのころ中津川駅前に流れていた淀川では、特別大きいやつをよく見かけた。
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先月、それから52年後に温泉街に行ったら、裏手の山には同じような広告文字があったし、そのとき泊まった旅館もまだあった。
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翌日は、どこにも寄らずに帰ったと思う。


冒頭の「戸倉から長野行」の乗車券とセットで使われたものが、もう一つ残っている。祖母が使った準急行券である。
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どんな列車に乗ったか記憶にない。すでにこのころ、信越本線は長野まで電化されていたはずである。しかるにまだ準急なんかあったのかと思って調べてみたが、手持ちの名古屋鉄道管理局の時刻表では、信越本線の時刻の掲載はなかった。あるいは表紙とともに破れて信越本線のページも欠落して捨ててしまったのかもしれない。そこで比較的時期的に近いその前後の時刻表を紐解くと、午前中のほどよい時刻に、準急が1本あった。それは甲府始発で小淵沢~小諸経由の長野行「甲斐駒」という気動車準急列車で、これに間違いあるまい。


そのあと乗り継いだ篠ノ井線~中央西線の列車は、はっきり記憶があって不定期準急大阪行であったことは間違いない。しかし、その時刻表を見ると準急「甲斐駒」から長野で乗り継いでいては、大阪行の準急には間に合わないから変だと思ったが、篠ノ井でなら乗り継げる。乗り継いだ駅は記憶にないが、篠ノ井で乗り換えるほかに選択肢はないはずである。なぜに長野までの乗車券を買ったのかはわからないが、準急「甲斐駒」の時刻が、手持ちの1年半も前の時刻表とは変わっていた可能性もあるし、篠ノ井から乗る大阪行があまりにも混んでいたなら、次の普通列車で長野まで行って、後続の列車に座って帰ることを考慮していたのかもしれない。


<準急「甲斐駒」205D>

甲府7:22発(中央本線・小海線経由)戸倉11:08発 篠ノ井11:18着 長野11:29着

(この列車の時刻だけは1964年10月号交通公社時刻表復刻版から拾い出したので、乗車した1966年4月とは少々時刻が異なると思われる。)


<準急3812列車>

長野11:20発 篠ノ井11:32発 中津川15:21着 名古屋17:42着 大阪21:12着

(この列車の時刻は1965年10月改正の名古屋鉄道管理局のポケット版時刻表で確認した。)


大阪行は1等車を連結した不定期準急で、列車愛称名はなかったが、のちに急行化されたときから「彩雲」を名乗る列車の前身にあたる。「大阪行」ということと、普通列車でないのに気動車でなく客車であったことがすごく新鮮に映った。往路に乗った普通列車はディーゼル機関車の牽引だったのが気になったが、帰路はそんな思い出がまったくない。疲れて眠ってしまったのかもしれないが、不定期列車ゆえに牽引するのは蒸気機関車だったのだろうか。ただ客車にはいつも乗る普通列車にはない木製の枕が付いた座席だったから、スハ43系の客車だったに違いない。そして不定期列車のためか、空いていて4人で1ボックスを確保できたような記憶がある。
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(画像はリニア鉄道館の保存車両)


このときの名古屋・長野間の所要時間を眺めてみると

往路の普通列車825列車=8時間18分

帰路の準急列車3812列車=6時間22分


現在は、言うまでもなく普通列車の直通列車はなく、朝、名古屋を出れば中津川と松本で乗換えが必要だが、1時間くらい名古屋を遅く出ても長野着は1時間くらい早く着ける。帰路も、特急ならこの準急の半分以下の3時間程度で名古屋に着ける。50年の月日は、一泊するのがあたりまえの信州旅行の常識を変えたことになる。

この記事へのコメント

  • やくも3号

    名古屋~美乃坂本間の所要時間が現在のおよそ倍であることに驚く。

    そういえば自分も家族旅行などしたことがない。ダイヤに縛られる鉄道員の方々同様、時間割に縛られる現在の職に就いてからはまとまった休みなどないからだ。また、一般世間での休日こそが書き入れ時で忙しいのも鉄道員の方々に似ている。

    信州旅行。大阪しなのが廃止されてから、かといってサンダーバード+北陸新幹線が強力に宣伝されることもなく、関西に住んでいる自分としては、一気に疎遠になった気がする。
    2018年04月02日 13:08
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    このころは列車の速度の問題以外に、増解結や機関車への給水のため10分前後停車する列車が多かったことや、単線のため行き違い待ちもありました。急行に追い抜かれ、その急行が次駅で行き違った反対列車が来るまで長時間停車するような列車もあって嫌になったことも経験しました。

    家族旅行で思うのですが、子供が親といっしょに行動したがる時期って、ごくわずかだと思います。たしかに今は世間では休日こそが書き入れ時というお仕事が多くなったと思いますが、その間だけでも無理してでも出歩くべきだと自分は思っています。私は世間の休日は休めたわけですが、わが家では出かけたことが子供の記憶に残ってなかったり、旅行より近所のスーパーでオモチャ売場へ行ったほうがいいなどという感想が出たこともあって失敗に終わりました。。。
    田舎育ちなので昔は学校に春と秋に農繁休暇があったのですが、そのとき学校に内緒で家族で大阪万博に行った同級生がいました。うちも非農家で親が鉄道員でしたので、平日に学校が休みであることはチャンスといえばチャンスでしたが、掃除やら買物やら手伝いをさせられました。
    (まじめに、夏休みに日帰りで行きました。)

    関西から信州へは北陸新幹線が全通すると一気に近くなって、飯山線へ行くにしても中部地方からより便利になりそうです。
    2018年04月02日 16:37
  • abesan11

    時刻表の字体が懐かしいです。右の端の辺りに折り目がありますので,アコーディオンの蛇腹のような形の物でしょうか?
    2018年04月02日 18:57
  • しなの7号

    abesan11様
    横に細長い線別のページが綴じられ、蛇腹状に折りたたむと表紙に収まって胸ポケットに入る大きさになります。
    2018年04月02日 19:25
  • 3RT生

    こんばんは。
    さすがと申しますか、とても小2生とは思えない記憶とそれを裏付ける記録には、感嘆するばかりです。
    小生には家族旅行の記憶はあまりなく、幼い頃母親に連れられて鹿児島の実家に里帰りした夜行列車の断片的なイメージがあるだけです。ただ「しろやま」という列車名はかすかに覚えています。
    小3といえば、葬儀参列のため急遽「阿蘇」の座席車でその実家に向かったことがありました(西鹿児島行きの列車は指定が取れなかったのでした)。12月で、湯気で曇った夜汽車のガラス窓を拭いながら時間を過ごし、新聞紙を敷いて床で寝たと思います。熊本からは急行「やたけ」でした。有名なループ線やスイッチバックは親から教えてもらいましたがうまく理解できず、矢岳越えで行き違った蒸気機関車だけは記憶があります。まだ鉄道趣味が開花?する前だったようです。
    2018年04月03日 00:08
  • しなの7号

    3RT生様 こんにちは。
    古い記憶というのは断片的になりますが、乗車券・父が撮影した写真・当時の時刻表などをこれまでも時々見ていたことに加え、旅館の屋号などは、家族でそのときのことが話題になって語られることもあったので、そのたびに記憶が呼び戻されるということが繰り返された結果として、ある程度つながった形での記憶として残ったものと自己分析します。そして何より、そのとき鉄道に興味を示していたことが原記憶に大きく作用していることは言うまでもありません。

    私は写真撮影も中学生になってからです。貴殿のように大人と話ができるような社交性も度胸もなかったですが、せめて父にカメラを借りて、地元の鉄道くらい撮影しておけばよかったのにと思うばかりです。

    高校生になるまで夜行列車に乗車することはありませんでしたが、小学生のころ叔父の急逝で、母と2人で終列車に乗ったことは記憶にあります。夜、家を出て列車に乗るのは初めてで、その列車に乗ったとき、はじめて車内でコーラというものを飲んで、たいへん薬臭くて不味かった記憶と結びついています。

    スイッチバックは列車自体がバックするので子供でも分かりやすいですが、ループ線となると鉄道に興味のない大人でも理解しにくいですね。先日家内と北陸本線鳩原ループを通ってそう思いました。
    2018年04月03日 08:10
  • なはっ子

    家族で行った鉄道の旅が思い出に残っているのは、私の場合、言動を制限されていたからだと思っています。年に一度か二度乗せてもらった特急に乗る前など、調子に乗って「食堂車でなんか食べたいな」など言っては「子供のくせに贅沢言ってるんじゃありません」と言われてはしょげていました。

    そんななかでも、心踊るものがあって、検札の姿を見ては車掌さんになりたいなぁと思っていたものです。
    2018年04月03日 20:54
  • しなの7号

    なはっ子様 こんばんは。
    「年に一度か二度特急に乗れる」ということが「贅沢言ってるんじゃありません」ではないでしょうか(*^^*)
    しかし制限されたことが記憶に残るというのは確かで、このときの往路でディーゼル機関車を間近に見られなかったことや、鉄道模型が買えなかったこと、どちらも思いがかなわなかった思い出です。

    地元に特急が走り始めたのが小学5年生の秋で、その食堂車でコーラだけ注文してもらえたのが、6年生になる前の春休みでした。

    【119】中央西線を走った車両4 :181系気動車(4)
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201012article_15.html

    私は小学生のころには列車に乗って車内放送をしたいという思いがありました。
    2018年04月03日 21:10
  • 3RT生

    いえいえ、社交性などではなく・・単に図々しい子どもだっただけと思います。雑誌で聞きかじったことを確かめに大人の真似して駅、機関区や乗務員室に直撃インタビュー?相当ご迷惑をおかけしたものと、今思い出しても冷や汗ものです。現場の雰囲気が好きな、変な子どもでした。珍しがられたのか、今では考えられない様な貴重な体験をさせていただいたこともあり、それは今以て宝物です。
    2018年04月03日 22:46
  • 1538M車掌

    しなの7号様 こんばんは。
    精勤乗車証懐かしいですね。私も父親が国鉄職員でして(ただ乗務員ではなく保線一筋40年でした、東海道新幹線開業からは新幹線の保線所勤務でした)年間10日を夏冬5日づつに分けて発行してもらい夏休み、冬休みに恩恵にあずかりました。中学生になってから乗り出し、国鉄就職まで毎年利用しました、主に急行かすが1号に乗って関西線加太方面、急行きそに乗って中津川機関区、落合川など日帰り軟弱撮影行でした。蒸気全廃後はDC急行ばかり乗りに出かけましたね、急行が利用できたのが当時では非常に有り難かった思いが有りました。
    食堂車といえば乗務員姿で食堂車でレチ弁を食べるのが一番の夢でしたが、客専見習いでしらさぎ号の食堂車にて何とか叶いました、但し使い捨て紙皿、紙コップでしたが。
    2018年04月03日 22:47
  • しなの7号

    3RT生様
    いやいや、他所の大人に話しかけることは、そうとう高いハードルで、自分は大人のほうから話しかけられても、話もできず固まっている小学生でした。
    2018年04月04日 07:48
  • しなの7号

    1538M車掌様 こんにちは。
    親子2代国鉄職員という方は、けっこうあって、親子で同じ車掌区に勤務という人も何組かあったですね。子供のころのことを言えば、中津川あたりですと、親が国鉄職員という同級生が各学級に必ずいたほど多かったと記憶します。

    私も鉄旅で親の精勤乗車証の恩恵にあずかるようになったのは中学生からです。そのときの話はいずれ、このシリーズ中で書くことにしていますが、やはり日帰りの範囲でした。夜行列車を利用するようになったのは高校生になってからです。当時は急行列車もまだ多かったので、小遣いが限られる身にとってはありがたかったです。

    「しらさぎ」の食堂車、
    【134】専務車掌(乗客扱)3:線路見習
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201102article_3.html
    で、牛丼を注文したことを書きましたが、たぶんレトルトだったのでしょう。
    2018年04月04日 07:48
  • 中央西線

    自分は瑞浪電化後の多治見までEF60多治見からD51で武並までの短い区間SL列車に乗った経験があります。当時幼稚園の年少でSLの絵は決まってデフと煙突には皿型のクルクルパーを描いていました。この春3月24日D51200の初日にやまぐち号に往路5号車最前列12A席復路1号車5A席でノスタルジーに浸ってきました。津和野までは武並と同じ距離なんですね。それにしてもD51200は不具合の連発で明日もDD51代走です。C571検査中の代走の任を全うできるか心配です。
    2018年04月07日 23:17
  • しなの7号

    中央西線様
    まだ瑞浪~釜戸間の名滝トンネル完成前の旧線時代でしょうか。新線用の土岐川を渡るコンクリート橋が架けられ対岸に複線用トンネルが掘られて田んぼの中に路盤ができていく様子を旧線から見たことは記憶しています。
    私のSLの絵には、突っ込みどころ満載です。デフがない場合が多いようですが、安全弁は付いています。そのうちに絵をアップします。
    D51200も、昨年の試運転からトラブル続きのようですが、出掛けられた当日は無事でよろしかったですね。人の集まるところは苦手なので行く機会があるかわからないですが、一度は晴れ姿を見たいです。
    2018年04月08日 10:59

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