小学生のころ、最低限の生活必需品は歩いていける駅前商店街で手に入った。子供の買い物にしても、100円未満の駄菓子とかオモチャの類は入手できたが、商店街は日曜が休みであった。そういう時、母の買い物にくっついて隣の中津川や恵那まで列車で出かけることがよくあった。そこまで行けば、半日は潰れてしまうが、まともなプラモなどが入手できた。その行き帰りには、中央西線の普通列車に一区間だけではあったが乗れた。高学年になると、親といっしょでなく、同級生たちと遊びに出かけることもあって、一度に恵那と中津川両方に出かけたことがあった。…と、いうことは自宅最寄駅である美乃坂本をいったん通り過ぎることになる。そういう列車の乗り方がすごく新鮮に思えたし、手にした乗車券の着駅名がいつもと違っていることもまた新鮮に映って、使いもしないのに余分に1枚買ったことがあった。
降りるときに「切符集めているのでください」と言えば,使用済みの切符をもらえたかもしれないが、そんな知恵も度胸もなかった。こういう心理や行動は、当時すでに乗り鉄魂や収集癖があったことを示しているのかもしれない。
車両に書かれた形式番号と所属標記の意味は父が教えてくれた。列車に乗れば車両の外観が見えないが、その代わり車内の様子が確認できた。
母の実家が名古屋市内だったから年に数回ではあったが同行することがあって、乗る車両の違いを意識するようになっていった。
前に書いたが、母が名古屋に行くときは早朝に家を出て、母の実家の最寄り駅である大曽根で下車した。たぶん、同居する兄嫁にお昼の心配をかけないようにという配慮から昼前にはそこを辞して、母と2人で栄(当時は栄町)へ出てデパートの大食堂で昼食を食べた。そのあと、母がショッピングをしている間におもちゃ売場で鉄道模型を眺め、祖母からもらった小遣いで、母のショッピングが終わるのを待って16番の貨車を買った。そのあとは地下鉄で名古屋駅まで出て夕方の列車で帰ってくるという行程が多かった。
父が国鉄職員だったので運賃割引証が交付され、家族も50㎞以上であれば職員割引があった。割引率も当初は7割引で、のちに5割引になった。母の実家に出かけるときは必ず美乃坂本~名古屋間の往復乗車券を買った。片道でも往復でも乗車券は1枚の割引証で発行されたので、交付枚数が限られていた割引証を節約するためであった。往路は途中の大曽根で途中下車して前途放棄。そこから市電に乗って母の実家まで行ったので、切符は往片だけが手元に残せた。小児用は小児断片が切り落とされているので母が使ったほうを保存した。
往路でよく乗ったのは、中津川始発の名古屋行一番列車で、これは気動車列車であった。この列車は他線区の急行列車の間合い運用だったと思われ、1等車両キロが1両連結された急行編成であったが、1等車の背もたれの白いカバーは外され、2等車として自由に利用することができた。早朝であったから乗客も少なく確実に座れたので、必ずこの車両に乗った。当時の中央西線の急行列車はキハ57かキハ58に1等車キロ27かキロ28を2両連結した8両以上で運転される列車が多かったが、この1番列車は5~6両程度で短く、1等車も1両だけ。車種もキハ58系とキハ55系の混成で、1等車はキロ28が多かったがキロ25が連結されていることもあったから、明らかに中央西線用の急行編成ではなかったが、名古屋に着いてから、どういう急行列車になったのかについては未だにわからない。
キロ28の下降窓やひじ掛け収納式のテーブルとリクライニングシートは小学生にとっては珍しく遊び道具となったが、この列車でないと見られないキロ25には興味を抱いた。リクライニングもないが、前席の背もたれ背面にある大きなテーブルは、キロ28の小さな折り畳み式より実用的に思えたし、キロ28の下降式の窓は高級感があったが、窓を開けても立たないと窓から顔を出せなかったし、当時のキロ28には冷房もない時代だったから、数が少ないキロ25のほうに興味を示していた。
名古屋市街地中心部の栄にいる者が中央西線に乗って帰路につくには、地下鉄で千種駅に出て乗り換えるのが便利だが、地下鉄で逆方向になる名古屋駅へ出たのは着席するのが目的だった。電化前の普通列車の所要時間(名古屋~美乃坂本間)は2時間以上で、現在より1時間程度余計にかかっていたから、子連れの母としては確実に座りたいという思いがあったに違いあるまい。
名古屋駅には田舎では見られない車両がたくさん見ることができたので、発車までは非常に楽しい時間だった。たぶん関西本線の急行「かすが」だったと思うが、キロハ25を時折見かけた。
運転室の直後にトイレ。窓下のグリーンの帯が半分だけあり、その部分は1段窓。残り半分はバス窓。子供ながらにたいへん奇妙な車両だと思った。
東海道本線内昼行の長崎・佐世保行の急行「雲仙・西海」も東海道本線のホームに滑り込んできた。中央西線では見ることがなかったオハネ12・オシ17といった車両とともに、「長崎行」「佐世保行」の行先標、門タケ、門ハイ、門サキという所属表記も、見知らぬ地である九州まで行く列車であることを教えてくれていた。
車両形式や所属表記に興味を持ち始めていたので、こういう列車は刺激が強かった。上の画像は、父が撮影したものだが、父もいっしょにいたということは、たぶん法事か、あるいは東山動物園あたりに遊びに行った帰りに私がリクエストしたのだと思う。一緒にいた父に、形式が判るように撮影してほしいと注文した記憶がある。まだ自分がカメラを持つことなど夢の夢で、カメラなど子供が持つものではないと思っていた小学生は、ノートに実際に見た車両形式や所属表記を記録し始めた時期でもあったが、その後はほかのことに興味が移り、それに親にくっついて出かけることをしなくなったから、長続きはしなかった。
それでも、地元で日常的に見る列車に組み込まれた車両を見ていると、いろんな違いが見えてきた。客車の場合はオハとオハフが大部分だったが、形式の違いがいくつもあり、その多くは外観で区別できることや、時にはナハやナハフといった近代的な客車も混じること。列車によって所属区が決まっていることなどもわかっていった。
小学校4年生のとき、誠文堂新光社から出ていた「客車・貨車ガイドブック」に出会った。この本は、父が稲沢から貨物列車に乗務するための便乗途中で、食事をするためか食糧を買うためか忘れたが、とにかく仕事中に名古屋駅で途中下車する乗務行路があって、そのついでに某デパート内にある書店で見つけて買ってきてくれた。この本でそれまで日常的に見ていた実車で疑問に思っていたことがいくつも氷解し、自分がまったく見たこともない遠い世界の車両たちの存在も知った。
客車・貨車以外にも、このガイドブックシリーズがあったという父。折しも翌月に誕生日を控えていた私に、「本なら何度でも読めるものだから誕生日に買ってあげる」と言う両親から、その書店で誕生日プレゼントとして買ってきてもらったのが「気動車ガイドブック」であった。これも「客車・貨車ガイドブック」とともに長く私の国鉄車両の知識を得るために欠かせないバイブル的存在になった。後に機関車ガイドブック、電車ガイドブック、’67新車ガイドブックを自分の小遣いが貯まるたびに父に渡して、確か4週に1回程度しかないという名古屋に立ち寄る行路の時に買ってきてもらった。
これらのガイドブックの巻末には、国鉄に在籍する車両の形式別両数表があって資料的価値を感じていた。家で一人でいるときは菓子を食べながら飽きもせずにその本を眺めていた。
別に友だちがなく家でひきこもって鉄道書を読みふけっていたわけではない。近所には友だちもいたから、ふつうの遊びもした。ただ、鉄道のことを共有できる友だちは一人もない時期が長く続き、鉄道に関心を示してくれる友だちが現れるようになるのは、小学5年生ごろになって複線電化が完成し、特急しなのが181系ディーゼルカーがデビューしたころからであった。そういう友だちとは自転車を列車に見立て、ときにはバスに見立てて、駅前を起点にルートを決めて往復し、踏切の警報音が鳴るとそれも中断して列車を見たりしたこともあった。
ガイドブックは捨てずに持っているが、ボロボロで汚いし、形式別両数表には、当時見たことがある形式に〇印を書き込んだりしてある。これくらい教科書を熱心に読んで勉強すれば、別の人生があったのかもしれないが、これでよかったと思っている。
この記事へのコメント
なはっこ
夕飯後のコタツの上で、その作業に追われていると「お前も、本当に忙しいやつだなぁ」と大笑いされました。あの頃は狂ったように国鉄のことに思いを馳せていました。
中央西線
しなの7号
ああ、紙コップありましたね。
普通列車しか知らなかった小学生の私に、父がどこかに行ったとき紙コップを家に持ち帰ってきて、これは何やか知っとるか?と教えてくれたことがありました。さすがに自作したことはありません(^-^)
フエキ糊も懐かしいですね。
しなの7号
「玄海」の間合い(上り)は中津川発が7時台で、美乃坂本ではもうサロには座れませんでしたから、私の狙い目はサハシの2人掛けでした。窓が開く2人席は159系・155系、キハ20系とキハ55にもありましたから、向かいに人がいないというだけで、気兼ねなく窓が開けられましたから常に狙っていました。
やくも3号
キロハ25バス窓・・見ただけで背中がぞくっとしました。
間合いではなく、格下げキロの400番台なら子供のころ電化前の伯備線でよく乗りました。
今日の地震は、震源が隣町で震度6でしたが、出勤したら職場の書庫がひっくり返っていた程度でなんとか済みました。
ただし、JR東海道線と阪急はいまだに動いていません。
しなの7号
地域によるのか知りませんが、キロ25格下げ後のキハ26 400番台は回転機能を殺して4人ボックス席に固定されていた例があったように記憶します。
キロハ25の画像をご覧になったやくも3号様の過剰反応がやや心配だったのですが、代わりにそちらに生息する地中のウナギが反応したようで、お見舞い申し上げます。私の知り合いは、湖西線の長等山トンネル内で2時間半列車内に閉じ込められたあと、大津京駅まで徒歩避難したと連絡がありました。
1538M車掌
しなの7号
東海道沿線という恵まれた環境で暮らされ、私には見ることもかなわなかった列車をご覧になっておられたのですね。こちらこそご指導宜しくお願いいたします。九州ブルトレの20系は高校生になるまで見たことがありませんでした。小学生時代は、本文に書いた中津川一番列車で名古屋駅まで行く機会があっても、しんがりの「さくら」が通り過ぎた後でしたし、夜も中津川行終列車が名古屋を発車してからでないと、下りのブルトレ群はやってきませんでした。ふだん見ることができない列車には興味津々でしたね。中央西線が東海道本線のようになればいいのにといつも思っていましたから、電化・複線化・特急運転という進化の過程を楽しんでいたとも言えました。43.10でその進化が一段落して地元の車両にも変化がなくなった小学校6年生のときには他のことに興味が移るようになり、SL撮影まで鉄道空白期間ができてしまいました。
つだ・なおき
みんなこれで勉強(?)したものでした。
大阪・弁天町の交通科学館の図書室も、よく通いました。
巨匠・西尾克三郎さんにお目にかかったのもここでした。
「鉄道一直線」でしたね・・あ、飛行機も好きでしたけど。
しなの7号
田舎に住んでいて、よくぞ誠文堂新光社のガイドブックに巡り会えたものと思います。交通科学館に行った話はまえに書いたとおりで、「通う」所ではなく、もちろん父以外には鉄道のことを尋ねる人などいませんでした。その父も鉄道趣味に関してはサッパリ???でしたから、車両の形式ごとの特徴などはガイドブックがあったからこそ判りました。
私も子供のころに都会に住んでいたら遊びの選択肢が多くなって、案外私は鉄道以外の趣味に走ったかもしれません。初めて飛行機を間近に見たのは中学の修学旅行のときでしたから趣味にはなり得ませんでした。田舎では自然相手の遊びばかりで、子供は魚捕り、虫捕り。大人は今でも、あいかけ(鮎の友釣り)、へぼとり(地蜂の子獲り)はメジャーな趣味になっています。
(別にアウトドアが嫌いというわけではありません。)
はやたま速玉早玉
先日も書きましたが、私の小学生時代は乏しい行動力が災いして、写真等の記録が殆ど残っていません。旧客の引退、派手なJRカラーへの塗装変更にショックを受け、鉄道趣味もセミリタイア状態となってしまい、書籍も古本屋さんに売りに行きましたので現在手元には残っていません。
親にワガママ言ってでも写真を撮ったりしていればなぁ…と後悔している次第です。
父親は、列車を見に連れて行ってはくれましたが、早く済ませてパチンコに行きたがる人物でした。父親だけ先に帰ってもらい私は単独で列車を見るという選択肢も、当時は思い付きませんでした。
大阪に用事がある時は急行利用でしたが、京阪特急(小学生時代でしたので七条~京橋間ノンストップ)で行った事がありました。三条で折り返し特急に乗りましたが、自宅最寄駅の伏見桃山を通過時は、確かに新鮮な気持ちになりました。
大阪と京都(四条)、共に用事がある時、先に大阪の用事を済ませて四条に向かう途中、伏見桃山を通過…今でも不思議な気持ちになります。
しなの7号
小学生のころ、ああしておけばよかった、こうしておけばよかった、と思うのは私も同じです。鉄道から遠ざかって、別のことに力が入っていた時期だって何回もありました。小学6年生ころからがそうでした。そういう時期の大掃除と転居時に、本や集めたもの(紙で作った多数の客車や気動車、鉄道関係以外だと作ったプラモ、牛乳瓶のフタ、瓶ビールやジュースの王冠などなど)などいろんなモノを廃棄してきましたね。せめて画像で遺しておきたかったと思っています。
いつも通過していく列車を見送る駅を、通過列車から眺めるのは今でも好きです。乗務中、しなの号で美乃坂本駅を一瞬で通過するときだって特別な気持ちでした。今では下車することもなく通過する駅になってしまったのですが、そういう気持ちは同じです。