このまえ、昭和40年代の中央西線で運転されていた下り長野行気動車急行「きそこま」(→「きそ1号」)について書いたが、この列車が多治見始発だったころに塩尻で切り離された多治見機関区(→美濃太田機関区)所属の2両のキハ28について、話を続ける。
塩尻で「きそこま」から切り離された2両のキハ28は、日中に普通列車名古屋行(注釈付きの「武豊」行…後述)として折り返してきた。
その折り返しとなる上り普通列車が美乃坂本を通るのは12時台で、1968年10月の中津川電化前は840D、それ以後は828Dという列車番号が付されていた。当初は美乃坂本到着時点では一般形気動車が増結されていた記憶だが、のちに増結がなくなってたいへん混みあう列車になった。しかしこの列車では必ず急行形キハ28に乗れた。日中だったので乗ったり見たりする機会も多かったから、キハ28 14というナンバーの車両の窓下にあるテーブル(裏にセンヌキがついている)の柄が他車と違って、1㎝くらいの格子模様だったことを覚えている。
(画像は一般的な柄)
改めて「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション7」掲載の1968年3月31日現在の国鉄車両配置表で確認すると、多治見機関区所属の気動車のほとんどが一般形と通勤形で、急行形はキハ28(14・76・159)が3両だけとなっていることから、キハ28は急行「きそこま」編成専用だったものと思われる。多治見機関区は、1959年12月に急行「しなの」が気動車化されたとき使用されたキハ55が配置されていた機関区でもあるが、その名残として急行運用が残されていたのだろうか?
多治見機関区は駅の北側にあり、私も国鉄時代にはその敷地内にあった職員用の風呂や乗務員宿泊所を乗務で利用したことがあるが、機関区跡地は今ではまったく面影が残っていない。数年前に機関区入口の門柱がそのあたりに置かれているという話を聞いたので、それを見に出かけたことがある。
そのときは、すでに機関区跡地を含め、駅の北側は区画整理され、そこに建物がいくつか建設途上にあって、その門柱は未整備ながら意図的に遺してあるような雰囲気だったから、この門柱はおそらく付近に保存されているものと思うが、これを書いている時点で、その現状を把握していない。
<2021.12.13追記>
コメント欄で「たじみ人」様から多治見機関区の門柱が近くの公園に移転保存されていることをご教示いただきましたので、2018年末に現地に赴きました。そのときの画像を「【948】思い出の乗務列車57:中央西線普通列車531D&522D」のなかでアップしています。
美濃太田機関区に気動車基地が完成して、多治見機関区所属車が美濃太田機関区(名ミオ)に全車が転属したことによって、塩尻から折り返す2両運用が美濃太田機関区の運用に変更されると、もともと美濃太田に配属されていた準急・急行形他形式が、塩尻始発のこの列車に混じって運用されているのを見るようになった。画像は1971年初冬の撮影。
さきほど、2両編成で混みあったと書いたが、この列車は多治見で名古屋行と武豊行の車両を後寄りに増結していたので多治見~名古屋間の定員には問題がなかっただろうと思う。それにしても武豊行とは違和感があるが、これは武豊線で使用される多治見(→美濃太田)機関区所属車の送り込み運用だと思われる。
画像は1967年9月号の転載であるが、それによると、この列車のほかにも多治見始発の武豊行が夕刻に設定されており、なぜか逆の武豊発の中央西線直通列車はなかった。
これとは別に、塩尻始発のその列車は明知線運用車両2両(キハ52)の帰区運用車両を併結していた時期があって、こちらは恵那で前寄りに増結後多治見で切り離されていたと記憶する。なお、反対に明知線へのキハ52送り込みは朝の下り「きそこま」で行われていた時期があったらしく、恵那で解放作業をしているのを見たことがある。
その塩尻発名古屋行(多治見からは武豊行)が名古屋に着くと、武豊行車両と名古屋止車両との切り離し作業があった。武豊行は進行方向を変えて発車し、名古屋止の車両(多治見で増結してきた一般形と塩尻から通してきた急行形)は折り返し中津川行(坂下行の時代もあり)になった。この列車には、名古屋市内にあった母の実家からの帰路に何度か乗ったが、「きそこま」用の急行形2両は途中の多治見で切り離される帰区運用なので、その先まで乗る私はキハ28には乗車できず、いつもキハ17中心の一般形気動車に乗らざるをえなかった。
<2018.9.11追記>
この塩尻始発の気動車列車は、中央西線が全線電化された1973年(昭和48年)7月のダイヤ改正の直前まであったものと思っていたが、過去の時刻表のページを繰ったところ、塩尻始発の828Dは1971年(昭和46年)10月1日訂補のダイヤまで存在し、全線電化の前年にあたる1972(昭和47年)年3月15日ダイヤ改正時に消滅していることに気が付いた。(経緯は【907】下り急行「きそこま」~「きそ1号」の本文末尾の追記を参照ください。)両時刻表を比較すると、このダイヤ改正では、翌年の全線電化を前にして気動車の運用がかなり変わったように見受けられる。
ここまで中央西線の下り急行「きそこま」の塩尻折り返し編成に絡んだことを書いてきたが、反対の長野始発の上り急行「きそこま」はどうだったのか?
上り急行「きそこま」は一時期だけだが存在し、時刻表1967年9月号によれば、長野発7時15分で中津川行の列車(中津川着は10時46分)となっている。下りと同じように塩尻まで中央東線の天竜1号茅野・天竜峡行との併結運転で、名古屋まで行かないのは、下り同様に長野県域列車という位置付けだったのだろう。
しかしこの列車は、1967年10月に運転時間帯はほぼそのままで、「きそこま」の運転区間を延長して名古屋行になり、愛称名も「第1しなの」に生まれ変わっている。上り急行「きそこま」は短期間で発展的解消となったわけであるが、その「第1しなの」にしても名古屋着時刻は正午を過ぎている。つまり早朝に長野を出ても名古屋に午前中に着くことはできなかったわけで、それゆえ今の中央西線では考えられない夜行列車が必要であったと言えよう。
この上りの「きそこま」が到着するのを、中津川駅待合室から見たことがある。キハ57か58(長ナノ)2両で到着し、名古屋方へ引き上げた後、折り返し下り長野行「第2しなの」(中津川発11時07分発)の最後部に増結されて長野に戻っていった。
(上は時刻表1967年9月号掲載の編成表です。今回の時刻表画像はすべて時刻表1967年9月号からの転載画像です。)
この記事へのコメント
急行 陸中
よき国鉄時代の話ですねえ。
広域運用、
分割された今では夢ですねえ。
しなの7号
中央西線では、国鉄分割民営化後の165系電車時代に、普通列車松本発大垣行が登場し、信州からの帰りには重宝しましたが、今では塩尻~名古屋間を通す普通列車は1本もありません。
門鉄局
前に芸術的と書きましたが改めてそう感じます。気動車の特徴を最大限活用したフレキシブル且つ広域的な運用は国鉄ならではです。
今のJRがある意味国鉄以上に官僚的に感じてしまうのが、ダイヤにも営業にも自社優先で乗客の利便は?と感じることが多々あること。分割・民営化したからには当然の帰結ですが、ヒステリックな国鉄批判ではなく若い人には冷静に歴史を感じて欲しいと願っています。
かつては間合い運用の急行編成使用の普通列車が多く見られ乗り得でした。私はもう10年程時代が下りますが、西日本では急行列車は基本冷房付きでビニールシートのキハ10系やロングシートの30系と比べると雲泥の差でした。グリーン車も場合によっては普通車扱いでそういう列車を時刻表で見つけると大喜びでした。小学生では帰省以外遠出は出来ず時刻表誌上で空想旅行をしていました。時刻表から方眼紙にダイヤを引いたり、スハ43系は引く1でスハフ42、オハ35系は引く2でオハフ、61系は同じなどと覚えたり。その情熱で漢字や英単語を覚えていれば…(笑)。残暑はまだまだ厳しそうですが、あの鉄道三昧だった日々から40年。もう夏休みも終わりですね。
しなの7号
全線電化前、中央西線の未電化区間の普通列車は機関車が牽引する列車が主体だったわけですが、その中に混入した気動車列車には、支線の気動車の基地への入出区運用も担わせたことがわかります。
【818】国鉄中央西線で見た回送車両
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201707article_9.html
で書いたのですが、気動車を客車列車の後付け回送とした例もあって、器用に広域運用されていたのだなあと感心します。
国鉄は非効率で悪いイメージばかりが伝説のように残っていますが、全国ネットの公共交通機関であることに対する努力は、今の地域分割されたJR各社より格段にされていたと思います。
もっとも、JRを責める以前に、この傾向は赤字で首が回らなくなって効率を重視せざるを得なくなり利用者不在でいろんな方針転換が進められた昭和50年代の国鉄時代から継続して行われてきたことであり、折しもそんな時期に国鉄に入社してしまった馬鹿者がこの私です( *´艸`)
もっとよく考え、よく学んでいたら、まともな企業に就職してより良い半生が送れたかもしれないですが、国鉄が最期を迎えるまで、ハッキリとした意志を示し続けたまま国鉄に付き合えたことに、何も後悔することはありません。白の麻服を最後に着てしなの号に乗務した夏から数えて32回目の暑かった私の夏がもうすぐ終わろうとしています。
北恵那デ2
「きそこま」も「第1しなの」も詳細は知りませんが、828Dは機関区の撮影中などによく見かけましたので記憶にあります。4両編成だったときと2両編成だったときの記憶がありますが、時代の変遷ということですね。この時刻に名古屋方面に行くという用事は無かったので、乗車したことは無いように思います。
また、しなの7号さんの15:25のコメントは、「半生が送れた」などの身につまされるような文言があり、なかなか感動的ですらあります。
国鉄がどうだったとかJRはどうのこうのというよりも、公務員の方々が働く組織も含めてどの会社もそうしないと伸びていかないという世の中になったという気がします。自分が毎日毎日仕事をする中で、仰るように「効率を重視し利用者不在」にならざるを得ないということを痛切に感じますから。
中央西線
たじみ人
本文にあります、多治見機関区の門柱ですが、周辺の区画整理で「駅北第一公園」として整備されており、モニュメント的に保存されています。
自分も母親が瑞浪出身でしたので、当時住んでいた名古屋から中央線を利用した際は、幼少ながらも多治見機関区の車庫や転車台があったことは今でも覚えています。北口も今では見違えてしまうほどに整備されましたが。。。門柱以外に強いて言えば東海交通事業のコインパーキングぐらいでしょうか。
しなの7号
田舎住まいでしたから「汽車」で、中津の街に、幼少時は母と、小学生も高学年になれば友達と出かけたものです。買い物や通院が目的ですと、(外食する習慣などありませんでしたから)帰りはこの840D(→828D)で帰ってから昼食でした。逆に恵那の街へ出かけたときには、下りの829列車で帰るときには、この気動車列車と恵那(時代によっては武並)で交換したので、駅で帰りの列車を待つ間に、この気動車列車を見ることになりました。
国鉄だけでなく、身の回りのすべてにおいて考え方や価値観があのころとは変わってきましたので、自分自身が変わりつつあることも事実です。本質的な部分は変えようがありませんが、サービスを受ける側として、基本的なサービスは最大限に利用しつつ、不要な付加価値は削減しています。今や付加価値で利潤を得なければならない業界が多いでしょうから、歓迎されない客だろうと自覚しています。
国鉄在職中は、ほんとにいろんな経験ができましたし、その瀕死の国鉄の最期を中から直視でき、看取ることができたことは幸せでした。国鉄改革が極めて強引な手法で行われたことだけが唯一の心残りであります。
しなの7号
本文では「1967年9月号時刻表上で武豊発の中央西線直通列車はなかった。」と書きましたが、たとえばその後の1968年10月の中津川電化時の527Dは武豊発多治見行となっていますし、全線電化まで残された気動車列車は、中津川~坂下小運転用や武豊線・明知線運用の入出区に絡んでいたのでしょう。信越本線が不通になることによって中央西線名古屋口の通勤通学輸送が大きな影響を受けたのも国鉄ならではのことで、今の鉄道会社としては、厄介者の長距離運用がなくなって、ラクなことこの上ないでしょうね。気動車や旧形客車の寄せ集め編成には、そのへんの苦心がにじみ出ていて、それがお気楽に趣味で見ている者にとっては、このうえない楽しみでありました。
しなの7号
ご覧いただきありがとうございました。
遠いわけでもないのに多治見に行く機会がなくて、未確認のままで書いてしまいましたが、現況をご教示いただきありがとうございました。
国鉄形の車両が希少になってしまった今、鉄道に関する記念碑や遺跡を訪ねることが好きになりました。先日の
【866】土岐津駅建設記念碑
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201803article_10.html
を書いたのも、そういう思いの現われです。近日中に多治見機関区の門柱が整備された姿を見てきたいと思っています。
「東海交通事業のコインパーキング」ということは、旧機関区跡を含むJRの従前地が換地されたとみればよろしいですね。
ところで
【780】中央西線を走った車両10 :キハ91系気動車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201703article_7.html
のいちばん下の画像は多治見機関区の検修庫で撮影していますが、まったくそれとはわかりません。留置してあったキハ91は停車中の列車からでもよく見えたので、多治見機関区の建物の全貌も、そういう機会に撮影しておけばよかったと思いますが後の祭りです。
NAO
画像では中津川11:14発普通列車と11:34発急行列車がありますが、今の時刻表ですと、それらの真ん中あたりにあたる中津川11:20発快速列車が名古屋まで1時間15分で着くのですね。電化とスピードアップ、そして現代の運転頻度の高さは想像付かなかったのではないでしょうか。
第2アルプス、第3アルプスのッビュフェのマークも際立ちます。中央東線が羨ましい。
話しは東海道線に移って申し訳ありませんが、今は東京8:38発普通電車から乗り継ぎ西下すると、大阪まで9時間4分で到達するのですね。戦後間もない特別急行「へいわ」とほぼほぼ同じ所要時間、JR化の恩恵でしょうか。
しなの7号
スーパー雷鳥に続いて、連続で分割民営化礼賛のコメントには、戸惑いを感じております。
そうは言っても、お互いにこの古い時刻表のページから見えてくる国鉄には面白味があって、NAO様にすれば乗りたい、私からすれば撮りたいものであったことは確かな事実であり、その思いは共通します。ところで中央西線の瑞浪~中津川間のローカル列車における日中毎時2本体制は国鉄末期61.11から30年以上続いており、当時の快速でも「中津川11:00→名古屋12:18」で、所要時間は1時間18分。117系が使用されており、今とさして変わりません。JR東海に移管されてから、一時期はトイレもないロングシート211系5000に代わり、のちにクハだけを新造のトイレ付に交換し313系が加わるようになったのは良いとして、日中の毎時1本を新造の313系8000を使った有料定員制快速とされ、これは「銭盗らるライナー」と揶揄され、のちに一般の快速に戻されました。まだこの区間は衰退しないだけよいのですが、都市部での利便性が向上したことに対して地方の鉄道が衰退し、ここへきて表面化した北海道の経営環境の悪化が同時進行しているわけです。民間企業であるJRには、当然「公共の福祉を増進することを目的」を旗印とした国鉄の片鱗はありません。輸送産業として成熟していくJRに尊敬の念を持ちつつも、公共の交通網としての役割を果たしきれない鉄道の行く末を私は憂いを持って見ています。
ここだけは私の気持ちとしては外せないところなので、うわべのきれいごとでコメントしたくありませんでしたのでご容赦ください。