私の父の遺品のなかに、レール文鎮があります。
1982年(昭和57年)は名古屋から建設されてきた中央本線が中津川まで開通して80周年を迎えた年でした。
裏面には父が長年勤務した車掌区の名が入っています。当時の車掌区長の言葉が綴られた手紙もいっしょに箱に収められていました。
この年には多治見~中津川間開通80周年記念乗車券も発売されています。
記念乗車券には、開通日が明治35年12月21日とされていますが、冒頭の画像にあるレールの文鎮には57.11.20のゴム印で日付が入っています。変ですが、ほんとうの開業80年の日は、たぶん12月21日で、レール文鎮の日付は単に配られた日を表しているだけなのだと想像します。
この年11月20日と、その翌21日には中津川駅で記念行事が行われたことが、翌21日の中日新聞記事で報道されています。レール文鎮もこの記念行事に合わせて配布されたのでしょう。
(新聞記事の内容掲載について許可等受けていませんので見出しだけがわかる状態の大きさと範囲の画像としてあります。)
本来12月21日にすべき記念行事を11月20日に早めた理由については新聞記事に触れられていませんでしたが、中津川開業の日は明治35年12月21日であると書かれていました。なぜ記念行事を11月に行ったのか、その背景を探ると、この1982年11月15日にダイヤ改正があり上越新幹線が開業していました。ダイヤ改正後最初の土・日曜が11月20・21日に当たりますから、国鉄としてはダイヤ改正のPRも兼ねていたものだったということなら、理屈に合います。
ところで、この新聞記事によれば、記念式典の席で中津川市長が「将来的には中央新幹線の実現と、その停車駅を中津川に、さらに中津川線、下呂線の早期建設を目指し、市民あげて運動を続けたい」と強調したとあります。
35年経ってみると、「国鉄」は巷では死語になり、中津川線や下呂線の建設を望む人などないどころか、そんな建設予定さえも知らない人が大多数です。この中でリニア中央新幹線だけが着実に進められており、中津川市内の隣駅美乃坂本駅裏に岐阜県駅が建設されることになっています。
もうひとつ、この年の11月は、国鉄では大きな節目を迎えていたのでした。
先週、最後に書いた乗車証。この制度が大幅に見直されたのが、この年の11月30日だったのでした。私どもに交付されていた職務乗車証は毎年11月30日が使用期限でしたから、この期間満了を待って、様々な種類があった乗車証は一斉に、廃止され、または大幅縮小となったのが、まさにこの時と重なっていました。
下の新聞記事はその1982年5月29日の朝日新聞朝刊です。
(内容掲載について許可等受けていませんので見出しだけがわかる状態の大きさと範囲の画像としてあります。)
20日は国鉄の給料日。そして新しい制度のもとで、範囲を大きく狭められた新制度下での乗車証に発行替えが始まる時期でした。
冒頭の文鎮に同封された車掌区長からの言葉
レール文鎮を区員に配り、萎える気持ちを乗り越えて勤労意欲を持ち続けてほしいという所属長の思いもあったのだろうかとも想像します。今見ると、文鎮そのものより、この言葉のほうに、国鉄が分割民営化される4年半前の国鉄が苦境に立たされていた時代背景がわかる遺品だと感じさせます。先週書いたことの繰り返しになりますが、当時の国鉄は高木総裁のもと、「臨調の分割民営論は受け入れられないが、そのほかの提言は完全実施する」という姿勢でしたが、この1年後、その高木総裁が任期半ばで退任しています。国鉄が難しい時期に入っていた時期で、私の父は翌春には定年退職しています。個人的にはいいときに退職できたと思います。
父に交付されていた「国鉄全線」という職務乗車証ももうこれが最後…という思いで、乗車証を返納する前に私たち親子は、家でお互いの乗車証を並べた写真を撮りました。
左が当時車掌長(荷扱)だった父のものです。私のほうは就職して準職員になったときに有効区間が「名古屋鉄道管理局線」、その後列車掛になったときに「中部地区内鉄道管理局及び大阪天王寺管理局線」になりました。
「国鉄全線」という文字をご覧になると、国鉄時代の「青春18きっぷ」の券面を思い出す方がおられるかもしれません。その前身となる「青春18のびのびきっぷ」が設定されたのは、同じ年の春でした。
実際には、その1枚だけでは「国鉄全線」に乗りつくすことはできませんが、この文字からは大きな夢が広がっていくように思えたものです。
私はこのとき普通車掌でしたが、まだ分割民営化というものの内容が具体的には見えていませんでしたし、その5年後に鉄道と全く関係のない仕事をしていることは、そのとき想像していませんでした。将来的に民営化されることはともかく、地域で切り刻んでしまうことは、素人目に見ても鉄道は長距離輸送から撤退すべしということであって、全国ネットワークが衰退することは明らかでした。この1年半ほどあと、私は図らずも専務車掌になり特急に乗務することになるわけですが、この先の長距離列車の行く末が見えてきた以上、目標としていた特急列車に乗務できたわけですから、そこで鉄道人生を終わらせて新しい職に就くのもよいだろうという思いがよぎるようになりました。
この記事へのコメント
やくも3号
車掌区長さんのお言葉は文鎮より重いですね。
12月21日と11月20日の違いは、最初、新暦と旧暦の表記の違いなのかと思いました。
しなの7号
あいにく私は、その重い言葉どおりに、良き伝統を新事業体で伝えることはできませんでした。せめて、微力ながらこうして国鉄の記憶と記録を遺しておくとします。
明治も35年となると、新暦だったのですね。
鉄子おばさん
しなの7号
今はネットオークションで容易に記念品が入手でき、ありがたい世だと思いますが、そうやって買った記念品の有難みは薄れたなあと思います。
鉄子おばさん様のように、混雑した中でも臆せず出かけて入手してこその記念品なのでしょうから。それはそのご本人に限った思い出でもあるから価値があるのだと思います。譲られたものでは所有する満足感は得られますが、そこに思い出はありません。実際にお父様とともに鉄道グッズ販売に行かれたそうですが、その思い出こそが記念であって、それが貴重なのだと私は思いますよ。
ヒデヨシ
レールスライス文鎮は製作しやすく費用も安く貰って嬉しいのかしなの7号様のお写真タイプで違うタイトルの物をいくつか見たことがあります。
名鉄さんの鉄道マンも似たような物をお持ちでした
鉄道従事者への記念日として鉄道らしく喜ばれ、おそらく製作費も廉価なんでしょう
関係ないけど私は昔、ガソリンスタンドの事務所のテーブルに必ず置いてあったブリジストンのタイヤ灰皿が欲しかったです。
私が退職した時は名鉄局管内
(名鉄電車ではなく名古屋鉄道管理局、紛らわしいので後年国鉄名古屋に変更)
でしたが無くなるのは嫌ですよ
家族とかはやりすぎと思いましたが
新婚旅行ではグリーン車乗り放題だったのが憧れでした
初めて発行回数制限のある全国パス精勤乗車証貰ったときは嬉しかったです。
しなの7号
父はほかにも、金床用として10㎝と30㎝に切断したレールも遺していました。重量を計って1m当たりの重量を算出したら50㎏レールでした。邪魔くさいので、30㎝のほうは欲しいという方があったのでお譲りしました。10㎝の方は、ブックエンド代わりに今も私の家で使用中です。保線区で注文を取って切り売りしていたような話を聞いた記憶です。
私が退職した時の職務乗車証は名鉄局管内と静鉄局管内でした。そして新婚旅行は1年半遅くアウトで、割引証対応でした。前にも何度か書いたように、国鉄時代は乗務と通勤以外で鉄道を使うことは少なく、旅行は自動車の利用がほとんどだったので、精勤乗車証は2回しか交付申請した記憶がありません。安月給だからこそあった制度だという捉え方でしたから、もっと積極的に使っておけばよかったです。
TOKYO WEST
私の場合、昭和56年入社のため、画像のような職務定期乗車証を使ったのは「57.11.30限り」もの1年間だけで、その後は定期券様式の職務乗車証。国鉄終焉まで自局+東京都区内だけでした。
精勤乗車証は2回しか使えませんでしたが、臨時乗車証とはいえ「国鉄全線」の表示は誇らしく感じ、まるで水戸黄門の印籠を持ったような気持ちになったのを覚えています。
今改めて、昭和57年の乗車証制度見直し以前の鉄道乗車証基本基準規程や通信教育教科書を読んでみると、退職職員に対する永年勤続者乗車証、効績章受領者乗車証、永年功績者乗車証などは、長年の労に報いる意味はあるとしても、退職後の長期間にわたる国鉄全線、特別車両・船室有効といった取扱いは、いささか度を超していたとも感じます。
しなの7号
正式名称「職務定期乗車証」と言わないといけませんね。失礼しました。
ちなみに私は精勤乗車証発行資格を一定期間停止されていたはずです。ストライキ参加による欠勤がありましたから。その間に精勤乗車証を使用する予定がなかったから実害はありませんでしたが。。。
おっしゃるように、当時の乗車証の範囲は、とても現在の基準で考えられません。私はいつどのような背景から生まれた制度なのか知らないのですが、多くの若者にとっては「国鉄は給料は安いが年金がいいし汽車はタダで乗れる」というのは、就職先を左右する判断基準の一つになったのは確かだったと思います。そのつもりで何十年も働いてきて、定年退職前年に退職者の待遇が変わった私の父は、当時はそうとうに悔しがっていました。退職後には遠距離を旅することもなく、距離によっては割引証より割安な「青春18きっぷ」を使っていまして、その青春18きっぷとギフトカードを買ってくれる父が私の「プラス10」増収活動で唯一のお客様でした(*^▽^*)
風旅記
いつも興味深く拝見させて頂いています。
国鉄の末期の状況は、特に働いていらっしゃった方の感情の面は、時代も環境も違う私には想像もつかないところがあるのですが、国を挙げて分割民営化に傾いていったときには、諦めも、悔しさも、様々あったことと思います。
それから30年が経ち、JRも会社により個性、ばらつきが出てきました。
正解のある話ではないと思いますが、JRの体制において綻びも見えてきている以上、修正は必要と思っています。
ネットで見ましたが、当時、自民党が出した新聞広告、分割民営化後にも国鉄のサービスが継続されることを謳ったものですが、見事に守られていません。
状況の変化として認めるべきものと、(民営化された後でさえ新幹線を政治のネタとして我田引鉄を繰り返し続けたように)批判されるべきもの、きちんと切り分けて検証が必要だと感じています。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
しなの7号
いつもご覧いただきありがとうございます。
当時、経営破綻で赤字垂れ流し状態の国鉄を放置できないという思いは国民誰もが思っていましたから、改革が必要なのは明白でした。ただ旅客会社6分割という手法にはどうしても私は賛同できませんでした。本文に書いた1982年は、戦後1949年に公共企業体としての国鉄が誕生して33年目にあたります。その後5年で分割民営化がスタートしたことからすると、そこからほぼ同じ年月が過ぎ、鉄道を取り巻く環境は当時と変わってきて、行く末が危惧される鉄道会社が出てくる一方で、多大な利益を上げている鉄道会社もあるわけで、今こそ30年前の改革について、お上の都合と一部の者に対して利益を巧みに誘導されることがないよう、公正な目線で検証をすべき時でしょう。その結果として、この先も日本の鉄道網が維持され、さらに鉄道が利用しやすくなることを望んでいます。
はやたま速玉早玉
レール文鎮も貴重ですが、直筆の中津川車掌区長のお手紙こそが本当に貴重、温かみさえも画像から伝わってきますね。しなの7号様の財産かと。
先日、会社のおっさんと『湯谷温泉・清酒ん18きっぷの旅』を行いました。とっても充実した旅でしたが…青春18のびのびきっぷ、この時代に呑み鉄旅を開催したかったなぁ。旧型客車、夜行鈍行列車、また飯田線に関して言えば旧型国電と地酒のコラボレーション…溜め息が出そうです。
その飯田線では豊橋発岡谷行きの長距離鈍行が今なお健在で嬉しい事ですが、短距離ぶつ切り運用はやはり嫌ですね。前にもコメント致しましたが、自社のみを守る島国根性の経営はいただけません。他社との連携をとって鉄道網、ネットワークを張り巡らせて頂きたいものです。
しかし…
【長距離は専ら新幹線、特急利用】
【そもそも鉄道より自家用車利用】
この状態では長距離列車、鉄道ネットワークは採算合わず不要なモノなのでしょうか(。>д<)
しなの7号
私はモノに執着しなくなりましたので、記念品の類はかなり処分しましたが、こういう手紙は、当時の国鉄の置かれた状況を伝えるものとして遺しています。
もう青春18きっぷのシーズンでしたか。今冬は鉄道旅の予定がないので青春18きっぷを買いませんでした。時期的には空いている冬休み前の利用がオススメですね。飯田線には旧国時代から全線を通す普通列車が残っていて、乗り甲斐がありますね。それでも意外に長時間停車がなくて、食料飲料調達には昔から細心の注意が必要です。私どもも、かつては清酒ん18メンバーで松本の浅間温泉に行ってから岡谷始発の豊橋行に乗って飯田線を南下したことがありました。
声が小さくなりますが、一昨日から「自家用車利用」(;^ω^)で、ちょっと出かけていまして、返信が遅れました。都市部以外は駅からのアクセス手段がないことが多くて…