4月から月曜日には子供のころの鉄道に関わる内容を取り交ぜて書いていますが、今回は子供のころの鉄道とは関係ない内容です。しかし2回続けた「津山まなびの鉄道館」での再会に関係する内容なので、そのまま続けさせていただきます。来週以降はまた子供のころの鉄道に関することを続けて書いていきます。
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「津山まなびの鉄道館」の保存車両の中で、いちばん地味だなあと思うのはキハ33です。
こうしてキハ181と並べられてしまうと引き立て役のような印象も受けますが、キハ33はJR西日本が国鉄から引き継いだ客車オハ50を気動車化改造した特徴ある車両で、改造されたのはわずか2両。このキハ33 1001がそのうちの1両という希少な車両なのです。
50系客車の一員として当時の国鉄でデビューしたのは昭和50年代前半で、わずか10年足らずで国鉄は分割民営化。機関車が牽引する客車列車は気動車列車へと置き換えが進んだことで、まだ新しいのに用無しになり、エンジンを載せ気動車化改造を受け第二の人生へ。しかし改造車ゆえの特殊事情が邪魔をして特定線区だけで使用される異端車として扱われ、それでも与えられた仕事はいちおう全うして、目立たず引退。気が付けば、国鉄での客車時代より気動車時代のほうが2倍以上長くなってしまっていたという経歴は、まさにどこぞの誰かの経歴に酷似し身につまされる思いがします。こういうところに、現場で厄介者扱いされながらも、表向きは終始特急として華やかな優等生として通したキハ181のような車両にはない味わいがあるというものです。
保存されているキハ33 1001には、2005年2月4日に旅先の山陰本線の浜坂~鳥取間で乗りました。つい数年前のように思えるのですが、13年ぶりの再会になります。
もう一つ、津山では意外な再会がありました。
家を出てから7時間以上かかって姫新線の列車から津山駅のホームに降り立ち、そこから「津山まなびの鉄道館」扇形庫の手前にある津山運転区の留置線に、旧国鉄標準色に塗装された気動車が停車しているのを見つけました。
キハ47を使用した2両編成の「みまさかノスタルジー」がこの塗装であることは知っていたので、それだろうと勝手に思っていました。このあと「津山まなびの鉄道館」に入館し、館内の敷地からこの気動車を近くで見ると、キハ47ではなく両運転台のキハ40であることがわかりました。鉄道雑誌を買うことはなく、書店で立ち読みすることさえめったになくなった私の、最近の鉄道事情に対する知識は実にいい加減で、キハ40にも国鉄一般色の「みまさかノスタルジー塗装車」があることを初めて知りました。そういうものかと思い、撮影したのはこの画像。
画像の右側には建築物があって、車両全体を見渡すことはできませんでしたが、それでもいちおう形式番号表記がわかるように撮影しておきました。そのときキハ40 2134というナンバーには何も意識しなかったのですが、実はこの車両こそが私が伊勢線(←現伊勢鉄道)で、国鉄時代に1往復半乗務した車両で、そうとは気づかないままの34年半ぶりの再会でした。
以前、JR東海でも類似の国鉄風塗装があったことを、
と、2本の記事で書きましたが、津山でこういう塗装のキハ40を見ると、すでに引退したJR東海のキハ40系一族のことを思い出すものです。
私が国鉄時代に乗務したことがあるキハ40系の大多数は国鉄分割民営化に際してはJR東海に引き継がれています。と、いうことは、JR東海のキハ40系が全廃された2016年の時点で、日本の線路上から私が乗務したことがあるキハ40は全車消滅してしまったのか? 気になった私は、その記事を書いたときに、わかる範囲で調べてみました。
私が乗務したキハ40は、
・美濃太田機関区(名ミオ)所属車=関西本線・中央西線で乗務
・亀山機関区(天カメ)所属車=関西本線・伊勢線で乗務
・伊勢運転区(天イセ)所属車=伊勢線で乗務
と、3種類ありました。
国鉄分割民営化を前提に、国鉄最末期に天王寺鉄道管理局エリアが分割され、伊勢運転区は紀勢本線の東側と参宮線・名松線を管轄する現JR東海エリアに、そして亀山機関区はJR西日本エリアへと別れ亀山運転区になりました。と、すれば、分割民営化時点で亀山運転区に所属していたキハ40系は、JR東海でキハ40系が廃車されたあとも、JR西日本にまだ現役で、その中には私が乗務したことがあるキハ40系があるかもしれないという結論になります。
そこで、まず乗務したキハ40の記録を書き出しました。記録に番号の書き間違いがないかもチェックする意味で、「1982年版国鉄車両配置表(交友社刊)」で所属も確認。そのあと鉄道ファン誌1987年6月号特別付録の「国鉄最後の車両配置表(1987年3月31日現在)」(=JR発足時の配置)で、各車の行方を照合しました。そして、私が乗務したことがあるキハ40のうち、以下の2例(5個列車)について、国鉄分割民営化でJR西日本籍になったキハ40が含まれていたことがわかりました。
1982年2月3日
関西本線 622D
運転区間・乗務区間とも 亀山~名古屋
キハ35 56 天カメ
キハ35 189 天カメ
キハ40 2029天カメ
1983年9月29日
伊勢線 127D~130D~131D~134D
運転区間・乗務区間とも 四日市~津
キハ40 2059天イセ
キハ40 2134天イセ
(編成は下り基準 キハ40 2059が津方先頭)
この2つの編成表のうち、キハ40 2029とキハ40 2134が「国鉄最後の車両配置表(1987年3月31日現在)」で亀山運転区所属になっていて、すなわち国鉄分割民営化時点でJR西日本所有になったわけです。私は、国鉄退職後に乗り鉄をしたとき、乗車した車両をときどき記録していたので、まずそれを確認しました。
そうすると、1993年1月20日に加古川線を初乗りしたとき、西脇市16:04発加古川着17:02の754D(2両編成)に乗車し、私が乗った2両目がキハ40 2029であったことがわかりました。こういうことを事前に把握して、旅先で意識していれば、11年ぶりの再会を喜べたことになりますが、そんなことは考えもしなかった私は、乗車当日のことをさっぱり覚えていません。
こんなことを調べたのは前述のとおりで、JR東海のキハ40系が引退した後でしたから、今からわずか2年前です。その時点で加古川線は電化されていましたから、キハ40 2029は、もう加古川線にはおらず、もう1両のキハ40 2134と2両とも岡山気動車区に在籍中であるらしいことまでが判明しました。この2両の番号は覚えておいて、岡山周辺に出かけたら気を付けていようと、調べたそのときには思っていたのですが、実は今回の津山行きではすっかりそういうことを忘れていました。
その日「津山まなびの鉄道館」を後に、津山駅まで戻る道すがら、線路沿いにあった駐車場から、さきほど見たキハ40 2134「みまさかノスタルジー塗装車」がよく見えたので、吸い寄せられるように道からそれて、そこからとどめの1枚を撮影しました。
このあと私は津山駅から岡山行快速「ことぶき」(キハ47の2両編成)の客になりました。昼下がりの津山線は空いており、車窓をよぎる見頃が過ぎた桜並木などをぼんやり眺め、岡山・播州赤穂と乗り継いで新快速に乗り換えました。新快速乗車中に日が暮れて、車窓も見られなくなったので、その日撮影した画像をカメラのモニターで確認していて、そこで初めて津山で撮影したキハ40の「みまさかノスタルジー塗装車」のナンバーに注目し、2年前にあれこれ調べたことを思い出したのでした。その画像に写っていたのは記憶にある「キハ40 2134」。帰宅してからさっそく乗務手帳を確認し、確かに自分が乗務した車両であったことを確認しました。
まさかこんな塗装にしてもらって、岡山気動車区のスターになっているとは思ってもみませんでした。
思えば34年半前の伊勢線では、キハ35×2両編成が日常の編成で、運が良くてもキハ45でした。新製されて日も浅いキハ40の2両編成に当たるようなことはめったになかったので、わざわざ乗務手帳に編成を書き残したものと思います。
帰りがけに駐車場から最後に1枚撮影する気になったのは、ひょっとしたらキハ40 2134が、気付いてくれよと言っていたのかもしれませんが、自分はまた相手に気付くことができませんでした。それにしても、今もJRの線路上で活躍を続けている幸せな車両であることです。
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<P.S.>
JR東海に所属したキハ40系の面々は、JR他社に比べ早く引退することになりました。34年半前に、今は幸せに過ごしているキハ40 2134 と連結されていた相棒のキハ40 2059はどうなったのでしょうか。実はその後1986年2月22日にも伊勢線126Dでキハ40 2059に乗務(補助)しており、この車両が私が最後に乗務したキハ40になりました。下がその日の乗務前に撮影していただいた画像です。(たぶん3回目の使い回し)
画像でも確認できると思いますが、このころの伊勢線の全普通列車が単行運転になってました。同時に使用車両は伊勢運転区から亀山機関区に変更されています。このときキハ40 2059も亀山機関区に籍を移しており、そのまま分割民営化を迎えていたら、JR西日本所有になったのでしょうが、国鉄末期に伊勢運転区に戻っています。ではそのころのキハ40 2134はどこに配置されていたのか、こんどは「1985年版国鉄車両配置表(交友社刊)」で所属確認したところ、そのころはには意外にも伊勢運転区に残っていました。そこから国鉄分割民営化までのわずか2年の間に、両者の所属区所が逆転したことになり、それぞれの運命が大きく分かれていく結果となります。
キハ40 2059のその先を辿っていきますと、国鉄分割民営化でJR東海所属となり、キハ40 2059→キハ40 5059→キハ40 3306と改造改番され、廃車後はミャンマーに送られています。しかしネット上で知り得る範囲では、ミャンマー国鉄に引き取られることなく放置されているという情報にたどり着きます。JR東海からの輸出予定車には現時点でミャンマーにたどり着けず、未だ国内にとどまっているものもあり、これらはミャンマーの政変に翻弄された結果のようです。 自分と共に国鉄で働いた車両たちのなかで、キハ40 2134のように幸せに過ごしている車両がある一方で、政局によって中途半端な状態で不本意な最期を遂げようとしている車両があるのかと思うと、運命のいたずらとはいっても、それはあまりにも悲惨な仕打ちで、なんと運の悪いことかと目を覆いたくなるのです。
この記事へのコメント
1538M車掌
鉄子おばさん
しなの7号
伊勢線では、自分はドア扱いで運転士に怒られたり、土砂崩れによる脱線事故があったときの復旧初列車に乗務したり、100個ぐらいの置石を踏んづけて急停車したりと、いろんな思い出があります。(そのことを含め2014年の秋に7回に分けて伊勢線のことを書きました。)
コメント中にある「キハ40 2128」は、もともと九州の車両でしたから、たぶん「キハ40 2028」の誤記だと思いますよ。キハ40 2028ならば、今でも岡山で健在なのではないかと思います。ネット検索でわかる範囲では、吉備線用にロングシート化され、現在はキハ40 3003に改番されているみたいです。紛らわしいですが、JR東海にも重複番号のキハ40 3003が存在し伊勢運転区に配置されていたようですが、それは別物(元キハ40 2032)です。婚姻で名前が変わってしまい、名前を見ただけでは誰かわからなくなった同級生みたいですね。
津駅は乗継詰所はが跡形もなくなり商業ビルの敷地になってしまったようですが、伊勢鉄道ホームは、今でも国鉄時代を思わせますね。
しなの7号
地元を荒らしに行ってきました(*^^)v
キハ40系は、JR東海からいなくなった今、簡単にはに乗れなくなってしまいました。「みまさかノスタルジー」はキハ47だけだとばかり思っていたので、キハ40 2134がこういう塗装になっていることは全然知りませんでした。当日は「中国勝山」の字幕を出していました。
そんなわけなので仲良くしてあげてください。
風旅記
普通列車で旅するのが好きで、今まで様々な列車に乗ってきましたが、実際に乗った車両を記録していれば、思わぬところで再会したケースもあったのだろうか、と思いながらこちらの記事を拝見させて頂きました。
国鉄がJRに移行する前後の期間では、ご記載のような後の運命を分けていくような出来事も起きていたのだろうと思います。偶々所属が変わったり、偶々何かが線引きされた結果、その後時間が経ってからの結果を大きく左右していたのでしょうね。
お仕事ゆえに、同じ車両に幾年も経って再会できたと分かったときには、お気持ち高ぶったのではないでしょうか。
もしよろしければ、当方のブログにリンクを掲載させて頂きたいのですが、ご許可を頂けますでしょうか。
ご検討頂ければ幸いに存じます。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
しなの7号
鉄道旅をされているとき、思わぬところで以前に乗った同じ車両に、知らないうちに乗っていたり、すれ違ってニアミスしていた、ということは少なからずあると思います。全国組織だった国鉄ならそれが全国規模になり、たとえば、高校生のころに中央西線で通学で何度も乗っていた車両に、思いがけず乗務する機会があっただけでなく、さらに九州旅行をしたとき、その車両を熊本で見たということもあるくらいです。どこでどんな出会いがあるか、わからないものです。
【693】鉄旅1994年7月「787系つばめ・熊本のキハ52・豊肥本線」
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201606article_2.html
人や鉄道車両に限らず、この世にあるものすべてにおいて、自らの意志が反映された一生を送れるようなことは極めて稀です。ではそれが不幸かと言えばそうでもないですし、世間の荒波にもまれているうち、思いがけない再会もあり新しい出会いもあり、それらはみんな無形の財産と言えますでしょう。ただ、太くて長い一生があると思えば、細くて短い不本意な一生もあり、それが不公平だなと思います。
しなの7号
拙ブログのリンク掲載についてですが、
「トップ画面」または「記事ページ画面」へのリンクでしたらかまいません。
(あいにく管理上の理由から、数年前から拙ブログ上では新たな相互リンクは掲載しておりませんのでご容赦ください。これまでのようなコメント末尾のURL掲載は、なんら問題ありません。)
NAO
有りましたね、客車改造の気動車。城端線にも12系改造付随車があったような。
しかし、国鉄車両ほほど改造されやすいものはありませんね。使用される範囲が広く、輸送需要の環境が変わるところへ転属するとなると、その土地に合わせたしつらえが必要でしたでしょうから。婚姻どころか、整形して久々に会ってみたら誰だかわからなかったような。
改造された車両のビフォー・アフターなんか検証してみたら、一般の人たちでもびっくり、というか感動されるかもしれません、例のBGMとナレーションで紹介して.....。
しなの7号
JR北海道キハ141系も客車改造でしたね。この系列もミャンマーへ嫁いだ車両が多いわけですが、札沼線で乗ったことがあったので、ちょっと調べたら、私がそのとき乗った車両は輸出されることなくすでに廃車解体されていました。いちばん驚くのはJR東日本のSLのブースターになった車両で、全国に対応できるように汎用性を重視した国鉄規格車両だったからこそ救われ、意外な場所で意外な用途に抜擢されたのではないでしょうか。
風旅記
リンク掲載の件、ご快諾頂きましてありがとうございました。
掲載させて頂きましたので、今後とも、宜しくお願い致します。
私が個人的に共感する、魅力を感じる、そういったサイトをメインにリンクを作成させて頂いています。貴サイトへの掲載、全くお気になさいませんようにお願い致します。
鉄道が好きなだけに、車両にも、駅や施設にも、何かの思いを重ねてしまうことがあります。
様々な人生があるように、車両にも様々な処遇や結果としての不平等もあるのだろうと思います。
殆どの、普通の乗客の方々にとっては何も感じることのない日常の一場面でも、好きで、真剣にみていますと、感情が入り込んでいきます。
いつかの旅の車両に、またどこかで…
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
しなの7号
鉄道を趣味とされる方々は多く、その対象や楽しみ方は多種多様なわけですが、そのなかで、コメントでお書きになられた「殆どの、普通の乗客の方々にとっては何も感じることのない日常の一場面でも、好きで、真剣にみていますと、感情が入り込んでいきます。」という感性をお持ちの方にご評価いただけたことを、たいへんうれしく思っております。ありがとうございました。
拙ブログを始めたその年に
「【102】車窓のたのしみ」
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201011article_12.html
という記事をアップし、そこで私の車窓への思いを書いています。それは、その年100本を超える記事をアップした中で閲覧数ワースト5に入る記事です。
風旅記様のように画像での表現が私にはできませんが、アップされておられる画像の一つ一つを拝見するにつけ、流れる車窓や駅の日常の風景への視点に共通するものを感じますし、そのときのお心持が伝わってまいります。
(本来、貴ブログに訪問して書き込むべきコメントですが、こちらから失礼します。申し訳ございません。)
はやたま速玉早玉
私は津山駅到着して直ぐにまなびの鉄道館に向かいませんでした。暫くホーム上でぼーっとして、キハ120を撮影してましたところ、津山線のタラコ色が入線してくるではないですか。大チャンス到来とばかりに撮影、その画像を見直しますと『キハ40 2043』と『キハ40 ?』の2両編成でした。
帰路は津山発14時35分発955D岡山行きに乗車しました。
『キハ47 64』『キハ47 69』→岡山
上記の2両編成、私はキハ47 64にお世話になりました。
以前に津山線のキハ47に乗車した旨、少しコメント致しましたが、キハ40系は原色タラコ色がお似合いです。若干改造されてはいますが良いですね!昔の山陰線、国鉄時代、子供の頃を思い出します。
国鉄テイストを存分に味わえた1日でした。
それだけに、本文末尾のミャンマーで活躍出来ぬまま、宙ぶらりん状態のキハ40が気の毒でなりません。
しなの7号
自分は、津山駅から「まなびの鉄道館」に歩いて向かう途中、踏切付近で、その津山線キハ40の2両編成に出くわし、いちおう撮影しました。画像を見ますと、キハ40 2049+キハ40 2093でした。
帰路は、その1時間前の列車(キハ47×2)に乗って岡山に出ました。
JR西日本の117系や115系にある単色の地域色にはすべて違和感があるのに対して、キハ40系の単色は国鉄オリジナル色であるだけに国鉄時代を知る者には懐かしさを覚えるものですね。
宙ぶらりん状態の元JR東海のキハ40系とキハ11のことを思うと、人生どんなところに落とし穴とか越えられない障壁が待ち構えているかわからないと改めて思います。時期がもう少し前後していれば違った最期を迎えたか、他車のようにミャンマーに渡って第二の人生を送れたであろうに、状況が良い方向に動いてくれることを期待しています。
69年生まれの西線育ち
2059の件ですが、仕事でよく金城ふ頭に行くのですが、ひょっとして岸壁で放置されている車輌のことでしょうか?
かれこれ一年近く放置されています。(2018年7月時点)
しなの7号
おっしゃる車両は、その仲間のことだと思います。2059はミャンマー国内で同じような状況にあるものと推測します。