昭和40年代前半、中央西線の普通客車列車は、列車によって名古屋客貨車区(名ナコ)と松本客貨車区(→松本運転所 長モト)の基本編成5両で運用されていたと記憶する。
画像は昭和47年に松本駅で撮影したオハ61系で編成された松本運転所所属の客車
中央西線全線を通して運転される列車の多くは、これに荷物車(半室のスハニやオハニを含む)や郵便車を併結し、中津川(一部多治見)~名古屋間では、さらに2等車の付属編成が増結される列車も多かった。付属編成は列車によって名古屋客貨車区(名ナコ)所属オハフ+オハ+オハフの3両と、中津川客貨車区(名ナツ)所属オハフ+オハの2両とで運用され、朝の上り通勤列車には中津川から付属3両と基本5両の8両、多治見以西ではさらに2両の付属編成を増結する列車も見られた。名古屋客貨車区の車両はオハ35系が多く、急行用ナハ10系や、スハ43系のうちオ級軽量車も混入した。松本と中津川の車両は背ズリが板張りで扇風機がないオハ61系主体で組成されていた。通路に折畳みの補助席がある車両に乗った記憶がある。オハ35系だったように思うが形式も所属もわからない。通路床面に真鍮製の痰ツボが埋め込まれていた客車は多かったが、それが何のための穴なのか私にはわからず、靴先を突っ込んだりしたことがある。
あのころは、路上で痰を吐いている人をけっこう見かけた。駅の待合室にも白い琺瑯製で「工」の字が書かれた痰ツボが置いてあった。車内の床にあった痰ツボには後に鉄板で蓋をされていった。
中央西線を走っていた客車のなかで、特徴があって今でも記憶にはっきり残っている車両がいくつかある。そういう客車の思い出を綴っていこうと思う。私が小学生のころのことなので、写真もないし記憶があいまいな点もあるので、誤りなどあったらご容赦いただき、ご指摘を願いたい。
<最後にオハ31を見たときの記憶>
小学生のころ、中央西線で狭窓ダブルルーフのオハ31に乗ったり見た記憶がある。この形式は奇跡的に大宮の鉄道博物館に保存されたので、ご存知の方は多いと思う。
17m級の短い車体に3連の狭窓が並ぶサイドビューはリベットだらけで重厚さが漂うので、他の客車に混じっていると非常に目立った。「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション16 国鉄の客車1950~1960」に収録されている1964年4月1日現在の配置表によると、オハ31は名古屋と中津川に配置があり、中津川にはその緩急車オハフ30もいる。オハ31は昭和40年代のかなり早い時期に中央西線から見なくなった。その4年後になる1968年3月31日現在の車両形式別両数表が「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション7 国鉄ダイヤ改正43.10のころ」に収録されているので、それによれば、オハ31は廃形式になったらしく記載がなくなっている。最後にオハ31を見たのは、1966年の夏で、体育の水泳の授業で線路端の川へ行った時に見た下り列車だった。
客車の形式に興味を持ちはじめたころで、そのころにオハ31はめったに見られなくなっていたので珍しいと思ったし、場所が場所で授業中だったから印象が強かったので記憶に間違いはないと思う。
と、いうことで鉄道の話から外れるが、私が通っていた小学校にはそのころプールがなかった。その日は昼前の2時限を連続で体育の授業に時間割を変更して、学校から1㎞ほども歩いて、線路端の川へ泳ぎに行った。複線化されてまもないころで、線路に並行した部分の川の護岸が、複線化工事に伴ってコンクリ―トの護岸に改修された場所であった。すぐ下にある堰によって付近の水深がほぼ均一で数十センチメートルであったから数人ずつが用意ドンで、上流に向かって十メートルくらいは泳げた。泳げない者は川底に手をついて這うようにしてもよいと言われ、全員が競泳に参加させられた。場所的には低学年の水泳には適した場所であったが、川はすでに汚染が進みつつあったし、子供たちが泳げば、川はものすごく濁ったから、当時はカナヅチだった私など、その競泳のときに泥水を飲んでしまった。そのときオハ31を従えて走って行った下り列車は、当時の時刻表から推定すると、松本行827列車か中津川行621列車のいずれかであったと思われる。
(画像は1967年9月号時刻表の中央西線のページ)
その授業中に通過して行った列車は上下合わせても数本だったはずだが、私にとっては授業中に目の前を通過する列車が見えることが、遠足のようにこの上なくうれしい日であった。
現地に行って現況写真を撮影しようと思ったが、もうそこに行く畔道は草が茂り歩いて行ける状態ではなくなっていた。しかたなく列車の車窓から、この川を間近に眺めると水深は浅くなり、とても泳げる場所ではなくなっていた。
かつて川は遊び場でもあったから、放課後も川で泳いだり魚捕りをして遊んでいた。その川の下流の方には水深が深い淵が何か所かあり、そこには飛び込み台代わりになった大きな岩があったが、河川改修の一環として発破で崩され、曲がりくねった川筋はまっすぐになり、それまで川沿いにあった竹藪はなくなりコンクリートの護岸に変わった。
同じ世代でも都会育ちの方々とは感覚や思い出される遊びや暮らしぶりがかなりズレているだろうと思うし、国鉄世代でない方々にはわからないことだろうと思う。
<オハ60の記憶>
オハ31のほかに、鋼体化客車オハ60も昭和40年ごろまでは見かけた。あいにく模型も、実車の画像も持ち合わせていないのでご覧いただくことができないが、オハ60とは20m級の鋼体化客車で、シングルルーフ車ながらオハ31と同じような3連の狭窓が並ぶ窓配置であった。オハ60とオハ31の2形式に共通するのは、側窓が2ボックスで窓3個が配されていたことであった。
下は同じ3連窓のオハ31の模型↓
3連になった中央の窓は2つのボックス席にまたがる配置になっているのがわかっていただけるだろうか。オハ60のほうは、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション16 国鉄の客車1950~1960」収録の1964年4月1日現在の配置表によれば、松本と中津川に配置されているが、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション7 国鉄ダイヤ改正43.10のころ」収録の1968年3月31日現在の配置表では、松本、中津川ともにオハ60の配置がなくなっており、しばらくして(43.10?)中津川客貨車区からは営業用客車の配置そのものが皆無となり、事業用である2両の救援車オエ70だけが残っていた。オハ31、オハ60の、どちらにも扇風機はなく、座席の背ずりにはモケットが張ってなく木が剥き出しで、乗るとすれば大ハズレの車両であった。乗車するときにはホームで入線してくる列車の客車を1両ずつ注視して、3連狭窓の車両は避けるようにしていた。
この記事へのコメント
中央西線
しなの7号
JR西「やまぐち」の35系客車は、外観が昭和時代の雰囲気をよく伝えていると思います。個人的にはTR11の固い乗り心地とジョイント音、自連のガックン振動、窓から入る煤煙、A型制御弁の作動音などが味わえるSL列車が理想ですが現実的ではありません。忠実に昭和の客車を復元し、冷房なし、自動ドアなし、板張り背ズリでは指定席料金さえも取れないでしょうし、安全快適に走ってナンボというのが本来の鉄道ですから、車体構造や足回りも現在の基準に合致させるべきでしょう。JR西の35系は鉄筋コンクリート製の現名古屋城を思わせます。名古屋城は木造化再建にあたってのエレベータの設置について賛否が分かれていますが、文化財としての価値を重んじれば、人にやさしくない建築物になってしまいます。SL列車に使う客車も文化財だと捉えれば解答は変わってきますね。
3RT生
うちの小学校も卒業するまでプールはなく、最寄りの海水浴場での授業でした。遠くに連絡船が見えたはずですが記憶にはなく(10m泳ぐのがやっとでしたから余裕はありません)・・
小生の鉄道趣味は小学4年頃からで、客車の形式が後からわかった乗車車両としては、昭和46年伯備線井倉ー岡山間のオハフ61があります。木の背ずりに白熱灯、扇風機無しの最後尾車両で、牽引機はD51でした。
しなの7号
なぜか隣接する中学校には立派な競技用プールがありました。小学5年生のときに、そのプールの3分の1ほどを小学生の低学年用に水深を浅く埋めて、低学年も水泳の授業を中学校のプールでやるようになりました。
山の人間としては、海で泳ぐ機会はなかなかなくて、唯一、中学生の夏休みに学校から一泊で海水浴に行く機会がありましたが、あいにくその日は高波で遊泳禁止となり泳げませんでした。
オハフ61はローカル列車の定番だったですね。今でもそうですが先頭か最後部車両に乗ることが多い私もよく乗りました。さすがに乗務するようになったころ、名古屋にオハフ61はもうおりませんでした。ただ、60系マニとスユニに乗務することは普通にあって、EF58牽引で東海道本線を95㎞/hで突っ走るときの振動はすさまじいものでした。
中央西線
http://mokugoho.web.fc2.com/2sub11.html
瑞浪電化後のページではオハ34やスハニ31も写ってます。
しなの7号
機関車直後なのはスハニ31とオハフ30でしょうか。オハ34やスハニ31についても後日触れるつもりです。
北恵那デ2
しなの7号
環境の違いのせいと言ってよいと思いますが、中間駅で列車を見ていた私には、機関車のことがよくわからなかったです。そのかわり中津川や恵那まで、わずか1区間だけではあっても買い物や遊び、時には通院で客車に乗る機会はけっこうあり、どんな形式の客車がつながってくるかということには興味がありました。
このあとも客車の話を書いていきますが、中央本線にはトンネルが多かったですから窓を開閉しなければならない場面はよくあって、オハ35のような1000㎜幅窓の開閉は小学生一人では難しくても600㎜程度の小窓なら両手が楽に開閉金具に手が届きました。それでも容易に開閉しない場合はありました。
駅弁やお茶、冷凍みかんの類は、なかなか買ってもらえませんでしたが、買ってもらった陶製容器のお茶土瓶は持ち帰って、泥遊びなどで使った記憶があります。恵那や中津川へ行った帰りには、駅の売店でコーヒー牛乳か牛乳を買ってもらいました。冬場は冷蔵のほかに店頭で瓶を湯に漬けてホットにしたのも売っていて、紙蓋を記念にもらってきました。
得体のしれない旧客の話では、自分で撮影した画像がないですが、そうかといって他サイト制作者様に無許可でリンクを貼るようなことはしないようにしていますので、わかりにくくて申し訳ありません。
NAO
私が国鉄に乗るようになったときは既に痰つぼは有りませんでしたが、JR東日本車内広報誌トランベールで、昔の女性国鉄職員さんが痰つぼを交換されたときの苦労話が載っていまして、健康状態が良くなった現代の環境に感謝した覚えがあります。
重厚さを感じるリベットだらけの旧客、模型化するのは大変そうですが
、小学生時代に購読していた鉄道模型趣味で、当時市販されていなかった展望車の、旧客切り繋ぎによる作り方の記事があったのですが、繋ぎめが目立たぬようにリベットの縁で車体を接着するよう書かれていて、このときばかりはリベットの有り難みを感じました。もとよりそんな工作は私には無理で、ただ読み物での話しですが。形式は忘れましたが、タネ車は魚腹台枠、展望車はそうではなく、取り除きは大仕事になるのでそのままにした方が安全とも推奨されていました。
しなの7号
たしかに日本人の健康状態は格段によくなりました。
小学生のとき学校で蟯虫検査は毎年あり、一度だけ陽性になったことがあって、検査結果用紙に「ぎょう虫がいます」と赤いスタンプが押されていたのを覚えています。虫下しを飲んで再検査で陰性に。ほかにも陽性の者はたくさんいました。また、中学生のころ市内全域で赤痢が大発生したこともあります。私のいとこと叔母が陽性になり、患者数が多すぎ、病院の隔離病舎は満室のため市営の体育館に隔離されていました。感染源は、某高校の体育祭のときに多数の生徒が飲んだ高校の井戸水でした。私は、のちにその高校に入学しましたが、飲料水は水道水になっていました。
しかし今、衛生状態は良くなりましたが、昔は聞いたこともなく一般的ではなかったアトピーとかが格段に増えましたし、耐性菌も次々に出てきます。悪玉を攻撃しても解決にはならず、なかよく付き合っていかなければならないわけで、永遠にそういうことが繰り返されていくのでしょう。人間社会と同じですね。
車体を切り継いだニコイチはNゲージ初期、車種が少ないころにはけっこう行われましたね。メジャーだったのが、
K社「オハ31+オハニ30」→「オハフ30」
K社旧製品「ナハフ20+ナハネフ23」→「ナハネフ22+(ナハフ21)」
でしたね。私はやりませんでしたが、けっこう普及していたと記憶します。加工販売していた模型店もありました。私はTOMIXのワフ28000とトム50000をそれぞれ車体切断短縮加工して、それぞれ私鉄風ワフとトに改造したことがあります。
NAO
しなの7号
ヒデヨシ
綱体化客車の初期型オハ60系列は種車の3連窓の配置を受け継いでいますね。
工場では窓幅1mの広窓に改造する能力は既にあったのですが進駐軍の手前、改造車という事を強調するためだったとか。
その後、進駐軍にも話がついてオハ61系の量産になったと聞いています。
オハフ33
しなの7号
オハ60は戦後の混乱期、昭和24~25年製造なのですね。つまり公共企業体として国鉄がスタートした同じ年の鋼体化です。車両は疲弊し不足するなかで、とにかくまともに走れる車両が大量に必要だったことでしょうし、オハ35が戦前から広窓で製造されていることから、おっしゃるような事情があったことは納得のいく話であります。その車両が誕生した背景などを知ると、どんなボロ客車であっても、見方接し方が変わるというと大げさですが、少なくとも情が移り愛おしく思うことはあります。
しなの7号
ご投稿ありがとうございます。中央西線の旧形客車については、形式ごとにまとめて今回から不連続で計4回予定しています。「深緑のキルティング素材ぽくて全く明かりが透けない」ブラインド、どんなものなのかはわかりますが、戦時中の灯火管制に由来していたのですか。私もそういうことを知らずにおりましたが、自分が知らない時代に生まれた鉄道車両が想像もできない環境で生き抜いてきた証であることを知ると、それは親や先輩から若いころの体験談を聴くのと同じような感覚になります。ただ鉄道車両のことは、それを知る誰かが後世に伝えなければ、「ただの仕様」として、その歴史的存在価値を永久に知られることがなく、朽ちれば廃棄され、運良く保存されても見学者には伝わりません。昭和40~50年代の客車列車は、1両ごとに履歴が異なる車両の寄せ集めであったことが、何よりの魅力でしたね。
下手くそな録り鉄
オハ35などの「全く明かり透けないブラインド」について
鉄道ピクトリアル2004年7月号、No748
【特集】オハ35系(I)の21ページの記事に
戦前・戦中時代には、沿線に軍関係施設がある区間では
【軍事機密保護】の為、車窓から外を見えなくする必要
があったそうで、「ヨロイ戸や幕を下ろせ」などと指示
されていたようです。記事によると、ブラインドは
黒くて内側に緑の布地を張ったものでレザークロス
と呼んでいたそうです。
しなの7号
こんにちは。フォローコメントありがとうございました。その鉄ピク2004年7月号、No748 【特集】オハ35系(I)は家にありましたので、読んだはずなのですがまったく記憶に残っておりませんでした(*_*;
該当部分を再度読んでみました。対談の内容はたいへん濃く貴重なものと思いました。戦中を生きてきた車両にはそれなりの装備が残っていたのに、その装備の本来の目的を知ることなくボロい車両だとか古臭いだのと思っていた自分を恥じなければなりません。
オハフ33
しなの7号
ご投稿ありがとうございました。
ブログ開設後、このようにコメント欄からご教示いただいて、新たに発見したことがいくつもありました。そして、そうした発見から、「ああ、そういえば…」と気付くことがあったりもします。たとえば、今回の「軍事機密保護」の件では、故宮脇俊三著「時刻表昭和史」のなかにあった記述に思い当たりました。以下「」内は、その抜粋です。
「徳山に着くと車掌がやってきて、海側の窓の鎧戸を下ろすよう乗客に指示した。これから西は海岸を走るので、碇泊中の艦船や軍事基地が見えるからであろう。」
ここでは鎧戸となっていますが、当時新しかったオハ35なら鎧戸でなくブラインドであったのでしょう。ちなみに、同書では、空襲警報下で築堤上に急停車した列車内の様子も実体験として描かれ、著者は「女子車掌」に叱られています。その場面は日中でしたが、別の上越線の夜の列車では、「灯火管制で車内は暗く…」とあったので、室内灯は消灯していたと思われました。
時代を反映した鉄道車両の装備を知ることによって、その車両の活躍した時代背景を知ることは大切で勉強にもなりますし、おっしゃるように、車両を主人公としたドラマのようで感動させられることもありますね。
はやたま速玉早玉
私が出逢った旧客は、43系、35系、10系でした。61系には出逢えず木が剥き出しの背ずりを体験できませんでした。昔に戻れたら真っ先に乗りに行きますが、腰が痛くなりそうですね。長時間停車の度に腰のストレッチが必須となりそうです。
河川で水泳の授業ですか…今行うと安全面の欠如云々でボロくそに批判されるでしょう。自然を相手に遊ぶからこそ得られるモノもあるとおもいますし、プールより格段に楽しそうですね。
しなの7号
オハ61は台車も旧型で、高速になった時の振動もオハ35などと比べるとひどかったです。扇風機はなく、白熱電球が内蔵された灯具や、木製スピーカーボックスなんかも、今となっては懐かしいですが、当時は乗るのを避けていました。
川は楽しい遊び場でした。それに対して、たくさんあったのが農業用ため池は水深が深く遊泳禁止になっていました。