過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。
~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~
《475系電車》
中央西線に交直両用475系とは実に違和感を持ちますが、名古屋~博多間の急行「玄海」の間合い運用でした。それはおそらく神領電車区が完成した年、1968年10月のダイヤ改正(中津川電化時)からだと思いますが、当時は中津川まで運用されていなかったので、私は見たことがありませんでした。私が475系に気付いたのは中津川まで運用されるようになったときで、古い時刻表と記憶とを総合すると、1969年10月のダイヤ改正からではなかったかと思います。その1年前の電化完成時1968年10月のダイヤ改正で中津川を朝7時台に153系の上り大垣行快速が設定されましたが、1969年10月の時刻表を見ると朝7時台に中津川始発上り名古屋行普通列車が快速に変更されて朝の上り快速列車が2本体制になっています。下の画像は時が経過して1971年4月に美乃坂本~恵那で撮影した快速636M名古屋行です。(列車後方から撮影)
画像では正面愛称板こそ白表示ですが、字幕には「急行」が出ていて、そういうことに無頓着だった時代であったことを反映しています。
1本前の153系快速が普通車8両編成で、中央西線にデビューしたころは輝いて見えたものでしたが、この475系はサロ455とサハシ455各1両を含んだ10両で、一段と中央西線の列車がグレードアップしたように感じられました。
交通公社版1971年3月号の編成表から
中央西線内では、サロはグリーン車として営業せずハ代用か通路扱いだったと思います。サハシのビュフェはもちろん非営業でした。
1972年3月12日 1205M急行「玄海」 名古屋で
名古屋に着くとホームと反対側のドアも開放してサボの差し替えが行われ、「玄海」に化けました。こういう変則運用は長続きせず、新幹線岡山開業時の1972年3月のダイヤ改正で急行「玄海」の名古屋~岡山間が廃止された時点で終了しました。
~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~
《72系電車(モハ72とクハ79)》
70系電車が定着していた中央西線に、ロングシ-ト4扉のモハ72とクハ79が登場したのは、475系が入線しなくなった直前だったと記憶します。私にとって72系電車はあまり馴染みがありません。それは、トイレがないため名古屋からの運転時分が1時間を超える中津川行には運用されなかったために、地元の中津川で見ることがなかったからです。中央東線などでは、70系との混結があったようですが、中央西線では70系とは完全に運用が分離され、わざわざ乗りたい電車でもなかったので、名古屋駅から帰るとき中津川行がないとしかたなしに多治見あたりまで乗ったことが2~3度あっただけでした。
1972年3月12日 名古屋で
このモハ72とクハ79は車両数が多くて形態分類が複雑ですが、中央西線では、古い3段窓のタイプの車両は全部体質改善工事を施工されアルミサッシ2段窓になって70系同様の横須賀色で使用されていました。全金車(920~)も含まれ、試作車でたいへん個性の強いクハ79904が配置されていたことが思い出されます。
1972年10月8日 クハ79904 神領電車区
クハ79904は他のクハ79より一回り前面窓が大きく101系を思わせ、切妻の隅部にはRが大きめに付けられた正面スタイルで、他車との区別がつきました。この車両はいわくつきの車両で、1951年に桜木町事故で被災したサハ78144を試作全金化するとともにクハ化して復旧した車両であったということです。
72系は5両(TcMMMTc)単位で編成されて、2編成を併結した10両編成が日中でも見られました。
1977年(撮影月日不明)新守山~勝川
上は庄内川から名古屋第二環状自動車道が交差する間で撮影した画像ですが、40年経過した今では、このあたりに水田はなくなって工場や倉庫が立ち並び、線路は勝川駅の高架化によって線路が付替えられましたので、まったく面影がありません。
中央西線の72系電車は1977年に103系電車に置き換えられました。
1977年3月13日 名古屋駅
その103系については、
で、すでに紹介していますので、この中央西線を走った車両シリーズ記事では割愛させていただきます。
※本来、旧形電車に○○系と表記するのは誤りかと存じますが、ここでは通称としてクハ79・モハ72のグループを72系と表記しました。70系についても同様です。
この記事へのコメント
おき2号
今ある「ホームライナー大垣」は「しらさぎ」でやって来たJR西日本金沢総合車両所の681系を使っており、これはこれである意味同じような考えにも思えますね。
3RT生
475系の間合い運用など、遠くからきた車両に思いがけない場所で出会うのは、国鉄の醍醐味でした。
「玄海」ですが、新幹線岡山開業まで名古屋行きだったのは知りませんでした。運転区間短縮後もやはり間合い運用があり、小生の子ども時代の地元、宇野線に入っていました。当時、岡山・宇野間の快速列車と普通列車の一部は「鷲羽」の名残りで宮原の153系が担当していたのですが、確か倉吉線のSLさよなら運転(昭和49年でしょうか)を見に出かけた時に乗った、早朝の上り普通列車が475系でびっくりしたのを思い出しました。編成が長いので、ホームの短い駅は通過です。手元に時刻表がないのですが、確かグリーン車マークが付いていたと思います。
60ヘルツ用を示す裾のクリーム帯を拝見して、とても懐かしく思いました。
ヒデヨシ
中央本線に475系が入線していたのは知りませんでした。
そもそも玄海すら知らない
博多行きなら門司〜博多だけ交流であとは直流区間とかなりもったいないですね
もちろん名古屋〜博多の金星やつばめも同じだったのでしょうが
あちらは間合いで北陸線ですからまだ納得
グリーン車、ビュッフェも繋いだ格のある編成が入っていたのは見たかったです。
北陸線と言えば見たこと無いけど名古屋〜金沢の兼六もありましたが
名古屋ですら交直両用急行は違和感あります
私が知っている中央西線の普通列車の印象は72系が強いです
何度か乗りましたが首都圏やグリーンマックスの模型が茶色だったのに対し美しい横須賀色とアルミ窓
車内も体質改善されて掃除も行き届き綺麗だったことが多かったです
グリーンマックスの製品も自分で横須賀色に塗り分けてしまいました
ちなみに103系と70系の中央西線での乗車記憶はほとんど無いです。
しなの7号
長距離列車が少なくなって、遠くから来た車両が、ローカル客を乗せてアルバイトみたいな運用で走ることは減りましたね。JR初期まで「しらさぎ」は、神領に滞泊し、中央西線内は回送でしたが、その後の「ホームライナー大垣」のように他社の車両を使って客扱するようになって、国鉄時代の急行運用に似たものを感じるのは私も同じです。
しなの7号
「玄海」短縮後は宇野線でも走っていましたか。私が宇野線に初めて乗ったのは昭和50年で新幹線博多開業半年後でした。もう少し前だったら475系が見られたかもしれないですね。そのときは113系にサロ112が連結されているのが新鮮に思えました。茶屋町から児島まで廃止されたあとの下津井電鉄へ行ったときでした。
長距離列車は、その列車そのもの以外に、出先での使われ方にも興味をそそられますね。
しなの7号
名古屋始発の「玄海」の前身は「はやとも」で、481系「つばめ」熊本行とともに1965年10月改正でデビューしています。
「兼六」には一度だけ、サハシ455の2人掛シートに乗ったことがあります。キハ20系、キハ55系、キハ40、修学旅行用電車にもある窓が開く2人掛シートは私のお気に入りでした。
中央西線用72系は、「横須賀色・2段アルミサッシ・正面サボ受けなし」のスタイルで垢抜けていたように思いました。ただし乗るほうは本文に書いたとおりで、70系主体。103系のほうは乗務主体でした。
中央西線
475系は神領→多治見回送後621M折返し636M→1205M。
しなの7号
1972年3月15日岡山開業による時刻改正の直前、1~2月に神領の70系の一部が相次いで長野へ転属しているようなので、そのころから72系が中央西線で活躍を始めたものと解釈しています。
美乃坂本から475系快速636Mに乗るとき、家を早めに出ると621Mが475系編成で中津川に向けて走っていくのに出くわしたことがあります。それを見て中津川でなく神領で一夜を過ごしたのだろうと想像がつきました。
NAO
中央西線に交直急行型運用ですか。初めて知りました。サハシ連結だったら気になるのが、普通列車運用のなか、厨房側連結部で油とコーヒーの混じったような匂いの余韻が残っているのか?、格調ある編成の行路で腕章は「乗客専務」なのか「車掌」だったのか?。もっとも私は在来型サハシ実車を見たこともありませんが。
そういえば有りそうで無かったのが、中京圏発着客車寝台特急。東京発着列車がその役目を兼ねていたのしょうけれども。
しなの7号
疑問に思われる点は、記憶する以前に気にしていませんでしたから、わかりません。近代化されていく中央西線の1ページとして475系を思い出しますが、あんなにわずかの期間で姿を消すとは思いませんでした。「しなの」のキサシ181にしても同様です。
しょせん名古屋は田舎です。金星号があっただけよかったと思います。
唐獅子
横レスで失礼します。
私の手元に1974年8月の時刻表があります。
それによると、宇野線には快速表記がないグリーン車付きの普通列車が一往復だけ見ることができます。
宇野613→(八浜・迫川・彦崎・茶屋町・早島・妹尾・大元に停車)→岡山702、という1534Mがあるので、多分これのことだと思います。
また、岡山2244→(上記の停車駅と同じ)→宇野2330、という1563Mもあるので、
運用上は対で、当該編成は宇野で夜を明かしていたと想像できます。
しなの7号
時期的、時間的に見て可能性は高いですね。
ところで、山陽本線の電車急行が鷲羽だけになった新幹線博多開業。そこから3年後の1978年4月号時刻表がありますので、宇野線のページを見ると、ほぼ同じ時刻、同じ停車駅でグリーン車マークのある1534Mがまだ存在しています。その時点では113系か鷲羽がらみの運用だったのでしょうけれど、その運用を考え出すと頭痛くなりそうなのでやめときます(;´∀`)
うさ
名古屋地域だと581形も金星~しらさぎとこれまた凄い運用をしていましたね。何か障害が起きた時の神領電車区の方や名古屋駅にあったであろう旅客車サービス班の方も大変だと思います。
しなの7号
こういう運用は、当時の鉄道雑誌に投稿されていた事例以外は知られていないですね。想像もつかないような車両運用を見ていると、国鉄は知恵を絞って限りある車両を効率よく使っていたことを思い知らされますが、たしかに保守するほうは大変だったと思います。
東海のどら猫
しなの7号
475系のことか72系のことなのか読み取れませんが、どちらも短期間で中央西線からセレモニーもなく去っていきましたね。
風旅記
国鉄らしいエピソードですね。今では地域ごとにカスタマイズされた専用の新形式が配属されることが多くなりましたが、往時には広域で共通の車両を使っていたのだと思いますし、運用も無駄なく組まれていたのだと思います。
特急、急行と種別に対応するように車両も分かれていた割には、間合いでは融通を効かせて普通列車にも使われていたのですね。特急料金、急行料金は、今はその列車のその車両に乗ることに対して払っている感覚ですが、あくまでも速達性のある列車に対する料金なのかもしれないと、調べてみたくなりました。
風旅記: https://kazetabiki.blog.fc2.com
しなの7号
この「玄海」に見られるように、新幹線網の整備によって、地方への旅行は新幹線を基軸として在来線に乗り継ぐという形態に変化していきました。これが広域に及んだ車両の運用が減ってゆく一因でもあったのでしょう。それでも、優等列車に使われる車両が朝夕の通勤時間帯に輸送量確保のために運賃だけで乗れる列車は各地にあったですね。グリーン車も一般に開放している列車もあって乗り得でした。
急行が減って特急が増えると、乗車整理券を徴収する通勤ライナーに発展しましたが、元通勤ライナーが特急を名乗る例が増えてくると、特急料金の意義があいまいになってきますね。
木田 英夫
1420号の本文末尾の関連記事の目次を見て、「中央線に交直流車?」と思いながらこちらに入りました。
急行玄海、とても懐かしい列車です。約50年ほど前、西ノ宮〜芦屋間に電車を見に行っていた頃、夕方にあのレサ編成か、この急行玄海を見たら家に帰るお約束でした。同じ頃に月光形、581系の特急も1本あったかと思いますが、名前は忘れてしまいました。思い違いかもしれません。
3枚目のカラー写真、涙ものです。大きなトレインマークを付けて走っていた様子が甦って来るようです。
あの頃のことを書き出したらエンドレステープになりそうですので、これにて失礼致します。
いつも貴重な情報、写真など公開して下さりありがとうございます。木田英夫
しなの7号
時刻表1971年3月号を紐解きましたら名古屋行上り玄海の大阪着時刻は17:02となっていました。この時刻表で見る限りでは30分ほど前に、はと1号新大阪行がありますので、581系の列車はそれだったかもしれません。「あの頃のことを書き出したらエンドレステープになりそう」というお気持ちはよくわかります。そういう想いこそが原動力になってブログ記事作成につながりました。
九州を出た列車を貴殿がご覧になった翌日に中央西線で私が見ていたようなこともあったのかなと思うと長距離列車は魅力的ですね。ところで「中央線に交直流車?」が再び現実になりました。この3月のダイヤ改正で多治見までの貨物列車が富山機関区のEF510の担当となり、運用を調べてみると前々日に青森を発っています。遠隔の地からはるばる我が地元まで来た機関車には、今の旅客列車にはない魅力があります。地域分割されなかったJR貨物だからこそといってよいのではないでしょうか。
木田 英夫
さて、今回頂いた返信そして1416号の記事によれば、中央西線のEF64も引退の時が近いようですね。
始めて中央西線に乗ったのが昭和49年。中3の時の御嶽山への修学旅行の往きで、旧型客車を連ねた専用列車で、機関車は大阪ー名古屋間がEF58、名古屋ー上松間があのEF64でした。目的地は木曽福島でしたが単線ダイヤのため上松で数時間待たなければならないというオマケ付き。このため、最後の1駅間だけ貸切バスというものでした。なお、帰りは名古屋まで貸切バス、名古屋から先は新幹線でした。
就職してから東京出張の往き帰りにしなの号から時々見えた貨物列車も機関車は勿論EF64で、タンク車を連ねた編成でした。長編成ではなかったと思いますが、重連を見た記憶もあります。
そんな「中央線の機関車といえばEF64。EF64といえば中央線」とも言えるEF64も引退近しとのこと。記事によれば後期型の1000番代が最終全検ですから、私が見ていた前期型はもう殆ど見られないということですね。
いろいろなことで時の流れは早いと最近つくづく思います。木田英夫
しなの7号
国鉄時代、中央線の機関車といえばD51とEF64-0。修学旅行でご乗車された昭和49年は中央西線から475系が撤退した翌々年、D51撤退の翌年にあたり、EF64-0はまだ新製が続けられていた全盛期と言えますでしょう。
木曽福島駅は主要駅ながら旅客ホームが島式1本しかないので、旅客列車を待避させての追い抜きができません。複線化された今でも旅客列車の追い抜かれは上松駅で行われます。中央西線のEF64-0がすべてEF64-1000に置換えられてから10年以上経ちました。JR東日本の37号機が昨年引退したことによって0番台はJRには現存しません。国鉄時代から続いている中央西線・篠ノ井線の総括重連運用は1000番台に変わってからも健在ですが、お伝えしたように全検が今後行われないならば、数年先にはJR貨物の1000番台は全機が引退すると考えていいのではないでしょうか。
木田 英夫
通巻485号のEF6477号の記事の最後の写真、EF64の重連が引くタンク車編成。出張の往き帰りにしなの号から眺めた貨物列車はまさにこれです。EF64がオリジナルの青とクリーム色か、JR貨物色だったかはもう覚えてはおりません。
こちらの写真でも、短い編成なのに重連であるのは、勾配線区だからでしょうか。
いつも貴重な写真と情報をありがとうございます。木田英夫
しなの7号
中央西線は勾配線区であり、かなり大雑把な言い方をすればEF64重連で東海道・山陽本線での単機程度の重量しか牽けません。それとは別に、空荷であっても山間部の駅では地形の関係などから行き違い線や待避線の有効長が短い駅があるので、東海道・山陽本線のような長大編成を組むことができません。国鉄時代の中央西線の貨物列車の重量と長さの制限について触れてある記事がございます。よろしければご参考になさってください。
【311】思い出の乗務列車3:専貨5799~5899列車
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201209article_4.html