美乃坂本駅は中央西線で名古屋から18番目、営業キロ73.5㎞の地点にある。リニア中央新幹線の岐阜県駅が隣接して建設されることになっているが、現況は田舎の駅である。
子供のころから国鉄を退職するまでの間、この駅周辺は私の遊び場でもあり、高校生のときは通学で、国鉄に就職してからは通勤で利用してきた。
駅舎は内外装ともリニューアル工事がされているが、国鉄時代から建て替えられることなく木造駅舎がそのまま使われている。中央西線の名古屋~中津川間で木造駅舎が残っているのは、この駅のほかには釜戸駅しかない。
上の画像で左側はトイレであるが、未だ水洗式ではないし男女共用になっている。臭気抜きのためなのか、撮影した日にはご覧のように個室も含めて窓が開け放たれていた。国鉄が分割民営化されてから、一般にトイレは改札内に設けられ、乗降客以外は使えない駅が増えたが、この駅は構造上の理由なのか、そのままにされ、改札内にはトイレがない。もっとも数年前にすぐそばにJRとは関係のないきれいな公衆トイレが造られたので、駅のトイレを使う人は少ないと思う。
上の画像は待合室内部の様子(ベンチ側)。
私が小学生のころから、造り付けの木製ベンチは変わっていないが、このように塗りつぶされてはいなかった。そのころ窓や改札口の建具は全部木製だったし、冬には画面中央手前に石炭ストーブが置かれたが、のちに灯油ストーブに変わった。上の画像には天井と窓上の幕板に補修跡が残っているが、そこにはストーブの煙突が通っていた。
こちらは待合室の事務室側
この駅は昭和40年代には、列車の運転取扱要員以外は業務委託されたと記憶する。JRになってからは窓口営業時間が限定され、早朝と夜間は無人になった。
上の画像では、左側壁面に券売機が設置されているが、国鉄時代には、この券売機の少し左寄りに出札窓口が1つだけあった。列車の発車時刻の10分くらい前になるまで、その出札口には「しばらくお待ちください」の札が出されていた。画像で右側に見える出札窓口は改札口のほうに出っ張っていて、出札と改札が1人で兼ねられるような造りになっているが、国鉄時代には出っ張りはなく、間仕切壁は券売機のある壁面と面一になっていて、そこには大きな秤が置かれた手小荷物扱窓口があった。
私が子供のころには、黒板のような時刻表が掲出され、その下には手動字幕式の「次列車の時刻・行先表示器」が上下列車用1個ずつが掛けられ、次の列車時刻と行先が表示されていた。
上の画像は、美乃坂本駅にあったのと同じ様式の、時刻・行先表示器である。数年前に長良川鉄道の郡上八幡駅に併設されていた「ふるさとの鉄道館」(現在は閉館)で撮影し画像処理したものである。
その表示器は、下の画像でいうと改札口の上の部分にあった。前述のように現在ある出改札兼用の窓口はそこにはなかったので、列車到着の5分くらい前になると事務室から改札口のところへ担当駅員が現れて、冬場だと大扉がガラガラガラッという音とともに、2つある改札ラッチのうち1つ分だけが開かれて、「上り名古屋行~」などと声が掛かり改札が始まった。列車が発車して降車客の集札が終わると、駅員は「次列車の時刻と行先表示」を手動で変え、冬場ならストーブに石炭を補充し、灰を取り出してから、改札口の大扉を閉めて事務室の中に消えていった。
下の画像で、改札を出て右に行くとホームに行く跨線橋へ続いている。
上の画像の正面奥、掲示物が並んでいるところは、柵になっていて、その向こう側には上り本線の線路。さらにその向こうが上下列車が行き違うことができる島式ホームになっている。
改札口正面の柵の位置まで近寄って撮影したのが下の画像。
ホームの擁壁に注目してほしい。跨線橋がなかったころの構内踏切につながるホーム階段があった場所に、その痕跡がはっきりと残っている。
下の画像は、跨線橋上から駅舎側を見たところ。
側溝の形状が構内踏切があった部分だけ駅舎側の土間コンクリート高さと同じになっていることがわかる。
側溝を覆う鉄板が一部だけ残されているのは、構内踏切廃止後も、この位置に狭い職員用通路があった名残。
ホームの階段部分には、蝶番が付いて転換できるようになった鉄板があって、列車が来るときはその鉄板で階段がふさがれた。下の画像は旧大社駅に残されているホーム階段部分と鉄板。
美乃坂本駅の構内踏切は、この大社駅の例よりも広く、階段が2つ並んでいて、それぞれに鉄板のフタがあった。昭和40年代初め頃だったと記憶するが、列車の長大編成化に対応するために、名古屋方にある苗木街道踏切の直前までホームが延長された。増設ホームはホーム高さが将来の電化に備えたためか、既設ホームより高くなり、この構内踏切がある付近まで既設ホームが、それに合わせて嵩上げされた。そのとき階段をふさぐ鉄板の構造が蝶番による転換式から、水平にスライドする引き出し式に改良された。ホームが嵩上げされれば階段の段数が増え、そのことによって開口面積が増加するので、鉄板が大型になってしまい、持ち上げて転換させるには重すぎて困難なためだろうと思われた。
跨線橋がないころは、上り列車が接近するとホーム階段の鉄板がふさがれ改札は止められた。その列車からの下車客は上り列車が発車するまでホームで待たなければならなかったのはもちろんだが、発車時刻ギリギリに上り列車に乗る客が駅に駆け込んできたらどうするか。上り列車が停車すると、改札担当の駅員が改札口に近い客車の乗降口から乗り込んで、ホームで出発合図を出す当務駅長に、チョイ待ちを伝えてから改札口に戻り、備え付けの木製の階段を、上り列車の乗降口に架けた。改札口で待っていた客は、線路端からその階段を使って上り列車にホームのない駅舎側から直接乗車した。
以上は上り列車が非自動扉の旧形客車の場合であって、自動扉や半自動扉の上り気動車列車の場合はどうかといえば、普通気動車列車はみな短編成だったので、構内踏切を支障しないよう、その直前(2つ上の画像で跨線橋の上り口のあたり)が列車の停止目標とされていたので問題はなかった。その場合も列車が接近すると危険なのでいったん改札が止められるが、列車が完全に停止してから改札係員の指示で構内踏切を渡って通常どおりホームから乗降ができた。いちばん困るのはダイヤが乱れたりして、長編成の上り列車が長時間停車する場合で、それが客車列車であれば、ホームに降りた下車客は、いったん降りたホームから、また改札口に最も近い位置にある客車の乗降口からデッキを通り抜けて、駅舎側に架けられた木製階段を使って線路端に降りて改札口に行った。貨物列車なら構内踏切部分を開放するために通路分割(列車を一時的に踏切部分で切り離して分割すること)をするしかなかった。
そういえば、単線時代に、この構内踏切を渡った先のホーム上には、らせん状の形をした通票受器があったことを覚えている。通票を使っていたのはいつごろまでだったか記憶にないが、昭和40年以前のはずだ。
電化される少し前に跨線橋が建設された。基礎工事ができてから、ちっとも工事が進展しないなと思っていたら、ある日、組み立てられた階段と橋桁部分の床部分と2本の円柱状の鉄製支柱が駅前に持ち込まれ、クレーンによってプラモのように短期間で組み立てられてしまったのに驚いた。
この跨線橋上からの眺めはよい。塩尻方には恵那山が聳え、線路は一直線に延びている。
その反対側(名古屋方)には笠置山が聳え、線路はホーム先端あたりから左に急カーブしている。
ホームの名古屋方先端部から撮影したのが下の画像。
さきほど、名古屋方ホームが延長されたことを書いたが、その延長部分のホームはJRに移行してから撤去され、今は上の画像のように、ホームがあった面影はなくなっている。
撤去された部分のホームは急カーブにかかっていたので、列車の乗降口とホームの間がたいへん広く開いた状態になっていた。さらに、カーブした線路にはカント(列車が安定してカーブを曲がれるよう、カーブ外側のレールを内側よりも高い位置に敷設すること)がつけてあるために、名古屋方面上り列車(上の画像の左側)では、列車の乗降口とホームのとの上下段差が尋常でなく危険であった。(上の画像では、左側が高速で車体を傾斜させて通過する383系なので、傾きが強調されすぎではあるが、上下列車ともに左に傾いているのがわかる。)
国鉄時代末期までは、こんな小駅でも駅員がホームに出て安全確認をして車掌に出発指示合図を出していたので問題にならなかったが、ホームに出場する要員が廃止されたことで、長大編成では後方の車掌から列車全体の乗降状態の確認ができなくなったことから、この部分のホームを撤去したものと思われる。名古屋方のカーブ部分のホームが短縮された代わり、反対の塩尻方にホームが延長増設された。その部分だけホーム基礎部分の構造が違い、鉄骨組になっている。
ホームの塩尻方先端部から撮影したのが下の画像。こちら側は直線で見通しが良い。
普通列車を待つ人のそばを高速で通過する特急。
こんな長閑な駅でも、リニア中央新幹線が開通時までには、この駅も橋上駅舎に改築されるようだし、駅一帯も大きく変貌することになっている。幼少時から国鉄退職まで住んだこの地が発展するのは良いことだと思うし楽しみではあるけれど、子供のころを偲ぶ場所はきっと失われてしまうのだろう。
この記事へのコメント
NAO
美濃坂本ではなく、美乃坂本と命名された駅なのですね。車補は「みの坂本」と記入されるのが慣例だったのでしょうか。
リニアが停まるのですか。接続「しなの」は全列車停車駅になるのでしょうね、私の憶測ですが。というより、リニア駅までのアクセスに要する時間の方がリニア乗車時間を上回るような気が。
「欧米か?!」なんて言っていたお笑い芸人が居られますが、画像を拝見して、「地下鉄か?!」と思ってしまいました、ステンレス車両の特急電車や、いっとき料金徴収していた快速電車の車両が郊外駅ですれ違っているので。
しなの7号
純粋な旧国名表記ではない美乃坂本を車補に「みの坂本」と記入したらアウトでした。
よそ者になった自分にとって、この駅の将来は本文最後の一文に集約されます。
313系8000番台車は、今も宵の口の下りホームライナー瑞浪(3本?)に有料で継続使用されています。
はやたま速玉早玉
夜の美乃坂本駅篇でもコメント致しましたが、近代的(近未来的?)な駅前地区に変貌を遂げようとも、美しい風景が望める駅であって欲しいですね。『恵那山展望デッキ』を設置するのも一つの手段かと。
残念ですが木造の駅舎は無くなるでしょうね。美乃坂本駅に限らずですが、古き良きモノを維持して現役で活躍させる事も検討する余地があるのではないでしょうか?
昔はそうでしたよね!列車到着の数分前に『只今より普通京都行きの改札を~』この案内がある迄は、駅構内に入れませんでしたね。山陰本線八木駅の近くに親戚の家があり、帰りは駅の待合室のベンチに腰掛け、お菓子を食べながら改札を待っていた記憶があります。
電化前の奈良線桃山駅には跨線橋が無く、大社駅の画像と同じくホーム階段がありました。階段はコンクリートで埋められ、この箇所は今でも明確にわかるので『ああ、ここに階段があったなぁ~』と懐かしむ事ができます。長良川鉄道の旅の際、関駅、郡上大和駅で写真を撮りました。この画像には現役のホーム階段が写っています。
しなの7号
リニア岐阜県駅の周辺整備計画は、自治体から発表されていまして、リニア岐阜県駅と美乃坂本駅との乗換利便性と快適性を両立する連絡施設(高架通路?)が建設され、そこから恵那山の眺望が楽しめる配置とするとされています。周辺を俯瞰した予想イメージ図なども公表されているので、それを見る限りでは、その連絡施設から恵那山の眺望が活かされるものと思います。駅裏は、今あるのどかさがまったくなくなるようです。
子供のころ地方では列車ごとの改札が普通で、常時改札をしていた駅は、私の行動範囲内では名古屋駅しか記憶にありません。駅ホームの擁壁に昔の痕跡が残る駅を今でもよく見かけますね。まるで地層のような嵩上げ跡やホーム延長跡、階段跡、腕木信号機用ケーブル用の切り欠き穴、すべてが無言のうちに鉄道の歴史を教えてくれます。昔の駅舎には、その町の玄関口として建築様式や装飾に個性が持たせてあったのですが、最近の駅は大きな規模の駅でも機能は充実していますが建築そのものは簡素ですね。全国の旧国鉄線に乗ってきて思うのは、長良川鉄道など旧国鉄から転換された第三セクターの鉄道に、今のJRにはなくなってしまった昔の国鉄の遺物がたくさん残っていたことです。一駅ごとに降りて観察をしていくと、忘れかけていたモノを発見できそうな気がします。