【921】 傾いていく国鉄~慰安会ほか

以前、国鉄時代の職場の親睦会の話を書いたことがありますが、そこで公共企業体に職員の慰安旅行などありませんでしたと書きました。しかし福利厚生事業として、私が就職したころには年に1度、夏に家族も参加できる「慰安会」というものがありました。ホールを一定期間貸し切って、芸能ショーを観るもので、その入場券が職員1人につき2枚ずつ配られるというものでした。しかし出演者は有名どころではなく、まだ20代だった私にはまったく興味をそそられるものではありませんでした。


職場に割り当てられる入場券の枚数が、日別・午前午後別に発表され、希望する日に自分の名前を書くのですが、土休日はいつも希望者が多く抽選になり、逆に平日は券が余るようなこともありました。しかし年配の方だと、家族が休みの休日に行きたいという人はおりましたので、「行かないのなら〇日の日曜日に申し込んで、当たったらわしにくれんか。」という方もあって、たいてい私はそういう方にお譲りしていました。

在職中に1度だけ参加したことがあって、そのときの入場券半券がこれです。

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昭和54年8月24日 

この日は、中部鉄道学園で4か月半にわたる列車掛養成を受けていた期間の最終日で、午前中に修了式がありました。午後はフリーでしたが、翌週からは列車掛見習として貨物専門の車掌区に転勤することになっていましたので、それまで所属していた車掌区に、同じ立場の者と2人で立ち寄って、転勤の挨拶をし、20日に出ていた給料を受け取り、貸与されていた物品を返納してきました。ロッカーの私物などを片付けていると、庶務担当の方が、「修了おめでとう。これ、やるから2人で観てこい」と、私どもに茶封筒をくれました。中身は当日午後の部の慰安会チケットでした。

会場は車掌区から数分で行けるところでしたから、じゃあ行ってみるかと2人で出かけたのでした。何を観てきたのかさっぱり記憶にありませんが、茶封筒には演目が別紙になって入っていたと記憶しますが紛失しました。この日は平日でしたので、職場に割り当てられたチケットが余ってしまって、どうせ捨てるものだからくれたに違いありませんでした。


これが昭和40年ころにさかのぼり、私の父の時代になると慰安会の内容がよかったということで、テレビにも出演して知名度が高い芸能人が出演したらしいですし、チケットにはおみやげ引換券もついていました。引換えでもらえたのは缶入りのお菓子の詰め合わせで、そのお菓子が「イヤンカイ」でもらえるのだと両親が言っていたから、私も知っていました。「イヤンカイ」とは何なのか小学生の私にはわかりませんでした。家で菓子を食べた後、母はその缶に裁縫道具を入れて使っていましたが、年を経るごとに慰安会でもらえるお菓子の詰め合わせの内容が淋しくなり、缶入りではなく紙箱入りになって、両親が、だんだん淋しくなるなあと言っていたのは覚えていますが、それは国鉄の赤字が確実に増えて、福利厚生費が削減された結果だったのでしょう。それでも申請すれば自宅最寄りの国鉄駅から会場最寄りの国鉄駅まで、慰安会参会当日限り有効の家族用の無料乗車証が参加人記名式で発行されました。
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私が国鉄に就職したころには、たしかおみやげはありませんでした。その後、慰安会そのものが廃止され、慰安会参会乗車証を含む乗車証の多くが、分割民営化を待つことなく廃止されていきました。下は1982年10月17日の岐阜日日新聞です。

(内容掲載について許可等受けていませんので見出しだけがわかる状態の大きさと範囲の画像としてあります。)

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無料パスの廃止とともに、当時の鉄道業界の慣行について、新聞の見出しにありますので、述べておきます。「私鉄との顔パス」とあり、今ではとても考えられませんが、私が就職したころは、国鉄と他の交通事業者との間で、自社の職員乗車証を提示して他社線の列車やバスに乗る相互無賃乗車の慣行が行われていたのでした。この新聞記事にも「戦前から続いている顔パス的な、なれ合い行為」とされています。この新聞では「私鉄のある各地域で行われており、特に関東地区に多く残っているといわれる。国鉄の損害だけでも数十億円に上るとみられるが、現場段階での黙認行為のため正確な実態はつかみようがない」とされていました。私が就職したときに「関西系の私鉄は乗れないよ」と聞いていましたから、新聞が書いているように地域的なこともあったのは確かです。さらに新聞は、「特にひどい例では、私鉄系デパートの社員がその私鉄から支給された乗車証で乗ったり、東京の私鉄職員が仙台地区の国鉄駅で職員乗車証を提示して遠距離利用していたこともあるという」とも書いていました。なるほど、身に覚えがあります。私が東海道本線の普通列車に乗務中に、私鉄との共同使用駅から乗ってきた若いカップルが、こちらが提示を求めたわけでもないのに、男が自分の某私鉄の乗車証を出して「お願いします」。それはいいとして、男はすぐ連れの女のほうにも似たようなものを出させ、「これでお願いできませんか?」というので、よく見るとその私鉄系の百貨店の社員に交付されていた通勤用の乗車証?だったということがありました。

国鉄だけでなく鉄道業界がそのような時代だったわけですが、このあとは相互が無賃乗車を認めることがなくなり、これは国鉄始め私鉄各社にも徹底が図られたようで、乗務中に私鉄の乗車証を車内で見る事はなくなりました。


このような体質はいうまでもなく褒められることではなく、国鉄の信用が揺らいでくれば、当然国鉄ばかりが糾弾されました。この新聞記事が出された1982年の春には名古屋駅のブルトレ衝突事故が起こり、誰の目にも、このままの国鉄ではいけないだろうと思われたのは確かで、国鉄は四面楚歌の時代に入りました。7月には臨調から分割民営化が打ち出されましたが、国鉄当局は独自の再建案を盾に提言を受け入れませんでした。11月には中曽根内閣が発足して事態は動いていきました。


※国鉄の凋落について書いたので、後段で書いたような慣行があった国鉄以外の交通事業者名は伏せました。趣旨をご理解いただき、コメント投稿においても、その点をご留意ください。(例えば「〇〇鉄道はよかったが、△△電鉄がダメだった」とかいう内容の投稿は削除します。)






この記事へのコメント

  • NAO

    しなの7号様、おはようございます。
    確かに慰安会は業績、そして風潮によって縮小されてゆくものですね。立ち上がるべきときこそ、コミュニケーションを図るために必要とも思えますが。以前の勤め先では細々と開催出来ても人員数からみんな参加する余裕がなく、かくいう私もほとんど参加しませんでした。しかし現在所属する事業所では大方の社員が参加しており、私も20年ぶりぐらいに慰安旅行(といっても日帰りに縮小されていますが)に参加し、初めて異動した事業所の他部門の人たちとも連帯感を持てたのは非常に有効でした。ただ、幾つもの事業所間で参加可能割合に差が出るのはどうかといった声も出始めているようです。
    私もとある業務を遂行する際、とある鉄道会社の職務乗車証を一時的に貸与されたことがありますが、思ったより広域で使用出来るもので紛失しようものなら一大事、持ち歩く勇気が無くて、毎日使用するわけでもなかったので、なんとか払える運賃、現金で切符を買っていました。
    関東私鉄に知り合いが居るのですが、国鉄時代は自社職務乗車証で改札を抜けておられ、自線内は私も同伴?で乗せてもらったことがありました。私の家内も私鉄系企業に勤めていたときは定期代が支給されずに貸与された職務乗車証で通勤、他私鉄も乗れたそうです。
    2018年10月08日 11:35
  • 門鉄局

    こんにちはしなの7号様。
    慰安会や相互便乗はかつては福利厚生の一環として広く行われていました。とっくの昔に廃止されたので敢えて是非については言いませんが、同じ交通事業に務める仲間としての連帯感は今よりあったことは事実で、他産業に比べ労働条件や給与が良くなかった時代にそれを補う目的もあったと思います。
    私が就職した頃にも名残は残っていて、今ではありえないことですが他社さんに乗せていただいていました。
    反対に駅勤務で「うーん今のどこの会社?」とか「何人乗せるつもり!?」ということもありました。私鉄系のタクシー会社の社員も乗るので、「タクシー乗せてくれんのに!」と怒る人もいました。
    私の身内に国鉄職員の方はいませんでしたが、友達には数人いて「グリーン車に乗った」とか「電車区に入れてもらった」と聞くと羨ましかったものでした。意外だったのは職員の子に限って鉄道に興味がなく「国鉄、そんなにええか?」などと言っていました。
    2018年10月08日 14:29
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    企業が行う社員の福利厚生事業には人気不人気があって、その内容は変わっていきますし、雇用形態の多様化とかも原因になって全体には縮小傾向ではないでしょうか。特に365日営業しなければならない企業では、社員が参加しやすい催しでなくてはなりませんが、車掌職場であれば8月は繁忙期ですから、自分自身が日曜日に年休を取得するのは至難の業。自分の公休日に合わせれば、平日では奥さんは参加できないなど、家族も含めて誰もが参加したいと思う催しを企画するのは難しかったと思われます。昭和の末期、巷の企業では慰安旅行で海外にでかけるなど派手になってきた中で、国鉄は真逆でした。
    父に発給された乗車証は「絶対無くすな」と念を押され、「パス入れ」に紐を付けて首からぶら下げたり、ズボンに縫い付けて使いました。
    2018年10月08日 15:59
  • しなの7号

    門鉄局様 こんにちは。
    おっしゃるとおりで、交通事業に勤める者の連帯感はあったと思います。朝出勤して夕方帰る。日祝日に正月盆暮れは休み。そういう常識がまったく通用しない業務に携わる者たちは、会社を越えて団結しなければ、特殊な労働条件を改善できませんから、連帯していたのは当然のことでした。こういう慣行が、その副産物だったのだろうという想像はつきますね。
    私が住んでいた田舎では、国鉄職員の親を持つ子が、必ずといっていいほど複数クラスにいましたが、そのなかに鉄道が好きな子は小中高校の間、私が知る限り一人もいませんでした。ところが第一次オイルショックのあとだったこともあり、就職先としての公務員人気は高まっていたので、同じ時期に国鉄に就職した同級生には親子で国鉄職員という者が複数いました。
    2018年10月08日 15:59
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは
    慰安会の観劇ありましたね
    それも名鉄ホールです
    私が在職中2回ありまして
    以降は廃止されました。
    廃止されてもうなだれるような物ではなかったのでダメージ0です。
    覚えているのは日○ミミさん主演で
    年配の方でも要らんわと大変失礼な発言
    私も母に渡し友達と行ってそれなりに楽しんでいたようです。
    乗車票も付属していましたが名鉄沿線住まいなので利用せず。
    顔パスも私が初めて使ったのが助役とプライベートで某駅に行き
    「顔(写真)が付いてりゃ大丈夫」とか言われたものです
    ご存じのように○○駅は国鉄管理の共同使用駅でしたので私鉄系列の百貨店さんの身分証で来られるOLさんがとても多く
    先輩に「これなんですけど?」と尋ねたら「ああ良いよ、でも本当は顔パスなのか正規なのか判らない」と私鉄内部の事など規則としてなんら書かれていませんから
    顔パスはモラルで考えれば無くなって当然でしょう
    そして慰安会もマスコミに挙げられて批判の対象になったのが直接の廃止のきっかけだったと思います。
    2018年10月08日 18:37
  • つだ・なおき

    わが社(勤務先)でも慰安会はありました。大昔の記録を見ると、結構な大物芸能人を呼んで歌謡ショウや漫才などやっていたようです。
    劇場貸し切りで芝居見物(弁当付き)とか、グラウンドを借りて大運動会とか・・でも近年は全くやらなくなりました。たまに従業員家族対象の工場見学会があるくらいです(新型車両が見れます)。
    ま、現代は団体行事は嫌がる人も多いですし、会社も経費削減に躍起になってますからね。寂しいことですが・・
    2018年10月08日 18:47
  • まつしま1号

    しなの7号様 こんばんは。
    初めてコメントさせていただきます。
    当方、35年ぐらい前に都内某駅にて臨雇ですが集改札を担当しておりましたので、相互無賃乗車の件なつかしく拝読しました。
    他の方もおっしゃられていますが、当時は『お互いさまだから』と黙認していました。今となっては考えられませんね。
    臨雇でしたので、支給される乗車証は通勤区間だけでした。それでも車掌氏に一声かければ、急行列車の自由席に乗せていただけました。
    空いているグリーン車にも乗せていただいたこともありましたが、国鉄の終焉が近づくにつれそんなこともなくなり、拒絶されないまでも不機嫌そうな対応をされたりと、どんどん空気が変わっていくのを感じたものです。
    2018年10月08日 20:15
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんばんは。
    私の場合は、父と私の両方から慰安会のチケットが入手できましたが、親子そろって行くようなことではないし、昭和50年代には両親さえ行く気がなかったようで、私のチケットは全く不要で、お譲りする結果となりました。逆に私が高校生の頃は父の慰安会参会乗車証を利用して、慰安会は欠席して名古屋に出かけたことがあります。

    国鉄に就職した直後は臨時雇用員だったので乗車証は交付されず、それなのに東京都区内や大阪市内など広範囲を見習乗務していましたから、組合から組合員証を交付してもらい、それを乗車証(身分証明書)代わりにして持っていました。そうしないと国鉄の改札を出入りするときにも制服以外に身分を証明するものがありませんでした。
    また国鉄末期には交付される職務乗車証が名古屋・静岡鉄道管理局線だけ有効の乗車証になってしまい、これでは乗務に差し支えるため、乗務区間が交付されている乗車証からはみ出るときには毎回乗務のたびに職務遂行証を持たされるようになりました。
    2018年10月08日 20:44
  • しなの7号

    つだ・なおき様
    よその会社のことは存じませんが、昔はどこでもあったんでしょうね。運動会なんかも、うちの子が勤める会社でもつい最近まであったみたいですが、最近何も言わないからなくなったのかな? やはり今は求めるものが変わってきたのでしょう。従業員や家族には、代わりに事実上のボーナス的な旅行券や商品券を出す方が喜ばれるでしょうけれど、それでは社員や家族の親睦という趣旨からはずれます。でも国鉄の場合は、国民の信用を失ったばかりでなく、ふつうにあるべきものも失うばかりで、それに代わるものはなくなっていき、まさに破綻した企業ならではでした。
    2018年10月08日 20:44
  • しなの7号

    まつしま1号様 はじめまして。
    コメント投稿ありがとうございます。
    都内駅ですと、多くの交通事業者の乗車証をご覧になったことでしょう。こういう慣行には仲間意識という感覚があったと思いますが、やはり昭和の時代でないと通用しない常識だったですね。「国鉄の終焉が近づくにつれどんどん空気が変わっていくのを感じた」というのは同感で、ちょうどこのころから、あらゆる面で国鉄は少しずつ変わっていったと感じています。
    2018年10月08日 20:45
  • りゅう

    はじめまして!
    コメントするの初めてです。

    私は元名鉄社員ですが、国鉄と名鉄、職場環境や就業形態諸々、違いあるし、まさに同じってのもあったりして、非常に興味深く拝見しています。

    国鉄にも慰安会あったんですね。
    名鉄もありました。
    同じく名鉄ホールでのお芝居観覧で、通常のお芝居公演期間中の何日間を予め貸し切ってと言う形でした。
    2018年10月09日 13:13
  • しなの7号

    りゅう様 はじめまして。
    ご投稿ありがとうございます。
    中京地区では国鉄と名鉄は何かと比較されがちですね。国鉄が競合する名鉄系のホールを会場にして慰安会をしたということに、当時なにやら違和感を感じたところですが、立地で言えばここがいちばん便利だったでしょう。案外、名鉄ホールさん主導で同じ演目で慰安会が行われ、貸切日を変えていただけかもしれません???
    2018年10月09日 18:36

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