先週は、「津山まなびの鉄道館」へ行ったことを書きました。
この中で、D51 2・DF50 18・DD13 638の3両は大阪環状線弁天町駅に隣接した交通科学博物館が閉館した後、ここに移設された車両ですので、自分が最後に交通科学博物館で彼らを見た2008年から10年ぶりの再会となりました。
下が、D51 2・DF50 18・DD13 638の現況です。
そして下が、交通科学博物館時代のDD13 638とDF50 18
2008年の画像で、このころには屋根がかけられていましたが、さらに前には屋根はなく、この2両の展示位置は、バラバラで離れていました。津山に来て扇形庫に収蔵されたことによって、現役時代がリアルに蘇ってきた印象を受けます。とかく車両ばかりが、半分は遊具のような価値観のもとで人気を得ることが多いですが、鉄道の歴史に関わる建築物や施設が、こうして遺されていることに大きな意義を感じさせるものです。
D51 2については後述しますが、こうして10年ぶりに交通科学博物館に展示されていた車両たちに再会すると、交通科学博物館のことを思い出さずにはいられません。
交通科学博物館に初めて行ったのは1967年3月で小学3年生から4年生になる間の春休み中でした。
以前書いた戸倉上山田温泉への家族旅行をした1年後ですから、今から51年前のことになります。このときは日帰りの家族旅行で、言うまでもなく私の希望によって、目的地は「交通科学館」(のちの交通科学博物館)だけで、もう一つ目的があったとすれば、2年半前に開業した東海道新幹線に初乗りすることでした。名古屋からの往路が東海道本線在来線の急行「比叡」で、帰路が新幹線の特急「こだま」でした。
その1年前の家族旅行の旧形客車列車では、子供一人での車内探訪が親から許されませんでしたが、このときは1人で急行「比叡」の車内探訪が許され、先頭車まで一人で車内を歩いてきました。自動ドアだから転落の恐れがないから大丈夫という判断だったのでしょう。2両連結されたサロを両側からサハシが挟む由緒正しい153系の12両編成でした。
下はたぶんそのとき父に撮影してもらった画像だと思われます。
いつも乗っている中央西線の旧形客車列車との格の違いを感じ、車内販売というものを初めて見たのもこのときだったと記憶します。もちろん車内では何も買ってもらえませんでしたが、「〇〇は、いかがですか」を繰り返しながら通路をワゴンを押している販売員に応答するタイミングで「いらんよ~ダ」(ホントは何か買ってほしい…)と両親だけに聞こえる小さな声で繰り返していたことを覚えています。
帰路の東海道新幹線では、初めての210㎞/hを体験しましたが、体感的なスピード感はあまり感じなかった代わりに、やや離れた東海道本線を走行中の貨物列車と並走する場面で、その貨物列車が止まっているように見えたことで、高速で走っているのだということを視覚的に実感しました。新幹線に乗って篠原付近で在来線が見えると、その日のことをいつも思い出します。
そのころの「交通科学館」の展示車両は少なく、先日津山で見たD51 2・DD13 638・DF50 18はすべて現役だったはずで、そこに展示されていませんでした。その代わりマシ29とか、国鉄末期にマイテ49として車籍復活現役復帰したマロテ49、梅小路蒸気機関車館開設時に移転したC53 45が展示されていました。
そのときに父が撮影した展示車両の画像は、ネガ1本分20枚程度はあったはずで、永く保管していたのですが、私の手違いで数年前にネガ、紙焼き写真ともに廃棄してしまったようで、手元に見当たりません。サハシ153とサハ163の形式番号標記の画像は、紙焼き写真をコンデジで複写した画像ファイルをたまたま発見したので、ここにアップできました。
破れて一部がない状態の「館内案内」を保存しておりますが、このときに渡されたものかどうかは不明です。画像では確認できないかもしれませんが、入場料金は大人100円と書いてあります。
行った日付は、このとき弁天町駅で買った乗車券から特定できました。おそらく、このときは美乃坂本から大阪市内までの往復乗車券(職員割引)を使用したと思われ、帰路に大阪駅で下車するために弁天町から大阪まで、別にこうして乗車券を買っています。
田舎に住んでいた者にとって、地図式の乗車券がたいへん珍しい切符に思え、この切符がほしいという私のために、保存用として1枚余分に小児券を母が追加で買ってくれたので、それがこうして未使用で残っています。このあと大阪駅で下車してから阪急百貨店の模型売場へ行って、16番の貨車を買ってもらいました。
このあと、少なくとも5回は交通科学博物館に行っていますが、正確な入館回数はわかりません。
これらのパンフレットは、古い順に左から右に並んでいます。一番新しい右側のパンフレットは2008年のもので、入場料は大人400円となっていました。
下は、ミュージアムショップで買い物をしたときの紙袋ですが、東京にあった交通博物館のものかもしれません。交通博物館と交通科学館は公益財団法人交通文化振興財団によって運営されていたことがわかります。
1971年に梅小路蒸気機関車館(→京都鉄道博物館)が開館したときに前述のC53 45が交通科学館から移転した後に代替として展示されたのが、D51 2でした。
下の画像は1996年7月28日の撮影で、梅小路に移転したC53 45が展示されていた同じ場所に据え付けられ、C62 26と並んでいました。
後に展示場所が館内で移動し、展示されている向きも逆転し、京都駅ホーム上屋の鉄骨を使った上屋がかけられました。それが下の画像で、2008年10月13日の撮影です。
このD51 2は現役時には中京圏で使用されていた機関車で、私が生まれる前には中津川機関区や多治見機関区に配置された履歴があります。その後は稲沢第一機関区に配置されていますが、あいにく私がナンバーまで記憶しているような時期ではない遠い過去のことで、中央西線で、なめくじ型D51が走行していた記憶はあるものの、ほかにもなめくじ型はありましたから、現役でD51 2が地元で走行するのを見たかどうかわかりません。廃車時点では稲沢第一機関区所属で、関西本線の名古屋口がDL化されるまで貨物列車に使用されていたということです。廃車直前に長野運転所に貸し出されて臨時客車列車ファミリーD51号に使用されたあと、ナンバープレートを外された姿で、なぜかしばらく中津川機関区に留置されていたのを見たことがあります。それが下の画像で、1971年11月(日付不明)に中津川機関区で撮影しています。
当時はまだ中央西線にD51が健在でしたが、稼働機すべてが集煙装置を装備した標準型になっていましたから、留置されていたなめくじ型D51は目立ちましたが、火が入ることもなく廃車とされ、その後に交通科学館で保存されたという経緯になります。
交通科学博物館に一人で行ったことは記憶になく、子供を引き連れていくことがほとんどでしたが、2008年には当時80歳になっていた父と2人で来ています。仲の良かった友達が一人二人と他界し、あるいは病に倒れ、家から出ることが少なくなった父を大宮の鉄道博物館に連れて行ったのはその前年でしたが、こんどは梅小路と交通科学博物館に行きたいと言い出しました。しかし年齢が年齢でしたから、行くなら早いうちに、ということで、出掛けましたが、その日が自分にとっても最後の交通科学博物館行になりました。初めて父母に連れてこられてから41年目のことでした。
左は1971年の中津川・右は2018年の津山
どちらも現役を退いたあとのD51 2ですが、この2つの画像の間には47年の歳月が流れています。時空を超えて地元で見た機関車を津山という遠隔の地で見ることになった感慨とともに、これがこの機関車の見納めになるのかもしれないという思いも入り混じります。
この記事へのコメント
やくも3号
>私がこの機関車の見納めになるのかもしれないという思いも入り混じり…
まだお若いのにそんな大年寄りみたいなこと言うたらあきません。「あと百回くらいは見に行くと思います」ということで。
自分が初めて鉄道模型を買ってもらったのも阪急百貨店の模型売場でした。
博物館に行くことは一大決心の大イベントでいらしたようですが、きっとお目当ての列車に乗って行くことを楽しみに、何日も前から指折りされているご様子が目に浮かび、大変羨ましく思います。梅小路蒸気機関車館や高槻駅前の模型店などへ、学校帰りの小学生が名札を付けたまま、ブルーの103系で(あるいは自転車で)ふらっと行けるのは、ある意味恵まれた環境だったとは思いますが、実際、自分には行った時の記憶など何も残ってないからです。
p.s.
下の記事ですが、在りし日の姿をそのまま残す、ということは日本人は下手ですね。
ttps://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011034979.shtml
京都駅が改装された時も、ホーム軒先にある飾り(蒸気機関車の煙除け?)も一部しか残されず、増築部分がつぎはぎなのが残念でなりません。
しなの7号1号車
やっぱ、あきませんかなぁ…
それでも50代にはいったころから、あとどれだけで…という引き算の考え方に支配され、終わりは必ずあり、それは明日である可能性だってあるという前提で物事を考えがちになりました。それは、自分の余命とか体力的なことばかりではなく、周囲の親しい人が突然いなくなったことに出くわしたり、しばらくブログをお休みしたあの東日本と熊本の大災害のときのことなど、すべて自分ではどうにもできない時の移り変わりを経験したことから来ているのだと思います。ですので、7時間もかけて行った津山でもそう思ったわけですが、その代わり、終わりが近いかもしれないから、やるべきことは後回しにせずできるうちにやらねばという気持ちにもなっていて、たとえば中津川ゆかりの有田川のD51827とか金沢のD51522に会いに行きたいとか、東京駅の井上勝の像を見てきたいとか、やりたいのにやれていないことを1つずつ実現させていく計画をしていますから、必ずしも老け込んでいるとも言いきれません(*^^)v
(続きます)
しなの7号 増号車
初めて交通科学館に行った当時の自分を振り返ってみますと、田舎暮らしで、しかも農業に従事せず田舎では珍しい共稼ぎの家庭だった我が家では、おそらく都会暮らしの方々には理解できない日常生活をしていました。小学生までの生活については、この後5月に入ってからの記事に続きますので、その中で書いていきます。名古屋でさえ遠かったのに、大阪は海外のように遠いところで、その次に大阪まで行ったのは、3年後の大阪万博、その次は1人で行った中学3年生のときで、そのことも、いずれ記事にします。
古い駅名標は、たとえ保存されたとしても、その駅があるのなら、その駅にあってこそ意味のあるものだと思います。そういう思いが伝わらないのが今の日本かと思えば、想いがかなってしかるべき場所にしかるべきものが保存されると盗難にあったりしますから変な国ですね。
中央西線
http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/JNR-kansai/JNR-kansai5.html
中央線のナメクジといえばD514でしたね。瑞浪電化で引退し
北海道に渡り寸詰まりデフになってますね。
しなの7号
D512の関西本線さよなら列車のことは、まったく別世界のこととして捉えていたほど当時の私の行動範囲は狭く、カメラを手にした直後でしたから「そんな遠い所」へ行って撮影しようとは考えもしませんでした。
中央西線内で最後になめくじ型を見たのは、愛岐トンネルの工事中か完成直後の定光寺(または古虎渓?)で、上り列車の車窓から見た、対向の重連単行機関車列車でした。それが4号機だったかもしれないですね。
はやたま速玉早玉
私が訪問したのは平日、訪問者も少なく、マイペースを崩す事なく津山まなびの鉄道館を満喫しました。姫新線も空いており(とは言え青春18シーズン中ですからいわゆる『同業者』も数名居ましたが)、座席を確保できました。変化を付ける目的で、播磨新宮→佐用間は運転士さんの斜め後ろに立ち『かぶり付き』を愉しみました。
すみません、コメントが脱線、本題に戻りますっ…f(^_^;))
この日訪問されていた方々は決まってD51 2の前で記念写真を撮られていました。しかし私が記念撮影に選んだのはDF50 18でした。他の訪問者の方々に『何でアイツはコレを選んだんやろう、変わったヤツやなぁ』なんて思われていたかもです(笑)
決してアンチD51ではありません。個人的にDF50が好き、お気に入りナンバー1ですから一緒に写りたかったんです。
転車台と扇形機関庫、保存されている全ての車両を含む全景は撮影してカメラに収めました。後日この画像を見て改めて思いました『転車台、扇形機関庫の存在は保存車両たちを一層生き生きとさせてくれている』と。
車両たちは勿論、転車台、扇形機関庫、永遠に残して欲しいですね。
しなの7号
播磨新宮→佐用間は単行のキハ122(初乗車)で、これには全力疾走で乗り換えたので転換クロス窓側に座れたのですが、通路にはずらりと立ち客。そうなると佐用での乗換は通路に立った立ち客が先に津山行に乗り換えてしまうので、まずいなと思ったのですが、津山行はキハ120ながら増結して2両編成でしたので、ロングシ-トに座れました♪
一般の方々にはSLが人気ですね。その存在感はたしかに大きいですし全国に保存機がありますが、DLやDCとなると人気度のせいでしょうが極端に少なくて、あれだけ全国で走ったキハ58なども、身近なところに保存車が見当たりません。
DF50を見ると紀勢本線を思い起こしますね。加速するときのエンジン音を聴いてみたいものです。
鉄道は大きなシステムの中で列車を運行しているわけですから、主役の車両だけでなくて、施設や用具など付帯するものすべてが鉄道遺産と考えるべきですね。この扇形庫へのアプローチでは、中学生時代に機関区の見学に行ったときの感覚が蘇りました。