【868】 夜の美乃坂本駅

今から8年前、このブログを開設した年に父が病に伏して一時入院したときから、私は週に1回程度、美乃坂本駅を利用するようになった。

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仕事を定時で切り上げてから自宅には寄らず、会社の最寄駅から直接中央西線の中津川行列車に乗って実家に近い美乃坂本駅に降り立つころは、夏場以外は日が暮れて、あたりは真っ暗であった。

けれど、マイカーより速くて楽で、実家で一杯飲んでもいいし、そういう気分でない時も帰路の空っぽの列車内で自棄酒が飲める鉄道は、私にとってはベストな移動手段であった。

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跨線橋から去っていく列車を見送ると、ホームの照明以外に灯りは少ない。

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このあと歩いて、時には自転車で実家へ行って、そのために買って実家に常備した低年式中古軽自動車に乗って、すぐさまスーパーへ出かけ、1週間分の食糧など生活必需品の買い出しをしてから、実家で簡単に食事を済ませたら、帰宅するためにまた美乃坂本駅に戻る。けれど、すっきりした気持ちで実家を後にすることは少なく、複雑な思いのままで、その途中にトトロの森にいつも立ち寄っていた。駅の近くまで来ると田んぼに張った水に映る駅の灯りで癒されたこともあった。

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ひっそりとした美乃坂本駅に戻る。そういうことが3年間、父が再び入院して亡くなるまで続いた。

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夜間に名古屋方面へ向かう列車は少なく、夜の美乃坂本駅は列車が着いた直後以外はひっそりしていた。

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遠くに上り列車のヘッドライトの灯りが見えると、駅に隣接した苗木街道踏切の警報器が鳴り出す。ほかには乗る人も稀なホームに、乾いた自動音声が列車の接近を告げる。

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子供のころから国鉄を退職した直後まで、ここは旅立ちの駅であり、帰ってくる駅であった。

夜、列車から駅に降りることはあっても、乗る列車を待つことは、そんなにあることではなく、この駅で夜の列車に乗るときとは、楽しい旅立ちではないことが多い。

小学生のころ、叔父の急逝の報を受けたとき上りの終列車に母と乗ったこと。

国鉄に就職したころ、家路に急ぐ人々とは逆に、夜行列車乗務のために出勤したこと。

夜の駅とは、そういうものかもしれない。
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31年前5月の連休明けに、転職に伴って転居したときから、この駅は訪れる駅になった。

直近の8年間に自分とその周りには大きな動きがあったが、今はこの駅を利用する用事がなくなった。それはとどまらない時の流れのなかでの、ほんのひと時のできごとに過ぎない。この先の8年後には、リニア中央新幹線の開業が目前のはずで、こんどは私だけでなく美乃坂本駅のほうも大きく変わっていることは間違いないだろう。


あなたの家の最寄り駅の夜は、どんな様相ですか? 

日中の雑踏がなく静まった駅から列車に乗るとき、あなたは何を感じ取りますか?

見慣れた駅の異空間にいるご自分が、そこにいることを、どう思いますか?

心持はどうあれ、そこには、長い「旅」のかけらを感じませんか? 

そしてその駅に隠れた一面を見て、その駅に対して親近感を持ったりしませんか?


◆次回は日中の美乃坂本駅の画像とともに、子供のころの駅の様子などを書いていきます。

この記事へのコメント

  • なはっ子

    これまでの何度かの引越しを経て、私にもいくつかの最寄駅がありました。いちばん印象的なのはやはり、少年時代を過ごした街の駅でしょうか。私の場合、関西の私鉄駅です。

    夏休みのある日、母と出かける時、同じく外出する同級生の親子とホーム上で偶然会ったことがありました。目に痛いくらいの強い陽射しの日でした。ただそれだけのことですが、駅が共通の場所でありました。夏のちょっと華やいだ雰囲気と嬉しそうな同級生の表情。今でもその駅に行くとあの時のことを思い出します。

    駅には、過去のいろいろなことを思い出させてくれる不思議な魅力があると思います。
    2018年04月05日 20:40
  • 3RT生

    こんばんは。
    子どもの頃の馴染みのいくつかの駅には、昼夜問わず、今でも鮮やかに蘇る楽しい思い出が色々ありました。

    10年前小生も、毎日のように仕事が終わってすぐ往復した新幹線区間がありました。目的地は、さらに乗り換えた先にある病院だったのですが平癒に至らず、辛い思い出が残りました。
    新幹線駅到着時の自動放送は現在も当時のままの声で流れます。ホームの自動音声も然りですね。
    夜にあの放送を耳にするたび、これから在来線に乗り換えて、病院まで行けばまた会えるような気がして、10年前に向かう列車でも来ないかなとありもしないことを思う変な父親です。
    (そういえば、最近の線名はヘンテコな名称になっていて、よく聞くと我に返ります)
    「夜の駅」のコメントになりませんでした。すみません。
    2018年04月06日 00:15
  • しなの7号

    なはっ子様
    おっしゃるように、子供のころの自宅最寄り駅には、印象に残ることがいくつもありました。駅は小さいながらも街の玄関口ですから、人が集まる場であって、駅に出かけたとき、または列車から駅に降りたとき、思いがけない出会いがあって、それがいつになっても懐かしく思い出されるものです。乗降客の少ない小さな駅ならではのことかもしれません。今の最寄り駅とは30年以上の付き合いになりましたが、待合室もなく人が多いばかりで、無味乾燥な印象です。
    2018年04月06日 10:05
  • しなの7号

    3RT生様 こんにちは。
    辛い思い出を蘇らせてしまったようで、申し訳ございませんでした。
    先日、飯山線への行き帰りに乗った列車は美乃坂本駅に停車しました。そのときにはここで降りれば、子供のころを過ごした実家と今の私より若く元気だった両親が住む家があるような気がいたしました。今のところは車窓に映る駅も駅周辺の景色もそれほど変わっていないからそう思うのであって、駅周辺が一変すればそんなふうには思わないでしょう。その2週間後に、自家用車で通ったときには、そんな気にはならず、しっかりと現実を受け入れているから不思議なものです。鉄道は通勤通学と旅行客のための単なる交通機関ではなく、喜怒哀楽を乗せるものであって、人と人をつなぐ架け橋のような存在でもあり、駅はその玄関口なのだと思います。
    2018年04月06日 10:05
  • 3RT生

    しなの7号様、こんにちは。
    どうぞお気になさらないでください。駅や列車は「人生の縮図」という名言がありますが、おっしゃる通りと思います。

    子どもの頃、一人で出かけたあるローカル私鉄から帰りのこと。日没後の国鉄乗り換え駅でグズグズして列車を逃し、ホームから乗客の姿がなくなってしまったとき、社線の駅長さんから休憩室に誘われました。列車間合いの夕食時間だったのでしょう、インスタントラーメンをご馳走になり駅長さんと二人でいただきました。いま思うと普段は当務駅長さんお一人だったのでしょうね。
    この駅長さんとはその後ずっと年賀状の交流がありました。
    嬉しかった思い出ですが、残念ながらこの私鉄はもうなく、休憩室のあった所は道路になっています。
    2018年04月06日 12:12
  • しなの7号

    3RT生様
    またまた、いいお話をありがとうございます。
    あちこち出かけるようになったのが遅い私には、そういう経験はありませんが、高校の帰り道にいつも立ち寄っていた北恵那鉄道の車庫で働く人は親切で、仕事の合間にいつもいろいろ教えていただき、顔なじみになりました。
    やはりその鉄道は廃止され、駅と車庫は今では駐車場と道路になって鉄道の面影はなくなりました。そういう思い出を私は決して忘れることはないでしょう。
    【730】北恵那鉄道33:「廃止翌日の回送列車?」
    https://shinano7gou.seesaa.net/article/201610article_4.html

    駅や列車は「人生の縮図」…満員の新幹線の静かな車内とかもまた、今どきの「世相の縮図」のようです。
    2018年04月06日 15:04
  • はやたま速玉早玉

    しなの7号様、こんばんは。
    夜の美乃坂本駅、当然ですが恵那山は望めません。私が昨年訪問した時刻は16時台、天気は晴れ、全く異なる雰囲気です。
    都会の夜の駅には、特にこれと言って心が動かされる事はありません。しかし人気の無い駅、その静まりかえった空間、そこからは郷愁が感じられます。郷愁という単語を使いましたが、上手く言い表せられない『空気感』が漂います。
    (語彙力不足ですみません。言い訳ですが雰囲気や感覚を単語、文章化するのは非常に難しいんです…)

    リニア開通時には、真新しい駅舎に駅前広場、ビジネスホテルまで登場して、まるっきり異なる雰囲気となるんでしょうね。便利になるのは喜ばしいですが、必ず失うモノもあり、寂しさも同時に感じてしまいます。訪問した駅だけに特に、です。
    2018年04月23日 23:55
  • しなの7号

    はやたま速玉早玉様 こんにちは。
    都会では深夜にでもならないと、人っ気のない静かな駅にはなりませんし、駅の立地自体が人工物の中にありますから、田舎駅にあるような空気感は得られにくいですね。しかしその駅に通じる思い出があると、その人にとっては我が家の一部みたいな特別の空間になり得ると思いますよ。

    おそらくこれからの時期、夜の美乃坂本では、周囲の田んぼからカエルの大合唱がうるさいくらいに聞こえてくるはずで、秋になれば虫たちの声で包まれるのですが、近い将来には駅周辺はコンクリートとアスファルトの空間に変貌し、それもまた失われてしまうのでしょう。しかし橋上駅舎からはきっと恵那山が見えるはずで、簡素な跨線橋からみたのと同じ風景は残されると思っています。
    2018年04月24日 11:58
  • はやたま速玉早玉

    京阪伏見桃山駅さん、近鉄桃山御陵前駅さん、都会の夜の駅には魅力を感じないといった表現をしてしまいました。ごめんなさい。

    仕事、遊び、そして旅の玄関口として、ちいさい頃から利用し続けているのにね。『いってきます』『ただいま』言う場所なのに…

    しなの7号様の仰る通り、仕事、恋愛など思い入れがあれば都会の駅でも(田舎の魅力、空気感とは異なる味わいの)、グッと来るモノがありますね。
    2018年04月25日 00:54
  • しなの7号

    はやたま速玉早玉様 こんにちは。
    そうですね。ホームタウンの駅というものは、その立地とは別の思い入れがあります。通勤で使った(使わされた?)駅にはまた違ったそれなりの思いがあります。どちらも繰り返し列車に乗降したそのときどきの自らの喜怒哀楽と結びついて生活の一部になっていたからこそ、他の人にはわからない思いを感じるからなのではないでしょうか。
    鉄道が便利になると、それにつれて駅はただの通過点になり、待合室がなくなり「汽車の駅」らしさがなくなって、駅で過ごす時間が減ったのも都会の駅に郷愁を感じにくくなったことの一因でしょう。今どきの駅では改札口から列車が見えない駅が多いこと…
    2018年04月25日 07:29
  • 風旅記

    こんにちは。
    考えさせられる記事でした。
    他の方のコメントも含めて拝読させて頂きましたが、生きていれば様々なことがあり、駅はまさにその日常の中での通過点として感情と共に記憶に残りますね。
    地元の駅でも、普段使わない時間に行けば、何とも言えない違和感を感じます。
    旅に出るときもありましたし、仕事でやむを得ず普段にはない時間に電車に乗ったこともありました。
    その土地を離れて年月が経ちましたが、訪ねることがあれば自分が他所者になってしまったような寂しさも感じます。
    旅先でただ一度だけであった駅にも、きっとそのようなたくさんの人の思いが蓄積されているのだろうと思うからこそ、大切にしたいと思いますし、一度でも触れれば確かにその土地に行ったような感情を持てるのだろうと思っています。
    風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
    2018年04月29日 11:57
  • しなの7号

    風旅記様 こんにちは。
    家、学校、職場など長い時間を過ごした場所に寄せる思いは、おそらく齢を経れば経るだけ増し、自らの生活環境が変われば変わるだけ、同様に増していくもので、それは日常的に利用していた駅や列車でも例外ではないでしょう。そして同じ駅、同じ列車でも利用者一人一人に違った思いがあるはずですし、ふだん利用しない時間帯に駅を利用しただけで、駅の別の顔を見るような思いもします。駅はただの乗降施設ではありますが、ちゃんと表情があって、人それぞれのドラマの舞台になっているものですね。
    2018年04月29日 16:52
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★ボクのふるさとの駅は、
    同じ中央線の「瑞浪」でした。
    就職した直後(同じ仕事です)
    一番電車で出勤、
    20時過ぎに到着する電車で帰宅、
    寮にはいるまで、2ヶ月くらい、
    そんな状況でした。
    2018年05月02日 19:10
  • しなの7号

    乗り物酔いした元車掌様
    私は、母の胎内で9か月ほど瑞浪駅から大曽根駅まで朝晩通勤利用?したらしいです。
    母が言うには、帰りは19時台に瑞浪に着く木曽福島行で、それを逃すと2時間近く列車がなかったと言っていますが、たしかに当時の時刻表復刻版を見ますとそのとおりです。当時の大曽根から瑞浪までの所要時間は1時間13分で、今の2倍近くかかっていたことがわかります。
    2018年05月03日 14:55
  • 黄金

    こんにちは
    はじめまして。
    楽しく拝見いたしております。
    つい感じるところありましたのでコメントを失礼します。
    某私鉄の駅(A駅とします)なのですが私はその駅のすぐ近くの病院で真冬に産まれました。
    小さめですが駅前に別の私鉄とJRの駅と商店街や飲み屋街があり非常に賑やかな駅です。
    当時住んでいたところから4駅ほど離れていましたが母親は早朝に産気づき始発電車で病院に向かったそうです。
    私は昔から鉄道が好きでしたので両親からは腹のなかの時から電車に乗って駅の横で産まれたから好きなのだと言われ続けてきました。
    月日は流れ私は小学校に電車で通うことになり、その駅で乗り換えることになりました。毎朝走って乗換をしていましたが、その後学校の近くに転居し通らなくなり卒業、就職しました。
    就職したものの鉄道への憧れを捨てきれずA駅のある鉄道へ転職しました。
    たまたま知り合いが勤めていたので何気なく入社したのですが大きな会社で他にどこでも勤務できたはずなのに配属された駅はA駅のある管区で運命の悪戯か、そのA駅の当務として仕事をすることになってしまいました。
    そんな偶然もあるものなんだなぁと駅の助役からも驚かれました。
    秋頃から勤務の循環を辿り予想はしていたのですが案の定誕生日はA駅での泊り勤務でした(笑)
    年末で、忙しそうな人の多い自分の誕生日ですが鉄道好きの原点かもしれない駅で仕事ができるなんて思いもしなかったし、ある意味幸せだなと考えていました。
    その後車掌に登用されA駅を乗務範囲に持つ線区で仕事をしています。
    実家から独立し家賃も安く、現在の職場も近いのでA駅の近くに住んでいます(笑)
    私はA駅に好かれたようですし今では大好きになってしまっています。
    まさに運命の駅です(笑)
    2018年05月03日 22:08
  • しなの7号

    黄金様 はじめまして。
    ご自身が生まれた病院最寄り駅との深い縁があったということでしょうね。
    自分の半生、実は偶然の積み重ねに支配されていただけで、それはすなわち縁であり運命だったのかなと、齢を重ねるにつれて意識をするようになりました。ですから良縁は大切にしたいものですし感謝もします。そういった駅への思い入れは必然的に強くなるものだなあと思います。

    私も、母からは(前の方の返しコメントに書いたとおり)「母の胎内で9か月ほど瑞浪駅から大曽根駅まで朝晩通勤で汽車に乗っていたから、汽車が好きになったんだわ」といつも言われていました。実は本日午前中に黄金様からいただいたコメントを母に見せましたら、やはりその話が始まり、あれは胎教などと言っておりました。母は同じ話を何度も繰り返すようになりましたが、年老いても若いころの話は記憶しています。私どももきっと同じで、他人様にはどうでもよい話であっても、死ぬまでこういうことは覚えているのだろうと思います。

    駅の利用者一人一人に、そして駅員・乗務員にも切り離すことができない関係の駅というものがありますね。ご投稿ありがとうございました。
    2018年05月04日 14:34

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