【967】 中央西線を走った車両21 :80系電車と115系電車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。


~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~


80系電車は、国電の代表形式のうちの一つで、幹線からローカル線まで幅広く活躍し、電化された中央西線でも使用されていました。

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1980年3月頃 美乃坂本~中津川


中津川電化時点(1968年)ごろは、中津川まで乗り入れる定期列車には70系が主に使われていましたから、そのころ中津川界隈で80系を見た記憶といえば、週末に運転された臨時快速「恵那峡」くらいでした。

厳密に言うとそれはウソになります。と言うのは神領電車区の70系に組み込まれたサハのうち、80系のサハ85が3両横須賀色に塗装された混入していたからで、いつも「スカ色の80系」を見ていたことになります。そのサハ85については、後日70系の記事のなかで語ることにしますので、今回は触れません。


中央西線で本格的に80系電車が使用されるようになったのは、中央西線が全線電化された1973年からと言ってよいと思います。

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1979年4月29日 田立~坂下


南木曽以北に断面が小さいトンネルがあるため、使用されたのは電動車モハ80のうち低屋根800番代か、折り畳み高さが低いPS23パンタに取り換えた神領電車区の編成に限定され、4両単位で編成を組んでいました。神領電車区の70系にはそういう狭隘トンネル対応装備は施されていませんでしたから、80系は中津川・松本間の普通列車を中心に使用されていました。この中央西線全線電化時から、普通列車の運転区間が中津川で分断され、名古屋から南木曽以北へ直通する普通列車がなくなり、神領区の70系と80系の棲み分けができていたのでした。

しかし、配置区である神領電車区から中津川までの80系の送り込みを兼ねて、名古屋~中津川間でも80系を使用した定期運用が朝夕を中心に設定されていました。一部列車を除き、混雑時間帯なので4両編成を2本連結した8両編成で運転され、そのうち夕方~夜間の1往復には塩尻方に荷電クモニ83が連結されました。

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1979年6月 大曽根~新守山


中央西線の80系で特筆されるのは、元サロ85の客室をそのままに、運転室を新たに取り付けた格下げ車クハ85の数が比較的多かったことでした。改めて1980年版の国鉄車両配置表で神領電車区の80系クハの配置両数を見ますと、湘南顔クハ86が10両に対して、格下げ平妻のクハ85は6両もありました。つまり数字の上では8分の3の確率で乗車可能なわけですが、4両編成の両側ともクハ85という編成もありました。

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1978年10月 武並~釜戸


80系電車は1980年3月に中央西線から引退しました。

1980年3月23日には、さよなら列車が名古屋~坂下間(中津川~坂下間は回送扱)に1往復運転されました。すでに80系は2年ほど前に東海道本線から引退していたので、中央西線から撤退したことによって、80系電車の活躍場所は飯田線だけになったのでした。

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1980年3月23日 坂下駅で


80系の後継車は31両新製された115系1000番代車でした。当初はMcM’MM’Tcという強力5両編成が見られましたが、のちに3両編成に改められました。

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1985年9月16日 落合川~坂下


新製車でしたが冷房はなく準備工事だけにとどめられ、所属区は神領電車区(名シン)ではなく松本運転所(長モト)でした。寒冷地である中央東線や篠ノ井線で共通で運用できるからだったのでしょうが、運用区間のほとんどが長野鉄道管理局管内でしたから不自然ではありません。(当時の名古屋・長野両鉄道管理局の境界は岐阜・長野県境にあたる坂下・田立間でした。)

また、このとき80系による名古屋~中津川間の送り込みを兼ねた運用の補充として神領電車区に冷房車113系2000番代が12両新製配置されています。そのため80系置き換え後には115系による名古屋~中津川間の運用は設定されませんでした。

115系は、のちに分割民営化を前提とした国鉄最後の1986年11月のダイヤ改正時に、中央西線用として必要な車両数だけが神領電車区に移管されました。ここで夜間に115系の入出区運用として、下り神領発中津川行と上り松本発神領行ができています。同時期に名古屋・長野両鉄道管理局の境界が洗馬・塩尻間に変更されており、言うまでもなく分割された後の旅客鉄道会社の実態に合わせた措置だったことがわかります。
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全線電化後の木曽谷での普通列車の主力は、この80系と115系ということになります。165系が転用されたのは国鉄分割民営化後のことになります。





この記事へのコメント

  • Mr.Nozomi

    北恵那廃止の1日前、中津川でクハ85を見ました。帰路(逆方向=名古屋方面)だったので乗ることは叶わなかったけど、フカフカそうなシートは、ひとつもらって部屋に置きたいと思いましたね。
    2019年03月14日 16:42
  • しなの7号

    Mr.Nozomi様
    そのころ、80系の神領への帰区を兼ねた松本発名古屋行があり、中津川を20時30分ころの発車でしたが、ちょっとお帰りには遅すぎですね。私は夜行列車乗務の日の出勤に、その列車を使ったことがあります。
    2019年03月14日 17:09
  • abesan11

    中津川までは113系だと思いますが,塩尻方の4連が非冷房,名古屋方が冷房の4連,中津川から十二兼が80系でした。帰りは,その逆でした。
     この記事によりますと,80系は,翌年の3月に引退ですので,今にして思えば運が良かったとと思います。
     80系最後の乗車は,1981年9月の飯田線です。
    2019年03月14日 21:58
  • しなの7号

    abesan11様
    冷房車があるかないか、そういうことを乗るときに考えてしまう時代だったですね。
    東海道本線沿線にお住まいの方にとっては、そのとき80系には懐かしい思いで乗られたのではないでしょうか。十二兼ですと目的地はたぶん柿其渓谷ですね。十二兼は今でも国道の自動車がうるさいのを除けば、ひっそりとしていい駅だと思います。
    2019年03月15日 10:46
  • 中央西線

    名古屋口に午前9時半頃現れる木曽福島発の80系は中津川から大垣区の80系が増結されてました。
    2019年03月15日 21:52
  • しなの7号

    中央西線様
    本文に貼ってあるクハ85先頭の写真(1978年10月 武並~釜戸)が、その列車で、そのとき8両とも神領車だったという認識でしたが、この時点では大垣の80系は先に引退していたことに気付きました。大垣に80系が配置されていたころには中津川まで入っていたのですね。迂闊にも気付いていませんでした。自分が中央西線で大垣の80系を意識して見たのは快速恵那峡だけでした。
    2019年03月16日 07:31
  • ヒデヨシ

    しなの7号様おはようございます
    中央西線で80系に乗った記憶はないので
    おそらく未乗
    飯田線ですら80系に乗っていません
    私の80系乗車は何十回も乗った東海道本線だけだと思います。
    別次元のような全金300番台以前の鎧戸を降ろすとお化けのでそうな室内のやつです
    客車よりワンランク落ちる内装でした。

    中央西線 塩尻方に80系が使われていたのはトンネル限界の為だったんですね
    てっきり乗降客が少なく寒さの厳しい地区なので2扉デッキ付きが選択されたのが全ての理由だと思っていました。
    現在もあの区間はJR東の211系が乗り入れて来ているので
    長野局時代の名残が少しあります
    新製投入された長野の115系もあまり乗った記憶無いです
    ドアが車内保温対策の手動開扉用に取っ手が付いてますね
    2019年03月16日 11:16
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんにちは。
    私は子供のころには「80系と113系は東海道本線の電車」だと思っていましたから、中津川電化で、両系列を地元で見るようになり「東海道本線並になった」とうれしかったものです。中央西線用のモハ80はアルミサッシと巻上げカーテンが採用された比較的新しい200番台以上の車両が揃っていましたが、クハ86には古い車両がけっこうありました。80系は旧形客車に比べると通路が広く座席は小ぶりという印象で、300番台はナハ11みたいで、同じ形式とは思えなかったです。
    現在は中津川でJR2社の211系が顔を合わせていますが、別会社のJR世代の車両でありながら同一系列の同じ顔立ちで、これも国鉄の名残のように思えます。今115系が身近に見られるのが、しなの鉄道ですが、一昨年に長野で見たとき、ドアの下部に「あつい↓」と書いたステッカーが貼ってありました。ドアのレールヒーターで火傷した人がいたのでしょうか。しなの鉄道の115系は大半が国鉄時代の松本運転所在籍車なのでまた乗ってきたいと思っています。
    2019年03月16日 15:52
  • やくも3号

    しなの7号様 こんばんは。
    80系電車、登場当時は速度感あふれるデザインだったのだろうと思いますが、よく見ますと一昔前の遊園地の乗り物のような愛らしい顔つきで、好きな車両の一つです。
    辛うじて、幼少時に山陽線のローカルで乗車したことがあります。私がものごころついた時にはすでに京阪神近郊区間では113系にとって代わられていましたので、残念ながらその活躍ぶりを日常みることはできませんでした。(113系スカ色新快速も私は知りません・・)
    新見に帰省する際には、親は私の機嫌を損ねないように新幹線+やくもを避け、姫路までブルーライナー新快速(お気に入り)、岡山まで80系(お気に入り)、新見まではキハ55快速(バス窓恐怖)のルートをたどってくれていたのでしょう。

    お写真を拝見しますと、全金の300番台が多いですね。近代的な内外装はもう153系と大差なく、初期車とは大きな違いを感じます。
    70系や72系も、最終型はそれぞれ次世代の111系や101系初期型に酷似しているところが多いですが、これは自動車にも共通するところがあります。たとえば試乗した限りでは、TE71型レビンの初期型と最終型では乗った感じが大きく異なりましたが、むしろTE71レビン最終型はモデルチェンジ後のAE86レビン初期型のほうに運転感覚が似ているところが多く、『あれ?いまどっちに乗っているんだっけ?』と感じたことがありました。
    2019年03月17日 22:25
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    80系の思い出は、私も山陽本線に多くあったりします。岡山で新幹線から乗り換えるときに見た一次型3枚窓のクハ86や赤穂線のクモユニ81、どちらも、その時点で東海道筋ではすでに見なくなっていた車種でした。そのときの目的地だった倉敷臨海鉄道とか下津井電鉄には湘南顔の車両が走っていて、80系電車の影響を受けたと思われる私鉄車両は、ほかにも多かったですね。
    中央西線のモハ80は、身延線で急行用だった300番代からの低屋根改造車800番台が集中的に転用されていたので、全金車率が上がったのでしょう。初期車とは同じ形式とは思えませんね。
    まことに残念ですが複数のレビンに試乗したことがないので、その違いは判らないです。でも確かに鉄道車両でも乗用車でもマイナーチェンジで必ずしも良くなるとは限らず、たとえばコストダウンのためとしか思えない改悪によって、せっかくのその車種固有の個性がなくなってしまい魅力半減と感じることがあります。そう思うのは自分が鉄道・自動車の双方に対して一般ユーザーとは違った変なこだわりを持つ奇人変人だからということは、よ~くわかっていますから、具体的な例を出すと長くなるし、お恥ずかしいのでやめときます(*^^)v
    2019年03月18日 14:18

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