【968】 国鉄時代の観光案内車内放送:「しなの」(4-2)

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先週に引き続いて、国鉄時代に録音した「しなの号」の車内放送について解説や補足を書いておくことにします。音声は、車内放送部分だけを編集してアップしていますので、車内録音ノーカット版ではありません。収録した日と列車は前回と同じで、その続編となっています。


・録音日:1986年10月26日

・列車:中央西線・篠ノ井線「しなの7号」

・運転区間:名古屋・長野

・今回の収録区間:倉本~宮ノ越付近(4-2)

・収録時間:約13分00秒


◆乗鞍岳(0分05秒付近~)

深い谷が続く木曽谷の底から乗鞍岳が見えることは意外に知られていません。もっとも雲がなく空気が澄んだ快晴の日でないと見られないのですが、コンディションさえよければ、倉本駅を出てすぐ、左側の車窓から列車と並行しながら左へカーブしていく木曽川の上流方面に見えます。
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◆小野の滝(案内放送0分18秒付近~1分25秒)

      (現地を通過するのは2分44秒付近)

放送で「滝の上のほうだけ見えます」と言っているように、列車の車窓から滝の全容を見るのは不可能です。下を走る国道19号線には駐車スペースもあり、そこからは全容が見られますが、滝の正面を横切る中央西線の鉄橋がたいへん目障りです。江戸時代に安藤広重による浮世絵「木曽海道六拾九次之内『上ヶ松』」にも描かれた名瀑ですが、明治時代に造られた鉄道によって景観が台無しになったわけで、今なら景観の保護が優先されたのではないかと思います。
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◆寝覚ノ床(1分25秒付近~3分30秒) 

中央西線の列車から見る一番の展望スポットです。特急に乗って中央西線でご旅行された方で、ここの車窓案内放送をお聴きになった方は多いと思います。JR東海の383系になってからは自動音声放送も用意されました。国鉄時代にはもちろん車掌長による肉声でしたが、それに加えて、景観を楽しんでもらおうと速度を落としてくれる運転士もありました。減速は決められたことではないので、ダイヤより少し早めに走って時間稼ぎをしたということでしたが、それだけダイヤにゆとりがあったと言えばそれまでながらも、仕事に込められた思いは、列車に手を振る子供たちに応える汽笛一声と同じで、機械的でない「人の仕事」を感じさせます。車窓案内放送で言うなら、自動音声では伝わらないテイストが肉声放送にはあると思うのですが、いかがでしょうか。
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寝覚ノ床は下り列車の左側に見えますので、上り列車の右窓からも見えるのですが、その場合は下り線がやや視界を遮りますから、眺めるのなら断然下り列車からのほうがお勧めです。それに下り列車だと手前にある短いトンネルがあるので、そのトンネルから出たらすぐのタイミングで左側、と記憶しておけば、見落とすことがありません。このような山の中に浦島太郎伝説があることはちょっと意外ですが、竜宮から帰った浦島太郎はここで玉手箱を開けておじいさんになったとのことです。
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◆上松と赤沢自然休養林(3分45秒付近~4分50秒)

大相撲2018年7月場所で幕内優勝した御嶽海の出身地として知られるようになった上松町ですが、昔から木材の街でした。国鉄時代の上松駅裏には土場と呼ばれる木曽木材の集積場があり、ここから森林鉄道が出ていましたが、私が国鉄に入社する前年1975年に森林鉄道はトラック輸送に切り替えられ廃止されました。今では赤沢自然休養林に、その森林鉄道の線路が一部復元されて、観光シーズンには乗客を乗せて運転されるようになりました。
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◆御嶽山(4分50秒付近~7分35秒)

御嶽山は2014年に突然噴火して多くの犠牲者が出たことは記憶に新しいことと思います。車内放送にもあるように、1979年(昭和54年)に有史以来初めての噴火がありましたが、当時は一般に活火山であるという認識がされていませんでした。この山麓を震源とする長野県西部地震があったのは、まさに私の国鉄専務車掌時代の1984年(昭和59年)で、この「しなの7号」に乗務するはずの日でした。当日のことは【153】長野県西部地震があった日「しなの7号 春日井行」で書いていますが、運休になりました。

この御嶽山は濃尾平野からでも天気さえよければよく見え、中央西線の車窓では名古屋市街地から勝川あたりにかけて、そして恵那~美乃坂本付近でも見え隠れしますが、そのあと中央西線が深く狭い木曽谷に入ると、車窓から山頂を眺められるのはこの放送をする場所だけで、しかも、見えるのは山体の南側半分の上のほうだけです。こんな感じで一瞬だけ見えます。
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◆木曽福島・木曽駒ケ岳・徳音寺・巴ヶ淵(7分35秒付近~)

中央西線の線路に沿って、史跡や景勝地はいくつもありますが、なにぶんにも列車は高速ですので、乗客はそれと言われなければ何も知らないまま通り過ぎてしまうことになります。

この車内放送では放送されませんが、鉄道に興味がある方に知っていただきたいところをひとつ加えたいと思います。線路沿いにありながら、草木に隠れ、しかも高速で走る列車からは非常に確認しにくいのですが、原野駅~宮ノ越駅間、名古屋から塩尻方面に向かって右側に、「中央東西線鉄路接続点」記念碑があります。ほんの一瞬で通過してしまいますから、確認は容易ではありませんし、車窓から碑文を読むことは不可能です。中央本線の敷設工事は東京からと名古屋からそれぞれ進められ、明治43年(1910年)に接続したのがこの碑がある地点だということです。
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~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~


引き続いて毎週日曜日Youtubeに音声を、その解説を翌月曜日ブログにそれぞれアップします。終点長野まで、しなの号の車内放送をあと2回で完結させる予定です。




この記事へのコメント

  • pastor

    しなの7号 様
    再々コメントをいただき、ありがとうございます。早速聴かせていただきました。しなの7号というハンドルネームの由来が、ようやくわかりました。心地よい特急しなの号の走行音に乗せて、現役車掌さんの肉声による車内放送を聴けるとは感激です。
    車内放送1から4まで聞かせていただきました。
    中央西線に蒸気の撮影に行った時、特急しなのには、ついぞ乗らずじまいでした。ですからこういう車内放送があった事は知りませんでした。それにしても、良い声をされていらっしゃいますね。現役のアナウンサーのようです。お世辞ではありません。それに、大変丁寧にお話しされていますね。通り一遍の解説ではなく、その日その時で工夫を凝らしておられることがよく伝わってきます。大変味わい深いものがあります。
    「見てくださいと押しつけたようですが」
    などと仰らないでください。私にとって、西線の蒸気の勇姿を見るのは、なによりの喜びなのですから。時の経つのを忘れて見入ってしまいました。
    今月末に、妙高高原(赤倉温泉)に行く予定でしたが、コロナウィルス感染症拡大のため断念しました。急行赤倉のことを思い出して調べていたところ、しなの7号さんのブログに行き着きました。それで少し前にコメントを書かせていただきました。中間車両の運転室に入って、汽笛を鳴らして怒られたことなどです。
    約半世紀を経て、キハ58, 181や、D51を通して交信することができたのも、何かの縁ではないかと勝手に思っています。これからも、ブログを拝見していきたいと思っております。よろしくお願いいたします。
    2020年07月12日 16:38
  • しなの7号

    pastor様 
    「【1149】あの年の5月20日《1973年・1983年》」の記事から、こちらのページにもお越しいただいて録音した音声をお聞きいただきありがとうございました。 時代が移り、今では乗客の方も静粛な車内を求められる方が大多数ですから、「寝覚ノ床」(自動音声)と「姨捨の展望」以外は聴くことがないと思いますが、声の主の車掌長氏は現在88歳とのことで、5月にいただいたお手紙によれば、お元気でおられるようでした。いずれ声の主には、いただいたお褒めのコメントについてお伝えしておくつもりでおります。

    中央東線に比べると地味な西線ですが、非電化時代の思い出を貴殿と共有できただけでなく、国鉄末期に遡って乗務列車にご乗車?いただくことができ、ブログを継続していた甲斐があったというものです。 書いておりますように、ブログ記事の定期更新は今年いっぱいの限定ですが、ご覧いただければ幸いです。
    そして、何の迷いもなく赤倉温泉へお出かけいただける日が一刻も早く訪れますように…
    2020年07月12日 20:19
  • 木田 英夫

    しなの7号様、こんにちは。本題のお酒にあまり関係しないことですが、今回も詳しい情報を教えて頂きありがとうございます。

    御嶽山、田ノ原、赤沢、寝覚の床…。全て中学校3年生の時の修学旅行で行った所です。改めてゆっくりと読ませて頂きます。コメント差し上げるにも、何から書いていったらよいか分からないという感じです。

    中央東西線接続点の碑、今回の記事で始めて知りました。この碑のある所は普通に入れる所でしょうか。それとも、線路敷内で(以前は入れたが、今日では)不可でしょうか。
    東と西、両方向から進めて来た工事が成し遂げられたのですから、トンネル工事の貫通式のような、大変なセレモニーだったと思います。

    記事とは関係しませんが、「レール締結式」のことを思い出しました。子供の頃、山陽新幹線のレール締結式の写真で、金のボルトとナットで最後の線路を繋ぐのを見て「あの金ボルトとナットどうするんだろう。」と思ったことがあります。
    今から思えば、恐らく金といっても純金ではなくメッキでしょうから、やがて周りのレールと同じ色になっていくのでしょう。

    何時もありがとうございます。木田英夫
    2022年09月13日 14:52
  • しなの7号

    木田 英夫様 こんばんは。
    関西の方が修学旅行で行かれる木曽路は、東海地方在住者としては夏季のキャンプで出かけるところというイメージです。また自動車の運転免許を取ると日帰りドライブの目的地とされる方が多いところです。しかし中央東西線接続点は、知る人ぞ知るポイントのようで、わざわざそれを見に来る人はきわめて稀でしょう。その前に中央本線の起点終点なども知らなければ、中央東西線接続点の意味さえわからないでしょうし、興味を抱くこともないでしょう。それでも地元長野県木曽町のHPに史跡として紹介されており、そこには見学についての制限についての記述はないので、自由に見学できるものと思います。
    https://www.town-kiso.com/manabu/rekishi/bunkazai/m100034/
    私は17年前に中山道との旅の途中で現地に立ち寄ったことがありますが、場所がよくわからなかったので、近くにあった役場(日義支所)で所在を確かめました。現地は軌道敷内でもなく自由に入れる状態でしたが、そこがJR用地なのか第三者の私有地なのかどうかも確認できていません。
    中央本線が全通した明治末期は、日露戦争に勝利したあとで、やがて開戦となる第一次世界大戦の控えていた時期にあたるかと思います。鉄道そのものが重要な軍需施設でしたから、どのような規模でセレモニーがあったのか、自分には想像できません。
    2022年09月14日 19:44
  • 木田 英夫

    しなの7号様、こんにちわ。
    木曽路のシンボル、御嶽山の素晴らしい写真ありがとうございます。一瞬だけしか見えない、しかも山頂まではっきりと見えている。こんなことは滅多にないことではないでしょうか。本当に素晴らしい写真です。

    御嶽山の噴火ですが、私にとっては昭和54年の噴火の方が印象に残っています。この年、例年開田高原で開かれていたゼミ合宿の会場が白馬村に変更になりました。そうしたらその年の秋に噴火で「場所を変えたから山も怒った」と言ったりしておりました。

    話しは変わりますが、安中に帰省する時に、佐久〜御代田間で、浅間山を真っ正面にじっくりと眺めながら北進するポイントがあります。然し乍ら、こちらの写真のように頂上まで綺麗に見えたことは殆どありませんでした。新幹線から見える富士山もそうですが、なかなか頂上までの姿を見せてくれることはないものですね。

    いつもありがとうございます。木田英夫
    2022年09月17日 14:52
  • しなの7号

    木田 英夫様 こんばんは。
    私は登山はしませんが、山を見ることは好きなので、山の様子はいつも気なっています。これから気温が下がって空気が乾燥した季節が来ると山がきれいに見える確率が高いですが、夏場は難しいですね。それに山の天気はめまぐるしく変化しますので、朝方は絶景でも午後は雲の中ということも多いです。昭和54年の御嶽山噴火の2~3日後だったか、地蔵峠まで行きましたら、地面に火山灰があったことを覚えています。

    2007年4月、中山道歩きの途中で、しなの鉄道の列車を浅間山を絡めて撮影したいと思っていたのですが、その日は山頂付近が雲に覆われていました。https://shinano7gou.seesaa.net/upload/detail/01988682N000000004/132611337807413118232_p-P4210033.jpg.html

    1994年1月に、列車の「あさま」と浅間山を撮りに行ったときは快晴でした。やっぱり冬場です。https://shinano7gou.seesaa.net/upload/detail/01988682N000000012/148378528347709037177_ppff.jpg.html
    2022年09月17日 20:02

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